杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

酒造の三位一体

2015-02-22 17:15:18 | 地酒

 先日、藤枝市の杉井酒造で、室町時代に奈良菩提山正暦寺で確立した『菩提もと』の再現を取材しました。詳しくは別の機会に紹介するとして、正暦寺は日本清酒発祥の地として知られています。仏教の戒律で飲酒が禁じられているにもかかわらず、なぜお寺で日本酒が造られ、その技術が脈々と継がれてきたのかは、歴史&仏教好きの地酒ライターにとって“永遠の取材テーマ”かもしれません。以前、こちらのブログでちょこっと書いたことがありますが、今回、実際に菩提もと造りを目の当たりにして、さらに突っ込んで調べてみたくなり、別の蔵元の事務所本棚で興味深い論文を発見しました。日本醸造協会誌第109巻第9号に掲載されていた伊藤善資氏の【酒造の三位一体について~酒と神仏(信仰)と金融、三者の深い関係】です。

 

 この論文は酒造と宗教と金融が“三位一体”で古代~中世の日本社会の基盤となっていたというもの。酒造が神事と深くつながっていて、仏教が伝来して神仏混合となってから仏教とも密接になっていったことは理解していましたが、酒が神社や寺院の金融活動の原資となり、社寺の権威を有力農民や新興豪族が利用し、経済を動かしてきたという視点は新鮮でした。新鮮というか現実的というか、人間やっぱり今も昔も変わらないんだなあって。

 

 大陸から稲作が入ってきて農耕社会が構築された弥生時代、もっとも大切にされたのはその年に最初に実る初穂で、初穂には大いなる霊力があると信じられていました。初穂と、初穂で醸された酒を神々に供え、そのお下がりを収穫祭でいただく。穀霊が宿った酒に対する人々の畏敬の念は計り知れなかったと思います。農民は翌年、お供えの初穂を種籾として借り受けて、収穫後、借りた稲に神への謝礼を上乗せしてお返しした。借りた稲が「元本」で、上乗せ分が「利稲(りとう)」。これが日本列島で利息(金融)の起源となったそうです。この習慣をシステム化したのが、律令国家における「出挙(すいこ)」。地方のお役所が農民に稲を貸し、収穫後、元本と利稲を返却するというもので、のちに利稲だけが税金として徴収されました。

 

 6世紀に入ってきた仏教は、このシステムに大きな影響を与えました。昨年、あべのハルカスで聴講した講演会【神も仏も日本のこころ】(こちらにまとめました)で触れたとおり、日本は、土着(神道)と新興(仏教)の宗教が共存共栄した世界でも稀な国。なぜ宗教戦争が起きずに済んだのか、先の講演では思想的な背景を学びました。

 伊藤氏が参考文献にあげた義江彰夫氏著『神仏混合』によると、律令時代、「皇祖神」の威光を持つ朝廷神祇官が国家の祈年祭で霊力で満たした初穂を地方の神社に分け与え、それへの感謝の名目で租税を取り立てることができたが、8世紀後半になり、地方の有力神社やそれを支える地方豪族が初穂を受け取りに行かなくなった。地方には地方の問題が山積する中、国家規模の霊力をありがたがる余裕などないというわけです。そんなときに「悩める神も仏教に帰依すれば救われる」という思想が入ってきて、各地に神宮寺が建立されるようになった。税の徴収を、神への服従と初穂献上にすり替えることが難しくなったと判断した朝廷は、しぶしぶ神宮寺を認め、9世紀に入り、仏教が王権レベルまで浸透していったということです。神仏混合の裏に徴税システムありってすごーく現実的な話ですね!

 

 8世紀末に書かれた「日本霊異記」に、紀伊国の薬王寺で薬草園の基金を増やすために村主の姑に資金(稲)を与えて酒を造らせ、金利を得ていた。村主の姑は酒を人に貸し与えて利息を回収していたという。また讃岐国の郡長の妻が酒に水を加えて増量し、貸すときは小さな枡で、返却させるときは大きな枡で計って大儲けした。稲を貸すときもあくどい手を使った強欲な女だったというエピソードが紹介されているそうです。この時代に女性の酒造家がいたこと、酒が利付き貸付されていたなんてちょっとビックリ!! 寺が稲を農民に貸し出して、その米で酒を造らせ、酒を売って利益にしていた。その後、お寺で酒造りの画期的な技術が開発されたことも、なんとなくつながりますね。

 

 そこで冒頭の疑問。不飲酒戒の仏教寺院で酒造や酒販がOKだったのはなぜか。加藤百一氏著『日本の酒5000年』では「寺院酒造の起源は、寺院の境内にあった鎮守へ進献する神酒造りだった」とし、松尾剛次氏著『破戒と男色の仏教史』では「中世において延暦寺は京都の酒屋を管轄下に置き、税金をとっていた。他人に酒を売らせ、上前をはねていた。おそらく酒屋に対して、延暦寺に金などを寄付することで酤酒(こしゅ=酒の販売)戒を犯したことを償える。寄付は作善の一つだから、それによって酒の製造販売を容認してもらっていたのではないか」とあります。寺への寄付であり善き行いだとみなされ、許されたんですね。

  ちなみに松尾氏の『破戒と男色の仏教史』によると、戒律を守れという厳しいお達しが再三出されたのは、戒律を守らない僧侶がたくさんいたから。当時、男色は官僧では一般的で、東大寺の別当まで務めた宗性という僧侶は95人経験し、100人越えたらさすがにマズイと日記に書いているくらいです。今のモラルや常識では想像できないと思う反面、僧侶の妻帯を是とする今の常識を疑わなくてよいのか・・・とも思う。一方で、今の時代、アルコールレスやセックスレスの若者が増えていると聞きます。ストレスフルの現代社会において、酒造家や宗教家が果たすべき役割は、ご当人方が思う以上に重要ではないかと想像しますが、どうでしょうか?

 

 それはさておき、延暦寺の門前では11世紀頃から「日吉神人」が暗躍していました。神人(じにん)とは俗身分のまま寺社に奉仕し、祭儀やその他雑事を務める一方で、寺社の権威を借りて商売や金融活動をしていた人々。日吉神人には大変な財力があり、その中から土倉(どそう)という専門の金融業者が現れ、延暦寺の鎮守である日吉大社に奉納される米や銭で酒造業を営み、やがて京都の商業・金融業を牛耳っていったそうです。土倉勢力は室町時代にピークを迎え、酒造業も爆発的な発展をみせたということです。

 『菩提もと』を確立した正暦寺をはじめとする僧坊酒も、室町後期~戦国時代に大いに品質向上しますが、この話に行き着くまで、伊藤氏の論文と参考文献を読み解く時間がもう少し必要です。今日はこのへんで。



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