2月末から3月初めにかけて、酒蔵では出品酒クラスの上槽(搾り)が始まります。前回記事でもふれたように、蔵元は醗酵の状態によって、いつ、どのタイミングで搾るのか慎重に見極めるため、タイミングよく上槽取材が出来る酒蔵は限られます。精魂込めて醸した酒が搾り出される神聖な瞬間に立ち会うというのは、ある意味、出産に立ち会うような気持ち。杜氏や蔵人のみなさんにとっては作業の一つに過ぎないかもしれませんが、私のようにたま~に見学する人間にとっては、槽口(ふなくち)から流れ落ちるひとすじの酒の滴が眼に飛び込むと、なんともいえず、胸一杯になります。「ああ、生まれたんだなぁ」と。
これは2014年10月に撮影した松下明弘さんの山田錦「松下米」。半分以下に精米され、青島酒造(藤枝市上青島)で2015年1月に洗米、浸漬、蒸し、麹と手をかけ、3月初めの今週、上槽を迎えました。ただし「喜久醉純米大吟醸松下米」として出荷されるのは2015年10月。半年間の熟成期間を要します。時間経過から見たら、上槽はゴールではなく折り返し地点ということになりますね。
通常、搾った酒は滓引き→濾過→火入れをして酵母の醗酵を完全に止め、アルコール度数調整のため加水し、瓶詰めをします。これで年間いつでも安定した酒質で呑めるというわけです。
前回記事で取り上げた「白隠正宗富士山の日朝搾り」は、朝搾った酒をその日のうちに出荷して呑んでもらうというもの。上槽後の工程をすっ飛ばした「無濾過・生原酒」状態で出荷します。濁り=滓の正体は、デンプン、繊維質、不溶性タンパク質、そして醗酵という大仕事を終えた酵母の“なれの果て”。長く置くと香味が変化するので、滓がからんだ酒はすぐに呑むのが肝要です。・・・なんだか成仏してない酵母を生きたまま呑み干すみたいで、呑み過ぎたら確実に地獄に落ちそうです(笑)。
「喜久醉純米大吟醸松下米」のように熟成期間を置く酒は、後処理工程をしっかり行ないます。いわば酵母をちゃんと成仏させ、その功徳をありがたく頂戴する。でも滓がからんだ生原酒より呑みやすいからついつい呑み過ぎて、これも下手したら地獄行き(笑)。
「地獄行き」だなんて物騒な物言いだとお叱りを受けそうですが、それもこれも、2月27日夜、プラザヴェルデで開催された第1回駿河白隠塾フォーラムで、芳澤勝弘先生の講演『白隠と地獄』を拝聴したせいです。白隠さんは11歳のとき、近所のお寺で地獄の説法を聴いてトラウマになり、出家したと言われていますが、私もどうやら白隠さんの地獄絵の虜になってしまったようです。
地獄絵、といえば、“閻魔大王の裁きを受けて血の池や針山や煮立った釜に落とされる人々の阿鼻叫喚”をイメージしますよね。私にとっては、高校生のとき修学旅行先の広島原爆資料館で見た“描かれた被爆者”の姿。未だに脳裏に残っています。もし白隠さんと同じ11歳ぐらいで見たら、(私もかなりセンシティブな子どもだったので)同じようにトラウマになっていたかもしれません。もうすぐ4年目の3・11を迎えますが、東北の被災地の方々にとって、大津波の映像はまさに地獄絵。地獄のビジョンとは、リアルに感じられる痛みであるからこそ、心に滓のようにからみついてしまうのでしょう。・・・となると、白隠さんがトラウマになった当時の地獄絵は、少年岩次郎(白隠さんの幼名)の身近に実存した不条理な死や痛みに通じるものがあったのだろうと想像します。
ところが白隠さんが70歳ぐらいのとき、自ら描かれた「地獄極楽変相図」は、以前こちらでも紹介したとおり、怖くておどろおどろしい従来の地獄絵のイメージとはちょっと違う。今回のフォーラムのチラシやポスターに使われたので、多くの皆さんに認識されたかと思います。おどろおどろしい地獄絵だったら、そもそもポスターには使わないですよね(笑)。
地獄絵とか地獄変相図とかよく言いますが、「地獄極楽変相図」というのが正しい言い方だそうで、四聖(仏・菩薩・声聞・縁覚)と、六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上)を併せた十の世界=十界図のこと。地獄と極楽がセットになったものらしいのです。おどろおどろしい責め地獄ばかりでは「“恐怖”で脅すナントカ国と同じじゃないか」と言いたくなっちゃうけど、もちろんそんなワケない。
白隠さんが「地獄極楽変相図」で描いたアーチ型橋に乗った人間たち。左から幼→老と人の一生を描いたものとされています。こういう構図は、実は中世から伝わる「熊野勧心十界曼荼羅」を白隠さんが参考にしたらしくって、白隠さんの幼少期、東海道筋では熊野比丘尼の一行がさかんに往来しており、岩次郎少年もきっと曼荼羅を見る機会があったのだろうと。
この「熊野勧心十界曼荼羅」は、画の上部にどでかい半円弧のアーチが描かれ、人の一生が右から左へと展開。アーチ内部には○に「心」という文字ドカンと据えられている。「心」って文字をそのまんま描くなんて、斬新といえば斬新です。
白隠さんは「地獄極楽変相図」と同じテーマの、「十界図」という画を描かれています。芳澤先生の著書『白隠―禅画の世界』(中公文庫)に紹介された「十界図」は中央に閻魔大王ではなく美しい観音菩薩さま。机と椅子に座られ、机の上にはお経らしき巻物。これを順番待ちする人々に授け、手にした人々は満面の笑顔。感涙にむせぶ人もいます。観音さまの背景には洞窟のようなでっかい穴。穴といっても真っ白で、氷のようにも大きな円鏡のようにも見えます。ユニークなのは、その丸い円の鏡みたいな穴の上に「心」という文字が草書体で、まるで傘のように大円鏡と観音さまを覆っている。草書体の「心」からは、滝の流水にも、岩の切れ目のようにも見える縦の筋線が何本も描かれている。なんとも不思議な構図です。
講演で紹介してくださった「十界図」は、同じように観音さまが中央にお座りになって経巻を人々に手渡そうとされていますが、背景が丸鏡ではなく山水画になっていて、「或現宰官身、或現婦女身。問君未現日、何處藏全身」という画賛が添えられています。 「(観音さまは)あるときは宰官、あるときは婦女のお姿で現れる。では君に問う。お姿が見えない日、その全身(本質)はどこに隠れておられるのか?」という意味。賛は画の左端に添えられていますが、「全身」の二文字だけが山水の絵の上のほうに離れて書かれています。画像を掲載できないのでピンと来ないかもしれませんが、これも実に不思議な構図です。
芳澤先生は、「全身」の二文字が山水を指すように真上に書かれたことを、「観音さまの本質=山水(自然の美しさ)=心」を示すと説きます。先に紹介した円鏡の十界図であれば「観音さまの本質=鏡=心」ということになる。『白隠―禅画の世界』で先生は白隠さんの語録『荊叢毒蘂』を引用し、詳しく解説されています。
地獄も極楽も人間の心の鏡に映ったものにほかならず、その根源は阿頼耶識であり、その根本意識が地獄ともなり極楽ともなる。
もっとも根源的なところに、浪ひとつ立てぬ静寂な水が湛えたように潜んでいる意識、それを阿頼耶識という。宇宙の万物はすべてここから展開するので、含蔵識ともいう。喜怒哀楽など現実の煩悩の根源である。たゆまずに修行して、この暗窟のごとき境界を見徹し突破するならば、これがそのまま大円鏡光となる。
生きとし生けるものは、みなひとつずつ鏡を持っており、これにあらゆる存在を乱さず欠かさず映し出す。(中略)この心という鏡をたえず払拭し磨き、永遠に努力するものを二乗の声聞という。しかしいっぽうで、この清浄な鏡のような境地に安住せず、鏡面に一鎚を下し、そこをつきぬけ根底から見透し、大円鏡光をわがものとし、その鏡中にある生きとし生けるものを自在に利済していく者、これを大乗円頓の菩薩というのである。(白隠ー禅画の世界 p243~247より)
ちょっと難しい表現もありますが、白隠さんが指し示した意味、なんとなく伝わってきますね。地獄と極楽は、心のありようによってどちらにも転ぶもの。閻魔大王と観音さまを同じような構図で描いたのも、白隠さんお得意の“うらおもて同一表現”のように見えます。白隠さんが描かれた地獄絵は、人間の心の根源に眼を向けた救いの絵であり、心を磨きなさいという激励のメッセージなんですね。当時、庶民の間には「借りるとき地蔵 済す時ゑんま顔 うつてかはりし おもてうら盆(金を借りるときは地蔵さまのような顔で貸してくれるが、返済をせまるときは閻魔様のようだ)」という諺が浸透していて、地蔵と閻魔が同一人物のおもてうらであることは共通認識にあったそう。そういう人々に、わかりやすく、ウィットに富んだ表現で、心=阿頼耶識の重要性を説かれたのです。深いですねえ、実に。
青島酒造で喜久醉松下米の上槽に立会い、槽口から搾りたての滴がひとすじ流れ落ちるのを見たとき、田んぼに根を張った黄金色の稲穂を思い出しました。あの米が酒になり、呑む人を菩薩のごとき心地にさせるのか、はたまた地獄の責め苦の境地にさせるのか・・・それはおそらく、米を育てた松下さん、酒を醸した青島さん、そして呑む私自身の心根次第なんだろうと。
ちなみに一番搾りを試飲した青島さんは「思い描いたとおりに、生まれてくれた・・・!」と仏のような笑顔でした。蓄えられた種子(=過去の経験)が現れるというのが阿頼耶識の性質だそうですから、彼らが今年の酒にどんな思いを込めたのか、白隠画を読み解くが如く、味わい解いてみたいものです。