先週、大河ドラマ『龍馬伝』を見ていたら、黒船に乗り込もうとした吉田松陰がやたら熱血漢に描かれていて、「あれ、松陰ってこんなストレートで熱いキャラだっけ?、ちょっと浮世離れした思想家じゃなかったっけ?」と引っ掛かり、幕末長州モノの名作・司馬遼太郎の『世に棲む日々』を読み返しました。司馬さんの幕末モノをじっくり読むのは高校時代以来です・・・。
黒船来航で攘夷だ開国だと混乱するこの時代、実際に黒船に乗り込もうと実力行使に出た松陰。今の時代なら、さしずめ、宇宙から飛来してきたUFOに単独で乗り込もうとした民間の科学者みたい?。
ただし、スピルバーグ映画に出てくるような、少年の頃の夢や好奇心を純粋培養させたような人ではなくて、少年期に既に山鹿流という日本の兵法を極め、日本中を歩いてまわって、日本の国防力を冷静に分析する兵学家でした。
その上で、司馬さん曰く「かれは攘夷家であった。しかしながら他の攘夷家のように、日本国土に宗教的神聖さがあるとしかれら墨夷の靴によってその神聖国土が穢されるといったふうの情念のようなものはあまりもっていなかった。かれの攘夷は奇妙なほどに男性的であった」そう。
「おおかたの攘夷は、日本人の対外感情の通性がそうであるように、女性的であった。松陰はちがっている。海をこえてやってきた「豪傑」どもと、日本武士が武士の誇りのもとにたちあがり、刃をかざして大決闘を演するというふうの攘夷であった。このため敵を豪傑として尊敬するところが松陰にはある」。
・・・なるほど、SFファンタジーのスピルバーグではなく、ジョン・フォードか黒澤明の世界か。で、あの熱血描写か…と妙に納得してしまった私。
一方、師の佐久間象山とのやりとりで、師匠から論語でも読んで頭を冷やせと言われると、自分には思想哲学を論じるものより、実際にあったことを述べる歴史書のほうが役に立つと言い返し、「経書の究明をよりどころにする必要はなく、平素の工夫覚悟をよりどころにします」と明言する。
それほど己が立派か、と象山が腹を立てると、「人間、生を肯定するところにおいて、世のいっさいがあります。(中略)ところが寅次郎はすでに生をすてております。生を捨てることが“平素の工夫覚悟”であります。生をすててみれば、視界は雲なく霧なく、きわめて澄みわたり、世の現象がいかにもクッキリとみえ、自分がなにをなすべきかの道も、白道一筋、坦坦として眼前にあります」と。象山から見ても、松陰は誇大妄想の徒ではなく、他の誰よりも謙虚で慎み深い弟子であるだけに、反論できない。
“平素の工夫覚悟”という言葉に、私の好きな、白隠禅師の“動中工夫勝静中”を思い起こしました。生(への執着)をすてたと断言するところなど、禅を極めた高僧に我が身を重ねたようですね、ほんと。20代前半でそんな境地に至るなんて、どんな精神構造をしているんだろうと思います。彼を単に奇人変人扱いするのはカンタンですが、考えてみれば、ゴルフの石川遼くんみたいに、10代であの落ち着きはナニ!?って大人がドギマギするような逸材というのは、いつの世にも降って湧いて出てくるんですね。
…松陰は少年寅次郎の時代から叔父の玉木文之進にスパルタ英才教育を受け、長州藩主毛利慶親も彼の賢さを引き立て、19歳で藩の防衛偵察員に抜擢する。長州というお国柄が彼を純粋培養させたともいえるでしょう。教育環境って大事なんですね、ほんと。ちなみに玉木文之進って親戚の子だった乃木希典の教育係も務め、同じようにスパルタ教育したそうな。
そんな松陰も、密航の直前、「おそらく九分九厘失敗して刑死するであろうこの快挙を断行するにあたって、虫のように殺され、その死の意味も知られずにおわるということが、どうにも気に入らなかった」ようで、同志に打ち明け、失敗して下田から囚人駕籠で護送されるとき、「なぜ自分の名前を貼札しないか」と役人に本気で怒ったとか。・・・なんだか人間臭くて好感持てます。
彼はその後、ご存知の通り、獄中で囚人仲間に日本の危機を説き、自身がとった行動を話して聴かせて「衆、みな感動」させ、長州に戻されてからは、野山獄を、一芸を持つ囚人仲間を互いに「師」とする囚人学校にしてしまい、それが松下村塾へとつながります。このあたりは、司馬作品よりも、私の愛読書である歴史ギャグ漫画・みなもと太郎の『風雲児たち』のほうが面白くてわかりやすいかな。いずれにしても、まさに、“平素の工夫”を覚悟して実践したわけですね。
下田には親戚がいるので、小さいころから何度となく幕末ゆかりの史跡を散歩したりしてましたが、ペリーやハリスや唐人お吉ゆかりの寺、龍馬が勝海舟のはからいで山内容堂に脱藩の罪を許される場所など有名史跡がいっぱいありすぎて、海岸の松陰像も、その中の一つぐらいにしか意識して見てませんでした。
しかし、この年になって『世に棲む日々』を読み返すと、あの時代にあの若さ(密航時は24歳、刑死したのは29歳)で禅の境地のような行動をとり、理想に殉じた、人間としての行動原理の純度に感動させられ、史跡一つ、見る目も変わってくるだろうと思えます。
今年は下田で『下田龍馬伝』という町おこしもやっているようですので、久しぶりに訪ねてみようかな。