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私の授業 鎌倉新仏教 (4) 道元

2016-08-19 09:36:08 | 私の授業
以下のお話しは、かつて「もう一度学ぶ高校日本史」と題して、一般市民の方を対象とした学校公開講座での授業の一場面です。対象者は主に熟年の高齢者であり、自主的に学ぶ意欲をもっています。ですから高校の授業のレベルより少々踏み込んだ話をしても、理解する力を十分に持っています。録音をもとに再生していますが、一部省略したり加筆した部分もあります。しかし授業の全体的な雰囲気は、実際の授業そのままです。既に「私の授業 鎌倉新仏教 (1)~(3)法然・親鸞・一遍」を公開してありますので、併せてそちらもご覧ください。


 さて続いて曹洞宗の道元についてお話ししましょう。同じ禅宗の宗祖ですが、活躍した時代は道元の方が栄西よりも後になります。道元と栄西が相まみえたことはありません。道元の父は内大臣久我通親、母は摂政太政大臣藤原基房の娘ですから、家柄としては鎌倉仏教の宗祖のなかでは最も高かったのですが、3歳で父に死別、8歳で母に死別していますから、子供なりに世の無常について思うことがあったことでしょう。両親については異説もありますが、貴族の出身であることに変わりありません。聡明なことで幼少から知られていましたから、政界に入ればそれなりに活躍したことでしょうが、13歳で出家し、延暦寺で学びます。

 道元には初めから一つの信仰的疑問がありました。衆生にはもともと仏性が備わっているというなら、なぜ修行をしなければならないのか、という疑問でした。しかし当時の天台教学は、彼の信仰的疑問には答えてくれませんでした。彼は建仁寺で栄西の弟子に学んだことをきっかけにして、ともに憧れの宋に渡り、禅を学ぶことにしました。宋伝来の禅宗がそれに応えてくれるのではと思ったのでしょうか。道元24歳のときのことです。

 道元が寧波の港に着いて間もなくの頃、彼に重大な影響を与えるある出来事が起きました。阿育王山の広利寺という寺で典座(寺で修行僧の炊事係の長)をつとめる一人の老憎が、道元が乗ってきた日本船に椎茸を買うために、数日もかかる距離を歩いてやって来ました。信仰的に貪欲な道元はさかんに質問を浴びせ、さらにいろいろ尋ねたかったため、一晩泊まってゆくように勧めたのですが、食事の用意に差し支えるからと断られました。すると道元は食事の用意などは外の誰かでもできることですから、高齢のあなたは調理係などをやめて修行に専念しないのですかとと言うと、「外国のお若い方よ、あなたはまだ何もおわかりでない。」と言われてしまいました。

 道元にはその老僧の言うことはわからなかったでしょうが、後に阿育王山でその老僧に再会します。そして行住坐臥全てのことが修行であることを悟ったのでした。雑な心でやれば雑用になりますが、修行と思ってやれば、全てのことが仏の道の実践になるというのでしょう。今日、曹洞宗の本山である永平寺に行くと、禅僧の日常生活が厳粛な雰囲気の中で粛々と行われているのを見ることができます。それももとはと言えば、道元のそのような体験に依っているのです。彼はこの経験を『典座教訓』という書物に書き残しています。

 このエピソードは日本人には受け容れられやすいものだと思います。宗教的修行ではありませんが、企業で、敢えて人の嫌がる仕事、例えば掃除などを、敢えて率先してやることを通して、人に奉仕する心を身に着けさせようとする研修が行われることがあります。日本人にとっては、便所掃除すら心を研く機会なのです。掃除を清掃業者任せにしないで自分たちでやろうとすることは、海外に行って初めてわかるのですが、日本の良き文化だと思います。日本の学校では、教室掃除を自分たちでやるのは当たり前ですが、外国人には驚くべきことなのです。

 道元は結局は5年間も宋で学び、帰国して建仁寺に入りました。栄西が旧仏教と協調的であったのに対して、道元は、釈尊の説いた真理に至るのには、坐禅だけが正門であると説きました。旧仏教だけでなく念仏も儒教も、坐禅以外の一切を認めませんでした。ですから末法思想も認めていません。ただし法華経だけは釈迦の正法を伝えるものとして高く評価しています。理想主義的坐禅至上主義とでも言いましょうか。彼はこれを「只管打坐」(しかんたざ)と表現しました。「只管」は「ひたすら」と読みますから、「ひたすら打ち坐れ」というのです。臨済宗では公案により、曹洞宗では坐禅そのものにより悟りに至ろうとしたと説明されることが多いのですが、道元は公案の解説もしていますから、公案は臨済宗、坐禅は曹洞宗と簡単に割り切れるものではありません。しかし坐禅そのものを大変に重視したことは事実です。このような真理に対する非妥協性は、弾圧を招くこととなりました。結局、道元に帰依していた波多野義重という越前の御家人に招かれて、大仏寺の開基となりました。これが後の永平寺です。道元44歳の時です。

 道元がいかに坐禅を重視したかを物語る史料がありますから読んでみましょう。プリントを御覧下さい。出典は『正法眼蔵随聞記』といい、道元の弟子である懐奘(えじょう)が道元の説いたところを記録した書物です。

「一日奘問て云く、叢林勤学の行履と云は如何。示して云く、只管打坐なり。・・・・示して云く、学道の最要は坐禅これ第一なり。大宋の人多く得道することみな坐禅の力なり。一文不通にて無才愚痴の人も、坐禅を専らにすればその禅定の功によりて多年の久学聡明の人にも勝るなり。しかあれば学人は祗管打坐して他を管ずることなかれ。仏祖の道は只坐禅なり。他事に順ずべからず。」

 ある日、懐奘が道元に質問しました。「禅の修行場での生活はどのようにすればよいのでしょうか」道元がこれに応えて示されたのは、「ひたすら坐禅をすることである。・・・・」また応えて示されたのは、「修行で最も重要なことは、坐禅をすること。これが第一である。宋の人で悟りに至ることが多いのは、みな坐禅の力による。一字も読めず才能のない愚かな人でも坐禅を専らにすれば、長年学問を修めた頭のよい人より優れた人となる。だから修行する者はひたすら坐禅に集中し、他のことに関わってはならない。仏陀の道はただ坐禅である。他のことにしたがってはならない」

 この史料は、ひたすら坐禅に徹せよという内容が大変にわかりやすく記されていて、高校の授業ではよく読まれる部分です。しかし道元の言葉としては、一般には道元の著した『正法眼蔵』の次の言葉の方がよく知られています。

 「仏道をならふというふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」

 これはを真に理解することは難解ですから、手抜きをして現代語訳をネット情報から借用しました。
〔訳〕仏道をならうというのは、自己をならうことである。自己をならうというのは、自己を忘れることである。自己を忘れるというのは、天地宇宙の一切のもののはたらきによって証り(さとり)がわが上に現れることである。天地宇宙の一切のもののはたらきによって証(さとり)がわがうえに現れるというのは自他の身心をしてそっくり束縛から脱せしめることである。

 哲学の世界では、「我思う。ゆえに我あり」というように、客観的に自己分析をしようとします。しかし道元に言わせれば、「自己」というものこそが、身心が全ての束縛から解脱された自在の境地になるための障害になっているのでしょう。
 
 道元は後に執権北条時頼に招かれて、鎌倉に行ったことがあります。時頼は鎌倉に寺を建てるので留まって欲しいと道元に懇望したのですが、道元はあっさりこれを退け、越前に所領を寄進しようという申し出も拒否しています。そして時頼が所領を寄進するという寄進状をもらって帰ってきた弟子を厳しく叱り、その坐禅する場の下の土を掘り棄てたという逸話がある程に、権力との妥協や支援を徹底して忌避しました。こういう点で、同じ禅宗でも臨済宗とは全く異なります。

 さて道元は坐禅の徹底を説きましたが、ここで一つの疑問がわいてきます。坐禅に集中できる出家の立場の人はよいとしても、在家の一般人はどうすればよいのでしょうか。出家しなければ救われないとするならば、衆生は救済の外に放り出されたままということになります。このことをどのように理解したらよいのでしょう。

 私も及ばずながら宗教者のはしくれとして考えました。先にお示しした史料にもありましたように、道元は文字も読めない愚かな人でも、坐禅に徹することにより、優れた存在となると説いています。しかし道元が宋にわたって最初に体験したように、行住坐臥全てのことが修行であるとも説いています。出家にとっては坐禅の道が全てですが、時間的余裕のない在家にとっては、日常生活のすべてのことを、坐禅をするような心で行えば、それが在家にとっての坐禅になる。そういう意味でなら、坐禅至上主義も十分に納得できます。そして次世代の宗教的指導者となるべき出家の弟子に対しては、徹底的に妥協を排して、宗教的純粋性を求めたのだろうと思います。中心にはそのような出家が指導者として真理を継承することに拠って、そのよき感化は周囲の衆生にも及んでいくのでしょう。

 さて次回は日蓮についてお話しするつもりです。



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