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鎌倉歴史散歩の視点 3

2017-09-28 19:56:21 | 歴史


「鎌倉歴史散歩の視点 2」を公表して以来、しばらく続きも書かずに申し訳ありませんでした。忘れていたわけではないのですが、ついつい他のことに力を入れてしまい、ほったらかしにしてしまいました。「鎌倉歴史散歩の視点3」では、鎌倉の寺や仏教に関することを書いてみようと思います。

 鎌倉の寺院と言えば、すぐに思い浮かぶのは「鎌倉五山」と呼ばれた諸寺院でしょう。そもそも五山の制とは、中国の五山の制に倣って定められた臨済宗寺院の格付け制度で、京都五山よりも早く、執権北条時頼の頃に始まります。ただし現在伝えられている五山の順位が整えられたのは室町時代の足利義満の時ですから、初めから順位付けの整った制度であったわけではありません。

 まずは第一位の建長寺ですが、その見学の視点は、鎌倉の禅宗ということにあります。建長寺の位置は、鎌倉に入る北からの道に面し、幕府の北方の守りとも言うべき所にあり、北鎌倉駅から歩いて15分くらいかかります。北条時頼が南宋から渡来した蘭溪道隆を開山として、建長五年(1253年)に創建しました。彼が開山となったのは、来日してから数年後のことですから、日常的日本語には不自由しなかったでしょうが、境内には渡来僧が何人もいて、修行中には中国語が飛び交っていたはずです。いまでこそ異国情緒は感じられませんが、建長寺に行ったら、まずは渡来して間もない禅宗の異国情緒や禅宗寺院の特色に注目して欲しいのです。それは三門(山門ではない)・仏殿・法堂が直線に並ぶ伽藍配置によく現れています。今、直線と言いましたが、実際には地形に制約されて谷に沿って曲がってはいますが、基本的には真っ直ぐ順に並んでいます。境内や周辺には多くの塔頭が並んでいるのも、禅宗寺院の大きな特徴でしょう。そこには多くの修行僧が生活していて、尊師の指導の下に厳しい修行に明け暮れしていたはずです。法話を聞くためには、法堂に集ったことでしょう。一山の修行僧がみな集合すれば、相当な人数になったことでしょうから、本尊を祀る仏殿より、修行僧が講話を聞いたり坐禅をする法堂の方が大きな建物になるのは、これも禅宗寺院の特徴なのです。法堂の床も注目しましょう。正方形の瓦が建物の縁に対して45度の角度で敷き詰められています。床が畳ではなく土間であることも、禅宗寺院の特徴です。有名な禅宗寺院は京都にもたくさんありますが、鎌倉武士に支持されたという点では、鎌倉の禅宗寺院の方が本家本元ですから、再建の建築が多いとはいえ、ここでは禅宗寺院の特徴を確認しておきたいのです。

 一般的に禅宗寺院の本尊は釈迦如来なのですが、建長寺では地蔵菩薩になっています。それは寺伝によれば,建長寺のある場所はもともと鎌倉幕府の処刑場のあった所で、処刑された罪人を供養するため、地蔵菩薩像をまつった心平寺という寺があったそうです。地蔵菩薩とは、一般には幼児の成仏を助ける仏と理解され、赤いよだれかけをしていることがあるのですが、死後に行く六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の6つ)のうちどこに行っても地蔵菩薩が救済してくれるようにと、よく墓地の入り口に「六地蔵」と称して立っているものです。処刑されて地獄に落ちるような者でも、救済されるようにということなのでしょう。建長寺の本尊が地蔵菩薩であることには、そのような背景があったということでした。ただしこのことについては、私が自分で史料で確認したわけではありません。地蔵菩薩はあくまでも特殊事情であって、一般的には禅宗寺院の本尊は釈迦如来であることを確認しておきましょう。

 建長寺には立派な柏槇(びゃくしん)の木が茂っています。開山の蘭溪道隆が植えたということになっていますが、それが嘘ではないと思わせる程に立派なものです。禅寺の柏槇と言えば、円覚寺や浄智寺にもありますので、何か意味がありそうですね。一般には柏槇が関わっている禅問答によると理解されています。『無門関』という難解な禅問答書には、次のような話が記されています。

 一人の僧が趙州(じょうしゅう)和尚に「如何なるか是れ祖師西来の意」と尋ねました。達磨大師がインドからはるばる中国へ来られた意味とは何ですか、という意味です。もちろん禅によって仏の教えの真髄を伝えに来ていることはわかりきっていますから、要するに「禅の極意」を尋ねているわけです。それに対して、趙州和尚は、「庭前の柏樹子」と応えました。この柏樹子が柏槇なのです。柏餅の柏とは全く関係がありません。俗人には全く道理を越えた問答ですから、理解不能なのですが、禅の悟りは「不立文字」「教化別伝」の世界ですから、文字を読んでわかる世界ではありません。ですからその辺りのことは俗人の私たちにはわからないこととして置いて、禅宗寺院の柏槇は、禅の悟りの境地を象徴的に表すものという程度に理解しておきましょう。

 建長寺はしばしば被災し、また関東大震災で大きな被害を受けたため、創建以来のものはほとんど残っていません。しかし梵鐘は創建以来のものですから見逃せません。この梵鐘は円覚寺の梵鐘とともに国宝に指定されています。遺文は蘭溪道隆の撰になるもので、短く読みやすいので、「建長」「大檀那相模守平朝臣時頼」「宋沙門道隆」などのキーワードを読み取りましょう。また鋳物師が物部姓であることも重要です。鎌倉時代の鋳物師は、関東では物部姓が多いことも覚えておきましょう。各地の鋳物で物部姓を見かけることがきっとあると思います。この梵鐘を作った物部重光は、きっと鎌倉大仏ににも関わったはずです。

 境内の諸堂宇についての説明は、あまりにも細かくなるので、ここでは省略します。現地に行けば、詳しい説明もあるでしょうから。ただ現地では全く触れられていないことを、一つ確認しておきましょう。それは北条氏の家紋のことです。北条氏の家紋は「三鱗」(みつうろこ)と呼ばれ、少しつぶれたような二等辺三角形を二つ並べ、さらにその上にもう一つ同じ三角形を積み上げたものです。建長寺だけではないのですが、北条氏が開基となった寺にはしばしば寺のあちこちに見られますから、探してみましょう。

 蘭溪道隆画像も国宝です。物が物だけに公開されてはいませんが、写真くらいは見られるはずです。禅匠の画像は「頂相」と呼ばれ、弟子が悟りに至ったことの認可として、師が与えるものとされていました。この場合は椅子に坐っていることに注目しましょう。そもそも椅子に坐るという生活習慣は、古代の日本にはありませんでした。禅僧が椅子に坐っているということ自体が、禅宗が鎌倉時代に宋から新たに伝えられた外来宗教であることをよく示しているのです。また「ちんぞう」という読み方にも注目しましょう。「頂」とは首から上部のことを指しているのですが、「ちん」という発音は、鎌倉時代以降に中国から入ってきた字音である宋以降の発音で、「唐音」と呼ばれています。(この場合の唐は王朝名ではなく、中国を指しています)。「ちょうそう」とは読まず、「ちんぞう」と読むことも、禅宗が鎌倉時代に伝えられたことを物語っているのです。
とにかく建長寺の見学ではでは、「鎌倉時代の禅宗」をいっぱい感じ取ってほしいものです。

 蛇足ですが、けんちん汁は建長寺が発祥地であるという俗説があります。しかし古記録にはその様なことを述べた文献はなく、「・・・・と言われている」と言っても、その伝承の記録もなく、私自身は全く信用していません。まあ禅寺に似合う精進料理であるとは思いますが、おそらく誰かの作り話でしょう。


 建長寺に続いて、円覚寺のお話しをしましょう。北鎌倉の駅で降りると、円覚寺の方が近いので、見学する順番としては、こちらの方が前になるでしょう。

 円覚寺は鎌倉五山第二位で、「えんがくじ」と読みます。開基は建長寺の開基である北条時頼の子時宗ですから、五山の順位としては順当なところでしょう。開山は宋から渡来した無学祖元です。そもそも円覚寺は、
弘安五年(1282年)に北条時宗が元寇戦没者慰霊のために創建した寺で、はっきりとした創建の意図があります。それは時宗と無学祖元の関係を見れば、自ずとそうなったことが理解できるのです。

 時宗と言えば、元寇を退けた執権という印象が強いのですが、その時宗が帰依した無学祖元も元の兵と戦ったことがあります。彼が50歳の時、元軍が南宋に侵入するのですが、温州のある寺にいた無学祖元は元の兵に取り囲まれ、あわやという場面に遭遇しました。しかし彼は悠然と「臨刃偈」(りんじんのげ)と呼ばれる漢詩を詠みます。「乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし。喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを 珍重す、大元三尺の剣、電光影裏に春風を斬る」というのですが、禅の悟りの境地を述べているので、なかなか難解です。しかし最後の部分はわかるでしょう。私なりに飜訳すると、「元の兵よ、お前さんの持っている長い剣は御立派なものだねえ。私を斬るならそれもよかろう。稲妻のように春風を斬るようなものだ」といったところでしょうか。元の兵士には意味は通じなかったでしょうが、剣を突きつけられても泰然自若として微動だにしない姿に感動したのでしょう。

 そのような経験をしている無学祖元は、その4年後、北条時宗の招請に応じて来日し、蘭溪道隆亡き後の建長寺に入りました。当時は、文永の役を何とかやり過ごし、またいつ侵攻してくるかわからない元軍に備えて、警戒を緩めることのできない時期でした。1281年(弘安四年)の弘安の役直前、再び侵攻してくることを察して、時宗が無学祖元に参禅すると、彼は「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と激励し、時宗は勇気を奮い立たせることができたのでした。時宗は無学祖元がかつて一人で元の兵を退けたことは話に聞いていたことでしょう。そのような無学祖元の言葉であったからこそ、時宗を奮い立たせることができたのです。

 元寇は結果として2回で終わりましたが、弘安の役後も警戒は続きました。しかし時宗は思うところがあったのでしょう。弘安の役の翌年、敵味方の区別なく元寇戦没者慰霊のため円覚寺を創建し、無学祖元を開山として迎えました。開基は北条時宗、開山は無学祖元。元寇戦没者慰霊の寺として、これ以上の組み合わせはありません。円覚寺を見学する視点は、まずはこの元寇なのです。もちろん目に見える形で元寇の影響が残っているわけではありません。しかし円覚寺の本質はそこにあるのですから、目には見えなくとも、元と戦った無学祖元と北条時宗に思いを馳せて欲しいのです。

 北鎌倉の駅で降りて鎌倉方面に歩くと、すぐに円覚寺の総門があります。そして踏切を横切る渡ると左右に白鷺池があり、そのまま参道が真っ直ぐに伸びています。つまり明治22年に開通した横須賀線は、円覚寺の境内の端を横切っていることになります。横須賀線という鉄道は、軍港のある横須賀に至る鉄道でしたから、国防のためには文化財の保存と言うことは一顧だにされなかったのでしょう。しかし鎌倉街道の通る山ノ内は幅が狭い谷ですから、境内をさけようにも避けようがなかったというのも事実でしょう。

 円覚寺境内の個々堂宇の解説については、他のネット情報でいくらでも検索できるでしょうから、そちらに任せましょう。円覚寺では、建長寺にも共通していることですが、「禅宗寺院建築」(禅宗様)の特色を確認しておきましょう。ただしあくまでも原則であって、全ての建物について当てはまるわけではありません。和風建築や禅宗様との折衷も随所に見られます。まあ部分的にでも、禅宗様式の特色を確認してみましょう。

 建物は周囲から一段高くなった基壇の上に建てられます。柱と礎石の間には、算盤の珠のような礎盤が置かれます。窓は上辺が独特の装飾的な曲線をなす花頭窓(火灯窓)になっています。扉は桟を組み板をはめた桟唐戸。丸柱の端を少し細くした粽(ちまき)が上下に見られます。柱に直交して横木は柱を貫通して突き出る貫(ぬき)となっていて、装飾が施されています。この突き出た部分を木鼻(きばな)と言います。反りの大きな屋根を支える垂木(たるき)は放射状になる扇垂木で、屋根の四隅を下から見上げるとよく観察できます。ちなみに和風建築では垂木は平行垂木で、屋根の四隅では、垂木が直角に接することになります。軒下の組物は、柱の上部だけでなく、柱と柱の中間部分にも見られます。要するに軒下が和風よりも賑やかになっているのです。以上の特色は三門でよく観察できます。床は板を張らずに正方形の瓦を斜めに敷き詰める四半敷きなのですが、円覚寺で坐禅が行われる選仏場では、畳の床となっていますが、畳の下には本来のように瓦の土間となっています。天井は一面に平らな鏡天井で、竜の絵が描かれるのが普通です。これは新しく立てられた仏殿に見られます。全体として主要な堂宇がほぼ直線上に並んでいるのも、禅宗寺院の伽藍配置の特色です。また伽藍の主要建築の周囲には塔頭がたくさんあることも確認しておきましょう。建物ではありませんが、仏殿には釈迦如来像が祀られるのが普通で、円覚寺では珍しく宝冠を被っています。禅宗様式は国宝の舎利殿に典型的に見られるのですが、普段は公開されていません。1年に何回か日時を限って公開されますから、ネットで検索してみて下さい。

 円覚寺の見どころとしては色々視点があるのでしょうが、私は円覚寺が元寇戦没者慰霊の寺として建立された原点に立ち帰り、開山である無学祖元の塔がある正続院、開基である時宗の廟所である仏日庵は、見逃せないところと思っています。一般的な観光視点とは異なるでしょうが、建立の経緯を考えれば、もっとも大切なことでしょう。

 鎌倉の寺院では、執権家の帰依を受けた臨済宗寺院の他には、日蓮宗の寺院に存在意義があります。日蓮は幕府に法華経至上を説いて止まず、しばしば弾圧されました。ですから鎌倉にはあちこちに日蓮ゆかりの寺があるからです。そして鎌倉にある日蓮宗寺院の特色として、それぞれに「日蓮聖人が○○をしたゆかりの場所」という伝承を持っています。妙本寺のような大きな寺もありますが、一般的には臨済宗の寺に比べると規模が小さい寺が多く、鎌倉の庶民が住んでいた海に近い南の方に多いのが特徴です。このことの背景には、日蓮宗が商業者や中小の武士階級に支持されていて、執権北条氏に支持された臨済宗とは異なることを確認しておきましょう。

 また井桁に橘紋が多いことも、確認してみましょう。これは鎌倉に限らず、日蓮宗寺院の大きな特徴なのですが、それは日蓮の出自が、橘紋を家紋とする井伊氏の支流である事に因っています。井伊氏の家紋が橘であることは、今年の大河ドラマでしばしば目にしたことでしょう。北条氏の家紋である三鱗紋が臨済宗寺院に多いことと比較して確認しておきましょう。

 日蓮宗寺院では、本尊として法華曼荼羅が重視され、一般的には仏像が本尊となることはありません。そのため、観光的な文化財は多くはありません。京都の修学旅行で日蓮宗寺院に行くことが少ないのも同じことです。ですから、法華曼荼羅の意味をしっかり理解しておきたいのです。法華曼荼羅は、日蓮が初めて考案したもので、その中心には法華至上主義を象徴するように題目が大きく書かれています。文字の線の末尾が長く鬚のように延びているため、ひげ曼荼羅とも呼ばれます。この独特の書法は、法華経の功徳が遍く世界に及ぶことを象徴的に表しているのです。そして題目の周辺には法華経を説く如来、それを広める菩薩、そしてそれらの仏を守護する天部の神々などが名を連ね、さらに四隅には四天王が仏の世界全体を守護していることを表しています。鎌倉の日蓮宗寺院には、法華曼荼羅の題目を刻んだ石碑が建てられていることが多いので、探してみましょう。また日蓮宗寺院では、境内そのものを仏国の表現と理解し、正門として四天王の内の二天像を置く二天門があることが多いものです。残りの二天は本尊の左右に置かれることが多いので、これも確認してみましょう。

 鎌倉で布教した祖師としては、一遍を落とすことはできません。遊行上人と称されたように、旅をしながら布教して全国を歩き、敢えて布教の拠点となる寺を作りませんでした。そのためか、現在、時宗の寺は大変に少ないものです。当時は爆発的に信徒が増えたのですが、いつしか浄土真宗などに吸収され、信者の数も多くはありません。しかしすぐ近くの藤沢(片瀬)に時宗の総本山である清浄光寺があるだけのことはあって、鎌倉には来迎寺・光則寺・教恩寺・別願寺・向福寺・光照寺など、他の地域より濃密に時宗の寺があります。もちろんこれらの寺ができたのは、一遍の死後のことです。あまり観光化されていないこれらの寺で、腰を落ち着けて一遍の教えを学ぶことは、大いに意義のあることと思います。

 一遍は弘安5年(1282年)3月、巨福呂坂から鎌倉に入ろうとしますが、執権北条時宗によって阻止されてしまいます。その様子は『一遍上人絵伝』に描かれていてよく知られています。乞食のような集団見えたため、鎌倉に入ることが許されなかったのも、当時としてはもっともなことでした。しかし警備の武士に鎌倉の外では布教しても良いと言われ、一遍は鎌倉の西隣の片瀬(現在の藤沢)にしばらく留まり、そこで布教することになりました。後に遊行上人を継いだ四代目の呑海上人がこの片瀬に遊行寺を開き、それが時宗総本山の清浄光寺となって行くわけです。

 一遍は「決定往生六十万人」と書いた紙の札(賦算札)を配って全国を遊行しました。六十万という数字の根拠は、私は知りませんが、当時の人口からすれば、一遍としては全ての人は極楽に往生することがもう予約されているのだから、この札を受け取ることを縁として、念仏の心を起こして欲しいむと願ったのでしょう。ようするに六十万という数は、実際の数ではなく、全ての人を意味するものだったと思います。賦算の賦とは配るという意味で、算とは念仏札のことです。現在では1月12日、清浄光寺でこの御札を頂くことができますから、是非とも参拝することをお勧めします。


鎌倉の仏教というテーマで、禅宗・日蓮宗・時宗に関連することをお話ししてきましたが、あとは私の独断と偏見で、見落とせない寺や仏像について選んでお話ししましょう。

 まずは覚園寺をあげます。交通の便はよくありませんし、決められている時間に寺の案内人に従って決められたコースしか見られません。それで気まぐれに立ち寄るには適していませんが、時間と手間をかけるだけの価値は十分にあります。谷(やつ)と呼ばれる狭い谷にそって伽藍が広がり、自然環境がよく保存され、鎌倉の都市化は全く及んでいないので、かつての鎌倉の雰囲気を濃厚に今に伝える雰囲気があります。これを味わえるだけでも、覚園寺にわざわざ行くだけの価値はあると思っています。

 実朝暗殺を背景とした創建にまつわる逸話は、『吾妻鏡』詳細に記録されているので(吾妻鏡 建保六年七月九日・建保六年十二月二日・建保七年正月二十七日・建保七年二月八日条)詳しく読みたい方は、ネットで「吾妻鏡」と検索すればすぐに読むことができます。もっともその大半は後からとって付けた創作だとは思いますが。覚園寺の見どころは、寄棟造、茅葺きの本堂と本尊でしょう。真言宗の寺ですが、本堂は禅宗様となっています。本尊の薬師三尊坐像は、蓮華座の左右に裳裾を長く垂らした宋風の様式であることに大きな特徴があり、日本の一般の仏像と異なる雰囲気を感じて欲しいものです。薬師如来にしては珍しく腹の前で両手を組んでいますが、掌に薬壷を載せているので薬師如来であるとわかります。薬師如来の脇侍は日光菩薩・月光菩薩となることも、この際確認しておきましょう。

 「鎌倉の大仏」として名高い高徳院の国宝銅造阿弥陀如来坐像は、余りにもよく知られています。また鎌倉にある仏像では、ただ一つ国宝になっています。東大寺の大仏に比べるとかなり小さく感じるのは、暴風や地震で大仏殿が失われ、露座になっているからでしょう。『太平記』には、建武二年、北条高時の遺児時行が反乱を起こして鎌倉に攻め入った中先代の乱に際して、暴風雨に襲われたため大仏殿に避難したが、棟梁が折れて兵士500人が圧死したと記されています。大仏殿はその後修復されたようですが、『鎌倉大日記』という書物によれば、明応四年(1495)8月15日に起きた「明応の大地震」によって大仏殿が崩壊し、露坐となったとされています。しかし文明十八年(1486))に鎌倉を訪れた万里集九という禅僧は、その詩文集『梅花無盡蔵』に鎌倉大仏は露坐であったとに記していますから、この史料の法が信憑性がありそうです。まあいずれにせよ、15世紀末には露座となっていたことは間違いないでしょう。大仏殿があったことは、大仏の周囲に現在も大きな礎石がたくさん残されていることでもわかります。大仏ばかりに目が行ってしまいますが、こういう所も見逃さないようにしましょう。

 像高は約11.3m、重量約121tもあるそうです。最近はわかりませんが、以前は中に入ることができました。もし入れるならば、継ぎ足しながら継ぎ足しながら鋳造していることがわかりますので、是非とも観察してください。私はこれが銅製であることに興味を持ちました。鎌倉時代から室町時代にかけては、大量の宋銭や明銭が輸入されます。何しろ一国の貨幣経済を成り立たせるほどの量でしたから、桁外れのことだったでしょう。おそらくそれらの銅銭が原材料になっているのでしょう。『吾妻鏡』嘉禎元年(1235)6月19日と29日の条には、十二所にある明王院の鐘を鋳るのに、銅が足りずに鋳損じてしまったこと、また銅銭を以て鋳造したことが記されていますから、大仏もその可能性が極めて高いのです。

 与謝野晶子は「釈迦牟尼は美男におはす・・・・」と詠んでいますが、印相からして阿弥陀如来です。先日見に行った時は、たまたまタイからの観光客がいました。彼らと話したのですが、大きさよりも、仏像が原色でないことに驚いていました。かつては金箔が貼られていたのですが、以前に見たときは、耳のあたりに一部金色が見えたのですが。日本人にとっては金ぴかの仏様では、違和感があるのでしょう。

 浄光明寺は鎌倉の扇ガ谷にある真言宗の寺です。足利尊氏後醍醐天皇に叛旗をひるがえして挙兵する直前、謀叛の意思がないことを示すためにここで謹慎していたことでよく知られています。しかし現在はそのような政局にかかわることがあったとはとても思えないくらい、静かなたたずまいを見せています。

 ここでは阿弥陀三尊像が見所です。中央の阿弥陀如来像は上品中生の印を結び、は宝冠をかぶった珍しい様式です。中生印とは、胸の前に両手を上げた姿で、日本の仏像ではあまり多くはありません。説法印という別称がありますが、これは仏様が説法をしていることを象徴的に表しているのです。ですからその像を拝むときには、声ならざる仏様の声を聞くような心になってほしいものです。仏像は美術品ではなく、信仰の対象だったのですから、中世の人たちの心を垣間見るなら、そのような心で拝観してほしいのです。この際、阿弥陀三尊の両脇侍像が観音菩薩と勢至菩薩であることも確認しておきましょう。衣には練った士を型抜きした花のような立体模様を貼りつけた、士紋と呼ばれる装飾法が見られます。これは宋の影響を受けたもので、鎌倉独特のきわめて珍しい技法なので、ここで確認しておきましょう。蓮台の蓮の花弁の反りが大きいのも、宋の影響です。

 この三尊像を拝観できるのは、木・土・日曜だけで、しかも雨天や湿度の高い日は見られません。土紋が剥がれてしまう危険があるからでしょう。その他にも公開されない日がたくさんあるようですから、事前にしっかり確認しておきましょう。 

 鎌倉五山第四位の浄智寺では、阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来の三世仏の仏像が見所です。15世紀半ばの作ですから、臨済宗ということも相俟って、衣の裾を台座に長くたらした宋風の姿に特色があります。鎌倉時代の禅僧の画像である頂相と共通していることに気付けば、宋の影響であることも合点がゆくでしょう。「三世」とは前世・現世・来世、つまり過去・現在・未来を意味しています。それで三世仏はその三世を掌る仏ということになるのですが、どの如来がどの世に当てはまるのかについては、定説がありません。

 一般的には浄土系の信仰では、過去世は薬師、現世は釈迦、来世は阿弥陀と理解されることが多いようです。人は過去世から薬師如来によって現世に送り出され、現世では歴史上に実在した釈迦によって導かれ、阿弥陀の掌る来世の極楽浄土に送り出されると理解されるのです。極楽浄土を死後の世界と理解すれば、阿弥陀が来世になるのです。阿弥陀堂が東面している場合は、西方極楽浄土であることを前提としていますから、阿弥陀如来を来世の仏と理解しているわけです。

 しかし浄智寺の三世仏では、阿弥陀は過去仏であり、未来仏は弥勒になっています。弥勒は釈迦入滅後五十六億七千万年後に、次の仏陀として現れることが約束された仏で、現在はまだ菩薩として修行中なのですが、この世に出現する時には完全に悟りに至ったので未来仏とするわけです。広隆寺や中宮寺の弥勒像が菩薩であるのは、まだ如来になる前の姿を表しているからです。弥勒は釈迦入滅後五十六億七千万年後に出現するということであれば、それは来世の仏と理解せざるを得ませんから、釈迦は現世に実在した仏であることは動かしようがないのでので、自然に阿弥陀如来は前世の仏になってしまうのでしょう。また阿弥陀は、十劫(劫とは、計りきれないような天文学的数の象徴)の大昔に既に如来となり、極楽浄土の教主となっている仏陀ですから、前世の如来と理解されることもあります。要するに、往生を願う人の立場から見れば、死後の世界を掌る阿弥陀如来が未来仏となり、釈迦入滅後五十六億七千万年後に如来となって出現することに視点を置けば、弥勒如来が未来仏となるわけです。とにかく、三世仏が並んでいるところを目の前で拝観できることは大変に珍しいことですから、「三世」の意味を確認しつつ拝観したいものです。

 まだまだあるのですが、今日は取り敢えずここまでにしておきます。また追加することがあると思いますが。全体として言えることは、寺や仏像を拝観するには、ある程度は基本的な知識が必要だということです。それがないと、せっかく価値や意味のあるものを見ても、それに気が付かず、ただ「素晴らしかった」というだけで終わってしまうからです。私のブログ「うたことば歳時記」の中に、「古寺巡礼の基礎知識 仏像編」「古寺巡礼の基礎知識 建物編」「私の授業 鎌倉新仏教(1)~(5)」を公表してありますので、事前にお読み頂ければ、きっとお役に立てると思います。