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秋分と浄土信仰

2024-09-19 10:05:05 | 私の授業
       秋分と浄土信仰
 今年(令和6)の秋分の日は9月22日です。私はこの日が近付いてくると、日本史の授業の進み具合に関係なく、必ず彼岸と浄土信仰の話をしています。以下はその要旨です。 

 春分と秋分の日は古来「彼岸」と呼ばれますが、そもそも「彼岸」とはどの様なことなのでしょう。正しくは春分・秋分を彼岸の中日として、その前後各三日間、合計七日間を彼岸といいます。「彼岸」という言葉は、本来は古代インド語であるサンスクリット語で、「完全な」という意味を表すpāramitā (漢字では「波羅蜜多(はらみた)」と音訳)を漢語に意訳した「到彼岸」(彼岸に到る)を省略した言葉です。「彼岸」という言葉そのものは「彼(か)の岸」、つまり「向こう岸」という意味で、仏教では阿弥陀如来のいる極楽浄土を意味しています。それに対して煩悩まみれの現世を「こちらの岸」と理解して「此岸(しがん)」と称し、彼岸と此岸は水によって隔てられていると理解しているわけです。「彼」の反対語は「此」であって、「彼女」ではありませんよ。「彼此」という言葉がありますが、英語で言えばthatとthisのようなものでしょう。
 平安時代中期以降には阿弥陀如来を信じて極楽往生を願う浄土信仰が盛んになりました。そもそも「阿弥陀」とはサンスクリット語で「無量寿」(永遠の命)や「無量光」(永遠の光)を意味する言葉で、寿命の短かった古の人達は、長寿を祈念する心で阿弥陀如来を信仰したのです。阿弥陀如来のいる浄土は、「西方極楽浄土」と称して、西の彼方にあるとされています。そこで西の方角を見極めたいのですが、正確にはわかりません。皆さん、西の方角を正確に指し示すことができますか。できるとしてもおおよそであり、真西をピンポイントで指すことは不可能です。しかし春分・秋分の日には太陽は真東から上り真西に沈むので、沈む太陽の真中の方角が真西であることがわかります。ですから極楽往生を願う人々は、この日、西に沈む太陽を拝みながら、西方極楽浄土に思いを馳せ、様々な仏事を行ったのです。
 浄土信仰が盛んであった平安時代から鎌倉時代には、多くの阿弥陀堂が建てられ、阿弥陀如来像が祀られました。平等院鳳凰堂は誰もが知っているでしょう。鳳凰堂は、極楽を地上に出現させようとして、藤原頼通が権力と財力にものを言わせて建てたものです。そこで一つクイズです。阿弥陀如来はどの方角を向いているでしょう。先程「西方極楽浄土」に触れたばかりなので、慌て者は「西」と思ってしまうかもしれませんが、人は西を向いて拝むのですから、拝まれる仏様は東を向かなければなりません。鳳凰堂に行くことがあれば、必ず方角を確認してみましょう。京都の駅を降りると、北の方に真っ直ぐ烏丸通という大通りがあり、それに面して東本願寺が進行方向左側に建てられています。つまり本願寺の阿弥陀如来も東を向いているわけです。このように浄土信仰では、東西という方角が、決定的な意味を持っていることを覚えておいて下さい。このことは現在にも影響を与えていて、霊園では西向きの墓より東向きの墓の方が価格が高いことがあります。
 話を元に戻しましょう。阿弥陀堂の前には池があることが多いのですが、その意味についても考えてみましょう。池は彼岸と此岸を隔てる水、あるいは阿弥陀如来の前に位置する極楽の蓮池を表しているわけです。ですからもし今後、鳳凰堂を見学することがあるならば、まずは池越しに拝し、この後に本堂に入って拝するとよいでしょう。そうすることで、「彼岸」の意味を体験的に理解できるからです。このことを知っておけば、古寺に参拝して境内の池を見る時に、新しい発見があることでしょう。学校では文字で学びますが、科目に関係なく、体験的に裏付けて学ぶことが大切なのです。
 平安時代の文学にはいくつか「彼岸」の文字が見出されますが、祖先の供養は専らいわゆるお盆、正しくは盂蘭盆会に行うべきものであり、彼岸にはせいぜい参詣したり念仏を称えたりする程度であったようです。中世には、写経をしたり祖先の追善供養が行われるようにはなりますが、墓参をする日という理解はまだ共有されていません。中世の公家の日記には、「彼岸中日」とか「精進」「写経」「法談」という言葉は散見しますが、これといった行事は見られません。
 江戸時代になると史料も増えて、少しずつ具体的な様子が明らかになってきます。墓参をする風習も一部には見られますが、まだ広く共有はされておらず、諸寺院の法会(彼岸会)に参加したり、互いに茶菓を贈り合う風習がありました。江戸時代の歳時記の「墓参」の項には、盂蘭盆の墓参は記されていても、彼岸のことは全く触れられていません。ですから、江戸時代まではあくまでも「参詣」する日であって、まだ「墓参」する日にはなっていないのです。
 彼岸に国民こぞって墓参をするようになるのは、明治になってから、春分・秋分の日に春季皇霊祭(こうれいさい)・秋季皇霊祭と称して、歴代の天皇・皇后や主な皇族霊をまとめて供養する様になってからのことです。そしてその日が祭日になったので、次第に民間でも皇室の皇霊祭にならって、本格的に祖先を供養するという風習が広まるようになったわけです。
 秋分の日にもし自宅から入り日を眺められるのなら、決まった場所からよくよく観察して、西の方の景色のどの部分に太陽が沈むかを観察しましょう。要するに正確な西の方角を確認しておくのです。例えば「あの木とこの建物のちょうど中間くらい位置に沈む」というように確認しておけば、同じ定点から観察すると、その後は太陽の沈む位置が次第に南に寄っていきますから、季節の変化を太陽の沈む位置で把握することができるわけです。そして冬至の日には最も南に寄り、それ以後は春分の日にまた真西に沈むようになるわけです。現代人は天体の動きや暦にほとんど関心がありませんが、わかった上で天象を観察すると、なかなか面白いものなのです。


なんで満月を「十五夜」って言うの

2024-09-09 08:35:01 | 私の授業
以下の話は、高校日本史の教諭を定年退職した私が、近くの小学校でお話したミニ授業の様子です。対象は6年生、10人。「 」内は担任や生徒の発言です。

なんで満月を「十五夜」って言うの

みんな元気かな?。今日はどんなお話をしようかな。そうだ、9月17日は十五夜のお月見だから、十五夜のお話をしましょうか。それにしても、何で十五夜って言うんだろう。17日の夜だから、今年は十七夜でもいいのにね。昔のカレンダーは、「暦」って言うんだけど、月の形の変化をもとにして作られていたんだよ。月が全く見えない日から、段々見えるようになり、満月になります。そしてまた少しずつ見える部分が欠けて、ついには全く見えなくなります。月が全然見えない日には、月はどこにあるんだろう。と言うか、月はどうして見えないんだろう。だれかわかるかな? 。「はーい、月は太陽と一緒に上って、また一緒に沈むから、太陽が明るすぎて見えないんだよ」。うん、正解です。よく知ってたね。びっくりしたよ。それでね、月は一日ごとに少しずつ出るのが遅くなるんだよ。出るのが遅くなるということは、沈むのが遅くなることでもあるんだけど、だいたい、一日に約50分遅くなるのさ。あくまでも平均するとだよ。月と太陽が、ほぼ一緒に出て一緒に沈む日、つまり月が見えない日を1日目と数えると、二日目には太陽が西に沈んでも、月は少し遅れて太陽を追いかけるように西に沈む。この日の月は、細い細い月が、運がよければ西の空の低いところに見える。そして三日目にはもう少しだけ太くなった月が、やっぱり西の空のやや高いところに見える。これが三日月だね。みんな三日月は見たことあるでしょ。夕方に西の空に見えたはずだよ。こうやって段々、月の見える部分が大きくなって、遂には満月になる。そしてこれ迄とは反対側が少しずつ欠けてきて、遂には見えなくなってしまいます。これで月の満ち欠けが一回りしたわけだ。この一回りするのに何日かかるのかな。「30日かな」。うん、よくできました。細かく言えば29.5日なんだけど、まあ約30日でよいでしょう。だから30日で月の形の変化が一回りするから、30日で一月って言うんだよ。もっとも現在のカレンダーでは、28日や31日の月もあるけどね。ついでだけど、24時間で一日と言うけど、日はお日様の日だから、太陽のことだね。太陽は24時間で一回りするように見えるから、太陽の一回りという意味で、24時間を一日、つまり一太陽って言うわけだ。今まで何も考えずに一月とか一日っていう言葉を使っていたと思うけど、その理由がわかったかな。「へーえ、そうなんだ。知らなかったよ」。またまたついでだけど、12カ月で1年というけど、年という言葉は、もともとは穀物が秋に実ることなんだ。だから今年の秋のみのりから来年のみのりまでを一みのりと数えて、12カ月間の期間の名前にしたんだよ。このことは小学生にはかなりむずかしいけど。
 (春の収穫祈願祭を祈年祭と呼びましたが、それは稔りを祈る祭を意味しています。つまり年とは、本来は期間の呼称ではなく、秋の稔りのことなのです。漢和辞典を検索してみて下さい)
 この月の一回りを時計に当てはめて考えてみましょう。ただし月は時計の針と反対回りなんだけどね。黒板に時計を書いて考えてみましょう。月が見えない1日目を12時とすると、満月は何時のところになるかな。「ちょうど半分だから、6時のところです」。そうだね。そうすると満月の日は何日目になるのかな。えーと、ひと回り30日の半分だから・・・・。「15日目」。よくだきました。もうわかったでしょ。何で満月の夜を十五夜って言うかが。「うん、わかったよ」。今までよく考えもしないで十五夜って言ってたと思うけど、15日目に満月になるからです。もうわかったよね。ついでのことにもう一つ。それじゃあ満月が上ってくる、つまり見えるようになる時間はいつごろかな。これはね、一日目の見えない月は太陽とほぼ一緒に動いているから見えないということだったのをヒントにすればわかるよ。「太陽が沈んだ頃ですか」。そうだね。よくできました。いいかい、満月は太陽と正反対の位置にあるわけだ。だから太陽が沈む頃に見えてくるんだね。
  あのね、今日は一杯新しいことを勉強したけど、おうちに帰ったら、お父さんお母さんにクイズで聞いてごらん。何でもそうなんだけど、勉強したことを誰か他の人に説明すると、忘れなくなるものです。先生が色々知っているのは、頭がいいからではなく、勉強したことを、毎年毎年生徒に話しているからなんだよ。何度も話しているうちに、覚えちゃうわけだ。だから今日勉強したことをよくよく覚えるために、クイズで聞いてみるんだよ。きっとよく知ってるねって褒められるから。そして17日の十五夜の夕方には、本当に太陽が沈む頃に月が出て来るか、東の空を眺めてみましょう。人に話すと覚えるよって言ったけど、実際に経験として確かめると、もっと忘れないものです。いいですか。満月が上ってくるのを確かめることを宿題としておきましょう。いいかい、わかったかな。「はーい」。それじゃあ今日のお話はおしまいにします。

直立歩行ということ(人と猿の違い)

2024-09-06 04:59:05 | 私の授業
 以下のお話は、近くの小学校における、私のボランティア授業の様子で、「 」内は生徒や担任の発言です。

 皆さんお早うございます。「お早うございます」。久しぶりだね。九月になったのにまだ暑いけど、こういう暑さを何て言うのかしってるかな。「残暑って言うんだよ」。よく知ってるね。さすが5年生だ。「今日は何を持ってきたの」。これはね、大きなトンカチさ。「それで何するの」。今日は、人と猿はどこが違うかっていうお話をします。
 さあ、みんな考えてごらん。動物園に行って、猿をじっと観察していると、いろんな事に気が付くことでしょう。まあここは動物園じゃあないけれど、行ったつもりになって考えてみよう。さあ、気が付いたことから、どんどん言ってみようか。「猿は毛が生えているけど、人は生えていない」。うん、確かにそう見えるけど、よくよく見ると、人にも短い毛は生えているんだよ。さあその他には。「人は話ができるけど、猿は話せない」。本当に猿は話せないの?。でも何か言っているよ。確かに猿の声に意味があるのかないのかわからないけど、ひょっとして猿と猿は声で何か合図をしているかもしれないよ。猿語かもしれないよ。人がわからないだけでさ。例えば何か美味しい物があることを仲間に知らせたり、危ないことがあることを知らせたり、雄が雌を呼んだりする声には、何か違いがあるのかも知れない。まあでもね、言葉を話しているのかもしれないけれど、複雑なことを言えないのは確かだろうね。他にはどんなことがあるかな。「猿は服を着てないけど、人はいつも着ている」。「でもチンパンジーのパン君は着てるよ」。「あれはね、着せられているんだから、着ているのとは違うよ」。いろいろ出てきたね。みんなが言ってくれたことはどれも正解だけど、私が一番大きな違いと思っていることがまだ出てきていません。先生、何だと思いますか?。「人は立って歩くけど、猿はいつも立って歩くわけではないと思います」。そうです。よくできました。さすがは先生ですね。「だって先生、猿も立って歩いてたよ」。確かに立って歩くこともあるけれど、そうではない時もある。でも人は赤ちゃんや訳あって歩けない人はともかく、普通はみな二本足でまっすぐ立って歩いています。そう、これが猿と人の大きな違いなんです。
 さあ、話は今から何百万年も前、人が誕生する頃のことです。ここでトンカチが役に立つ。この先の鉄の部分が頭だとしましょう。四つん這いで歩くということは、トンカチを水平か、少し斜めに持っているということだ。だけど真っ直ぐに立っているということは、トンカチを直立させて、この様に持っているということです。どっちが重いかな。同じトンカチだから重さは変わらないはずなのに、ほら持ってごらんよ。まずは水平に。次ぎに真っ直ぐ立ててごらん。重さはどうだった?。「真っ直ぐの方が軽かった」。でもおかしいよね。同じのはずなのに、感じ方が違うのは。だれかその理由を説明して下さい。「水平に持つと、持っている手の部分にトンカチの重さが集中して、重く感じてしまうけど、真っ直ぐに持つと、トンカチの重さを腕全体で支えているから、重く感じないのだと思います」。うわー、そのとおり。よくできました。言葉で説明するのは難しくても、みんな経験としてはわかるね。
 さあこのことを、人の誕生に当てはめて考えてみましょう。つまり四つん這いで歩いているうちは、頭がある一定の重さ以上になれない。首が疲れちゃう。でも真っ直ぐに立つと、大きな重い頭を身体全体で支えられる。頭が重くなるということは、つまりどういうことかな?。「脳が発達するから大きくなるのかな」。そうだね。脳が発達すればいろいろ考えるから、四つん這いの時にはできなかったことができるようになる。例えばどんなことがあるのかな?。「言葉を話せる」。でも猿語があるかもしれないから、話せるかどうかではなく、複雑なことが話せるようになるとしておこう。他には、「火をおこせる」。うんこれは大事なことだ。でもね、いくら頭で考えても、火をおこせるわけじゃあない。火よ起これって思っても、火は起きない。火を起こす道具が必要だ。それには手がなければなりません。二本足で立つということは、前足、つまり手は歩くためのものではなくなるということさ。それで歩くことに使わなくなった前足の指が発達して、それに発達した脳で色々考えて、手や指で何か道具を作ることができるようになるというわけだ。だからさっき君が言ってくれた火をおこすこともできるようになるというわけだ。そうすると人と猿の違いを、道具という言葉を使って表してみよう。「人は道具を使えるけど、猿は使えない」。うーん、でもね、猿の手が届かない所に餌を置いて、近くに棒を置いてやると、その棒を使って餌を採ることができるという実験があるんだ。つまり猿は道具を使えることもあるんだ。だから猿は道具を使えないとは言いきれない。だけど道具を○〇することはできない。さあこの○〇に入る言葉を考えてみましょう。「あっ、わかった。道具を作ることができないだ」。そうだね、簡単な道具を作ること、例えば棒を折って長さを調節するような、利口者もいるかもしれないけれど、それは例外としておいて、人は発達した脳と手や指を使って、道具を作って使うことができるけど、さすがに猿にはそこまではできない、ということだね。
 さろそろまとめてみようか。まず二本足で立つようになると、脳が発達する。そして発達した脳によって複雑な言葉が使えるようになる。また歩くことに使われなくなった手や指が発達し、脳の発達と一緒になって、道具を作って使うようになる。その結果、長い時間がかかることだけど、いろいろな文化ができてくると言うわけだ。さっきあなたが答えてくれた服も、文化の一つだ。二本足で歩くことは、難しい言葉を使って、直立歩行ということがあります。でもね、何百万年もかかって本当にわずかずつ変化ををしてきたのだから、今から急に前屈みの姿勢を真っ直ぐにしたって、脳が発達して頭がよくなるわけじゃあないよ。「wwww」。でもね、姿勢がよいということは、それはそれでよいことだから、猫背にならないようにしましょう。さあ今日のお話はちょっと難しかったけど、真っ直ぐに立って歩くと言うことが、人の誕生にとってどんなに大切なことかわかったかな?。「わくわかりました」「わかったよ」。それじゃあ今日のお話はおしまいにしましょう。

江戸時代のベストセラー本 (1)『庭訓往来』 日本史授業に役立つ小話・小技 56

2024-09-01 20:24:48 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。

56、江戸時代のベストセラー本 (1)『庭訓往来』
 もともと信頼のできる統計があるわけではありませんから、江戸時代のベストセラー本を認定することなどできるわけがありません。それでも候補になる本を考えることは可能でしょう。現代人の感覚で読書人口の多そうな本を考えると、文芸書が有力ですが、今日と異なり本は高価なものでしたし、貸本屋が多かったことを考えると、大衆文芸書といえども、出版部数が多いとは限りません。読んだことのある人の数は多くても、それがそのまま出版部数に比例するとは限らない事情があったのです。例えば『南総里見八犬伝』などは大人気となりますが、全部で106冊にもなりますから、個人で買えるわけがありません。すると考えられるのは文芸書ではなく、常時手許に置いておかなければ不便な本の方が出版数が多いだろうと考えました。そうすると可能性があるのは初等教育書と実用書です。そこで今回はまず初等教育書について考えてみました。実用書については、また江戸時代のベストセラー本(2)として、続篇を書く予定です。

 寺子屋のテキストの定番であった『庭訓往来』は、最有力候補でしょう。何しろ幕末には少なく見ても数千以上もの寺子屋があったそうで、一つの寺子屋に何人もの寺子が学んでいたことを考えれば、相当な数になるはずです。もっとも往来物には『庭訓往来』の他に各種の往来物があり、全て『庭訓往来』であったわけではありません。『商売往来』『百姓往来』など「○○往来」と称されるいわゆる往来物の他に、「○○尽(づくし)」とよばれるものなど、種類もたくさんありました。それでも最も代表的なものが『庭訓往来』であることは間違いなく、現在でも簡単に入手できます。私は古本市や骨董市で、合計すればこれまでに数十冊も買って、購入を希望する先生達に送ったものです。現在でもそうなのですから、当時は相当数が出版されていたのでしょう。もっともお師匠様直筆の写本もたくさんありました。
 そもそも『庭(てい)訓(きん)往(おう)来(らい)』は、室町時代前期に成立したとされる初等教育用の教科書です。著者については、室町時代の後期の注釈書に僧の玄恵(げんえ)(1269?~1350年)であるという記述があり、そのように伝えられてきました。しかし確証はなく、内容からして中級以上の武士の著作の可能性があります。書名の「往来」とは手紙の遣り取りのことで、毎月の往信と復信各一通が十二カ月、それに八月十三日の一通を加え(八月だけは三通)、合計二五通の手紙から構成されています。初等教育のテキストとなっていたとはいうものの、実際に読んでみると難解な単語が並んでいます。一般の庶民にとっては、一つ一つの言葉は、相当に難しいものだったに違いありません。まして現代人にとっては難解な言葉の連続で、古文になれているはずの私でも、注解書なしには歯が立ちません。
 『庭訓往来』の内容は、一月は新年の会、二月は花見詩歌の宴招待、三月は地方武士の邸宅、四月は各種の職業及び諸国の商品、五月は武家の饗応、六月は盗賊討伐出陣、七月は遊技の競技会、八月は司法制度と将軍の参詣、九月は寺院の法会、十月は禅宗の法会、十一月は病気と薬、十二月は地方行政制度など、多岐にわたっていて、いずれも中世の武士の必須教養が中心となっています。
 「庭訓」とは、『論語』の季(き)子(し)篇にある次の故事に拠っています。ある時、孔子の弟子の陳(ちん)亢(こう)が孔子の長男の伯魚(はくぎよ)に、「孔子から何か特別に教えられたことがあったか」と質問した。伯魚が言うには、「特にはない。ただいつか父が独りで庭に立っていて、私が庭先を走り通り過ぎようとした時に、詩を学んだかと聞かれた。まだと答えると、詩を学ばなければ話にならぬ(「以て言ふこと無し」)と叱られたので、詩を学んだ。またある日、また庭先を走り過ぎようとした時に、礼を学んだかと聞かれた。まだと答えると、礼を学ばなければ世に立つことができない(「以て立つ無し」)と叱られたので、礼を学んだ」と答えた、ということです。
 日本では、鎌倉時代には「庭訓」という言葉が文献上に確認され、「初等教育」「家庭教育」という意味で、「にはのをしへ」(庭のおしえ)と訓読みされることもありました。鎌倉時代以後、中世の武士や庶民の教育を担ったのは寺院でした。史実かどうかは別として、楠木正成が少年時代に、河内の観心寺で学問をしたと伝えられている様に、武士の子弟はもちろんのこと、庶民の子供も寺入りして学ぶ風習がありました。戦国時代の毛利家の家臣玉木吉保(1552~1633)の自伝である『身自鏡(みのかがみ)』には、十三歳で寺入りし、一年目には仮名・漢字の手習と『庭訓往来』『童子教』『実語教』などの往来物、般若心経などを学び、二年目に『論語』などの四書五経の漢籍類、『和漢朗詠集』、三年目には『万葉集』『古今和歌集』『伊勢物語』『源氏物語』などを学んだと記されています。(参考文献 京都大学学術情報リポジトリ「或戦国武士の自叙伝(中)玉木𠮷保の自身鏡の研究」三浦周行)
 朱子学者の新井白石は、その自叙伝『折たく柴の記』で、十一歳の時に藩主の命により十日間で浄書して提出したところ、大変に褒められたと書いています。十三歳(満年齢なら十一~十二歳)で藩主の書くべき手紙はほとんど代筆できたのは、『庭訓往来』を初めとする手習いの成果だったのでしょう。
 『庭訓往来』は中世の領主の立場で書かれた内容が多く、江戸時代の庶民には身近な内容ではありません。しかし江戸時代の庶民教育の場である寺子屋でも、室町時代以来の『庭訓往来』だけでなく、それより古い鎌倉時代以来の『童子教』『御成敗式目』、平安時代末期以来の『実語教』が、教科書として使われました。 授業では、寺子屋のテキストとして『庭訓往来』などが用いられたと学習しますが、もし書名の意味を理解せず、また本文の一部を読みもせずに指導していたとしたら、厳しいことを言って申し訳ありませんが、教材研究が不十分と言わざるを得ません。その難解な内容を、江戸時代の少年少女達が学んでいたということの素晴らしさを、伝えられないではありませんか。『庭訓往来』は東洋文庫に収められているので、大きな図書館なら閲覧できると思います。読んで楽しいものではありませんかが、江戸時代の子供が読んでいたのですから、負けるわけにはいきません。

明治五年の改革 日本史授業に役立つ小話・小技 55

2024-08-28 16:46:44 | 私の授業
埼玉県の公立高校の日本史の教諭を定年退職してから既に十余年、その後は非常勤講師などをしていました。今年度で七四歳になります。長年、初任者研修・五年次研修の講師を務め、若い教員を刺激してきましたが、その様な機会はもうありません。半世紀にわたる教員生活を振り返り、若い世代に伝えておきたいこともたくさんありますので、思い付くままに書き散らしてみようと思いました。ただし大上段に振りかぶって、「○○論」を展開する気は毛頭なく、気楽な小ネタばかりを集めてみました。読者として想定しているのは、あくまでも中学校の社会科、高校の日本史を担当する若い授業者ですが、一般の方にも楽しんでいただけることもあるとは思います。通し番号を付けながら、思い付いた時に少しずつ書き足していきますので、間隔を空けて思い付いた時に覗いてみて下さい。時代順に並んでいるわけではありません。ただ私の専門とするのが古代ですので、現代史が手薄になってしまいます。ネタも無尽蔵ではありませんので、これ迄にブログや著書に書いたことの焼き直しがたくさんあることも御容赦下さい。


55、明治五年の改革
 歴史上、○○の改革と呼ばれるものがいくつかありますが、「明治五年の改革」という言葉は、歴史学上定着していません。それは私の勝手な造語だからです。一体明治5年には、どのようなことがあったのでしょうか。明治4年(1871)11月、岩倉使節団が、長途の旅に出発しました。政府首脳としては、右大臣岩倉具視・参議木戸孝允・大蔵卿大久保利通・工部大輔伊藤博文がいます。留守を預かる実力者には、太政大臣三条実美・参議西郷隆盛・参議板垣退助・参議大隈重信・大蔵大輔井上馨・兵部大輔山県有朋・左院議長後藤象二郎(1873年に参議)・開拓使次官黒田清隆・司法卿江藤新平(1873年に参議)がいます。簡単に言えば、政府首脳の三分の一がいなくなったわけです。位階からすれば三条実美が最高位ですが、家柄により最高位に祭り上げられているだけですから、留守政府の事実上の実力者は、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎あたりでしょう。
 大久保はさすがに心配となったようで、自分たちがいない間に、大きな政治変革をしないようにと釘を刺していました。しかし岩倉使節がいなくなると、留守政府は早速大改革に着手します。危機感を懐いた大久保が一足早く明治6年(1873)5月に帰国、同年7月には木戸が帰国し、使節団が帰国したのは9月のことでした。大久保と木戸が早く帰国したことには、彼等の焦りがあったことでしょう。
 岩倉達が留守にしていた間に、どの様な大変革が実施されたか、順に並べてみましょう。明治5年2月には戸籍法が施行され、いわゆる壬申の戸籍が作られました。また同月、兵部省に替わって陸・海軍省が設置されました。同じく同月、地租改正を見越して、田畑永代売買の禁令が解除。8月には学制公布。9月には琉球藩設置、新橋~横浜の鉄道開通。10月には富岡製糸場操業開始。11月には国立銀行条例公布、徴兵告諭公布。12月には太陽暦採用と続きます。翌明治6年には、1月早々に徴兵令公布。7月には地租改正条例が公布されました。
 もちろんこれらの政策には、長い準備期間が必要ですから、鬼のいない間の洗濯のように、隙を覗ってできることではありませんから、岩倉使節の首脳達が全く与り知らないことではなかったはずです。しかしこれだけ重要な新政策を次々に実施されれば、彼等が面白くないと思うのは無理もありません。例えば国立銀行条例では、最も関わりのあるはずの大久保大蔵卿が不在です。一般には征韓論をめぐる対立により、征韓派が一斉に下野した明治六年の政変となったと説明されています。もちろんそれでよいのですが、その対立の背景には、近代化諸政策の主導権争いがあったと見るのが自然なことと思います。
 しかしそのような対立が生じることには、岩倉使節の問題もありました。岩倉使節の旅程が予想外に長くなったのですが、そこには大久保や伊藤の痛恨の失敗がありました。アメリカで大歓迎されたことから、条約改正の予備交渉ではなく、本交渉ができるのではと色気を出し、いざ開始しようとしたら全権委任状が必要なことを指摘され、大久保と伊藤がそれを得るために太平洋を往復し、その間4カ月も時間を無駄にしています。外交交渉のイロハなのでしょうが、そのような知識さえもなかったわけです。
 授業で明治六年の政変について学習する際には、年代の暗記という副次的効果もあり、私は独断で、「明治五年の改革」という表現を使って説明しています。