秋分と浄土信仰
今年(令和6)の秋分の日は9月22日です。私はこの日が近付いてくると、日本史の授業の進み具合に関係なく、必ず彼岸と浄土信仰の話をしています。以下はその要旨です。
春分と秋分の日は古来「彼岸」と呼ばれますが、そもそも「彼岸」とはどの様なことなのでしょう。正しくは春分・秋分を彼岸の中日として、その前後各三日間、合計七日間を彼岸といいます。「彼岸」という言葉は、本来は古代インド語であるサンスクリット語で、「完全な」という意味を表すpāramitā (漢字では「波羅蜜多(はらみた)」と音訳)を漢語に意訳した「到彼岸」(彼岸に到る)を省略した言葉です。「彼岸」という言葉そのものは「彼(か)の岸」、つまり「向こう岸」という意味で、仏教では阿弥陀如来のいる極楽浄土を意味しています。それに対して煩悩まみれの現世を「こちらの岸」と理解して「此岸(しがん)」と称し、彼岸と此岸は水によって隔てられていると理解しているわけです。「彼」の反対語は「此」であって、「彼女」ではありませんよ。「彼此」という言葉がありますが、英語で言えばthatとthisのようなものでしょう。
平安時代中期以降には阿弥陀如来を信じて極楽往生を願う浄土信仰が盛んになりました。そもそも「阿弥陀」とはサンスクリット語で「無量寿」(永遠の命)や「無量光」(永遠の光)を意味する言葉で、寿命の短かった古の人達は、長寿を祈念する心で阿弥陀如来を信仰したのです。阿弥陀如来のいる浄土は、「西方極楽浄土」と称して、西の彼方にあるとされています。そこで西の方角を見極めたいのですが、正確にはわかりません。皆さん、西の方角を正確に指し示すことができますか。できるとしてもおおよそであり、真西をピンポイントで指すことは不可能です。しかし春分・秋分の日には太陽は真東から上り真西に沈むので、沈む太陽の真中の方角が真西であることがわかります。ですから極楽往生を願う人々は、この日、西に沈む太陽を拝みながら、西方極楽浄土に思いを馳せ、様々な仏事を行ったのです。
浄土信仰が盛んであった平安時代から鎌倉時代には、多くの阿弥陀堂が建てられ、阿弥陀如来像が祀られました。平等院鳳凰堂は誰もが知っているでしょう。鳳凰堂は、極楽を地上に出現させようとして、藤原頼通が権力と財力にものを言わせて建てたものです。そこで一つクイズです。阿弥陀如来はどの方角を向いているでしょう。先程「西方極楽浄土」に触れたばかりなので、慌て者は「西」と思ってしまうかもしれませんが、人は西を向いて拝むのですから、拝まれる仏様は東を向かなければなりません。鳳凰堂に行くことがあれば、必ず方角を確認してみましょう。京都の駅を降りると、北の方に真っ直ぐ烏丸通という大通りがあり、それに面して東本願寺が進行方向左側に建てられています。つまり本願寺の阿弥陀如来も東を向いているわけです。このように浄土信仰では、東西という方角が、決定的な意味を持っていることを覚えておいて下さい。このことは現在にも影響を与えていて、霊園では西向きの墓より東向きの墓の方が価格が高いことがあります。
話を元に戻しましょう。阿弥陀堂の前には池があることが多いのですが、その意味についても考えてみましょう。池は彼岸と此岸を隔てる水、あるいは阿弥陀如来の前に位置する極楽の蓮池を表しているわけです。ですからもし今後、鳳凰堂を見学することがあるならば、まずは池越しに拝し、この後に本堂に入って拝するとよいでしょう。そうすることで、「彼岸」の意味を体験的に理解できるからです。このことを知っておけば、古寺に参拝して境内の池を見る時に、新しい発見があることでしょう。学校では文字で学びますが、科目に関係なく、体験的に裏付けて学ぶことが大切なのです。
平安時代の文学にはいくつか「彼岸」の文字が見出されますが、祖先の供養は専らいわゆるお盆、正しくは盂蘭盆会に行うべきものであり、彼岸にはせいぜい参詣したり念仏を称えたりする程度であったようです。中世には、写経をしたり祖先の追善供養が行われるようにはなりますが、墓参をする日という理解はまだ共有されていません。中世の公家の日記には、「彼岸中日」とか「精進」「写経」「法談」という言葉は散見しますが、これといった行事は見られません。
江戸時代になると史料も増えて、少しずつ具体的な様子が明らかになってきます。墓参をする風習も一部には見られますが、まだ広く共有はされておらず、諸寺院の法会(彼岸会)に参加したり、互いに茶菓を贈り合う風習がありました。江戸時代の歳時記の「墓参」の項には、盂蘭盆の墓参は記されていても、彼岸のことは全く触れられていません。ですから、江戸時代まではあくまでも「参詣」する日であって、まだ「墓参」する日にはなっていないのです。
彼岸に国民こぞって墓参をするようになるのは、明治になってから、春分・秋分の日に春季皇霊祭(こうれいさい)・秋季皇霊祭と称して、歴代の天皇・皇后や主な皇族霊をまとめて供養する様になってからのことです。そしてその日が祭日になったので、次第に民間でも皇室の皇霊祭にならって、本格的に祖先を供養するという風習が広まるようになったわけです。
秋分の日にもし自宅から入り日を眺められるのなら、決まった場所からよくよく観察して、西の方の景色のどの部分に太陽が沈むかを観察しましょう。要するに正確な西の方角を確認しておくのです。例えば「あの木とこの建物のちょうど中間くらい位置に沈む」というように確認しておけば、同じ定点から観察すると、その後は太陽の沈む位置が次第に南に寄っていきますから、季節の変化を太陽の沈む位置で把握することができるわけです。そして冬至の日には最も南に寄り、それ以後は春分の日にまた真西に沈むようになるわけです。現代人は天体の動きや暦にほとんど関心がありませんが、わかった上で天象を観察すると、なかなか面白いものなのです。
今年(令和6)の秋分の日は9月22日です。私はこの日が近付いてくると、日本史の授業の進み具合に関係なく、必ず彼岸と浄土信仰の話をしています。以下はその要旨です。
春分と秋分の日は古来「彼岸」と呼ばれますが、そもそも「彼岸」とはどの様なことなのでしょう。正しくは春分・秋分を彼岸の中日として、その前後各三日間、合計七日間を彼岸といいます。「彼岸」という言葉は、本来は古代インド語であるサンスクリット語で、「完全な」という意味を表すpāramitā (漢字では「波羅蜜多(はらみた)」と音訳)を漢語に意訳した「到彼岸」(彼岸に到る)を省略した言葉です。「彼岸」という言葉そのものは「彼(か)の岸」、つまり「向こう岸」という意味で、仏教では阿弥陀如来のいる極楽浄土を意味しています。それに対して煩悩まみれの現世を「こちらの岸」と理解して「此岸(しがん)」と称し、彼岸と此岸は水によって隔てられていると理解しているわけです。「彼」の反対語は「此」であって、「彼女」ではありませんよ。「彼此」という言葉がありますが、英語で言えばthatとthisのようなものでしょう。
平安時代中期以降には阿弥陀如来を信じて極楽往生を願う浄土信仰が盛んになりました。そもそも「阿弥陀」とはサンスクリット語で「無量寿」(永遠の命)や「無量光」(永遠の光)を意味する言葉で、寿命の短かった古の人達は、長寿を祈念する心で阿弥陀如来を信仰したのです。阿弥陀如来のいる浄土は、「西方極楽浄土」と称して、西の彼方にあるとされています。そこで西の方角を見極めたいのですが、正確にはわかりません。皆さん、西の方角を正確に指し示すことができますか。できるとしてもおおよそであり、真西をピンポイントで指すことは不可能です。しかし春分・秋分の日には太陽は真東から上り真西に沈むので、沈む太陽の真中の方角が真西であることがわかります。ですから極楽往生を願う人々は、この日、西に沈む太陽を拝みながら、西方極楽浄土に思いを馳せ、様々な仏事を行ったのです。
浄土信仰が盛んであった平安時代から鎌倉時代には、多くの阿弥陀堂が建てられ、阿弥陀如来像が祀られました。平等院鳳凰堂は誰もが知っているでしょう。鳳凰堂は、極楽を地上に出現させようとして、藤原頼通が権力と財力にものを言わせて建てたものです。そこで一つクイズです。阿弥陀如来はどの方角を向いているでしょう。先程「西方極楽浄土」に触れたばかりなので、慌て者は「西」と思ってしまうかもしれませんが、人は西を向いて拝むのですから、拝まれる仏様は東を向かなければなりません。鳳凰堂に行くことがあれば、必ず方角を確認してみましょう。京都の駅を降りると、北の方に真っ直ぐ烏丸通という大通りがあり、それに面して東本願寺が進行方向左側に建てられています。つまり本願寺の阿弥陀如来も東を向いているわけです。このように浄土信仰では、東西という方角が、決定的な意味を持っていることを覚えておいて下さい。このことは現在にも影響を与えていて、霊園では西向きの墓より東向きの墓の方が価格が高いことがあります。
話を元に戻しましょう。阿弥陀堂の前には池があることが多いのですが、その意味についても考えてみましょう。池は彼岸と此岸を隔てる水、あるいは阿弥陀如来の前に位置する極楽の蓮池を表しているわけです。ですからもし今後、鳳凰堂を見学することがあるならば、まずは池越しに拝し、この後に本堂に入って拝するとよいでしょう。そうすることで、「彼岸」の意味を体験的に理解できるからです。このことを知っておけば、古寺に参拝して境内の池を見る時に、新しい発見があることでしょう。学校では文字で学びますが、科目に関係なく、体験的に裏付けて学ぶことが大切なのです。
平安時代の文学にはいくつか「彼岸」の文字が見出されますが、祖先の供養は専らいわゆるお盆、正しくは盂蘭盆会に行うべきものであり、彼岸にはせいぜい参詣したり念仏を称えたりする程度であったようです。中世には、写経をしたり祖先の追善供養が行われるようにはなりますが、墓参をする日という理解はまだ共有されていません。中世の公家の日記には、「彼岸中日」とか「精進」「写経」「法談」という言葉は散見しますが、これといった行事は見られません。
江戸時代になると史料も増えて、少しずつ具体的な様子が明らかになってきます。墓参をする風習も一部には見られますが、まだ広く共有はされておらず、諸寺院の法会(彼岸会)に参加したり、互いに茶菓を贈り合う風習がありました。江戸時代の歳時記の「墓参」の項には、盂蘭盆の墓参は記されていても、彼岸のことは全く触れられていません。ですから、江戸時代まではあくまでも「参詣」する日であって、まだ「墓参」する日にはなっていないのです。
彼岸に国民こぞって墓参をするようになるのは、明治になってから、春分・秋分の日に春季皇霊祭(こうれいさい)・秋季皇霊祭と称して、歴代の天皇・皇后や主な皇族霊をまとめて供養する様になってからのことです。そしてその日が祭日になったので、次第に民間でも皇室の皇霊祭にならって、本格的に祖先を供養するという風習が広まるようになったわけです。
秋分の日にもし自宅から入り日を眺められるのなら、決まった場所からよくよく観察して、西の方の景色のどの部分に太陽が沈むかを観察しましょう。要するに正確な西の方角を確認しておくのです。例えば「あの木とこの建物のちょうど中間くらい位置に沈む」というように確認しておけば、同じ定点から観察すると、その後は太陽の沈む位置が次第に南に寄っていきますから、季節の変化を太陽の沈む位置で把握することができるわけです。そして冬至の日には最も南に寄り、それ以後は春分の日にまた真西に沈むようになるわけです。現代人は天体の動きや暦にほとんど関心がありませんが、わかった上で天象を観察すると、なかなか面白いものなのです。