間もなく立春ですが、このところの厳寒で、寒さにはめっぽう強い私も震え上がっています。先週降った雪はまだ畑を覆っていて、野菜が値上がりし、キャベツ一つが300円もするので、とても買えません。それで荒川の土手の雪を掻き分けて、菜の花の葉っぱを採って来て野菜代わりに食べています。少し苦味がありますが、なかなか美味しい物です。最近は忙しくてブログを書く暇もなかったのですが、ようやく短い文を書きました。遅くなって御免なさい。
初午は読んで字の如く、最初の午の日という意味で、旧暦2月の最初の午の日に行われた、稲荷神社の祭礼のことです。新暦ならば少し暖かさを感じられる2月末から3月中の行事なのですが、現在はまだまだ寒い新暦の2月に行われることが多いようです。今年の2月の初午の日は2月7日です。本来は旧暦2月のことですから、今年なら本当の初午は3月27日です。
「二月の初午の日」とされるにはわけがあります。それは伏見稲荷神社の祭神である宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)が伊奈利(いなり)山へ降臨したとされる日が、『稲荷社神主家大西氏系図』によれば和銅四年(711年)二月壬午の日のことで、その日が2月の初午の日に当たることから、稲荷神社の祭日となりました。
稲荷信仰は平安時代にかけて大変盛んとなり、清少納言が初午の日に参詣したことが、『枕草子』の第162段に記されています。清少納言は初午の日に思い立って伏見稲荷に参詣したのですが、あまりの急な上り坂で喘いでいたところ、楽々と登って行く三十歳過ぎの女性に出会い、羨ましいと思ったということです。確かに清少納言でなくとも、伏見稲荷の奥社まで参詣するには相当な体力が必要です。
江戸時代には初午の日には、「行人容易路を遮ること能ず」(『諸国図絵年中行事大成』)と記される程に混雑していました。しかし当時の人々がみな伏見まで参詣に来たこわけではありません。何しろ稲荷神社は全国各地に分社され、江戸時代には「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われた程に、至るところに稲荷神社はありましたから、最も身近な神社でもありました。
この日は、子供達が寺子屋に入門する「寺入り」の日でもありました。『東都歳時記』という書物には、「初午・・・・江府はすべて稲荷勧請の社夥しく、武家は屋敷ごとに鎮守の社あり。市中には一町に三、五社勧請せざる事なし。・・・此日小児手習読書の師匠へ入門せしむる者多し」と記されています。数え年で7~8歳が普通でしたから、満年齢なら6~7歳ですから、現代の小学校入学のようなものです。現在では小学校入学は新暦の4月ですが、3月下旬なら、春になったら読み書き算盤の初歩を学びに入門・入学する気分は、共通しているのでしょう。
稲荷は本来は「稲成」と書くべきもので、五穀豊穣を掌る神でした。稲荷神社祭神名の「宇迦」は食物や穀物を意味する古語で、社名の「稲荷」(稲成)と共に、稲荷神社が本来は五穀豊穣を掌る神であったことを示唆しています。しかし現在は商売繁盛の神という印象が強く、各地の有名な稲荷神社では、初午には参詣者で賑わいます。行事食としては稲荷寿司が定番となっています。それは狐が稲荷神社の神のお使いということになっていて、狐は油揚げを好むという理解に拠っています。しかし稲荷寿司が登場するのは江戸時代の末期で、行事食としての歴史は古くはありません。
そもそも稲荷神社と狐の関係は、祭神の宇迦之御魂神が穀物や食物を掌る「御饌津神(みけつのかみ)(みけつのかみ)」とも呼ばれたことに拠っています。神饌(しんせん)(神に供える食物)のことを「御饌(みけ)」と言いますから、「御饌津神」は「神饌の神」という意味になります。ところが「けつ」という音が狐の古名である「けつ」と同音であるため、「みけつのかみ」が「三狐神」と当て字で表記され、次第に狐が稲荷神の使者であるというとになってしまいました。稲荷寿司か文献上確認できるのは、天保年間の『守貞漫稿』です。初午の行事食として食べるようになったのは、もちろん明治以後のことでしょう。
初午は読んで字の如く、最初の午の日という意味で、旧暦2月の最初の午の日に行われた、稲荷神社の祭礼のことです。新暦ならば少し暖かさを感じられる2月末から3月中の行事なのですが、現在はまだまだ寒い新暦の2月に行われることが多いようです。今年の2月の初午の日は2月7日です。本来は旧暦2月のことですから、今年なら本当の初午は3月27日です。
「二月の初午の日」とされるにはわけがあります。それは伏見稲荷神社の祭神である宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)が伊奈利(いなり)山へ降臨したとされる日が、『稲荷社神主家大西氏系図』によれば和銅四年(711年)二月壬午の日のことで、その日が2月の初午の日に当たることから、稲荷神社の祭日となりました。
稲荷信仰は平安時代にかけて大変盛んとなり、清少納言が初午の日に参詣したことが、『枕草子』の第162段に記されています。清少納言は初午の日に思い立って伏見稲荷に参詣したのですが、あまりの急な上り坂で喘いでいたところ、楽々と登って行く三十歳過ぎの女性に出会い、羨ましいと思ったということです。確かに清少納言でなくとも、伏見稲荷の奥社まで参詣するには相当な体力が必要です。
江戸時代には初午の日には、「行人容易路を遮ること能ず」(『諸国図絵年中行事大成』)と記される程に混雑していました。しかし当時の人々がみな伏見まで参詣に来たこわけではありません。何しろ稲荷神社は全国各地に分社され、江戸時代には「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われた程に、至るところに稲荷神社はありましたから、最も身近な神社でもありました。
この日は、子供達が寺子屋に入門する「寺入り」の日でもありました。『東都歳時記』という書物には、「初午・・・・江府はすべて稲荷勧請の社夥しく、武家は屋敷ごとに鎮守の社あり。市中には一町に三、五社勧請せざる事なし。・・・此日小児手習読書の師匠へ入門せしむる者多し」と記されています。数え年で7~8歳が普通でしたから、満年齢なら6~7歳ですから、現代の小学校入学のようなものです。現在では小学校入学は新暦の4月ですが、3月下旬なら、春になったら読み書き算盤の初歩を学びに入門・入学する気分は、共通しているのでしょう。
稲荷は本来は「稲成」と書くべきもので、五穀豊穣を掌る神でした。稲荷神社祭神名の「宇迦」は食物や穀物を意味する古語で、社名の「稲荷」(稲成)と共に、稲荷神社が本来は五穀豊穣を掌る神であったことを示唆しています。しかし現在は商売繁盛の神という印象が強く、各地の有名な稲荷神社では、初午には参詣者で賑わいます。行事食としては稲荷寿司が定番となっています。それは狐が稲荷神社の神のお使いということになっていて、狐は油揚げを好むという理解に拠っています。しかし稲荷寿司が登場するのは江戸時代の末期で、行事食としての歴史は古くはありません。
そもそも稲荷神社と狐の関係は、祭神の宇迦之御魂神が穀物や食物を掌る「御饌津神(みけつのかみ)(みけつのかみ)」とも呼ばれたことに拠っています。神饌(しんせん)(神に供える食物)のことを「御饌(みけ)」と言いますから、「御饌津神」は「神饌の神」という意味になります。ところが「けつ」という音が狐の古名である「けつ」と同音であるため、「みけつのかみ」が「三狐神」と当て字で表記され、次第に狐が稲荷神の使者であるというとになってしまいました。稲荷寿司か文献上確認できるのは、天保年間の『守貞漫稿』です。初午の行事食として食べるようになったのは、もちろん明治以後のことでしょう。