うたことば歳時記

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処暑

2016-08-18 14:31:53 | 年中行事・節気・暦
  のんびりしているうちに、処暑が近くなってしまいました。処暑は8月22日か23日のことで、まだ残暑の厳しい時期です。そもそも「処暑」という漢語をどう読み下してよいのかがよくわかりません。「暑を処す」なのでしょうが、「処」をどのように訓読みすればよいのでしょうか。ネット情報はそのことについては全く触れようとせず、「処暑とは暑さがおさまるという意味」とか、「処は、止まる・止む・留まるという意味がある」と記しています。確かに『礼記』の月令にも「處暑ハ七月ノ節ニ在リ。處ハ止ルナリ」と記されています。しかしこの場合の「処」は「暑」を目的語とした他動詞、つまり「暑を処する」と読むのが普通でしょうから、私には「止む」とは読めないのです。もし「暑さ止む」ならば「処暑」ではなく「暑処」となるのではと思います。漢文には詳しくないので、あくまでも素人の考えです。どなたか詳しい方、教えて下さい。

 漢和辞典で「処」を検索すると、「古訓」として「トトマル・トトム・ヤスム・ヤム」などがありますから、「とどめる」「とまる」の意味に理解することは間違いではないのでしょう。しかし漢字本来の、つまり中国での「処」の意味は、①ある場所に落ち着く、②然るべきところに置く、③あるべき所に落ち着けるという意味だそうですから、もう少し丁寧に表現すれば、「処暑」は「暑さがあるべき所に落ち着く」という意味なのではと思います。すでに立秋後のことですから、暑さのあるべき所は自ずから決まってしまいます。そのような所に暑さがもう自分の出番ではないと、自ら落ち着くべき所に落ち着くと、理解した方がよいのだろうと思います。結果としては暑さがおさまり始めることに変わりはないのですが、ネット情報を無批判に孫引きするのは嫌なので、自分なりに考えてみました。屁理屈ばかりで御免なさい。

 実際に暑さが和らいでくるかは、その場所や年によって異なるのでしょうが、私の住んでいる埼玉県中部では、立秋を過ぎた頃から確実にそう感じました。クーラーの無い我が家では、一昨日は33度まで室温が上がりましたが、それでもまあ何とかしのげます。昨日今日は30度に達せず、確実に「秋」を感じています。

 処暑から次の節気である白露までの間に、雑節とされる二百十日(9月1日か2日)と二百二十日(9月10日か11日)があります。立春から起算して210日目と220日目ということによる呼称ですから、古には立春が一年の初めであったことを示しています。この頃は台風が襲来することが多いため、農家にとっては厄日とされていたのですが、統計的にはそうとは限らないそうです。

 処暑から白露までの間の七十二候は以下の通りです。まず初候は8月23日~8月27日の頃の「綿柎開」で、「めんぷひらく」「めんのはなしべひらく」と読みます。柎とは咢(がく)のことですから、綿がの実がはじけ、中から真っ白い綿花がのぞき見えることを意味しています。このことを一般には「開絮」(かいじょ)といいます。「絮」とは綿のことです。私は教材とするために毎年綿を栽培していますが、開絮が始まるのは9月になってからのようです。もっとも現在一般に栽培されている綿は江戸時代の品種ではありませんから、当時はそうであったのかもしれません。また開絮し始めるのは早い時期に花が咲いた下の方に付いている実からですから、今頃咲いている花が実って開くのはまだまだ先のこと。一度に全部収穫できず時間差があったため、手間のかかる仕事でした。米国南部で奴隷の仕事とされていたことには、そのようなわけがあったのです。

 次候は8月28日~9月2日頃の「天地始粛」で、「てんちはじめてしじむ(しゅくす)」と読みます。「粛」を「さむし」とよませるネット情報が多いのですが、「粛」の本義は小さくなる・減らす・弱まる・静になるなどの意味で、寒いという意味はありません。夏の暑さが弱まる結果として寒くなると言うのでしょうが、訓として「粛」を「さむし」と読ませるのは無理があると思います。「しじむ」は小さくなることを意味する「縮む」の古語ですから、ここでは「さむし」ではなく「しじむ」と読むべきでしょう。訓はそれでよいとして、暑さが「しじむ」のは「処暑」と全く同じこと。五日ごとに改まる七十二候に敢えてここで「粛」という理由がわかりません。全く意味のない七十二候と言わざるを得ません。このようなことがあると、現代版の七十二候を作りたくもなります。

 末候は9月2日~6日頃の「禾乃登」で、「かすなわちみのる」と読みます。「禾」は訓読みでは「のぎ」と読みますが、これは禾偏の「のぎ」のことです。文字構造的には穀物が稔って頭を垂れていることを示す象形文字で、稲・粟・稗・麦などの穀物を意味しています。しかし日本では稻を意味していると理解してよいのでしょう。「登」にはしっかりと「穀物が熟する」という意味があります。しかし稻が熟する時期は、品種改良や、灌漑技術の発達により田植えの時期が早まったことなどにより、江戸時代とは比べものにならないほど早まっています。私の家の周辺では、8月末には稲刈りが始まります。地域による差も大きいでしょうから、この七十二候も、現在では全く意味を持っていないと思います。



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