うたことば歳時記

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灯籠流しの起源

2021-08-13 20:34:36 | 歴史
灯籠流
 毎年八月十五日の終戦記念日前後には、戦没者の供養のために、火を点じた手製の小さな灯籠を川に流す
灯籠流が行われることがあります。また戦没者供養に限らず、慰霊を目的に行われるので、精霊流と呼ばれることもあす。

 このような風習は、もともとはお盆の行事として江戸時代に始まったことです。『華実年浪草』(かじつとしなみぐさ)という歳時記には、宇治の万福寺で盂蘭盆会に際して、「水灯会」(すいとうえ)が行われているとが記されています。それによれば七月十六日の夜、白蓮華の造花を三六〇個も造り、それに艾(もぐさ)の芯を立て点火して宇治川に流すのですが、まるで蛍火のようで、多くの観客が押しかけたということです。また中国の伝統的年中行事を記録した『月令広義』という明代の書物に、同様の風習が記されているとも記されています。『華実年浪草』を直接確認したい方は、ネットで「国会図書館デジタルコレクション『華実年浪草」と検索し、その巻9(秋の部巻一)の第25コマ目に載っていますから、一度御覧になって下さい。万福寺は明僧隠元が開山ですから、明の風習が送火の風習と習合したものなのでしょう。

 長崎では毎年八月十五日の旧盆に、現在も精霊流という風習が行われています。長崎出身の歌手さだまさしの歌で、「精霊流し」という名前はよく知られていますが、よく灯籠流と混同されています。歌の「精霊流し」は哀愁のあるメロディーと歌詞で、どこか寂しげな印象なのですが、長崎の精霊流は爆竹が鳴り響き、耳栓を欠かせない威勢のよい祭です。新盆を迎えた故人の関係者が「精霊舟」と呼ばれる舟形を引き廻し、故人の霊を送る盂蘭盆の行事で、歌の「精霊流し」しか知らない人が初めて見ると、余りにも印象が異なるので驚くことでしょう。舟の大きさは二~三mの小さな物から、十m程度の部分を数個連結させた、まるで「デコトラ」のような派手な物まであり、魔除けのためと称して、銃声と紛う程の爆音を響かせながら市内を練り歩きます。その様子はユーチューブで見られます。

 実はこの風習にも江戸時代以来の伝統があります。十九世紀末、寛政年間に書かれた『長崎聞見録』という書物には、「藁にて船を作り、生霊(精霊)祭りたる種々のものを皆積み、この船にも小さきぼんぼりを多く掛つらねて持行き、大きなる船は一二間も有、人拾人弐拾人もかかる。また貧家の船は小さく壱人にて持たるもあり。大波戸(おおはと)といふ海浜にて火を付て推流す。その火海面にかがやきて、流れ行くさま夥しきなり。この夜はみなみな寢る人なく、暁比までかくの如くさわぎて賑々(にぎにぎ)しきなり。」と記されています。

 また明治44年の『東京年中行事』には、お盆過ぎに東京各地の寺で、水難者や日清日露戦争戦没者供養のため、川施餓鬼が行われると記されています。それは阿弥陀如来を刷った紙や、経木塔婆を川に流す風習です。また江戸時代末まで、お盆の頃牛島の弘福寺で、都鳥の形の灯籠100余をつないで、小舟で引いて川に流す流灯会が行われていたと記されています。水灯会がお盆の送り火の行われる7月16日に行われていることからもわかるように、これらの行事はみなお盆の供物を川に流す風習が変化したものと考えるのが自然でしょう。このように灯籠流しの風習は、江戸時代から行われていたのです。

 ところがネット情報や年中行事の解説書には、「灯籠流は8月15日に行われるとは限らないが、広島が発祥地とする新しい風習である。精霊流は長崎で行われるもので、精霊船を引いて歩き、最後には解体するものである」と説明されています。終戦記念日に広島で行われることがニュースなどで放映されることから、検証すらすることなく、安易に広島起源であると思い込んでいるのでしょうか。そのように説いている人は、江戸時代の文献など全く読まず、おそらくは年中行事事典の類や先行する類書を適当に摘まみ食いしているのでしょう。このように年中行事の起源を調べるには、古い文献を読むことが不可欠なのです。慣れていないと江戸時代の文献を読むのは難しいかもしれません。しかし『東京年中行事』などは年中行事研究の基本中の基本図書であり、図書館で普通に閲覧できます。それすら読んでいないようです。たぶん年中行事事典の類を参考にしているのでしょうが、多くは民俗学的視点から書かれていて、信用できません。何故なら、民俗学では伝承を重視するあまり、文献史料が考察の材料として読まれていないからなのです。伝統的年中行事の歴史的理解がどれ程捏造されたものであるか、本当に残念でなりません。悪意があるとは思いませんが、歴史の一部なのですから、歴史的根拠によって裏付けられなければならないのです。

 灯籠流はもともとはお盆の行事でした。ただし全国的には行われていなかった可能性があります。それを記述している文芸や歳時記類が少ないからです。8月15日頃に行われることが多いことには、理由があります。もともとお盆は旧暦7月15日に行われていましたが、太陽暦の採用により新暦で月遅れの8月15日に行われることが多くなっていたのですが、たまたま終戦記念日と重なったため、戦没者慰霊も祖先供養も慰霊ということで、広島の灯籠流が注目されることになりました。決して広島起源ではなく、もともとお盆の風習の一つだったのです。ただし明から渡来した水灯会で、灯籠が用いられていたかどうかはわかりません。それでも灯を点じたものを蛍火と見紛う程に川に流したのですから、似たようなものであったことは間違いありません。また長崎の精霊流しでは、江戸時代の文献では灯を点したまま海に流していますから、全く別物ではなさそうです。なぜなら、隠元は初めは長崎の中国人の寺に住職として渡来し、後に宇治に移ったのであって、長崎での風習も、明由来のものであると考えられるからです。

 本来は慰霊のためとはいいながら、最近では観光的な意味も付加されされているようです。しかし川に流してしまうということから、環境保全の視点から、流しっぱなしというわけにもゆかず、いろいろ制限されるようになっているのは、やむを得ないことなのでしょう。

日本鉄道の父モレルの墓

2021-01-12 18:46:29 | 歴史
横浜の外人墓地に、「日本鉄道の父」英国人エドモンド・モレル(1840~1870)の墓があります。来日したのは1870年(明治3)4月9日で、横浜・新橋間の鉄道敷設工事を指導するためでした。しかし健康を損ね、完成を見ることなく、20ヶ月目の71年11月5日(明治4年旧暦9月23日)に肺の病気、恐らく肺結核で亡くなってしまいました。満30歳の若さでした。そして何とその12時間後の6日に、妻のハリエット夫人も満25歳で亡くなってしまいました。死因は連日不眠不休の看病による疲労と、精神的ショックでしょう。日本政府は彼の功績を大きく評価して、7日に行われた葬儀の費用は政府が負担し、明治天皇は悔み状を添えて金1,000ポンドを下賜しています。

 話は突然それますが、この話を知って、私は聖徳太子を思い浮かべました。太子には妃が何人か居るのですが、膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)は622年に聖徳太子と同時に病となり、太子が亡くなる前日に亡くなりました。モレルとは順が逆ですが、相次いで亡くなっています。

 閑話休題、ところが一般にはモレルの妻は、大隈重信家の家政婦であったキノという女性であったという説が流布しています。実はこれはとんでもない出鱈目なのです。その出鱈目を創作したのは、小説家の南条範夫で、『驀進』という小説にその様に書いたことに因っているのです。そして困ったことにその後この捏造があたかも事実であるように、鉄道史関係の書物に紹介されたため、今ではほとんど定説となってしまっています。

 武内博著『横浜外人墓地』という書物には、夫人の死去は半年後であると、これまた事実と異なることが書かれています。ただこれは意図的な物ではなく、半日を半年と見誤ったのかもしれません。私自身何冊も本を出版していて、うっかりミスはよくあるものです。モレルの生年については、日本のほとんどの書物は1841年になっていますが、正しくは1840年です。

 墓に詣でたことがあるのですが、傍らには一本の木に紅白の花が咲く梅の木が植えられ、「連理の梅」と呼ばれていました。(この場合の理とは木目のこと)。「連理」とは唐の詩人である白居易の長恨歌の一節に、「天に在りては願わくは比翼の鳥となり、地に在りては願わくは連理の枝とならん」と詠まれたことから、夫婦の契りの堅いことの比喩とされてきました。夫婦のあまりにも劇的な最期に心動かされた人が後に植えたものなのでしょうが、それにしてももちろん当時のものではないでしょう。2代目なのかもしれません。

 新橋の旧駅舎跡は、史跡として整備されています。もし見学することがあれば、モレル夫妻の純愛に少しの時間思いを馳せていただきたいものです。ハリエット夫人の名誉のために、モレルの妻は日本人ではないことを、声を大にして言いたいものです。

 そこで夫妻を偲んで歌を詠みました。
○鉄の道 つくれる勲 今もなほ 花とかをれよ 外つ国の丘に
○後れては ある甲斐もなし 梅の花 香をだにのこせ 苔はむすとも

「後れる」とは愛するものに先だたれて、独り残されることを意味しています。遅れることではありません。

 なおモレル夫人の日本人説については、林田治男氏が「モレルの経歴に関する諸説」という論文を著し、緻密な考証によって反論の余地がないほどに誤りであることを論証していますから、詳しく知りたい方はネットでご覧下さい。大きな敬意を表しつつご紹介いたします。

新型コロナウィルス流行と奈良の大仏

2020-12-08 19:45:07 | 歴史
 新型コロナウィルスの猛威は収束の気配はありません。私が非常勤講師をしているM高校では、12月というのに窓を開け放して授業をしています。私は寒さにめっぽう強く、一冬ストーブ無しでも堪えられますが、今時の若者にはとても辛そうです。

 先日日本史の授業で国分寺や東大寺大仏建立の話をしました。40数年間も日本史の授業をしましたが、今年程このことが実感をもって迫ってきたことはありません。国分寺の建立の直接契機は、740年の藤原広嗣の乱ですが、それ以前に735年から737年にかけて、新羅から伝染してきた天然痘の流行が背景となっていました。737年には聖武天皇の皇后である藤原光明子の4人の兄弟が、相次いで病死していますから、聖武天皇にとっては余所事ではありませんでした。為政者が徳政を行えば、天がそれを嘉して瑞祥を出現させ、悪政が行われれば、その反対に怪異や不吉なことが起きると本気に信じられていた時の話ですから、聖武天皇は責任を感じていたはずです。しかし人の力ではどうにもなりませんので、あとは仏の力に頼るしかありません。そのような切羽詰まった思いで、国分寺の建立や大仏の造立が国家的大事業として行われたわけです。 

 奈良朝の天然痘流行の悲惨さを具体的に示す史料はありませんが、方丈記には1181~1182年の養和の大飢饉の惨状が細かに記されています。何しろ鴨長明が自分で見たことを記録しているのですから、多少の誇張はあるでしょうが、事実なのです。その記述を現代語に直してみました。 

 「養和のころ、二年間ほど飢饉が続いたことがあった。干害・大嵐・洪水などの悪天候が続き、穀物がことごとく実らなかった。・・・・京では地方の産物を頼りにしているのに、それも途絶えてしまった。・・・・物乞いが道ばたにたむろし、憂え悲しむ声は耳にあふれていた。前の年はこのようにして暮れた。そして翌年こそはと期待したのだが、疫病が流行し、事態はいっそう混乱を極めた。人々が飢え死にする有様は、まるで水が干上がる中の魚のようである。・・・・衰弱した者たちは、歩いているかと思うまに、道端に倒れ伏しているという有様である。土塀のわきや、道端に飢えて死んだ者は数知れない。遺体を埋葬することもできぬまま、鼻をつく臭気はあたりに満ち、腐敗してその姿を変えていく様子は見るに耐えない。ましてや鴨の河原などには、打ち捨てられた遺体で馬車の行き交う道もないほどだ。・・・・仁和寺の大蔵卿暁法印という人が、人々が数知れず死んでゆくのを悲しみ、死体を見る度に僧侶たちを大勢使って、成仏できるようにとその額に阿の字を書いて仏縁を結ばせた。四月と五月の二カ月の間、(京の都の)死者を数えさせると、道端にあった死体は総計四万二千三百あまりという。ましてやその前後に死んだ者も多く、鴨川の河原や、周辺地域を加えると際限がないはずである。いわんや全国七道を合わせたら限りがないことである。」

  コロナは現代の医療の進歩で何とか爆発的流行は抑えられていますが、もし昔であったら、養和の大飢饉のような惨状となっていたかもしれません。今まで深い感慨もなしに奈良の大仏を見ていましたが、これからは見方が変わることでしょう。

 実際、仏教界では宗派を超越して、コロナ収束のための大仏を造立しようという動きが始まっているそうです。国がそれを援助することはできない仕組みになっていますが、有志がすることなら、それもありかなとは思います。

金銀比価問題の誤解

2020-08-27 15:49:42 | 歴史
幕末に欧米諸国と貿易が始まると、金銀比価問題が発生しました。教科書には「日本と外国との金銀比価が違ったため、。多量の金貨が海外に流出しました。」と本文に記され、欄外の注には、「金銀の交換比率は、外国では1:15、日本では1:5と差があった。外国人は外国銀貨(洋銀)を日本に持ち込んで日本の金貨を安く手に入れたため、10万両以上の金貨が流出した」と記されています。

 金が流出したことが大問題であるとされていますが、それは見方を逆にすればその分だけ銀が流入しているわけです。金銀比価が1:5であるとするならば、日本では金安銀高なのですから、価値の高い銀が大量に流入して結構なことではありませんか。貿易赤字を補填するために金が流出したわけではありません。そもそも私の単純な疑問はここから始まりました。

 この教科書の文章は実に誤解されやすいものなのです。これだけ読めば、外国では金対銀が1対15、日本では1対5であったと、誰もが思ってしまうでしょう。しかし実際はそうではありませんでした。中世ヨーロッパでは1:12が続いていましたが、16世紀に大量の銀がヨーロッパに流入すると銀が値下がりしたため、近代ヨーロッパでは1:15~16と銀安になっていました。一方日本では、江戸幕府は慶長14年(1609)に金1両=銀50匁という公定相場を定めました。これは1:10となります。しかし江戸後期には金1両=銀63匁くらいになっていましたから、およそ1:13くらいで、ヨーロッパよりはやや銀高ですが、大差があるわけではありませんでした。日本国内で一律に金銀比価が1:5であったことなど全くありません。日本では1:13くらいだったのです。

 ところが天保8年(1837)に、8.66gしかない天保一分銀が発行されたことが、後に大きな問題に発展してしまいます。これは銀の含有量は8.58gしかないのですが、それでも一分(4分の1両)として通用したのは幕府の権威によるもので、国内だけで流通している場合は、それで何とかなっていたのです。

 安政6年(1859)に欧米諸国と貿易が始まるとなると、大きな問題が生じました。通商条約には「外国の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を以て通用すべし」と定められていました。そこで欧米諸国は銀を23.1g含むメキシコ銀(洋銀・1ドル銀貨)1枚と、天保一分銀3枚の銀の量25.7g(8.58g×3)がほぼ同量であることから、メキシコ銀1枚は天保一分銀3枚と交換されるべきであると主張しました。

 それに対して日本側の主張は、天保小判には金が6.39g、銀が4.84g含まれているので、欧米の金銀比価1:16で計算すると、合計で銀約107.08g(金6.39g×16+銀4.84g)に相当する。これはメキシコ銀に含まれる銀の約4倍であるから、金1両はメキシコ銀4枚となり、メキシコ銀1枚は一分銀1枚と交換されるべきであると主張しました。1両は4分ですから、そういうことになるのです。しかし銀が8.58gしかない天保一分銀と23.1gも含むメキシコ銀を交換することを、欧米列強が認めるわけがありません。結局押し切られて、メキシコ銀1枚は天保一分銀3枚と交換されることになってしまいました。

 その結果とんでもない事態が発生します。まず外国人商人がメキシコ銀の1ドル銀貨4枚を(27g×4=108g)を天保一分銀12枚(8.58×12=約103g)と交換します。これはほぼ同じ重さの交換ですから、交換比率は1:1で、難の問題もありません。次に外国人は12枚の一分銀を両替商に持ち込み、日本国内の両替方法、つまり1両=4分という計算によって、天保小判金3両に両替します。天保小判は金6.39gですから、3両ならば重さは約20gになります。103gの一分銀が20gの小判金に交換できるのですから、その比率は1:5になってしまいます。そして外国人はそれを国外に持ち出し、1:15の比率で地金として売却します。するとメキシコ銀の約12枚に交換できることになるわけです。 難しい計算はともかくとして、外国人はメキシコ銀4枚を日本で一分銀12枚に両替し、さらにそれを小判金3枚に両替し、国外でさらに両替するだけで、日本に持ち込んだメキシコ銀4枚が3倍の12枚になってしまうのです。(小数点以下の末尾の数については、調査データにより多少幅があります)

 高等学校の日本史の教科書には、「金銀の交換比率は、外国では1:15、日本では1:5と差があった。外国人は外国銀貨(洋銀)を日本にもちこんで日本の金貨を安く手に入れたため、10万両以上の金貨が流出した」と記述されています。しかしそれでは、当時は日本の金銀比価が一律1:5であったと誤解されてしまうではありませんか。 本当の原因は、天保一分銀が額面の価値がないのに、幕府の権威で1分(4分の1両)として流通していたことを欧米人が逆手に取り、条約の「同種類の同量交換」を根拠として,有利な条件で金貨を国外に持ちだしたことにあるのです。学校の授業で「日本の金銀比価は一律に1:5であった」と教えているとすれば、それはとんでもない誤りなのです。まさか教科書がいい加減なわけがないと思うでしょうが、本当の話です。生徒にとっては難しい話ですから、先生としては「入試では、外国では1:15、日本では1:5と差であったことが問われるから、そのように覚えておけ」ということになってしまい、日本中の高校生が金銀比価が1:5であったと思い込んでしまうのです。いろいろ調べてみると、予備校の講師もそのように信じ込んでいます。かつて教職に就いたばかりの頃は、私もそのように教えていました。

 それなら教科書の記述をどう直せばよいのでしょうか。日本ではその頃は銀貨と言えばほとんどが一分銀になってしまっていました。実際には一分の重さの銀ではないのに、幕府の権威で一分の価値、つまり四分の一両の価値を無理矢理持たせただけなのです。ですから日本では金対銀が1対5であったというのではなく、金対一分銀が1対5であったとしなければならないのです。教科書の記述が出鱈目とまでは言えませんが、誰もが誤解してしまう表現になっているのです。40年間の教員生活で地歴科の多くの仲間に尋ねてみましたが、正しく理解していた先生は極めて少数でした。

 このような金の海外流出を止めるには、メキシコ銀1枚と対等に交換できるように、増量した一分銀を発行すればよいのですが、幕府にはそれだけの余力も銀の備蓄がありません。そこで幕府は万延元年(1860)に、既存の小判金は額面ではなく時価で、つまり金の含有量に応じて通用させるように布告し、また天保小判と同じ品位で大きさを3割に低下させた万延小判金を発行しました。これにより新小判金に対する安政一分銀の金銀比価はほぼ欧米と同じになり、ようやく小判金の流出が止まったのです。

 私の書いていることが信じられない方は、「江戸時代末期における金銀比価について」と検索すると、松山大学論集に、貨幣史の専門の研究者である井上正夫氏の論文を閲覧できますから、ご確認下さい。ただ学術論文ですから、ちょっと気軽に読むには辛いかもしれません。しかし学校で日本史を教えている程の人ならば、必ず読んでほしいものです。

追記
同様の内容ですが、「日本史授業に役立つ小話・小技 24  金銀比価問題の真相」と題して拙文を公表していますから、併せて御覧下さい。 


韓国から抗議される渋沢栄一の新一万円紙幣

2020-08-21 07:22:49 | 歴史
 2024年度に渋沢栄一が肖像となっている新一万円紙幣が発行されます。しかし韓国はそのことについて日本に激しく抗議をしています。しかし渋沢栄一がなぜ韓国で問題にされるのか、日本人には理解できないかもしれません。日本政府は明治時代に朝鮮・韓国に権益を拡大し、最終的には韓国併合に至るのですが、渋沢は同時期に日本経済の近代化を成し遂げた最大の功労者ですから、必然的に彼も朝鮮・韓国と関わることになりました。明治6年に渋沢が中心となって設立した第一国立銀行は、明治11年、釜山の居留地内に釜山支店を開設します。その結果日本の通貨が朝鮮に流通し始めるのですが、明治28年の三国干渉後に朝鮮国内ではロシアの影響力が強くなり、日本通貨の流通が縮小してしまいます。そこで明治35年、第一銀行(明治29年に第一国立銀行から改称)は、韓国で第一銀行券を発行しました。当時渋沢は第一銀行の頭取であったため、1・5・10円の銀行券には渋沢の肖像が描かれていたのです。この発行は韓国政府の承認を受けたものではありませんが、明治38年には韓国政府が正式な紙幣と認定しています。
 それならなぜ韓国政府はそれを認めたのでしょうか。その頃韓国には紙幣というものはありませんでした。金銀ならば万国に通用しますが、仮に韓国が紙幣を発行しても、流通する保証がなかったからです。信用の裏付けのない紙幣というものは単なる紙切れに過ぎませんから、誰も受け取ってくれません。そのため信用のある第一銀行券を承認せざるを得なかったのです。また民間銀行が国家の紙幣を発行することに疑問を持たれるかもしれません。しかし今でこそ紙幣を発行することは国家の中央銀行に限られますが、日本でも銀行券は初めは民間銀行がそれぞれに発行していたのであって、当時はそれで何の問題もなかったのです。
 しかし国家主権の発動である紙幣発行ができない韓国から見れば、「侵略者」である日本の通貨を使うことは屈辱以外の何物でもありませんでした。渋沢の紙幣発行から8年後の明治43年には韓国が併合され、紙幣を使う毎に渋沢の肖像を見せられていたのですから、韓国の人にしてみれば彼が韓国に対する「経済的侵略の象徴」と理解されたのも無理はありません。それでも渋沢栄一の名誉のために弁明するならば、明治時代初期の朝鮮国に、紙幣を発行して流通させる政治・経済力がなかったことが最大の問題なのです。信用ある紙幣が発行されていれば、わざわざ異国の紙幣を自国の紙幣として認定する必要はなかったからです。
 因みに第二次世界大戦後、昭和25年6月に大韓民国の中央銀行として韓国銀行が設立されますが、その直後に朝鮮戦争が勃発します。そのため新紙幣の発行ができず、急遽日本政府に依頼して大韓民国最初の紙幣が大蔵省の印刷局で印刷され、米軍の軍用機で運ばれました。肖像は大韓民国初代大統領の李承晩、単位は「圓」(円)と表記されていますが、現在韓国通貨の単位である「ウォン」は「円」の朝鮮語読みです。大韓帝国と大韓民国最初の紙幣は、いずれも日本で印刷されたものだったのです。