うたことば歳時記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

五月闇

2016-05-27 11:28:59 | うたことば歳時記
 ただ何となくネットを検索していて、どうにも納得できない解説を見つけました。それは「五月闇」についての解説です。『角川類語国語辞典』には五月闇の解説として、「梅雨のころの夜の暗いこと。また、そのころの薄暗い空模様。」、『三省堂おしゃれ季語辞典』には、「連歌書『産衣』に、『「五月闇は夜分にあらず』と示されているとおり、本来は、昼なお暗き空間を指す言葉であったが、最近では雲の垂れこめた夜の闇の陰鬱さにも用いられつつある。」と書かれているというのです。また山本健吉『基本季語五〇〇選』には、「【五月闇】五月雨の降るころの空が曇りがちで、陰鬱として、昼なお暗いのも、月の出ぬ闇夜をも言う。」と記されているというのです。あいにく手許にそれらの本がないので、この目で確認したわけではありません。ネット情報だけで判断するのは危険ですが、この場合は間違いなさそうです。

 私は今日の今日まで、五月雨の降る頃の、月も星も見えない真っ暗な夜とばかり思っていましたから、とても驚きました。「本来は、昼なお暗き空間を指す言葉であったが、」という解説に至ってはどうにも信じられなく、さっそくいろいろ調べてみました。昼間の暗いことをも意味するという解説の根拠は、1698年に成立した連歌の書物である『産衣』(うぶぎぬ)に載せられた、上記の記述のようです。それ以外にはどうしても探し出すことはできませんでした。しかしそれが本来の五月闇とまで断言されると、このまま引き下がるわけにはいきません。私が知っている五月闇を詠んだ歌は、全て夜の暗さを詠んでいるのですから。そこで国歌大観と首っ引きで調べてみました。

 結論から言えば、「本来は、昼なお暗き空間を指す言葉であったが、」という解説は誤りであると言わざるを得ません。歌の意味からして、夜の暗さを詠んだ歌が圧倒的に多く、明らかに昼間の薄暗さを詠んでいると断定できる歌は一首もないのです。もし「本来は」と断言するなら、五月闇を詠んだ古い歌の大半が昼間であるはずです。それが全く見つかりません。辞書の編集者や山本健吉氏は、五月闇を詠んだ古歌を片っ端から調べた上で書いていない証拠です。山本健吉と言えば、歳時記については相当な権威者ですから、同氏の説を疑う人はまずいないでしょう。俳句の歳時記を調べるほどの人なら、山本氏の著書を愛用しているでしょうから、私のような素人の考察など、誰も本気では信じてくれません。しかしそれなら、本来は昼間の薄くらいことであった根拠を示してほしいものです。『産衣』に載っていると言っても、それは元禄年間のこと。古代・中世の文献から指摘しなければ、本来そうであったという証拠になりません。あるいは私が見落としている歌があるかもしれません。しかし「本来は」とまで言うのならば、一つや二つそのような歌があっても、説得力は全くありません。何しろ、夜の暗さを詠んだ五月闇の古歌はたくさんあるのですから。江戸時代の初期には、本来は五月雨の時期の暗い夜を意味した五月闇が、昼間の薄暗いことも表すように意味が拡大されたというならまだわかります。もっとも『産衣』の説も、同じような意味で使われている文献で補強しなければ、どこまで信用できるかわかりません。たった一例では不十分です。そして江戸期の俳諧から、昼間の五月闇を詠んだ句をいくつも上げられなければなりません。そのような考証を経ずして、「本来は昼間の・・・・」などと言ってはなりません。山本健吉や辞書という権威に裏打ちされて、「本来」とことなる五月闇が、いずれ定着してしまうのでしょうか。根拠を実証的に示していないネット情報は、まずは疑ってみなければなりません。

そこで明らかに夜の暗さを詠んでいる歌を載せておきましょう。
①五月闇花たちばなのありかをば風のつてにぞ空に知りける(金葉集 夏 148)
②五月闇みじかき夜半のうたたねに花橘の袖にすずしき(新古今 夏 242)
③五月闇狭山が峰にともす火は雲のたえまの星かとぞ見る(堀河院百首 421)

 ①②は、暗闇の中でも花橘の香が漂ってくることを詠んでいます。暗いために視覚が効きません。そのためかえって嗅覚が研ぎ澄まされるわけです。暗闇の中の花の香を詠むことは梅にもよくあることで、古歌では常套的な詠み方でした。③は山中にともされた焚き火が星のようだというのですから、これも明らかに夜の五月闇を詠んでいます。近い例では、唱歌『夏は来ぬ』にも「五月闇ほたるとびかい・・・・」と歌われていますが、これももちろん夜の闇です。

 それにしてもいくら薄暗いといっても、昼間の暗さですから、それを「闇」と表現することは、どう見ても不自然だと思うのですが・・・・。


追記(平成28年5月29日)

 五月雨について書いたので、ついでに五月晴について。国語辞典には、五月晴れは五月雨の頃の雨が途切れた短い晴れ間と説明されていますが、近年は新暦5月の爽やかに晴れ渡った天気という誤用が定着しているようにも説明されています。かなり前に、誤用であるとNHKに抗議したことがあるのですが、全く相手にされませんでした。まあ言葉は時の流れによって少しずつ変化するので、仕方がないのかもしれませんが、少なくとも私自身は正しい言葉を使いたいと思っています。(その割には、しょっちゅう言葉を間違えたり、変換ミスをしているので、大きなことは言えないのですが)。どうしても新暦5月の晴天の意味で使い場合は、「ごがつばれ」と読むようにしています。

 五月雨という言葉は『万葉集』には詠まれていませんが、『古今集』以後にはたくさん歌に詠まれるようになります。その五月雨の合間の晴れ間である五月晴という言葉も、同じように古くから使われていると思いきや、少なくとも勅撰和歌集には見当たりません。江戸期の俳諧には詠まれていますから、言葉の歴史としては、かなり新しいと言うことができるでしょう。



コメントを投稿