時の流れの中に!

少子高齢化の中で高齢者はどう生きて行けば良いのか。

5月のカレンダー

2021-04-29 11:16:34 | 写真
昨春の花の写真がないので、それ以前の古い写真を選んでカレンダー作りを行っている。いいと思って見つけた写真も、これは以前にも使ったから止めとこうなどあまり楽しくない。今年の春も撮りに出かけていない。誰もが思い出が多く作らる春だが、多くの人たちも春が二回、記憶に残らずに過ぎ去ろうとしている。

























おわり
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小説「おもかげ」② 高所恐怖症

2021-04-25 10:23:46 | 日常
人は障害とは言わないが何かしら心の傷を持って生きているのではないだろうか!
閉所恐怖症、悪さをして押し入れに入れられた、クローゼットに隠れて出られなくなった。
水恐怖症、海プールで溺れかけた。
高所恐怖症、高ところで危険な目にあった。
幼いころの一時的な体験がトラウマとなって消えないまま大人になったが、生活に支障はないのでそのまま放置しているのが実情だろう。

東京で住んでいたのは墨田区、最寄り駅の押上駅傍に東京スカイツリーが設置されるとニュースがあった。世界一高い電波塔、高さは634m、六三四と覚えれば忘れない。どんなタワーなのか興味が尽きない。写真を撮るのが趣味だったので工事の進捗を写真に撮り始めた。逆さツリーが見えると聞けば十間川に、桜のシーズンになると隅田公園に、浅草の吾妻橋のアサヒビールの炎のモニュメントは絵になると何度も訪れた。完成を楽しみに工事の進捗を見守っていたが、天に向かって高く伸びるタワーを見ていると、高さは分かっていたはずなのに高過ぎる、これはダメだと思った。ガラス張りの展望台、あそこに立つ姿が思い浮かばない。2009年3月9日から工事が始まり2012年5月22日にグランドオープンしたが昇りたくない気持ちは変わらなかった。これは医師の診断も必要がない高所恐怖症だ、自分に起きている高所恐怖症の原因が解らない。木から落ちたことないし、高い所で危険な目にあったこともない。どんなに考えても判らない。そのまま放置して来たが原因が解らないのは気にはなっていた。小説「おもかげ」を呼んでいると主人公が高所恐怖症でその原因を解明しているので、私の原因も考えてみた。

◇小説「おもかげ」主人公竹脇は高所恐怖症その原因は、小学校一年か二年のときの東京タワー見物が、初めての自覚症状だったことにちがいはない、それまではジャングルジムも木登りも大好きで、高い場所を怖いと思ったためしはなかった。東京タワー展望室の窓辺には、母と子が鈴生りになっていた。高い場所に不慣れなせいか、みな申し合わせたように手を繋いでいた。僕はどうしても、その間に割りこんで歓声を上げる気にはなれなかった。それでずっと、うしろの壁にもたれるかしゃがみこむかして、時が過ぎるのを待っていた。嫉妬や羨望ではなかった、あやういと感じたとき、手を握ったり肩を抱き寄せてくれる人を、僕は知らなかった。つまり、「母親」という種族の本質と存在意義を、僕は思いがけずに発見してしまったのだった。誰もが持っていて、僕だけにはないという心許なさは、嫉妬や羨望を一足飛びにして、耐えがたい恐怖に変わった。

◇主人公竹脇の高所恐怖症、状況が私によく似ている。高い所はダメだが飛行機に乗るのは問題がないのも同じ、これまで高い所は苦手だったが恐怖に変わったのは竹脇と同じ東京タワー、ひとりで訪れ展望台に上り景色を見ようと窓に近づいた真下の道路と足元が一体となり見えた。その時に恐怖を感じ後ずさりした。壁が1mぐらいでもあれば違ったかもしれないが全面ガラス張りは恐怖だった。竹脇は高所恐怖症の原因を守ってくれる人がいない孤独感と不安と感じた。私の場合も孤独という面は似ている。酒を飲み入退院を繰り返す父に代わり母は働き詰めで、母と遊びにいった記憶はない。しかし一人で遊び回っている中で、小説のような高所のシーンがあったのかは思い出せない。
東京タワーに初めて上ったのは45歳、記憶の中で高い所は好きでない、少し苦手という意識はあったが恐怖と感じたのは初めてだった気がする。しかし、東京タワーが高所恐怖症の原因だとは考えにくい。45歳で高所恐怖症が発症したというのも理解できないのでさらに過去を振り返ってみた。「おもかげ」を読んで感じたのは、高所恐怖症=高さ+孤独+不安がキーワードになると思った。
過去の記憶を思い出してみた、30代の頃に一人で住んでいたのはマンションの6階だったが、最初の頃は、高さは気にしていなかった。会社で火災訓練があり、消防署の人から逃げ道を確保するのが大事と教えられた。マンションの場合はエレベーターを使わずに非常階段から逃げる。マンションには避難はしごの設置が義務化されているので確認しておくようにと言われた。避難はしごは端のよその部屋のバルコニーに設置してあるようだが確認できない。バルコニーから下を見た、高い!ここからは逃げられないと思った。避難はしごは直接一階まで降りるのではなく下の階に降りるのを繰り返すのだが、その時には、それは考えずに高い、ここからは逃げられない、不安だけを感じた。それ以来、ベランダから真下を見ることがなかった気がする。過去を振り返って記憶を思い出そうとしたのだが、高さに関して思い出したのはこれだけ、30代で発症したというのも納得できないが、これより前の記憶は思い出せない。しかし、東日本大震災を体験した人の中には、震災後、海を見られないという大人の人たちがいるという。年は関係なく、その人が恐怖を感じた体験がトラウマとして消えないかも知れない。

※終わりの見えないコロナ渦、多くの人たちが不安を抱えて生活している。抱える不安のストレスは人それぞれ違うが、特に子供たち、高齢者には心に傷が残るような体験をしている人が居るかも知れない。子供たちの発たつ障がい、高齢者の認知症発症とコロナ渦に関係がないか調査中。

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認知症の予防 橋田壽賀子さん②

2021-04-23 10:25:17 | 認知症
橋田寿賀子さんが4日午前9時13分、急性リンパ腫のため静岡県熱海市の自宅で死去した。95歳
橋田さんの状況、行動についてはニュースなど、情報に注目していた。それは5年ほど前の記事からだった。

『私(わたし)が安楽死を望むわけ』
人さまに迷惑をかける前に死にたい。それが私の望みです。
家族がいれば、子どもや孫の成長を見届けたかったり、できるだけ生きていて欲しいと望まれることでしょう。けれども私は、夫に先立たれ、子どもはなく、親しい友人もいない。天涯孤独の身の上です。
仕事は嫌というほどやったし、世界中の行きたい場所へ行きました。もうじゅうぶん生きて、やり残したこともなく、思いを残す相手もいません。
いまはまだ自分で生活できていますが、足腰が立たなくなったらどうしましょう。行きたいところへ行けず、食べたいものを食べられなくなったら。いつの間にか認知症になって、何もわからなくなってしまったら。
食事から下の世話まで人さまの手を借りるなら、そうなる前に死なせてもらいたい。これは、尊厳とプライドの問題です。死ぬときに、痛いのや苦しいのも嫌です。だからいつどうやって死ぬか、自分の意思で決めさせてもらいたい。それには安楽死しかありません。
文藝春秋』(2016年12月号)に「私は安楽死で逝きたい」を寄稿

◇年を重ね高齢になると認知症を心配する人は多い、橋田さんも当時は90歳になっているので当然かも知れないが、橋田さんは認知症にならないと確信していた。だが認知症を心配していると記事を読み注目していた。

◇コロナ下の「渡鬼」、テーマにしたものは
「渡鬼」の第1シリーズが始まったのが90年。まさかこんなに長く続くとは思いませんでした。ここ数年は年に1度くらいの放送でしたが、今年放送する分もすでに構想が進んでいました。
東京の病院に入院中、お見舞いに行った時も、2人でいろいろ話し合って。橋田さんは「こんな時代だから、暗い要素のないドラマにしたい」と。「じゃあ、冒頭はどうする?」と聞いたら、「コロナのことから入ろうと思う」とおっしゃっていました。
ピン子さん演じる五月が、幸楽でお客さんと話しているところに、夫の勇(角野卓造さん)に電話がかかってきて、おやじバンドの練習に借りている倉庫を、「コロナだからもう貸せない」と言われるんです。それで勇が不機嫌になるところから始めよう、と。
テーマは「人はひとりではない」。長山藍子さん演じる弥生のところは、配偶者を亡くした老人が集まってお茶を飲む場になっています。「ラスト、その中の2人の結婚式だったらいいわよね」と――。
「どこで結婚式やるの?」と聞いたら、「お金をかけずに、幸楽の椅子を上げてやるのはどう?」。つまり、すでにかなり具体的に構想を練っていらしたんです。人生の最終期をどう過ごすかは、90を超えた私たち2人のテーマであると同時に、もっとも現代的なテーマです。すばらしい内容だと思いました。

◇認知症発症には正の要素の変化(仕事を辞めるなど)と、負の要素(身体的要因、心理的要因、環境的要因など)の増があります。正の要素は考える創作活動をしている橋田さんのような著作家は、著作活動を続けていれば認知症にならないと考えています。負の要素は年を重ねると誰もが増加します。大きく考えなければ別に心配することはないのですが、認知症になったらと心配し過ぎるとストレスになります。ストレスは認知症発症の大きな要因です。橋田さんのような著作家の人たちは探求心が高いので色々と調べます。自身の物忘れ、認知症になった実情を知れば不安は増大します。橋田さんが認知症について気にしているという記事を読んだので心配になり注目していたのです。しかし、2019年には「渡る世間は鬼ばかり 3時間スペシャル」の脚本を執筆している。最近も「渡鬼」の新作を考えている。さらに橋田文化財団の活動もあり多忙な日々を過ごしている様子で、認知症の心配をする時間もなかったようです。
認知症は誰にでも訪れると医師、専門家は言い、誰もが心配をします。心配のし過ぎで認知症になる人もいるかも知れません。すべての人が認知症になる訳ではなくならない人もいます。ライフワークを続けている人は認知症にならないと考えています。
石原 慎太郎さん、1932年(昭和7年)9 月30日 - )88歳は、日本の作家、政治家。元参議院議員、元東京都知事)
瀬戸内 寂聴さん、1922年〈大正11年〉5月15日生)98歳は、日本の小説家、天台宗の尼僧も認知症にならないと確信しています。
他にも元スポーツ選手、俳優、実業家など一流を極めた人、一般の人の中にもこれまでと同じ現役を続けている人、趣味として創作活動をライフワークとして続けている人は認知症にならない。

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『空海の生涯』 付記

2021-04-20 12:31:53 | 日常
『空海の生涯』 を読む前は、空海は弘法大師の若い時の名前と思っていた。基礎知識も弘法も筆の誤り、弘法筆を選ばず、四国八十八か所霊場を創設したのを覚えていたぐらい。これらの知識の裏付け、エピソードを本で知りたかったが記載されていない。聖人ではなく人間味あふれる人物として描かれているのは心に響いたのだが、知りたかったエピソードがなかったので消化不良の気持ちだった。
親鸞聖人の場合は、生存中に改名していたので親鸞として活動していた。弘法大師も同じだと思っていたが、弘法大師の場合は空海として描かれている。?
『空海は弘法大師と呼ばれます。この呼び名は、死後八十年以上も経ってから朝廷が空海に与えた諡号(贈り名)です。それ以後「弘法大師伝説」が大きくなりすぎ、その神格化は異常なまでに発展して伝説ばかりが一人歩きをし、いっそう実像が見えにくくなり、史実と伝説要素とが混在して語られるようになった。』これは本文から引用で一つの疑問が解消。

「弘法も筆の誤り」弘法大師(空海、774-835)は、嵯峨天皇、橘たちばなの逸はや勢なりとともに三筆といわれる書の名人でした。大師には、応天門の扁額を揮毫し、掲げられた額の「應」(応)の字に点が一つ欠けていることに気づき、下から筆を投げつけて、点を打ったとする伝説があります(今昔物語など)。
例文.弘法にも筆の誤りだ、次は同じ過ちをせずにしっかりやってくれ
例文.弘法にも筆の誤りだ、いつも一生懸命なあの人を責めることはやめよう』

「弘法筆を選ばず」本当の名人は、道具の善し悪しなど問題にしないというたとえ。どんな状況であっても結果を出すのがプロであるという考え方を示すたとえとして使われたり、うまくいかないことを道具のせいにするのはプロとして失格だ、といったような精神論として使われます。この言葉の真の意味は、弘法大師のような達人であれば、筆の良し悪しは関係なく、どんな筆でも傑作が書ける、ということのようです。しかし、弘法大師は書体によって筆を使い分け、「どんな筆でも良い」のではなく、筆への「こだわり」があって、良い字を書くには、良い筆でないとダメだと言ったという、つまり「弘法は筆を選ぶ」ことになり、かなりの収集家でもあったようだ。一流と言われる人は道具に徹底してこだわっている方が多いようだ。

『四国にある空海ゆかりの88か所の仏教 寺院の総称で、四国 霊場の最も代表的な札所である。』創設ではなくゆかりの地となっている。ゆかりの地とはなんだろう。
古代から、都から遠く離れた四国は辺地(僻地の意)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。江戸時代には、修行僧だけでなく信仰・物見遊山の為に民衆が集まり、「辺地」から「遍路」の形に変化したとされます。

◇今回、人生の最後で空海を取り上げたので残りの疑問も調べてみたが、私の知識は空海没後に語り継がれていることばかりだった。
「弘法も筆の誤り」文章を書けば誰にでも誤字脱字はある。それなのに何百という著作の中でひとつの作品で点の書き忘れを見つけ、それを諺として後世に語り継げられている。それは空海の偉大さを示す証かもしれない。例文を調べると人の失敗を慰める、励ましばかりだが、「完璧と思うな、弘法にも筆の誤りという諺がある。もう一度見直してみる。」と戒めとして捉えるのも必要だと考える。
「弘法筆を選ばず」については、エピソードは見つからなかった。どこかで書くことがあり、その時に筆を借りて書いた文字が空海としては満足できる出来ではないが、一般の人々は素晴らしいと称えられたのだろう。しかし、一流を目指すなら道具への拘りは大事である。
「四国八十八か所霊場」個々の霊場に空海の逸話があると思っていたのが勘違い。空海は四国で生まれ修行した、空海の付けた点が線になり円に、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。江戸時代には、修行僧だけでなく信仰・物見遊山の民衆が四国八十八か所霊場を作り上げたのではないだろうか。四国八十八ヶ所を巡る遍路の笠に書かれる。同行二人は霊場巡りにおいて、常に自分には弘法大師がついていてくれる、弘法大師が守ってくれるという意味。同行二人は弘法大師が訪れていない四国の仏教 寺院を弘法大師と訪れていると新解釈をしても良いのではないだろうか。

※まだ空海を理解しきれていない、もう少し時が過ぎてから『空海の生涯』を読み直したい。

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人生の最後 ④ 最後の時

2021-04-17 11:10:46 | 日常
『空海の生涯』 由良弥生 王様文庫



あらすじ
【脱・エリートコース】官僚への道を捨て山林修行
【著作多数】空海初めての著作は24歳。対話形式の物語
【遣唐使】ピンチ!海賊に間違われて上陸できない!
【待ってたぞ】中国の高僧・恵果との運命的な出会いと別れ
【平城天皇vs.嵯峨天皇】傾国の美女・藤原楽子の謀略
【捨てられた老人!?】比叡山を去った弟子への最澄の未練
【最澄と決別】「お経を貸して」「断る!」空海、最澄を痛罵

◇読書感想文とは読後に感じた気持ちを残すのだが、この「空海の生涯」を読んだのは一年ほど前になる。内容も中国に行き膨大な仏門の知識を習得し、日本に経典を持ち帰り真言密教を広める。程度しか頭に残っていない。ただ強烈に今も記憶に残っている出来事がある。空海の最後のエピソードで『空海は自分の死期を察して穀味(米麦などの五穀)を断ち、水しか飲まなくなる。道教について学んでいる空海は、その教えにある辟穀(五穀を断つ)という不老長寿の養生術を知っている。だが、不老は信じていない。ただ、きれいな死に方、自然な死に方をしたいと思う。五穀を食べず、水だけを飲んでいれば腸内は空っぽになり、排泄は水分だけになる。それでも人間は死なない。その間、肉体はなだらかに衰えてゆく。衰えは自然である。自然に肉体を衰えさせながら、その肉体から自分(霊魂)を遊離させ、自由に天空にのぼりたい。肉体を生かしているのは霊魂だという日本古来の感念(感じ方・考え方)が意識せざる意識のなかに伝承されており、死とは霊魂が肉体から遊離して戻ってこないことだと信じたからだ。その後、一か月も経たない三月二十一日、空海は心にさとることがあってにっこり笑うかのような表情を見せながら、息を引き取る。
享年六十二』

※人生の最後を決める時は命を医師に委ねるか、機械(人工呼吸器)に任せるしかないと思っていたが、自分でも決めることができると空海は知らしている。

◇自然界でもその昔、家の中と外を自由に出入りする猫が大多数だった時代、年老いた猫は家の中ではなく、縁側の下や庭の片隅など、人の目につかない場所で息絶えているのを発見されることが多くありました。そのため、「猫は死期を悟ると自分から姿を消す」と信じられていたのです。
作家のアラン・デヴォーはこの現象を、次のように表現しました。
「猫は死を予感し、野生の時代から変わらぬ方法で、つまりひとりきりで死を迎えにいく。(中略)死が突然襲うのでないかぎり、猫は誇り高い野生動物の死にふさわしい場所、すなわち人間のぼろ布やクッションの上ではなく、ひとりきりの静かな場所へ這って行き、冷たい地面に鼻づらを押し付けて死ぬ」。

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