白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(458) 歌江師匠死す

2024-01-24 17:44:31 | 近況

歌江師匠死す

〽うちら陽気なかしまし娘 

誰が言ったか知らないが     

女三人寄ったら かしましいとは愉快だね 

very  good  good very  good good 

お笑い、おしゃべり、ミュージック 

明るく歌って Night & Day   

ピーチク パーチク かしましい

 

かしましのお姉チャン 歌江さんが亡くなった 19日の夕方女優のOから「歌江師匠が亡くなったらしいんですけど聞いていませんか?」との電話が入った ご主人の平井さんにきいてもいいんですけど何か斎場の空きが無く今必死で探してはるんで悪いし、何か噂では23日まで空いてなくて仮押さえしてるらしいんですけどドライアイスで冷凍して持たすというんです、という ハッキリ日にちが決まったら電話します と言ったが一向に返事がない あったのは23日の夕方で葬儀も終わった後の事後報告だった 平井さんが人数制限してヒトには言わないでくれと言った為に連絡もなかったのである

極めて少人数の式だったらしく、花江師匠は出席だったが照枝師匠は欠席と「かしまし娘」は揃わなかった

 実は平井さんとはお正月に「年賀状じまい」の話をしたばかりだった ずーっと自宅での看病はかなりの負担だと思うしそのことを言うと寂しそうに「だって先に行くわけにはいかないやろ」との返事、明日は我が身の年に近づいた僕の胸にグサッと刺さった

その死は24日最後に所属していたワハハ本舗から発表された「かしまし娘」が松竹芸能のタレント第一号なんて今の漫才しは知っているのだろうか 「かしまし娘」全盛期の昭和31年から昭和56年までマネージャーをやっていた社員はもういない    この時松竹芸能の勝社長が「もう25年もやったんやかしましはもうええやろ」とコンビ解消させた真意を知る人はもういない

この時歌江師匠は 何故「かしまし」が突然終わることになったのか悩んで高野山に行きました 以前から親しくさせて貰っていた宝亀院の宮武峰雄僧正に今後どうすればいいのか相談したところ 得度を受けなさいと言われました 得度とは出家のこと、普通なら長年修行しなければいけないのですが彼女のことをよく知っている僧正は「あなたの今までの人生が良い修行になっています」と秀明尼(しゅうみょうに)という法名を戴きました

東京に出て大きなプロダクション( アクターズプロ、社長が自殺)に入って順調にお芝居( 中村鴈治郎、長谷川一夫に教えを乞う)や講演会( 芦屋凡々曰くミヤコ蝶々のスケを引き受けてくれた )をこなしていた頃 ふと昔かしましを辞めなさいと言われた勝社長とずーっと会っていなかった事を思い出し、1995年阪神淡路大震災で家を潰されホテル住まいだと聞いてお手紙をしたためました その手紙が縁で久しぶりに社長に会いました 何がしたいと言われたので 三人で「三婆」を演りたいといいましたが社長は原作者の有吉佐和子さんの娘さんに電話して原作権を押さえてくれました

さてこのあたりから僕と「かしまし」とのお付き合いが始まる この「三婆」(平成8年結成30年記念作) は三人の空白期間を忘れさせる名演技によって翌年には巡業(平成9年)  その翌年からは年一本一ヶ月公演が僕の演出で公演が決まった

平成11年 南座 「なにわ三姉妹」

平成12年 名鉄ホール「なにわ看護婦ものがたり」                         「花も枯葉も踏み越えて」

平成13年  名鉄ホール「花も枯葉も踏み越えて」

平成14年  西日本巡業 「花も枯葉も踏み越えて」

平成16 年 名鉄ホール「花も枯葉も踏み越えて」再演               「花も枯葉も踏み越えて」 東京三越劇場

平成17年 結成40年記念作 名鉄ホール、南座 「清く正しく美しく」

平成19年 名鉄ホール 「女の花時計」

 

正司照枝のお別れ(亡くなったことは理解出来たのか)

「穏やかな最後たったようですが 今はただ寂しい」

正司花江のお別れの言葉

「面倒見いのいい芸達者な姉でした、歌江姉ちゃん、ありがとう」

 

〽 これでお終い、かしまし娘  

  又の会う日を愉しみに    

  それでは皆さん、

  さ〜よ〜なら〜

 

 

 

 

 


白鷺だより(457) 二人の付き人

2024-01-18 09:36:00 | 近況

二人の付き人

 この1月15日、読売新聞の朝刊の一面の広告欄をみて驚いた 「サンミュージックなお笑いの夜明けだった〜付き人から社長になった男のものがたり〜」という本の広告だった

幾つかの疑問が湧く この社長はお笑い出身だろうが東京のお笑い事情にうとい私は「ブッチャーブラザース」なんて知らない、それよりも創業者相澤一族はどうなったんだ その頃のお付きをとるタレントといったら森田健作しかいないが僕がお手伝いした彼の唯一の座長公演「森田健作特別公演」に参加していたのだろうか?

新社長の「ブッチャーブラザース」のリッキーこと岡博之が森田健作の付き人になったのは1979年でその2年後1981年にコンビ結成だから 僕が参加した森田健作特別公演は1986年名鉄ホールだから接点がない(*)

70年代、打ち合わせに行った四谷4丁目の大木戸ビルの小さな事務所は森田健作、桜田淳子、都はるみを擁し 破竹の勢いだった 続いて松田聖子、早見優、岡田有希子、酒井法子、田村英里子などを排出、女性アイドルグループ=サンミュージックという絶頂期を迎える 1986年岡田有希子がビルの屋上から飛び降り自殺をするまでは、以降松田聖子の独立、桜田淳子の統一教会問題、酒井法子の覚醒剤事件と相次ぐ不祥事続きで相澤会長は引退、息子に譲った そこで何があったのか解らないがアイドル路線の影で新興してきた「お笑い路線」に会社の行末を任せたのか かっての栄光を知るだけに一抹の寂しさを覚える広告であった 現役の漫才コンビの「社長」ぶりを注視していこう

* 1986年名鉄ホール 森田健作特別公演 谷口守男作・演出「俺は三四郎」 

その同日、ネットでもう一人の「付き人あがりの歌手」の訃報が駆け巡った 「歌手の小金沢君」の死亡記事だ わざわざラインで教えてくれた方が何人もいた

彼のお付き時代は共に北島三郎についていたのでよく知っている 北島のお付きといえば昔の歌手仲間だった「しゅうちゃん」こと鈴木修一さんが長い間努めていたため 同じ頃付き人となった山本譲二のお付き姿は見たこともない (なおしゅうちゃんの歌声は北島の幻のデビュー曲「ブンガチャ節」のキュッキューキュッキューというコーラスで聞ける) 

小金沢が入ったころはもうしゅうちゃんはいず お付きのすへを教えるものもなく北島の末弟拡克さんが厳しく仕込んだ

一度新コマの近くを彼に案内してもらったが声掛けてくる人間が余りにも「ワル」が多く お付き前、どんな仲間と暮らしていたかよーく解った 続いてお付きとして入ってきた和田青児と入れ替わるように1988年「おまえさがして」でデビュー、順調に歌手としてスタートを切る だが彼の不幸は名前を売り出したのは「歌」ではなく「CM」であったことだ

「歌手の小金沢君」このCMが大流行するのは1992年のこと 「フニッシュコーワ」(口腔用ヨード剤) 「歌手の小金沢君が使っているフニッシュコーワ」が評判になりその年の新語・流行語大賞・大衆部門を受賞してしまう

その勢いで「おまえだけ」河合奈保子とデュエット曲「ちょっとだけ秘密」がヒットする その前に出した「ありがとう‥感謝」はロングヒット、他に「北の三代目」「南部酒」などのヒット曲がある

2014年 他の歌手とともに北島音楽事務所から暖簾分けの形で独立 「ジャパンドリームエンターテイメント株式会社」を設立、新たに再出発を図ろうとしていた2020年酒気帯び運転で逮捕、2022年コロナに感染 入退院を繰り返す 2024年 1月11日 呼吸不全の為 神奈川県内の病院で死去

莫大な借金が残されと聞く 彼と同じく暖簾分けで北島音楽事務所から独立したYさんは大丈夫だろうか

もんたよしのり、大橋純子と「弟子」たちの訃報が続く北島御大は

「縁あって出会い、今日までの泣き笑い、沢山の思い出を置いたまま旅立ってしまった  形あるものいつかは壊れ、命あるものいつかは終わると言われてもあまりにも66歳は若すぎる お前のことは忘れないよ ありがとう‥‥感謝」


白鷺だより(429) 朝日新聞「野球有毒論」キャンペーン

2023-02-26 17:52:07 | 近況

朝日新聞「野球有毒論」キャンペーン

まだ薄ら寒い沖縄に行き、やれ巨人だ、中日だ、広島だとキャンプ地を廻ったがそれにしても日本人は野球が好きなんだなとつくづく思った 朝早くから練習を観るためにだけ遠き沖縄に足を運ぶ人の人数は半端ではない 3月に入るとWBCに参加するために大谷がやって来たらさらにその熱はヒートアップするだろうし やがてそれが終われば日米共にプロ野球開幕となる そして選抜高校野球も始まる それにしても改めて日本人は野球がよくよく好きなんだなと思う

そんな野球に「有毒論」キャンペーンを張った新聞社がある

明治44年1911年8 月29日から9月22日まで東京朝日新聞が「野球と其有毒」と題したキャンペーン記事で2週間に渡って掲載した それは「野球は青少年に悪影響を及ぼし、学生にとって好ましくない活動である」という趣旨で著名人の野球批判や全国の中学校の校長へのアンケート結果などで構成されたものだったが著名人の豪華さに読者は驚いた

まず第一回の筆者が第一中学校校長の新渡戸稲造(そう、あの五千円札の)  新渡戸は自らの学校が野球部をもっており当時早稲田、慶応と並んで人気チームだったからである 新渡戸は「野球は賤技なり、剛勇の気なし」と決め打ち、相手を常にペテンにかけよう、計略に陥れよう、塁を盗もうなど四方八方に目を配り神経を鋭くしてやる遊びで米人には適するが英人や独人には決してできない と説いた あと中学校校長の意見として「全校生の学力低下」「徴兵に合格しない」「選手は悉く不良」、元陸軍大臣で学習院長乃木希典は「必要ならざる運動」と一刀両断だ

朝日新聞は反応の良さに気をよくして満を持して元早稲田のエース河野安通志に「旧選手の懺悔」なる河野が野球の有毒を懺悔する記事を載せた 河野はインタビューは受けたが新渡戸稲造批判しかしていないと記事は捏造であると抗議するが無視されライバル紙東京日日新聞に反論を投稿、それでようやく反論を掲載した(朝日は戦後サンゴ落書き偽造事件も起こす) この事件で発行部数を大幅に減らすことになる さらに「野球をやると利き手が異常に発達して片輪になるので有害」という説に異論を証明するため ライバル紙読売新聞主催「野球問題演説会」に出て両手で投げてみせた 河野はその後プロ野球設立に活躍した 

東京朝日新聞がこのようなキャンペーンを張った理由は大阪で部数を増やしてきた毎日新聞が東京に進出してきて危機感を感じたことが大きい  他には早慶戦が異常な人気で学生野球であるのに入場料を取っていること 無理に留年して職業にしている輩が多く現れたことなど学生野球に批判が高まったことなどが挙げられる

他のライバル紙は朝日に対抗して当然ながら野球擁護に走り、やがて読売巨人軍や毎日オリオンズのように後にプロ野球に参入することになる(他にはサンケイアトムズ、中日ドラゴンズ、がある)

大阪朝日新聞は東京のキャンペーンには乗らず東京の掲載が終わると野球に好意的な記事を増やしていき 4年後の1915年「国内野球を正しい方向に導くため」として全国中等学校野球大会を主催するに至る

 

 

 


白鷺だより(423) 初芝居歌舞伎座「十六夜清心」

2023-01-05 11:05:25 | 近況

初芝居 歌舞伎座 「十六夜清心」

明けましておめでとうございます 今年もよろしく

 NHKが初日を迎えた歌舞伎座より生中継で第3部を完全放送をしてくれた コロナで公演が三部制になったおかげである 勿論生中継であるからゲストコーナーをクッションに入れての放送であった ゲストは花組芝居の加納幸和と売り出し中の若手 坂東新吾である 途中、昨年売れに売れ歌舞伎座二部の「人間万事金の世の中」に主演に抜擢された坂東弥十郎がかけつけた

 さて幸四郎と七之助、ともに初役が売り物である「十六夜清心」であるが二人の熱演でいい芝居になった 黙阿弥らしいご都合主義のストーリーをリアルに演じて、特に七之助の悪党ぶりがなかなか良くその辺にいそうな悪女ぶりが見事だ

それに比べ清心の悪党、鬼薊の清吉は悪に徹していない 幸四郎の人となりにもよるのだろうが「今日ここ起こったことを知っているのはお月様と俺ばかり、人間わずか50年騒いて暮らすが人の徳地」「一人殺すも千人殺すも取られる首はたった1つ」と居直ったのだからもっと悪に徹して欲しかった その二人の悪への変化ぶりがこの芝居の見せ場なのだから 折角三部制になったお陰であんまり演じられない「鎌倉雪ノ下白蓮本宅」まで演じられるのだから勿体ない もちろんその前の二人が再会する「箱根地獄谷の場」があれば二人の悪への傾倒ぶりがタップリ描けるのに

忘れていたが俳諧師白蓮を演じた梅玉がいい味を出していた

弥十郎はこの白蓮を玉三郎、孝夫コンビの時に演じている すっかり舞い上がってしまい充分な芝居が出来なかったらしいが 今なら貫禄といい年齢といいビッタリだ ぜひ挑戦してもらいたい

 安政六年、市村座初演 江戸城御金蔵破り事件をモデルにしていたので幕府の命により35日間上演中止となった とある


白鷺だより(422) 絵沢萠子死す

2022-12-31 21:10:28 | 近況

絵沢萠子死す

 コロナというのは罪深い奴だ 亡くなるまで愛し合う夫婦が顔も合わせられない せいぜいタブレットによる画像を通して顔を見るのが許されてるだけだ だけどその相手が入院する前から年齢による認知症で顔すら判断出来ない状態ならばどうしょうもない 直接顔を見合ったり手を握り合う事が出来たなら又違った感情が湧くかも知れない そんな願いも叶わず絵沢萠子は12月26日旅立った 愛する「くっさん」を残して

絵沢萠子は中学生の頃から女優に憧れていた 県立西宮高校に進んでからも演劇部で文化祭で「修善寺物語」を披露した優秀な県西生がそうであるように当然のように近くの関西学院大学文学部に進学 卒論はテネシー・ウィリアムズ論であった 卒業後、さる会社に勤める傍ら「劇団くるみ座」の研究生となり「リチャード三世」で初舞台を踏む 1963年の事だった

1968年仕事を辞め、くるみ座も退団 劇団四季に合格したのだが新藤兼人監督の「強虫女と弱虫男」で映画デビュー、翌年上京、1970年「俳優小劇場」に入団 1971年関西芸術座出身のテレビ俳優でドラマ「部長刑事」で有名な「くっさん」こと楠年明と結婚する

1972 年 芸名を松田友絵から絵沢萠子に変えにっかつロマンポルノ、神代辰巳監督の「濡れた唇」、同年、同監督の「一条さゆり 濡れた欲情」と立て続けて出演、一躍脚光を浴びる その後NHK連続テレビ小説をはじめテレビドラマや映画にも進出  映画の代表作は崔洋一「月はどっちに出てる」や井筒和幸のデビュー作「行く行くマイトガイ性春の悶々」がある

旦那の出演してる芝居は可能な限り観に来られ、我々スタッフにも丁寧に挨拶をしてくれた その仲の良さはこちらが羨む程だった

 愛し合う二人が最後に会えない程辛いことはない 先月だったがさる芝居の客席てお会いした時奥さんの様子を聞くと「会いたいよう、でも会ったところで俺のことは判ってくれないんやな」と寂しく笑いながら言った だけど「今年中は持つと云われてるんや」とお聞きしたので年賀状を送らせてもらった矢先の訃報だった