mardinho na Web

ブラジル音楽、その他私的な音楽体験を中心に

大磯の朝焼け

2011-09-25 12:26:31 | 日常
大磯プリンスホテルで早朝に東の空を望むと三浦半島の向こうから太陽が昇ってきて、きれいな朝焼けができた。
窓を閉めたままだと静かだが、窓を開けると西湘バイパス(国道1号線)を走るバイクがまるでレースをしているかのように抜きつ抜かれつしていて、けっこううるさい。
11時頃に西湘バイパスを東(鎌倉方面)に向かうとパイパスが終わって国道134号線と合流するあたりから大渋滞で、最後はほとんど止まってしまった。カーナビによると、渋滞は1㎞ぐらいの間だけで、その先はすいているようなのでおおかた事故だろうと思ったら案の定、平塚市の交差点から先のところで事故の検証のために多くの警察車両が出ていて、東へ向かう車線は通行止めとなり、迂回をよぎなくされた。
後で調べてみたら、その日の午前7時過ぎに51歳の自衛官が運転するオートバイがトレーラーを抜こうとして転倒、自衛官が轢かれて死亡したとのことである。事情はよくわからないが、「年甲斐もなく公道上でレースやるなよ!」といいたい。

反骨の教養主義--『中村とうようアンソロジー』Music Magazine増刊(2011年10月)

2011-09-18 09:59:49 | world music
2011年7月21日に中村とうよう氏が亡くなった。立川の自宅マンションから飛び降りたのだという。
中村とうようの主宰するMusic Magazineを熱心に読んでいたのは中3から高校ぐらいのことなのでもう30年ぐらい前のことである。1970年代末から80年代初めの時期は、英米に集中していた日本の洋楽好きの関心が一気に世界へ向かった時期だった。レコード屋にかつては「民族音楽」というようなコーナーに適当に納められていたレコードが、「ワールドミュージック」として脚光を浴びる上で中村氏とMusic Magazineの果たした役割はとても大きかったと思う。私もブラジル北東部の音楽、レゲエ、アフロ・ポップ、ズークといった音楽を知ったのは中村氏とMusic Magazineの紹介を通じてであったと思う。ただ、1983年に東京に出てきてからはMusic Magazineもほとんど買わなくなり、中村氏の評論もほとんどみることがなくなった。要するに自分の好きな音楽を見つける手段が増え、人にあれこれ言われるのが嫌になったということかと思う。
中村氏の突然の訃報を新聞でみて驚いたが、そんな衝撃も再び忘れつつあった頃、本屋で偶然『中村とうようアンソロジー』を見つけた。中村氏を追悼して編まれたもので、1969年のニュー・ミュージック・マガジンの創刊から2009年に至るまでの中村氏の文章を一冊にまとめたものである。もちろんこれは中村氏の書いた膨大な数の評論、本、レコード解説等のほんの一部でしかない。しかし、年代を追って中村氏の書いたものを読んでいくと、中村氏の思想の変遷とともに、日本の洋楽(というか外国音楽)受容史のようなものを反映していて興味深い。
1969年のニュー・ミュージック・マガジン誌創刊の時は、中村氏の主たる関心は当時の新しいロックであって、ロックを研究するために雑誌を創刊したとある。ところが、1970年代に入るとロックを生み出したブルースなどアメリカの黒人音楽へ関心が移り、さらにそこからレゲエ、アフリカ、ブラジルへと関心が一気に広がっていく。(ここで一言差し挟むと、この時代は日本円の対ドル為替レートが急速に上昇していった時代であり、その結果、外国の原盤を元に日本でプレスされたレコードよりも輸入盤の方がかえって安くなった。世界の音楽を安く輸入できることで日本の洋楽愛好者の関心も世界へ広がっていったのである。)1980年代後半になると中村氏の関心はインドネシア、パキスタン、中国・台湾、ケルト、ブルガリアと非黒人世界にも広がっていく。
通読すると、中村氏の思想的な特徴がなんとなく感じられる。それは一言で言えば「反骨の教養主義」とでも言えそうだ。「教養主義」というのは、知識人たるもの必ず読んでおかねばならない本というのは決まっているという立場だが、ここではその音楽版を指す。「私は音楽が趣味です」と、形容詞なしで言ってのける人はだいたい音楽版教養主義者で、この場合の「音楽」とはもちろんサンバでもレゲエでも演歌でもなく、まず間違いなくモーツァルトとベートーベンを指している。こういう音楽版教養主義者にとって聞くべき音楽とはバッハ、モーツァルト、ベートーベン、ブラームス等と決まっており、彼らはクラシック以外はそもそも音楽だとは思っていないから、形容詞なしの「音楽」が趣味だと言えるのである。一方、音楽版教養主義にはジャズ版もあり、そういう人々にとってジャズで必ず聞いておくべきはチャーリー・パーカー、マイルス、コルトレーン等ということになる。中村氏はこういう正統派の音楽版教養主義を徹底的に嫌った人だ。クラシックにしろ、ジャズにしろ、音楽版教養主義が必須科目として挙げるような音楽を意識して避け、そうした教養主義が取り上げないような音楽のすばらしさを説いた。根っからの反骨主義者である。
だが、思考の枠組をみたとき、中村氏は正統派の教養主義に徹底して反発したが、その立場はいわば裏返しの教養主義、ないしは反骨の教養主義だったように思う。つまり、世界の音楽の中で一番素晴らしいのはモーツァルトとベートーベンではなく、クロンチョン(インドネシアの歌謡)のエルフィ、ジュジュ・ミュージック(ナイジェリアの音楽)のサニー・アデ、カッワーリー(パキスタンの宗教音楽)のヌスラットである、とやはり聞くべき音楽のリストが次第にできあがってくる。それはそれでやはり一つの教養主義であったように思う。
そして、それが私が中村氏の書くものから遠ざかった原因である。音楽を聴くのに割くことのできる時間も金銭も限られているなかで、音楽の教養を涵養するよりも、自分がいま聞きたいものを優先するようになる。正統派の音楽版教養主義を相対化する上で中村氏の果たした功績は大変大きいが、その代わりに真の世界音楽の教養主義をうち立てようとするかのような中村氏の壮大な試みは最初から無理であったように思う。それは一国限定の「芥川賞・直木賞」が読書ガイド足りえても、グローバルな「ノーベル文学賞」がおよそ読書ガイドとしては意味がないのと同じことである。各々の国や社会、そして時代のなかで存在している大衆音楽を、その社会や時代から切り離し、グローバルな土台に載せて比較しようというのは最初から無理があったのではないか。

佐野眞一『東電OL殺人事件』新潮社、2000年

2011-09-17 00:56:03 | 
福島第一原発の事故が起きて、東京電力という企業の病理があまねく知られるようになった。
そうした時、私の脳裏を1997年に渋谷で起きた東電OL殺人事件がかすめていった。被害者の女性は父親も東電の幹部社員で、本人も東電の社員であることを強く誇りに思っていたという。
そうしたら今度は事件の容疑者として逮捕され、無期懲役の判決を受けて服役中のゴビンダ受刑囚とは別の人物と被害者が殺害現場で接触した可能性を示すDNA鑑定結果が出てきて、冤罪事件だった可能性が出てきた。
そこで改めて佐野眞一氏の『東電OL殺人事件』を読み直してみた。佐野氏はネパールまで取材に行って様々な証言を集め、ゴビンダは無罪なのではないかと推測している。被害者となった東電OLの謎の行動についても方々の関係者に取材して、その心理の分析を試みている。容疑者と被害者の関係先をあまねく踏破するかのように徹底して取材した傑作だと思った。本書は一審で無罪判決が出たところで終わっている。だが二審で逆転有罪となり、勾留期間も含めて以来14年もゴビンダはとらわれの身となっている。本書を読むと警察がいわゆる「不法労働者」だったゴビンダを最初から犯人だと決めつけるような予断に満ちた捜査を行った姿が浮かび上がってくる。ゴビンダを犯人として有罪にできれば、日本で「不法」に働いている外国人たちに「日本は冤罪で捕らわれる恐ろしい国だ」と思わせることができ、彼らを日本から遠ざけることができて、治安がよくなるとでも思ったのだろう。
最近になって事件を見直す気運が起きていることは、福島第一原発の事故処理と被害補償などで東京電力の財務状況が悪化し、これまで東電が湯水のように使ってきた様々な「対策費」が使えなくなったことと無関係なのだろうか?

福永武彦『別れの歌』『遠くのこだま』『夢のように』(福永武彦全集・第14巻所収)

2011-09-06 22:03:51 | 福永武彦
 暇にあかせて、いや暇でないのに、福永武彦のエッセイ集3冊を立て続けに読んだ。これだけ読むと福永の人となりがだいぶわかってきた気がする。作家だけで生活しようとすると原稿料稼ぎのために意に染まぬ原稿も引き受けなければならないので、それが嫌で、世過ぎの手段として大学教員もやっている。なので仕事を依頼されてもけっこう断ってしまう。特に講演はほとんど引き受けない。そんなわけで、割とヒマであると自認し、怠けたり、昼寝したりし放題だ、と言っている。この辺は多分に偽悪的な書き方をしているのだろう。
 カンにさわることに対しては強くいらだち、かつ執拗である。最初のエッセイ集を出したのは要するに隣家の問題について書いた文章を発表したいがためであった。それ以外の場でも隣家の違法建築問題について書いていたようだが、さすがに5年経って『夢のように』を出す頃には、隣家問題についての文章を公刊することが恥ずかしくなったのか、そこの部分を削除している。好きな文学・芸術以外のことについてはよく調べて書いたりはしない。若い頃に足かけ8年結核療養所に入っていたほか、終生何かしら健康問題を抱えていたため、まめに取材したり調べものをしたりする体力的な余裕がなかったのだろう。
 ところで、福永が1969年に買った成城の住まいが終の棲家だと思っていたが、『夢のように』のあとがきを読んだら、そうでないことがわかった。実はこのあとがき執筆時、すなわち1974年7月に、福永は「目と鼻の距離」のところに家を新築している。なるほどあれは福永の最後の住まい(もしくはその場所)だったのか・・・。引越の経緯については「いずれ書くこともあろう」と言っているが果たして書いたのだろうか?

福永武彦の旧居を訪ねて

2011-09-04 15:26:24 | 福永武彦
福永武彦は1969年に最初の随筆集『別れの歌』を出したが、それを出した動機として、自宅の隣に違法建築ができて苦労している話を書いたエッセイを雑誌に寄稿したのにボツになったので、それを世に出したかったから、と書いている。さて、その問題の自宅というのはどこなのか、その隣にできつつあった違法建築というのはその後どうなったのか、我が家からそれほど遠くでもないので訪ねてみた。『別れの歌』などによれば、福永は清瀬の療養所を出た後、杉並区方南町など7回転居した末、当時住んでいた場所の近所にできた建売住宅を購入した。そこに福永は亡くなるまでの10年間居を構えていたはずだ。その場所とは、世田谷区成城の某所であるらしい。
さて、東京23区の端に位置するこの場所は、表通りから少し裏へ入ると畑や栗林がところどころにあって、なるほど静かな所を好んだ福永らしい。『別れの歌』によれば、広い土地に余裕を持って建てられた二軒の住宅の一つを福永が買った後、その間に割り込むように巨大な住宅が建設され、その結果、三軒ともに建蔽率が基準を超えてしまったのだという。そしてその割り込んで建てられた家では医院が開業される予定であった。調べた福永の旧居の地番を目指して行ったところ、同じ地番に4軒の一軒家が並んでいた。どこにも医院はない。ただ、一軒は確かにかなり大きく、医院を開業しようと思えばできる規模である。さてはその隣にある3軒のどれかが福永の旧居だったのか? ただ、なにしろもう40年以上前のことなので、もう建物自体は立て替えられたのだろう。『別れの歌』によれば、自宅の「二階の窓からは武蔵野を思わせる竹林や欅の老樹が見え」とあり、実際、裏手には林があって、川に向かって急な下り坂になっており、散歩するにはよさそうな環境である。


百日紅は見つからなかった

2011-09-01 15:17:49 | 福永武彦
福永武彦は昭和22年から28年まで結核のため東京・清瀬の東京療養所に入っていた。福永の数々の作品や随筆のなかで「サナトリウム」という名で登場する。
その場所は今では国立病院機構・東京病院となり、いろいろな診療科を有する総合病院となっている。ただ、病院の裏手に回ると広大な林が広がり、昔日の結核療養所だったころの面影が感じられる。福永が入院していた頃、結核の特効薬がなく、「大気、安静、栄養」が結核治療の主軸だったとのことで、病状が好転した患者は外気舎と呼ばれる二人で一軒の小屋に入って歩行療法や作業療法を受けた。その頃の外気舎の一つが「外気舎記念館」として病院の裏手にひっそりと残されている。
東京療養所での体験を元に書かれた『草の花』の冒頭は次のように始まる。
「私はその百日紅の木に憑かれていた。それは寿康館と呼ばれている広い講堂の背後にある庭の中に、ひとつだけ、ぽつんと立っていた。」
この百日紅の木が東京病院の隣にある日本社会事業大学の敷地内に移植されて現存するというので行ってみた。
ところが構内を一周してもいっこうにそれらしい木が見あたらない。この季節、百日紅は花を咲かせて目立つはずだと思って見てみたが、一本の百日紅も発見できなかった。
そこで百日紅の所在地が書いてある記事を大学の図書館のパソコンで見つけだして再度それらしい場所に行ってみたところ、何やら木を抜いた跡らしい場所があった。

百日紅の木は枯れて抜かれてしまったのかもしれない。いつ撮ったのかわからないが、ネット上の写真によるとむかしこの場所は下草がきれいに刈られていて百日紅の木の横には福永の文学碑のようなものも立っていたようだが、今は草が伸び放題であった。