*村ちゃんの古城跡散策!

村ちゃんの城跡写真の紹介!

*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *刎(はね)橋・「森武蔵守長可(ながよし)」 !     *岐阜県可児市編!

2018-02-15 | Weblog

      

はね橋跡・至可児兼山城へ 現はね橋

 

  

中央山頂土田城    可児川渓谷

 

        

はね橋跡        現はね橋

 

  

はね橋より土田城  はね橋跡   

*森武蔵守長可(ながよし)の首・通行不可! 「刎(はね)橋」!      

*岐阜県可児市土田4683-2

小牧・長久手の戦いで敵方の流れ弾が「鬼武蔵長可(ながよし)」の眉間に当たり討死。

家臣達は、遺体を居城の兼山(美濃)に運んで、手厚く葬ろうと決定。

しかし長久手から北え向かうには、家康の本陣がある小牧の下を通らねばならなかった。

この難関を突破するため、遺体の胴と首を分けて、まず胴を埋め首を大切に抱えて、

犬山から石原土田へ間道を抜けようとした。処が、土田城主「生駒氏・(徳川方)」が、

ここを通るに違いないので、それを横取りして、徳川家康に差し出そうと待ち伏せていました。  

遺体は木曽川手前の土田の、刎橋(はね)の見える所までやってきたとき、見張りが

飛んできて「刎橋」(はね)に、敵の一団がいるために通れない事を知らせた。

*「刎橋(はね)」とは? 

*(必要なとき以外は、綱で吊り上げて通れぬように考えた橋!)

小牧山の難関は胴を捨てて、首だけにする事によって通れたが、刎橋(はね)を、

落とされては兼山へ帰ることが不可能。そこで涙をのんで「石原の真禅寺」に戻り、

首を浦山に丁寧に葬った。この後「森忠政(長可(ながよし)弟(後・備中・津山

城主・森忠政公)が跡を継ぐと、長可(ながよし)の妻は、自ら二児を連れて、

「真禅寺」のある「石原地区」に、移りすんだと言われている。       

(可児市教育委員会)説明板より。

  

  

  

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿