*村ちゃんの古城跡散策!

村ちゃんの城跡写真の紹介!

*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *壬申の乱(関ヶ原の戦い)!     *岐阜県不破郡関ヶ原町

2018-05-30 | Weblog

    

兜掛石案内板        不破関庁舎跡

 

  

兜掛石                   兜掛石

                                                     

    

靴脱石                     靴脱石

 

     

不破関跡             東山道左側「中山道」

 

     

藤古川説明板       合戦場所跡

 

    

壬申の乱説明板    合戦場所付近

 

        

自害峯案内板       黒血川説明板

 

     

自害峯                      三本杉 

                                                       

  

自害峯                 三本杉碑 

*壬申の乱は弘文元年(672年)天智天皇(中大兄皇子)の後継を巡って起きた,

「天下分け目」の戦い!

当時の兄弟継承という慣習を無視し、近江朝廷の政権を握ったのは、

天智天皇の息子である「大友皇子」。

これに対して天智天皇の実の弟大海人皇子が、反乱を起こしたと言われています。

まず「大海人皇子」は「村国男依」らを美濃へ遣わし交通の要所である不破道を抑

え東国を掌握。野上行宮へと進んだ「大海人皇子」は軍を指揮し、

不破関の藤下(とうげ)を挟んで「大友皇子軍」と「大海人皇子軍」が対立。

弘文元年(672年)7月1日には玉倉部邑で壮絶な戦いが繰り広げられました。

7月22日に大津(滋賀県)の瀬田橋の戦いで最終決戦がおこなわれ、

「大海人皇子軍」が勝利し、翌日「大友皇子」は自害し、三本杉の下に眠っている

と言われています。

不破の関付近*自害峯・三本杉

(大友皇子首塚・25歳)

                 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *新説!関ヶ原合戦「石田三成陣跡」!    *岐阜県不破郡関ヶ原町藤下(とうげ)!

2018-05-29 | Weblog

    

新説三成陣跡    陣跡

 

   

三成陣跡        登り口付近碑

                                       

         

三成陣跡地図     陣跡地図

 

     

登り口                   三成陣地跡・地図

*最近のBS番組「諸説あり」で関ヶ原合戦の一次資料による見直しをリードする

「高橋陽介」氏が、「石田三成」陣は「笹尾山」ではなく「自害峯」にあったとの

新説を披露していた。自害峯は、関ヶ原の西、不破の関跡に近い場所にある小山で

あると主張していた。番組の紹介によれば「高橋氏」はまず一次資料のなかから、

「石田三成は自害ヶ岡に陣を置いた」との、記述を発見。

自害ヶ岡は現在の自害峰に当たると、推定し現地を調査して土塁削平切岸などを、

造営した跡があることを確認したという。

新説・石田三成陣地跡

 

新説・石田三成陣地跡

 

*(高橋陽介氏)論文!

 

*(白峰旬氏)検証文!

 

*新説! (石田三成陣跡・地図)


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *二川宿・本陣跡(旧東海道)!     *豊橋市編!

2018-05-18 | Weblog

*旧東海道・二川宿・本陣跡!    

住所=豊橋市二川町字中町65

   

本陣跡碑     本陣資料館前

*二川宿の遺構は、江戸時代後期の文化4年(1807年)から約60年間、

本陣をつとめた「馬場家」の遺構で、邸内には江戸時代の土蔵屋、主屋、玄関棟、

表門が残っています。

    

 二川宿版画     版画

    

旧東海道        脇本陣跡

  

  

 脇本陣・説明板  東駒屋・味噌・醤油業

*脇本陣は本陣の利用が重なった場合、その補助的な役割を果たしました。

その格式は本陣に次ぐものであり本陣と同様にその経営な宿場の有力者があたり、

二川宿の脇本陣は「松坂家」がつとめいました。

文化4年(1807年)以前にはこの地に後藤家・紅林家の本陣がありましたが、

文化4年(1807年)、本陣職が「紅林家」から「馬場家」に移った際に、

本陣建築のため、こと街道の南側にあった脇本陣ほこの地に移りました。          

(東海道五十三次中33番目・二川宿・広重画)

 *豊橋市二川町と大岩町は、江戸時代に二川宿として、東海道五十三次中、  

  33番目の宿場が置かれていました。 

  本陣と脇本陣各1軒、家数306軒、人数1289人でした。

 

 


*村ちゃんの歴史ぶらり旅!     *「稲沢の歴史を知ろう」・「尾張総社・国府宮」!(雅楽演奏・稲沢雅楽会)!     *愛知県稲沢市編!

2018-05-05 | Weblog

*「稲沢の歴史を知ろう」・「尾張総社・国府宮」・講演会」 

 主催者=稲沢郷土史研究会 代表者=松田文夫氏

*尾張大國霊神社「おわりおおくにみたまじんじゃ」(国府宮会場)

   (雅楽演奏・稲沢雅楽会・代表者=吉野逸男氏・他4名)!

        

講演案内板  講演会場

 

         

主催者・稲沢郷土史研究会・松田文夫氏)

 

        

講演会場           講師国府宮宮司・松田正之氏

 

       

稲沢雅楽会     雅楽演奏

 

       

雅楽演奏        雅楽演奏 

 

   

巫女舞       巫女舞

 

(稲沢雅楽会演奏者メンバー)