マオ猫日記
「リヨン気まま倶楽部」編集日記
 



(写真)リヨン南郊ヴェニシューの街

その1に戻る

 ところで、こうした教訓を受けて私達が考えるべきことは、仮に今後、在日外国人問題に関して日本がどこかで政策を誤れば、近い将来、日本においても類似の事件が絶対に起きないとは言い切れない、ということではないでしょうか。

 今日人々が受ける一般的な印象とは異なり、1868年に近代化をスタートさせてから長い間、日本は、国内の過剰人口を減らすべく、非熟練労働者を海外に送り出す「移民輸出大国」として知られていました。農村における貧困から脱出すべく、最初の移民が政府の契約に基づいて海外(ハワイ)に出たのは実に明治維新の年、1868年でしたが、その後も農村からは日本の大都市、北海道、そして海外へと人口流出が続きました。海外移住に関しては、当初は行き先としては北米(特にハワイとカリフォルニア)が多く、次いで1898年から奴隷制を廃止して同労力不足に直面していたブラジルがこれに続きました。20世紀に入ると、北米での移民排斥運動もあって行き先は南米へ、そして1940年代前後からは満州国へとシフトしましたが、この傾向は戦後も1970年代まで続き、彼らは全世界で併せて250万人の日系人社会を形成しました。政府としてもこうした形での過剰人口削減は重要な政策と考えられており、例えば戦後には、外務省に領事移住部が設けられ、その下で特殊法人・海外移住事業団が移民の援護事務を担当していました(その後、海外移住事業団は1974年に海外技術協力事業団と統合され国際協力事業団(JICA)に、更に2004年には独立行政法人国際協力機構になりました。横浜の「海外移住館」をJICAが管理しているのはそのためです)。
 その結果、この時期の日本は、外国人労働力を何ら導入することなく、あの驚異的といわれた高度経済成長を成し遂げることができたという経緯があります。これは、主要先進国としては異例のことで、例えば当時フランスドイツといった欧州の主要先進国は、人口動態や産業構造の変化で労働力不足に悩み、近隣諸国から労働者を大々的に導入しなければなりませんでした。しかも、そうして鳴り物入りで導入され経済成長を支えたた外国人単純労働力も、1970年代の経済停滞で中止されて以降はむしろ「邪魔者」扱いされ、帰国奨励政策が行われたり、企業のリストラに際して真っ先に解雇されたりして、これが現在に通じる移民層を形成しました。無論、当時のフランス、ドイツ政府とも、大量の外国人労働力の導入がもたらす社会的変化を警戒し、二国間協定に基づいて導入国を選別したり、在留資格を制限して一定期間の在留の後は母国に帰還させ、定住を防ぐといった政策を実施していました(こうした政策は「回転ドア」政策とも呼ばれる)。しかしながら、こうした「定住防止政策」は、移民送り出し国における労働状況の悪さと送り出し圧力(国に戻っても職にありつける保障はなく、またありつけたとしても給与水準がフランスより下がるので、外国人労働者にとっては帰国するインセンティブが無い)、長期滞在を求める企業側の要請(数年毎に全くの新人を受け入れるより、同一人物を長い間雇用して仕事に熟練させたほうが効率的)によって事実上骨抜きにされ、仏国籍法が帰化を容易に認める(例えば、仏人と結婚すれば1年で国籍取得可。これに対し、日本では、日本人と結婚しても「日本人の配偶者」という最大3年の在留資格(更新可能)が得られるのみで、帰化するには5年以上の在住といった法務省の定める細かい条件を満たすことが必要。)こともあって、定住化は不可避となりました。
 翻って、日本では、1970年代までは、価な労働力を導入するために外国から移民を受け入れるといったことは、全く想定外のことでした。唯一、この時期に日本に定住した外国人はいわゆる「オールドカマー」と呼ばれる旧植民地出身の韓国人と台湾人たちで、特に1940年代に入ると、戦時動員で軍需生産に従事する労働力が不足した日本本土に多くの韓国人労働力が導入(当初は政府の公募、後に法令に基づく動員)されました。現在では、合計60万人以上の在日韓国・台湾人とその子孫が日本に暮らしています。

 ところが、日本の国内労働市場が飽和し、また企業の経済活動が国際化しつつあった1970年代から80年代にかけて、多くの日本企業が、安価な労働力として外国人を少しずつ雇用するようになりました。当初は「研修生の受け入れ」という形をとっていましたが、程なくして不法滞在者の雇用もはじまり、「3K」と呼ばれた仕事を担うようになっていきます。またこの時代は、当時石油ショックに伴う中東産油諸国の経済的停滞で、そこに出稼ぎに行っていた東南アジアの人々が帰国を余儀なくされていた時期と重なったため、中東に代わって日本が新たな出稼ぎ先として注目されるようになっていました。こうした流れを受けて、政府・国会でも、外国人導入の是非について「開国か、鎖国か」といった形で議論がされはじめました。

 一連の議論の結果、政府が採用したのが、「専門的、技術的分野の外国人労働者は積極的に受け入れるものの、いわゆる単純労働者の受け入れについては慎重に対応する」という方針です。これは1988年に閣議決定された「第六次雇用対策基本計画」に盛り込まれ、続いて1989年の出入国管理及び難民認定法の大改正(専門的技術的労働者に対応するため在留資格を増加、不法就労防止のため「不法就労助長罪」の新設
)に反映されていますが、政府の基本方針とは裏腹に、実際の旺盛な労働需要に答えるべく、職を求める非熟練外国人労働者の人波が日本列島を襲いはじめることになります。前述の「オールドカマー」と区別して「ニューカマー」と呼ばれるこれらの人々の中には、南米に移住した日本人の子孫で「定住者」という在留資格(最大3年間の在留(更新可能)、無制限の就労可)を認められた日系二世、三世(これらの人々は、当時、「他の外国人よりも日本社会に溶け込みやすいだろう」という観点から、上記「基本計画」の例外として、単純労働者としての在留・就労が認められた)や、「研修生」の在留資格で限定的な非熟練労働が認められた中国人等の他、査証や在留資格が得られなかった多くの不法入国者・不法就労者も含まれていました。フィリピン人の多くは「興行」という「専門的・技術的」在留資格で日本に入国しましたが、その実態は「興行」というよりはサービス業で、飲食店や居酒屋、更には風俗営業で働く単純労働力でした。
 しかも、こうした外国人労働者は、1990年代のバブル崩壊後の不景気にあっても出身国に戻ることはなく、賃金や労働条件の低下に耐えながらなお日本に残留し続けました。これは、1970年代の独仏の状況に似ていると言えます。即ち、彼らとしても日本が不景気になったからといって、日本より更に経済状況が悪い出身国に帰ることは得策ではなく、むしろ家族を呼び寄せる等して定住する方向に向かっていったのでした。こうした日仏の状況を踏まえれば、いかに厳格な入管法制を準備し、外国人労働者の定住を奨励しない政策(「回転ドア」政策)を採用したとしても、一旦彼らが入国して労働力として日本経済に取り入れられるようになれば、不況期になってこれを解雇・帰国させるということは現実には不可能だということが理解されると思います。これは、外国人労働者が単なる経済上の労働力ではなく、基本的人権と社会的な実体を持った人間である以上ある意味当然のことで、使用者の雇用事情によって軽々
に導入・採用したり解雇・排除したりするのには無理がある訳で、そこを無理やり帰国させたり、在留は認めても「単純労働力だから」ということで失業を放置したりすれば、最終的には都市暴動のような形でその矛盾が噴出すことになりかねません。

 今日、日本では、合法、不法併せて76万人を超える外国人労働者が働いており、うち4分の3は非熟練労働に従事していますが、これは日本の全労働人口の約1.1%にあたる数です。これらの外国人労働者とその家族の多くは日本社会に比較的上手く溶け込んでいるとはいえ(もっとも、フランスの場合とは異なり、帰化=日本国籍の取得はかなりハードルが高い)、不法就労や外国人犯罪の増加、外国人差別、あるいは社会保障や子女教育の振興といった在日外国人を巡る問題は、フランスと同様、解決すべき課題として残されています。加えて、少子高齢化の進展に伴う労働人口の減少や国際的な労働力移動の自由化の流れ(FTAなど)を前に、現在、日本では外国人労働者の更なる導入にむけた議論が経済界を中心に再び脚光を浴びつつあります。ある経済学者によれば、移民を導入することによる厚生(経済的利点)は導入に伴う欠点を上回らず、むしろ生産拠点のほうを海外に出したほうがより効率的なのだそうですが、製造業のように海外進出してそこで現地の労働力を雇用できる場合とは異なり、一定のサービス業(最近議論されているものでは、福祉・介護職員)はそういう訳にもいかず、やはり外国人労働力を日本に持ち込む必要が出てきます。

 以上見てきたように、現在の日本はフランスの状況を30年(見方を変えれば100年)遅れて後追いしようとしており、それだけに外国人問題を巡るフランスの状況はもはや日本にとっても他人事ではなくなりつつあります。これまで日本でこうした外国人問題がフランスほどには大きくならなかったのも、地方公共団体等による社会統合への援助や在日韓国人問題に絡んだ在日韓国人の方々の運動(更には、在日韓国人をはじめとする「オールドカマー」の日本社会への統合)が大きな役割を果たした事は事実ですが、他方で、そもそも在日外国人の規模が欧州諸国ほどには大きくなく、問題が顕在化していなかっただけ、と考えることもできます。
 
いずれにせよ、今後、移民受け入れ「後発国」である日本が外国人労働力の一層の導入を目指すのであれば、今回のような集団暴力事件が発生することのないよう、フランスあるいは欧州における移民の社会統合を巡る先例をしっかり検証し、できるだけ多くの教訓を得てこれを実際の政策に反映させることが必要不可欠ではないでしょうか。

(※フランスにおける移民については、このエントリーも併せて御覧下さい。)



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )



« 寿司祭!(M) フランス都市... »
 
コメント
 
 
 
TBありがとうございます (じぇいむず)
2005-12-07 21:22:21
興味あるフランスの暴動事件について拝読させていただきました。

やはり、現地と外国(日本)では受取り方が違うものだと、改めて感じました。

よく東南アジアへ行くのですがインドネシアやミャンマーなどはテロや政府が不安定なこともあり、日本の報道ではさも危険なような報道をされていますが、実際はかなり異なる場合がほとんどで、気を引き締めて訪問すると「なんじゃこりゃ」と気が抜けてしまうことしきりです。

また移民問題は日本にとっては重要です。

私個人は単純労働者の外国人雇用には反対で、治安を乱す一番大きな原因のひとつであると考えています。

しかし、現実は複雑な事情が絡み合い、難しいところですが。
 
 
 
じぇいむずさん (菊地 健(マオ猫日記))
2005-12-08 15:18:03
 コメントありがとうございました。



 今回の事件を巡る報道では、日本のマスコミは単にいつもの如く(?)ある種のセンセーショナリズムで報道していたんだと思いますが(緊急事態宣言やリヨン中心街の暴動に関する記事にしても、外信を転載しているだけで警察や現地大使館等に独自取材した印象がない)、英米メディアのほうは、あるいは多少「そらみたことか」的な気持ちがあって取り上げ方が大きくなったのかもしれません。



 私も海外に出るときは治安情報には注意しますが、日本の報道よりは外務省の海外安全情報のほうを注意します。何しろ、前者は概ね外信の転載ですが、後者は一応現地に人を貼り付けた上での情報ですから。



 外国人単純労働者の導入については、私もどちらかというと慎重論ですが、一番避けなければならないのは単純労働者の「使い捨て」的導入で、これではご指摘のように外国人の地位を不安定にし、治安を悪化させるだけになります。「いいとこどり」は実際はできないのであって、従来の政府方針通り導入は技術的労働者のみに絞るか、仮に単純労働者を導入する場合はそれなりの労働条件、社会福祉条件を整えた上で彼らが社会統合しやすいような形で実施すべきだと思います。



 それでは。

 
 
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。