読書日記と読書ノート 第三部(2013年6月~2015年6月) 吉野三郎

退職してから読書中心の生活をしています。読んだ本の感想を日記に記し、要点をノートに書いています。その紹介です。

116、丸山眞男講義録 第一冊(1948年)-その2-(2/5)

2017-02-23 06:34:57 | 読書記録

(1)日記から-つづき-

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講義録を読了。儒教は人倫の教え。政治の目的もそこにあって、人々を教え教化することにある。その具体的な徳目が五倫五常。朱子学はこれを哲学的に体系化した。宇宙と自然・人間界を貫く究極の理があり、この理が具体的な姿となって現れるときに作用するのが気。濁った気を浄め、本来のあるべき姿-本然の性-に帰るのが、人の踏むべき道となる。そこに導くのが政治の役割とされる。これに対して徂徠は、政治を道徳から切り離した。政治は治者の統治の術。その術は聖人が定めた。聖人=聖王が定めたがゆえに従うべき規範となる。内容ではなく、誰が定めたかが妥当根拠となる。こうして政治は倫理から切り離され、かつ人為的営みとなった。宣長は政治から切り離された人間の心のあり様を問うた。儒教が説いた五倫五常のような規範に縛られず、心・感情のあるがままの発露を貴び、これを大和心と名付けた。あるがままの心は和歌にもっともよく表現されている。ここから宣長は万葉、古今等の文献学的研究に進む。社会や政治のあり方については、記紀神話をそのまま歴史的事実と信じるほかは、ただ現にあるものをそれとして尊重する立場だ。それぞれの時代のあり様はそれぞれに理(ことわり)がある、として受け入れる。歴史的相対主義。儒教の普遍的な道の理念は斥けられる。文学や美術などの文化を政治から独立した価値あるものと位置付けながら、政治についてはひたすら現状肯定。これが宣長。ところが、宣長の心情重視が政治に逆投射されると平田派のようなファナティズムを生む。丸山が強調するのは否定に媒介された統一=発展。室鳩巣の治者をも拘束する法の意義づけを、絶対君主による否定を経たうえで、近代立憲主義によって統合する、という論理。矛盾を含みながら相互媒介的に運動することによって歴史が作られる。ヘーゲルの弁証法だ。この思考法を学ばなければならない。

 (つづく)


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