読書日記と読書ノート 第三部(2013年6月~2015年6月) 吉野三郎

退職してから読書中心の生活をしています。読んだ本の感想を日記に記し、要点をノートに書いています。その紹介です。

63、アナトル・フランス「神々の渇き」(岩波文庫)

2016-10-31 07:18:56 | 読書記録
(1)日記から
・2013年12月18日(水)
昨日、今日で「神々の渇き」を読了。フランス恐怖政治時代を舞台にした歴史小説。そんなに感銘は受けなかった。訳者解説を見ると、この小説が反革命的かそうでないかが議論になったらしい。不思議。王政か共和政か、ということなら、明らかにA・フランスは共和派だ。が、唯一の政治的価値を信奉し、これに違うものをことごとく抹殺する恐怖政治、もっと一般的に言えば、政治的価値の絶対化に、A・フランスが反対していることは明らかではないか。

(2)ノートから
人間は徳の名において正義を行使するにはあまりにも不完全なものである。されば、人生の掟は寛容と仁慈とでなければならない。

(了)

62、花田清輝「復興期の精神」(市立図書館から)

2016-10-30 07:06:39 | 読書記録
(1)日記から
・2013年12月9日(月)
花田清輝の「復興期の精神」を少し読んだ。復興期というのは戦後の復興期のことではなく、文芸復興期、つまりルネッサンスのことだった。そうと知っていたら、図書館から借りてきたか。
・12月15日(日)
「復興期の精神」を少し読んだ。文学的表現というか、警句のような言葉が多くて意味を理解しかねるところがある。こういうスタイルは好まない。わかりやすい表現が良い。
・12月16日(月)
「復興期の精神」を読了。おそらく、この人も(俺と同じで)金の才覚はなかっただろう。精神のあり様における人間だけを考察した。文学的表現は好まないと書いたが、読んでいくうちに胸に刺さる言葉がいくつかあった。


(2)ノートから
①無知からは素朴さは生まれない。ほんとうの素朴さ-そうして、ほんとうの謙虚さ-は、知識の限界を究めることによって生まれてくる。
②思想の強度は視覚の強度に依存する。
③絶望だけがわれわれを論理的にする。
ガロア
組織が成り立つ場合、人間という概念はすでに実体概念から関数概念へと置き換えられているのではないか。それならば、組織を人間的結合と呼ぶよりも、むしろ非人間的結合と呼んだ方が適切であろう。
アンデルセン
孤独とは、それがいかなる表現形態をとろうとも、すべてエゴイズムの所産に他ならない。
ソフォクレス
いったい、生まれて、次第に年を取って、もうろくしてしまうほど馬鹿げたことがあるであろうか。
ヴィヨン
人間の精神には矛盾する(アンビバレントな)二つの中心がある。

(了)

閑話1 三陸海岸をまわりました(友人へのメール報告) (10月28日、記)

2016-10-29 08:17:42 | 閑話
3時間ほど前に、家に着きました。柳田国男の「遠野物語」の舞台=岩手県遠野市を朝8時に出発して、花巻から東北自動車道を南下し、雨をついで9時間、距離にして850kmを走破して帰ってきました。往復1700kmを三日かけて廻った計算です。26日(水)にこちらを発ち、圏央道から常磐自動車に入って、ひたすら北上。福島原発の脇を通ったときには、道に設置された放射線の計測器は一気に10倍に跳ね上がりました。車の通行量も少なく、深閑とした感じを受けました。宮城県に入り宮城野原から仙台空間にかけての地域は、建物も何もなくただ一面に平地が広がるだけ。復興計画も緒についていないようでした。一日目の宿は松島海岸駅の近く。土産物店街や五大堂などの観光スポットは観光客であふれていました。それにもまして密度が濃かったのは交通量。車の列が切れず、横断することもままならない。ダンプやミキサー車がひっきりなしに通り、まるでダンプ街道。二日目は、三陸海岸沿いを岩手県の釜石まで北上し遠野へ。R45線沿いの三陸の港町や住宅街はすべて津波で洗われ壊滅しました。5年経った今どうなっているか。海岸線のいたるところで、盛り土工事や海岸堤防工事が行われていました。山側はあちらこちらで斜面を削って宅地造成工事。東北一帯のダンプやブルトーザやクレーン車をすべて集めたような、ものすごい工事です。道路から見える人家の数よりもダンプの数の方が間違いなく多い。松島海岸で見たダンプとミキサー車はこれでした。ヘルメットを被った作業員は目にしても、住民と思しき人はほとんどいませんでした。今、被災地では復興のための大土木工事が金と重機の力で猛烈に進められています。5年前の鎮魂の時と空間は、今はダンプと重機のけたたましい音に変じました。これから5年経ったときにはどんな姿になるのか……。自分の目で見たいと思って出かけた三陸旅行でしたが、実際に行って見ると、自分とはどうしようもなくかけ離れた世界だと思わざるを得ない現実がありました。
 宿泊ホテルから眺めた遠野の朝は雲が立ち込め、ひっそりとしたたずまいで5年前と変わりありませんでした。

(了)

61、ジェイムス「哲学の根本問題」(市立図書館より)

2016-10-27 06:30:00 | 読書記録
(1)日記から
・2013年12月11日(水)
市立図書館から借りてきた「プラグマティズム」の中の、ジェイムス「哲学の根本問題」をやっと30頁読んだ。この手の本にしては易しく書いてあるけれど、それでもとっつきにくい。イヤイヤながら読んでいる。

・12月14日(土)

ジェイムスの「哲学の根本問題」をやっとこさっとこ読み終わる。この世は善なる一者が作り上げた不変のものか、それとも個々の事物や経験からなる多元的なものか。一元論は宗教的世界観に適合し、多元論は個人の日々の主体的決断と行為によって世界は作られていくという考えに適合する。ジェイムスも、俺も、もちろん多元論を支持する。その他に、無限と有限、因果性の説明、など。読んでもあまりピンと来ない。俺は哲学的な抽象的な思弁には不向きだと思う。

(2)ノートから
①事実(存在)は何らかの仕方で成立するのだが、それがどこから現れるのかとか、なぜ現れるのかということよりも、むしろそれが何であるかを明らかにするのが、私たちの使命である。
②具体的連続体から切り取られ、抽象された何かの集まりこそ概念に他ならない。
③私たちの知的生活は、知覚の世界を概念の世界に翻訳することである、といってよい。

➀経験的に確認できる個々の結果こそ、概念の意味の唯一の基準であり、概念の真偽の唯一の基準である。
➁「その概念が真である場合に、誰かの行動にどんな感知できる差異が生じるか」という問いを提出して、あらゆる概念をテストしてみよう。
③知覚はもっぱら、ここと今、つまり現在のみにかかわり、概念は似ていることと似ていないこと、未来や過去のこと、はるか遠方のことにかかわる。
④概念の関係は、静的な比較の所産でしかないので、知覚の流れをぎっしりと埋め尽くしている動的な関係を、こうした静的な関係で置き換えることは不可能である。
⑤知覚を概念に置き換えれば、必ず知覚の流れの本質的な特徴が失われる。

strong>第7章
①実在は個別的に存在するのか(多元論)、集合的に存在するのか(一元論)。
②ロックは、異なった精神状態を貫く自己同一性の原理としての人格的実態の概念を批判した。人格的同一性は、後の精神状態が先の精神状態に連続しており、それを知覚しているという機能的・知覚的事実にのみ存する、と言った。

(了)

60、鶴見俊輔全集第一巻「アメリカ哲学」-その3-(3/3)

2016-10-26 06:30:00 | 読書記録
(2)ノートから-つづき-
第二編
①「考えは行為の一段階」。
②プラグマティズムは人間の幸福と知性の活動の両者間に予定調和が存在すると考える。
③プラグマティズムはイデオロギーとしてではなく、方法として理解されなくてはならない。
④プラグマティズムの方法とは意味を明らかにする方法のことである。
⑤「意味」とは、人間が記号(言語など)を通して世界に対して持つ関係をいう。
⑥意味は認識論的意味(モノが何であるかを示す)と情緒的意味(人を動かす意味)がある。

①監獄の中からその社会を見ることが、その社会にデモクラシーがどの程度あるかを知る一つの方法である。
②民主主義はいかなる場合にも、革命を避ける形の思想としては成り立たない。
③「革命の決意のないところに民主主義は成立しない。これこれの条件まで自分たちが国家によって引き下げられたならば、自分たちは政府と関係のない私人であっても結束して政府を倒そう。そういう約束が国民のなかに共通の理解事項としてある時にのみ、民主主義は成立する。だから、革命の可能性を完全に抜きにした場合には、民主主義もまた成立しないことになる。
 ところが、ここに国家の政治をより多く民主化することを望みはするが、政府の側から国民の自由をせばめてゆくようなことが起こった時には、反対せずに甘んじて自由を狭められてゆく、しかし同時に、自由と民主化を望みながら退いてゆくという行動様式と思考様式がある。それは日本特有の民主主義といえようか。いや、どこの国にでもある消極的民主主義と呼ぶほうがふさわしい。
 この消極的民主主義は、それ自身としては近代以前の産物であるとしても、近代的な諸制度・技術と結合し、さらにまた超近代的な諸制度・技術と結合することができる。……
消極的民主主義という一点においてはきわめて前近代的なままに、人間の知的装備はきわめて複雑なものになり得る。この状況の持つ逆説性にわれわれは十五年戦争の戦争期間に十分に気づいていたはずだと思うのだが、その戦訓は戦後十八年目にしてすでに失われようとしている。」(P463)

(了)