読書日記と読書ノート 第三部(2013年6月~2015年6月) 吉野三郎

退職してから読書中心の生活をしています。読んだ本の感想を日記に記し、要点をノートに書いています。その紹介です。

130、川崎修「政治的なるものの行方」―その1―(1/3)

2017-03-26 06:49:34 | 読書記録

(1)日記から

201469()

川崎「政治的なるものの行方」を70頁ほど読む。ポストモダンとかメタ理論とか脱構築とかいった意味がはっきりしない言葉が沢山出てくるのは困りもの。内容はおもしろい。政治とは何か。ホッブスの定義では、構成員全体にかかわる全体の事柄についての意思決定。その執行法が権力=強制力だが、それはウエーバーが言うように被支配者の同意に支えられている。同意を調達する根拠となるのが正統性だ。では、この正統性に基づいて権力を行使する主体は誰か。普通には、法(法律)によって権限を与えられた行政・官僚機構と考えられてきた。しかし、著者によると、このような狭い意味で権力、すなわち政治を理解すると、問題をつかみそこなう。権力、つまり服従へと動員する力はシステム化されており、組織化され構造的なものとなっている。フーコのいう規律権力のように、特定の権力者(官僚)に握られているのではなく、いわば組織に埋め込まれている。このように理解すると、服従へと動員する仕組みは国家に限らず、企業や組合や学校といった組織にも不可視化されつつ存在する。1980年代以降の先進国にあっては、政治(国会)によって合法性のお墨付きを与えられた経済体=政治経済体が全体社会に君臨している。個々人は一見このような全体権力に背を向けているかのように見えるが、実はコンフォーミズムへと精神動員されている。ナチスなどの全体主義のむき出しの支配とは違うが、心理的・精神的な全体主義が席巻している。リベラリズムの公私二元論はその基盤を掘り崩されている。川崎は以上のような政治的なるものの全社会的な浸透に目を凝らしつつ、これに抵抗し異議を唱える拠点として、リベラリズムの公の制限の論理を持ってくる。私を擁護するリベラリズムの存在意義が脅かされている状況にあるからこそ、ここを抵抗の拠点としなければならない、という。困難な状況にあることは間違いなさそうだ。

611()

「政治的なるものの行方」を読了。感想は先に書いた通りだが、他のポイントとして、「丸山政治学」がイデオロギーや制度よりも、個人の対世界に向けた態度・精神的あり方(エートス)に関心を定めていたという指摘になるほどと思った。

(つづく)


コメントを投稿