スタンドに出ると人が溢れていた。
まだ昼過ぎだというのに前のほうは場所取りをする人で一杯。
もちろん上の方の座席に空きなんて全然無い。
こういう光景は久しぶりである。
やはり彼が走る日は特別なんだと改めて思う。
待っている人たちの顔は明るい。
ウキウキしながら待っている様に見える。
背の低い女性は人込みで前が見えないと連れに話している。
そして、それでもここで観るとも言っていた。
その気持ちはここに居る全員がよく分かるのではないだろうか。
彼の走りを直に見たい。
彼を一緒に応援する歓声を聞きたい。
彼の生み出す空気を感じたい。
だから皆、競馬場に足を運ぶのである。
馬体重が発表され、いよいよその時が近づいてきたことを実感する。
彼はやはり軽く、いままでで一番だろうと思った。
でも、心配は全く無い。
これが彼の個性なんだともう分かっているから。
そのとき、上空からパラリと雨粒が落ちてきた。
降り出すのは夜からだという予報だったのに。
もう少しだけ我慢してくれ。
厚く雲が立ち込める空に向かってそう呟いた。
その声を聞いてくれたのだろうか。
少しパラパラと降っては止む位で何とか持ちこたえている。
天気を心配している間にパドックの様子がビジョンに映し出された。
彼は相変わらず元気一杯だった。
勢いよく尻尾をブンブン振っている。
ゆったり歩いてたかと思うと、チャカチャカとステップを踏み出す。
軽く首を振ったり、頻りに口をモゴモゴさせたり。
時折舌を出したと思ったら、ひとつ大きな欠伸をまでしている。
いつまでたってもヤンチャ坊主そのままという感じ。
やがて止まれの合図が掛かりジョッキーが跨る。
他の馬が地下道に消えてもまだパドックを歩き続けている。
そうか、最後尾の入場なのか。
なんて思っていたら、また軽く暴れていた。
本馬場入場が始まり続々と出走馬たちが返し馬に入る。
まだかまだかと待ちわびたところで最後に地下道から姿を現す。
それだけで一際大きな歓声が上がった。
そんな声を気にも掛けずにダートコースを横切ってくる。
早く走らせろと言わんばかりにチャカチャカ催促しながら。
芝コースに出てようやく引き手を外し解き放たれた。
その瞬間、それまでのチャカつきが嘘のようにふわっと走り出した。
そのまま満足気に軽やかにキャンターに入る。
やはり、走っている彼は生き生きとしている。
待機所で輪乗りをしているときも落ち着いている。
ジョッキーはその間中、鐙に足を掛けてたまま。
落ち着きながらも集中を切らしてない雰囲気が漂う。
だんだんとレースが近づいてくると私はなんだか息苦しくなってきた。
自分でも無意識の内に足がガクガクと震えている。
寒さのせいか立ちっぱなしの疲労なのか。
どちらも違うような気がする。
今日は、今日だけは負けてほしくない。
そんな願いにも似た想いが体を強張らせているのだろう。
スターターが台に上り大きな歓声が上がった。
府中の杜にファンファーレが木霊する。
立錐の余地もないスタンドから手拍子の音が鳴り響く。
その音も大歓声に掻き消され場のボルテージは最高潮に達した。
ゲート入りが始まる。
偶数枠の彼は後の方で無事に収まる。
だが、入ってから何やらモゾモゾと動いている。
よく見ると隣の馬と鼻面を合わせている。
この緊張感の無さに私も少し余裕が持てた。
ああ、今日も遅れるな。
などと思っていたらゲートが開いた。
案の定スタートは早くなかった。
だが、鞍上は焦った様子など微塵もなくゆったりとしている。
自然とポジションは最後方となり1コーナーに差し掛かった。
先頭を行くのは久しぶりに逃げを打った北の勇者。
盛んに鞍上が後ろを気にしながらの走りは見るからに遅い。
その1頭挟んだ後ろには彼に初めて土をつけたライバルが進んでいる。
私は他の馬のことはそんなに気にならなかった。
一番後ろにいる彼のことばかり見つめていた。
いつ行くのか、いつ上がるのか。
そればかり気にして見つめていた。
3コーナーでじわりと差を詰め馬群の最後方に並び掛ける。
よし行け、行ってくれ。
色々な事があった鬱憤が知らぬ間に私を気負わせていた。
負けてほしくないという気持ちに囚われていた。
そんな逸る私の気持ちをよそに彼はまだ落ち着いていた。
そんなに焦らなくても大丈夫だよと言わんばかりに。
大欅を過ぎたところでようやく上がって行った。
そこからはいつもの様に彼は魅せた。
馬群の外を音もなくスーッと捲くって行く。
まるで他の馬が止まってしまったかの様に。
4コーナーを回った。
直線に入った瞬間にはもう馬群から抜け出していた。
そこから更に外へ進路を取り、誰もいない場所を走り出す。
ダービーの再現だ。
内から一瞬の切れ味を生かして3歳馬が脚を伸ばしている。
後ろから欧州年度代表馬も迫ってきている。
でも、そんなのは関係ないようだ。
彼は自分の道を気持ち良さそうに走っている。
伸び伸びとしたフォームは他の馬など気にした様子も無い。
ただ、彼はこうして全力で走るのが好きなんだろう。
ただ、こうして飛びたいんだろう。
そのまま天を舞うようにゴール板を駆け抜けた。
スタンドの密集した人込みが叫び声を上げている。
スタンドの上の方からも拍手が聞こえてくる。
だが、そんな大音量も私の耳には入ってこない。
私はただスタンド前に戻ってくる彼を見つめていた。
大歓声をよそに、ただただ彼を見つめていた。
彼を見つめながら、心の中でひとつ頷いた。
私の中の強張りがスッと消えていった。
彼が地下道に消えても誰も動かない。
立錐の余地も無いスタンドの全員が待っていた。
やがて姿を現した英雄に皆が拍手と歓声で迎えた。
騎手はバンザイ、バンザイと何度も両手を上げて喜びを露にしている。
口取りで鞍上の五本と下にいる馬主の一本の指で六冠を作っている。
それを見守るスタンドの人たちは晴れ晴れとした笑顔だ。
肝心の主役の彼は満足したのか大人しくしている。
きっと人の気も知らずにこう思っているんだろう。
あー、気持ち良かった。
まだ昼過ぎだというのに前のほうは場所取りをする人で一杯。
もちろん上の方の座席に空きなんて全然無い。
こういう光景は久しぶりである。
やはり彼が走る日は特別なんだと改めて思う。
待っている人たちの顔は明るい。
ウキウキしながら待っている様に見える。
背の低い女性は人込みで前が見えないと連れに話している。
そして、それでもここで観るとも言っていた。
その気持ちはここに居る全員がよく分かるのではないだろうか。
彼の走りを直に見たい。
彼を一緒に応援する歓声を聞きたい。
彼の生み出す空気を感じたい。
だから皆、競馬場に足を運ぶのである。
馬体重が発表され、いよいよその時が近づいてきたことを実感する。
彼はやはり軽く、いままでで一番だろうと思った。
でも、心配は全く無い。
これが彼の個性なんだともう分かっているから。
そのとき、上空からパラリと雨粒が落ちてきた。
降り出すのは夜からだという予報だったのに。
もう少しだけ我慢してくれ。
厚く雲が立ち込める空に向かってそう呟いた。
その声を聞いてくれたのだろうか。
少しパラパラと降っては止む位で何とか持ちこたえている。
天気を心配している間にパドックの様子がビジョンに映し出された。
彼は相変わらず元気一杯だった。
勢いよく尻尾をブンブン振っている。
ゆったり歩いてたかと思うと、チャカチャカとステップを踏み出す。
軽く首を振ったり、頻りに口をモゴモゴさせたり。
時折舌を出したと思ったら、ひとつ大きな欠伸をまでしている。
いつまでたってもヤンチャ坊主そのままという感じ。
やがて止まれの合図が掛かりジョッキーが跨る。
他の馬が地下道に消えてもまだパドックを歩き続けている。
そうか、最後尾の入場なのか。
なんて思っていたら、また軽く暴れていた。
本馬場入場が始まり続々と出走馬たちが返し馬に入る。
まだかまだかと待ちわびたところで最後に地下道から姿を現す。
それだけで一際大きな歓声が上がった。
そんな声を気にも掛けずにダートコースを横切ってくる。
早く走らせろと言わんばかりにチャカチャカ催促しながら。
芝コースに出てようやく引き手を外し解き放たれた。
その瞬間、それまでのチャカつきが嘘のようにふわっと走り出した。
そのまま満足気に軽やかにキャンターに入る。
やはり、走っている彼は生き生きとしている。
待機所で輪乗りをしているときも落ち着いている。
ジョッキーはその間中、鐙に足を掛けてたまま。
落ち着きながらも集中を切らしてない雰囲気が漂う。
だんだんとレースが近づいてくると私はなんだか息苦しくなってきた。
自分でも無意識の内に足がガクガクと震えている。
寒さのせいか立ちっぱなしの疲労なのか。
どちらも違うような気がする。
今日は、今日だけは負けてほしくない。
そんな願いにも似た想いが体を強張らせているのだろう。
スターターが台に上り大きな歓声が上がった。
府中の杜にファンファーレが木霊する。
立錐の余地もないスタンドから手拍子の音が鳴り響く。
その音も大歓声に掻き消され場のボルテージは最高潮に達した。
ゲート入りが始まる。
偶数枠の彼は後の方で無事に収まる。
だが、入ってから何やらモゾモゾと動いている。
よく見ると隣の馬と鼻面を合わせている。
この緊張感の無さに私も少し余裕が持てた。
ああ、今日も遅れるな。
などと思っていたらゲートが開いた。
案の定スタートは早くなかった。
だが、鞍上は焦った様子など微塵もなくゆったりとしている。
自然とポジションは最後方となり1コーナーに差し掛かった。
先頭を行くのは久しぶりに逃げを打った北の勇者。
盛んに鞍上が後ろを気にしながらの走りは見るからに遅い。
その1頭挟んだ後ろには彼に初めて土をつけたライバルが進んでいる。
私は他の馬のことはそんなに気にならなかった。
一番後ろにいる彼のことばかり見つめていた。
いつ行くのか、いつ上がるのか。
そればかり気にして見つめていた。
3コーナーでじわりと差を詰め馬群の最後方に並び掛ける。
よし行け、行ってくれ。
色々な事があった鬱憤が知らぬ間に私を気負わせていた。
負けてほしくないという気持ちに囚われていた。
そんな逸る私の気持ちをよそに彼はまだ落ち着いていた。
そんなに焦らなくても大丈夫だよと言わんばかりに。
大欅を過ぎたところでようやく上がって行った。
そこからはいつもの様に彼は魅せた。
馬群の外を音もなくスーッと捲くって行く。
まるで他の馬が止まってしまったかの様に。
4コーナーを回った。
直線に入った瞬間にはもう馬群から抜け出していた。
そこから更に外へ進路を取り、誰もいない場所を走り出す。
ダービーの再現だ。
内から一瞬の切れ味を生かして3歳馬が脚を伸ばしている。
後ろから欧州年度代表馬も迫ってきている。
でも、そんなのは関係ないようだ。
彼は自分の道を気持ち良さそうに走っている。
伸び伸びとしたフォームは他の馬など気にした様子も無い。
ただ、彼はこうして全力で走るのが好きなんだろう。
ただ、こうして飛びたいんだろう。
そのまま天を舞うようにゴール板を駆け抜けた。
スタンドの密集した人込みが叫び声を上げている。
スタンドの上の方からも拍手が聞こえてくる。
だが、そんな大音量も私の耳には入ってこない。
私はただスタンド前に戻ってくる彼を見つめていた。
大歓声をよそに、ただただ彼を見つめていた。
彼を見つめながら、心の中でひとつ頷いた。
私の中の強張りがスッと消えていった。
彼が地下道に消えても誰も動かない。
立錐の余地も無いスタンドの全員が待っていた。
やがて姿を現した英雄に皆が拍手と歓声で迎えた。
騎手はバンザイ、バンザイと何度も両手を上げて喜びを露にしている。
口取りで鞍上の五本と下にいる馬主の一本の指で六冠を作っている。
それを見守るスタンドの人たちは晴れ晴れとした笑顔だ。
肝心の主役の彼は満足したのか大人しくしている。
きっと人の気も知らずにこう思っているんだろう。
あー、気持ち良かった。