報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

疑問のすすめ

2006年06月10日 13時59分02秒 | ■メディア・リテラシー
情報を、”信じられる、信じられない”の二つに分けるべきではない。
選別しようとすると過ちを犯す。

信じるに値する情報など、この世にはないと思っている。なぜなら、情報は人の脳が作るものだからだ。情報が僕のところに届くまでに、無数の脳というフィルターを通ってくる。そのようなものをまともに信じることは、僕には到底できない。

情報の選別は一見合理的なように見えて、実はたいへんな危険を孕んでいる。

2003年3月以前の時点で、「大量破壊兵器」の存在を疑がった人はほとんどいないはずだ。それが実際にあるかどうかは、誰にもわからない。しかし、世界は信じた。いったい、何を根拠に信じたのだろうか。それはメディアの垂れ流す情報だ。あの時点で、どんなに情報の選別作業をしても、「大量破壊兵器」は「ない」という結論には至らない。

情報を選別するというのは、情報の本流を支持するという結果をまねく。つまり、情報選別をしている人は、簡単に情報を使って操ることができるということだ。情報の選別という行為は、自分で自分を縛るようなものだ。

”あらゆる情報に疑問の眼を向ける”という習慣を身につけない限り、永遠に情報にコントロールされてしまう。情報というのは、いまこの時点も、われわれを一定の方向に押し流そうと濁流となって流れている。

ただ、僕が情報を扱う場合、保存する情報とやり過ごす情報がある。確かにここで選別が行われている。しかし、保存した情報を信じているわけではない。あくまで、こころの中の問題だ。

極端に言えば、正しい情報を得る得ないというのは、どうでもよいことだ。情報に正しいも間違ったもない。すべての情報は正しいし、すべての情報は間違っている。

現代社会を生きる上で、情報に疑問を持つという行為そのものが、最も重要な意味を持っていると考えている。

僕は自分の考えや自分の書くものすら、疑うよう努めている。


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7 コメント

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こんにちわ(´-`) (ニコ(´ヮ`))
2006-06-10 18:30:01
今日の日記を読んでちょっと落ち着きました。

いつも、何が正確なのか判らないという気持ちと、

それを見極める事の困難げな事に最初から

つい諦めて投げてしまう自分を後ろめたく

思っていたのですが、見極める事が出来ないのは

当たり前なのだなと納得しました。

どの情報も疑ってばかりいても埒があかないのかなと

思っていたのも、別に間違ってないんだと思いました。

やっぱりそうなると、事実を追求して少しでも

近づこうとする努力が誰にも求められる事になるのですね。

と、思いました(^^ゞ。
ニコ(´ヮ`)さんへ (中司)
2006-06-11 00:06:27
情報には、内在する価値はないのですが、人は情報に接すると、その価値や等級や質を問題にしてしまいます。



情報というのは、ジグソーパズルのピースのようなものだと思います。ひとつのピースをいくら眺めいても、それが何なのかはわかりません。



単独のピースには価値はありません。

パズルを組み上げるという行為が、無価値のピースに価値を与えます。



重要なのは、この組み上げるという行為です。

パズルが完成するかどうかはそれほど問題ではないです。
情報と偽情報 (布引洋)
2006-06-17 15:12:36
うーん、ちょと虚無的すぎませんか。

私は情報世界内部に情報(報道)と宣伝(広報)が混在していると思っています。

見分けるコツは同じ映像が繰り返し流される時はコマーシャル(宣伝)の可能性が濃厚です。

やはり宣伝(広報)で一番肝心なのは繰り返し繰り返し、繰り返し、繰り返し(しつこい)ですから。

CIA(中央情報局)の仕事の半分は情報を集めることで、残りの半分は情報(偽情報)を流すことらしいですよ。
布引さんへ (中司)
2006-06-18 00:14:02
報道というものが作られる現場を知っている者は、報道に対して一切の幻想は持たなくなります。



欠陥マンションも、出来上がってしまうと実にりっぱに見えます。

完成してしまうと、欠陥を見抜くことはほとんど不可能です。

5年、10年と経ってから、やっと騙されたことに気付きます。



報道もそれと同じです。

報道として出来上がったときは、真実は覆い隠されています。

それを、見分けることができると考えるのは甘いです。



なぜなら、何ヶ月か、あるいは何年か経って、ようやく世界が騙されたことに気付くまで、専門家さえも何も言わないからです。

情報がそんなに簡単に見分けられるものなら、世界の多くの頭脳が警告を発しているはずです。



世界が騙されたと気付いた時は、すでに多くの人々の生活や命が奪われています。



われわれが安易に情報を信じることによって、罪もない多くの人々の生活や命や未来が奪われます。



メディアの権威を信じている限り、情報に操られ続けることになります。

メディアの作為を見抜けると考えるのも、同じ罠にはまります。
メディアの作為の見抜き方。 (布引洋)
2006-06-19 10:29:24
大きく報道される物、特に繰り返し大きく報道される物は誤報(宣伝)の可能性が大きい。

逆に小さい報道の中に真実が隠されている。



意識的な誤報(宣伝)は明確な目的が存在する。と私は考えています。



現在、医療保険とサラ金の宣伝(コマーシャル)が一番多く放送されていますが、明確な目的が有るのは当然です。(当たり前です)



世界貿易センターの映像は繰り返し繰り返し大きく放映しても、ペンタゴンはできる限り小さく報道する。

ペンタゴンに真実を解く鍵が存在しそうです。



文章の趣旨には全面的に賛成します。活躍を期待しています。
Unknown (布引洋)
2006-06-19 14:56:49
『あらゆる情報に疑問の眼を向ける”という習慣を身につけない限り、永遠に情報にコントロールされてしまう』

私もその様に思いますので、疑問を幾つか。

03年3月時点フセインの大量破壊兵器を信じていたのはブッシュ本人ぐらいではないでしょうか。?

チェイニーやラムズフェルドは戦争にしてしまえば何とかなる、と考えていて、たぶんウォルフォウエッツやパールなどのネオコンは大量破壊兵器疑惑の張本人です。

開戦前にはアメリカ人の半分近くが疑問を感じていました。

世界でも英国の100万人反戦デモでも証明できるように殆んどは疑問的でした。

日本でも小泉や山本一太等の愚か者以外信じた人は少数です。(と思いたい)

愚かな大衆は騙されやすいですが、イラク戦争でも少数でも真実の報道は有ったのです。



耐震偽装でも建築に関わった関係者は当然知っていました。

長年仕事をしている職人は物の良し悪しは、知っていて当然です。真実は明かに有りました。



太平洋戦争でも真珠湾の時点で敗戦を覚悟していた日本人は当然極少数ですが居ました。

当時の少ししかない正しい情報を、正しい冷静な思考力で判断すれば、結果は明かです。

どんなに報道管制しても、真実は洩れてきます。



『真実』と、『真実のように見えるもの』は一見同じですが全く中身は違います。

私は自分自身の眼で確かに見た物でも一様は疑ってみるようにしています。

報道は欠陥商品と疑え (中司)
2006-06-21 23:51:14
情報というのは濁流のようにわれわれの足元を流れています。そして、われわれを一方向に押し流そうとしています。情報の深みにはまると、一気に流されてしまいます。



この濁流には、清流も流れ込んでいるとは言えますが、一度混じってしまうと、もはや分けることはできません。



あまりに慎重になりすぎても身動きがとれなくなります。適度に距離をおいて接することが大切です。



鳥越 俊太郎氏が『報道は欠陥商品と疑え』という本を書いておられます。読んではいませんが、このタイトルが、すでにすべてを語っていると言えます。