Report of an interview of Miyako Yoshida & Kevin O'hare by David Bain
Ballet Associationというイギリスのバレエ・ファン同好会のサイトです。お金も暇もあるバレエ好きの方々が、現役のダンサー(大抵はロイヤルのダンサー)を交えて懇親会を行ったりするのが恒例のようで、サイトには、しばしばロイヤルの皆様とのディナーの写真がアップされています。
恒例行事の一環として、現役のダンサー(大抵ロイヤル・バレエの人)とのトーク会があるのですが、2004年4月に登場したのが吉田都さんと、バーミンガム・ロイヤル(以下BRB)時代の都さんのパートナーで、現在ロイヤル・バレエ(以下RB)のツアーマネージャーであるケヴィン・オヘアでした。以前立ち読みした「MIYAKO」という本で、都さんはケヴィンのことを印象的なパートナーであると同時に大事な友達だとおっしゃっていたと記憶しているのですが、そもそも二人はロイヤルバレエ学校時代からの同級生だったそうで、中々興味深い内容になっていました。
トークはまず、20年前の1984年、ロイヤル・バレエ・スクール(以下RBS)の卒業公演の思い出から始まります。このとき上演されたのは、「ラ・バヤデール」から「影の王国」、そして「眠れる森の美女」の3幕で、都さんは「眠れる森」ではブルー・バードのパ・ド・ドゥを踊り、さらに同期だったヴィヴィアナ・デュランテ(Kバレエによくゲスト出演する元ロイヤル・プリンシパル)がオーロラ姫でとエロール・ピックフォード(こちらも元ロイヤルプリンシパルで現K-バレエ・バレエ・マスター)がブルー・バードと共に踊ったそうで、ロイヤルファンからすると凄い年ですね。
都さんは当時留学してまだ一年にもならない時期で、食べ物は合わない、同期の体型があまりに自分と違いすぎる、英語も分からないと苦しい時期だったと幾つかのインタビューで語っていますが、それでもケヴィンによれば、コミュニケーションこそ当初は苦労したものの、「凄い女の子が来た!」と印象的だったそうで、中々興味深い。
で、卒業公演で好評を得た彼らはバレエ団に就職します。ヴィヴィアナとエロール・ピックフォードはロイヤルへ、そして都さんとケヴィンはBRBの前身、サドラーズ・ウェルズ・バレエ(SWRB)へと。
当時のSWRBは大量の欠員者が出たので、RBSから一挙に8人の新人が入団した。RBS生え抜きのケヴィンは単純に嬉しかったそうだが、日本に帰りたかった都さんは「フルタイムのダンサーとしてバレエ団と契約する」という事の意味が分からず、相当戸惑ったと語っています。
インタビュアーもなぜ、日本はこれほど優秀なダンサーを生み出し、ロンドンにもやってくるのか?という質問をしており、これに対して都さんは、日本には8,000以上のバレエ教室があるが、プロのバレエ団は驚くほど少ないので、海外に出ざるを得ないと回答していました。短期間のうちにプロフェッショナルなバレエ業界の体系(やや御幣のある言葉だが、他に思いつかないので勘弁してください。)を作り出した英国と、いまだ「お習い事」の色が強く、職業的舞踊手を生み出しきれない日本との差が浮き彫りになりますね。ふう。
ここでインタビューは再びSWRB時代の話に戻る。当時のSWRBはロイヤルの姉妹カンパニーながら、完全なツーリング・カンパニー(巡業専門のバレエ団)だったので、シーズン開幕とクリスマス公演以外は英国巡業と海外公演に費やしていて、その中で6つの全幕作品と2つの小作品プログラムを上演するという日々だったそうです。 …字面にするとピンとこないですが、日本のバレエ団の多くが一作品につき、2,3日の公演で終えてしまうのと比較すると、月~水をゲネ、木~土をマチネ込みで公演に費やす一週間を最低でも6,7回繰り返す日常というのは、結構ハードではないかと思います。
さらに海外公演では、ニュージーランド→シンガポールといった長距離ツアーから、インドなど珍しい地域での公演もあり、中々にハードな日々だったとか。
そんな多忙な中で、都さんは入団二年目で代役として「白鳥の湖」の主役に抜擢され、当時の芸術監督だったサー・ピーター・ライトにも認められて頭角を現していく。ここでケヴィンが興味深いエピソードを披露。都さん、初めて「ラ・フィユ・マル・ガルデ」を踊ったときは、麦藁帽子を留めていたハットピンが頭に刺さり、出血したまま踊っていたという。都さん本人は汗だと思っていたらしい。ひえ~。
また、入団直後の日本公演で都さんはこれも代役として急遽、黒鳥のみを踊った時があったのだが、当時の日本の観客の反応は良いものではなかったとケヴィンさんは語っている。以前のピーター・ライトの講演会、でもあったが、『日本の観客はミヤコの素晴らしさを分かっとらん』とよく強調されますね。私もイギリス行くまで都さん知りませんでした。彼女の知名度が上がったのは、本当に最近ですから・・・。情報の偏りというものをつくづく実感する。
さてさて、話を戻しますと、都さんもケヴィンも88年前後にプリンシパルに昇格し、90年にはカンパニーがバーミンガムへ移籍し、バーミンガム・ロイヤル・バレエと改称して新たなスタートを切ります。安定した本拠地を得たことでバレエ団は新作上演も増え、二人は「テーマとバリエーション」や「シルヴィア」(アシュトン版ではなく、今は『無かったこと』になっているビントリー版)など多くの作品で共演します。
ただ、この時期から都さんは熊川哲也のパートナーとしてロイヤルへのゲスト出演が増え、更に育ての親、ピーター・ライトの退任が確定し、転機が訪れます。周囲に相談しながらも、結局都さんはロイヤルへの移籍を決断…と言っても、ロイヤルがうんと言わなければ移籍できないわけですから、ロイヤルも都さんが欲しかったんでしょう。単なる熊さんのパートナーとしてだけでなく、優秀なクラシック・ダンサーとして。その後、都さんは10年以上をロイヤルの「顔」としてコヴェント・ガーデンで活躍していきます。規模も競争率もBRBとは比べ物にならないくらい激しく、慣れるのに3年かかったそうですが、熊さん以外にもムハメドフなど優れたダンサーと共演していくことで学んでいくことも多かったと語っています。
一方、残された(これも語弊があるのだが…)ケヴィンはBRBに残りますが、新芸術監督のデヴィッド・ビントリー着任と同時に、BRBもこれまでのクラシック一辺倒から「エドワード二世」(英国史上有名なゲイの王様を扱った作品。一度見てみたい。)や「カルミナ・ブラーナ」など独自色を強めた作品を発表していき、まるで違うカンパニーに移ったようで新鮮だったと語っています。
その後35歳で膝の故障から引退し、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーでマネージメントスタッフとして働いた後、BRBのマネージメントを手がけた後に、ロイヤル・バレエのツアー・マネージャーとなり、立場は異なれど、再び都さんと同じ職場で働くことになります。しかし、シェイクスピア・カンパニーまでつながってくるとは、英国舞台業の不思議な相関図を見る感じですね。
そして次に質疑応答として、都さんへの質問が一つ。都さんが「ロミオとジュリエット」以外のマクミラン作品に出る機会が少なく、「タイプキャスト」になっていないかという問いに対して、都さんは自分としては十分に多彩な役に恵まれていると思うと答え、多くの観客が彼女の「マノン」を見たいと思っているはずだという、ケヴィンの横槍に対しても、自分がマノンを踊るなど考えたこともないと、やんわりと返している。でも私も都さんの「マノン」は見てみたい。一度でいいから踊ってくれないだろうか?そしたら貯金はたいてでも見に行くのだが・・・。
また、ダンサー以外の仕事として、都さんは若手の育成に取り組んでいきたいとのこと、将来Miyako Yoshida Ballet Companyを結成する気はないか?と言う中々凄い質問に対しても、バレエ団を作るより、教えることに重点を置きたいから、考えたことはないとのことでした。いずれにせよ、踊れる限りは踊りたいと答え、司会者が二人が成した英国バレエ界への貢献に対して感謝の辞で結ばれていました。
内容を相当端折って書きましたが、いずれにせよ、都さんがいかに英国のバレエ界で活躍してきたかが、伝わるものでした。
それにしても今アマゾンを見て驚愕したのですが、先述の写真集「MIYAKO」は絶版のため、なんと現在14,000円前後の値段が付いているではないですか!!
再販してくれることを望みます。
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