森の空想ブログ

旅の料理人・林田君の夏 [友愛の森/里山再生プロジェクト<11>]

西日本を歩きながら旅を続ける青年、林田君は、私が東京での企画展に出かけている間も我が家(「九州民俗仮面美術館」)に滞在し、家の修復や森の整備などを進めてくれていた。なにしろ、家は彼が少年期の一時期を過ごした懐かしい所だし、森は、仲間たちと駆け回った、勝手知ったるフィールドである。その古い家が、修復され、九州の民俗仮面を集めた美術館として運営され、森は、薬草・薬木、染料、食材となる草木を育てる「友愛の森/里山再生プロジェクト」としての仕事が開始されたばかりだということが彼の心に響いたもののようである。




留守中に、森の木の枝や枯れ木が片付けられ、家の周りの立ち木や雑草も綺麗に切り払われて、枯れ草は堆肥に、枯れ枝は薪として使えるように整理され、それぞれの場所が決められて置かれている。その手際はあざやかで、玄人並みである。一度、アシナガバチに刺されたが、ひるむことはない。
私も作業に参入し、長年の懸案となっていた小道の整備も終えた。大鎌を振るい、スコップを大地に打ち込み、一輪車で土を運ぶ。頭に冷水をぶっかけ、汗とともにしたたり落ちるにまかせる。都会での長逗留で居ついていた肩こりがこれで治った。



その後、林田君のことは、石井記念友愛社の児島草次郎理事長が、友愛社発行の通信誌「ゆうあい通信」に詳しく書いておられる。以下に転載する。

          ☆☆☆

「一人の尊厳」 児島草次郎

 カンナが咲き乱れ、クチナシの花の匂う、梅雨のある日、一人の青年が突然に園に来訪されました。今から27年前、1年3ヶ月だけ小学生寮(すなわち現在の「九州民俗仮面美術館」)で生活したことがあり、懐かしく訪ねてきたと言われます。こういう時は、とりあえず園長室に上がっていただき、話を聞くことにしています。
 年齢は38歳、名古屋方面で調理関係の仕事をしていたけど、すべてを引き払い捨てて、ケイタイ電話もあえて持たず、五感に身をまかせ、九州まで1年3ヶ月かけて歩いてきたとか。一般的に言えば、住所不定の浮浪者ということになります。しかし、日焼けはしているものの身なりは小奇麗にしているし、汗の臭いも発散させていません。身の振舞いも常識人で、彼の話に引き込まれていきました。 
 県南のある町で親子四人で生活していたけど、父親の虐待が恐ろしくて家出するようになり、小5の時に施設に入った。母親はママ母だった。小学生寮(友愛社内・天心館)の生活、茶臼原小学校の生活は天国だった。何の心配をする必要もなく、普通にご飯が食べられて普通に学べ遊べた。しかし、小学校を卒業するとすぐに家に引き取られた。そのときは家族は名古屋方面にすでに引っ越していて、強制的につれて行かれた。その後の生活はまた地獄だった。中学校を卒業するとすぐ自立することにし、家を出た。色々仕事もしたが、調理の仕事に落ち着き10数年調理師として働いた。
 彼は、淡々と話しました。こうして話を聞いているうちに、たいがい私も思い出すのですが、小学生の彼を思い出すことはできませんでした。当時は、小学生寮の天心館は、現在地より500m以上離れた場所にあり、普段接触の機会がほとんどありませんでしたし、私の記憶力もかなり減退していますので、彼には申し訳ないのですが、彼の少年時代は私の脳の中で蘇ることはなく、残念ながら共通の話題を見つけ出すことができません。
 話を聞きながら不思議に思えてくることがあります。波乱万丈の人生を送ってきた割には、落ち着いておられるのです。私も色んな卒園生を見てきましたし、彼の重々しい負の体験からすれば、人間不信に陥って世の中に反抗するような生き方をしてもおかしくないのに、彼の目は清んでいるし、言葉の端々から誠実さが伝わってくるのです。人に迷惑をかけないというのを信条としているようでもありました。
 私は繰り返し、あなたを今まで支えてきたものは何なのですかと訪ねてみました。特に宗教を持っているようにも見えなかったのです。
 彼の規範力というのは持って生まれた資質なのでしょうか。彼は、その質問にははっきりとは答えなかったけど、小学生寮での1年3ヶ月ほどは天国だったと繰り返し話していました。ここでのたった1年ちょっとの楽しい思い出が、もしかしたら彼の人生を今まで支えてきたのかもしれません。そして、そのことを確認するために、彼は1年以上かけて導かれるようにここを訪れたのではないのか。
 「あなたは、自分の意思でこうして歩いて放浪しながらここを訪れたと思っているかもしれないけど、2、3年時が経って振り返ってみたら、あれは天の導きだったのかもしれないと思えるときがありますよね。いわばルーツ捜しで、導かれてここに来たのかもしれませんよ。」
そんな風な話を私からしておきました。
 当時の記録も写真も何も持って持ってないということなので、ちょうど私が茶臼原小学校PTA会長時代にPTA役員たちと一緒にまとめた「学校創立50周年記念誌」の中から、彼の卒業した年度の卒業生名簿(21名)をコピーしてさしあげました。顔をほころばせながら、懐かしそうに一人ひとりの名前をつぶやくように読み上げていました。
 彼はその後、小学校をも訪問し、校長先生から親切にしてもらい、一枚の当時の集合写真のコピーもいただいていました。
 彼が当時住んでいた旧園舎の今の住人は高見乾司氏ですが、そこにも2日間泊めてもらい、当時の思い出を辿りながらおそらく自己の存在の意味を確認し直し、満足して帰っていきました。また歩いて名古屋方面まで行く予定とのことでした(前述のように滞在延長中)。頭を深く下げる彼の姿を見ていて、引き止めたい衝動にかられましたが、グッと我慢しました。これが導きであれば、彼は宮崎にそのうち帰ってくることでしょう。
 彼との今回の出会いを私はどう整理したらよいのか。私が彼の立場だったら、その孤独に耐えていけるのだろうか。彼は今、その孤独に徹底的に向き合ってみようとしているようにもみえます。その先に希望はあるのか。私との出会いが彼の希望になってくれればとも願います。
「今もあなたと同じような経験をした子供たちか゜ここにやって来ているんですよ。今までのあなたの人生を、子供たちのこれからの人生に役立てるような生き方が出来るかもしれませんね。」
そんな話もしておきました。
 たった1年ちょっとの園生活が、その人の人生を支えていくということもあり得るのかもしれない。そういえば、クラークが札幌農学校で教えたのは9ヶ月ほどだったし、吉田松陰が松下村塾で教えたのは1年1ヶ月くらいだけだったのです。教え子たちはその短い期間の思い出を支えとしてその後の人生を踏ん張ったのです。彼が巣立って27年たった今も当時と同じように子供たちはここで生活している。子供たちのこれからの人生がかかっているわけだし、ここの生活の一時一時を大事にしていかねばならないと改めて思います。
 それから2、3日後、彼が通った茶臼原小学校の参観日があり、同時に学校評議員会が開かれ、私は出かけて行きました。授業参観には、指導員や保育しがいつも行きますので、私はほとんど出たことはありませんが、今回は早めに行き、教室をのぞかせていただきました。彼の話を聞いて、学校の先生方にあたたかく受け入れていただいている天心館の子供たちの姿を確認したくなったのです。彼に劣らないくらいのマイナスの体験をしてきた子供もいます。その子供たちが学校でのびのびと明るく授業を受けている姿を見ることが、27年前の彼の姿を確認することにつながるように思えたのです。その後に行われた評議員会では、この地域と学校に絵ずっと受容していただいていることに感謝申し上げました。
 ごく当たり前のように子供たちの生活は流れていきます。職員もそのことを当然のこととして日々の多くをすごす学校の先生方とその学校を囲む地域の方々、学友たちへの感謝の気持ちを、もっとしっかり持つべきだと気付かされたような気がします。

*以下略。()内は筆者・高見による注。

        ☆☆☆ 



林田君が草刈作業をしている空き地の横の道を茶臼原小学校へ通っている友愛社の児童たちが通る。
「おかえり」
「ただいま還りました」

昔も今も、くり返される日常の風景である。石井記念友愛社には、現在も約50人の子供たちが暮らし、保育園、小・中学校、高校へと通い、高校を卒業したら社会へと出てゆく。近年は大学へ進む子も出てきた。

「まだいるの?」
「いつ出かけるの?」
子供たちと林田君はすでに顔なじみだ。理事長または学校の先生からの情報によって、子供たちは彼が自分たちの「先輩」であることを認識し、格別の親しみを感じているのだろう。そして、彼の滞在が短期のものであり、いずれ、どこかへ旅立つ予定の人であることも、子供たちの興味をそそるのだろう。
草を燃やす煙が夏空へと消えてゆく。その強い香りが、この夏を一層濃密にする。

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