森の空想ブログ

森の空想ミュージアムと九州民俗仮面美術館のお知らせブログ

銀のナイフ

2012年05月31日 | Weblog


私は、ヤマメを釣り上げたら、まずハリを外す前に、ナイフでグサリと後頭部を刺し、瞬時に獲物を絶命させる。
そのことを書く前に、中国雲南省の古都・麗江で買ったナイフのことを思い出したので、ここに記す。上記の写真と以下の文は無関係である。

銀のナイフ

 夜の町を歩いていたら、呼び止められた。時刻は午後九時を過ぎていた。
私は、中国古代都市の面影を残すといわれるこの古い町に知り合いなどいなかったから、どきりとして立ち止まった。たとえ昼間でも、日本人の一人歩きは危険である、という警告を、現地の案内人から何度も受けていた。一瓶のビールを求めて旅館を出てきたことを、私は少し後悔した。が、その心配は、瞬時に消えた。声をかけてきたのは、店仕舞いをしていた骨董屋の若い主人であった。雑多なものを並べたその店で、私はその日の午前中、一本のナイフを買ったのだ。若い骨董屋の主は、そのことを覚えていて、誘ったのだ。仲良しになった記念に一杯飲んでいかないか、という手振りであった。私は、斜め向かいのレストランでたった今飲んできたばかりだ、そして、仲間の待つ宿へすぐに帰らなければならないのだ、という意味のことを伝えるため、大げさな身振りを交えて演技した。彼は納得し、縁があったらまた会おう、とばかりに、美しい笑顔をみせて握手の手を差し出した。その手を握り返して別れたが、難を逃れてほっとした気分と、とても大切なものに出会う機会を逸したような心残りが、微妙に交錯した。
中国・雲南省の古都麗江は、宋時代の建築様式を今に残す古代都市で、漆喰壁・瓦葺きの家が立ち並ぶ重厚な町である。玉龍雪山を源流とする清らかな水が水路となって町を潤し、水路に沿って、何本もの小道があり、多くの観光客が訪れる。石畳の小道沿いには、お洒落なギャラリーや骨董屋、民族衣装を売る店、先住民族の料理を並べたレストラン、民家を改装した旅館「客桟」などが立ち並び、散策する人が絶えない。
私は、友人が開設した旅行会社の仕事を手伝っていたころ、中国・四川省の奥地や雲南省の山の村などを訪ねる機会が増えた。少人数の気の合う仲間と、行く先やスケジュールに縛られない気ままな旅を楽しむ「自由旅」という旅行企画は、当時は採算がとれずに会社は解散したが、そのころ訪ねた中国奥地の村は、どこも思い出に残る土地となった。「鬼の面」を祭る雲南の山の村を訪ね、茶葉古道と呼ばれた道をたどって雲南茶を楽しみ、麗江に立ち寄って好みの「客桟」に宿を定めて、町を散策するのは、このコースの最上の楽しみだ。小さな村の子どもたちや銀のアクセサリーを作る若者、骨董屋の店主などと知り合いになったのも、この旅の途上でのことである。
麗江には、少数民族「ナシ(納西)族」が多く住む。ナシ古樂と呼ばれる独自の音楽や料理、民族衣装などを伝えるナシ族には「トンパ文字」という古代象形文字も伝わっていて、いまだに生活の中で使われている。トンパ(東巴)教という宗教に使われたため、奇跡的に残ったのだ。この土地の人々は、麗江の町の北方にそびえる玉龍雪山を神の山と崇める。標高5500メートルの主峰をもつこの山のある地点には、心中した男女が結ばれる場所があるという。トンパ教には、この世で結ばれることのなかった恋人同士を、天の国へと送る葬送儀礼もある。それは、九州山地の神楽によく似た神祭りである。
麗江で買ったナイフは、刃渡り7センチほどの小さなものだが、鞘は、銀で装飾されている。鬼の面に似た透かし彫りもあることから、雲南チベット族のものだと思われる。柄は、片面がヤクあるいは鹿の骨、もう一方は黒檀のような硬い木で出来た実用本位のものだ。私は時々、このナイフを取り出し、折々の旅でイ族の青年に貰ったナイフや、チャン族の市場で買ったナイフ、祖父の遺品の狩猟用の小刀などと一緒に机の上に置き、眺める。すると、雲南の峠を越える時に見た萩の花、トンパ文字を飾った門のある家、麗江の町で出会った人々のことなどが、あざやかによみがえる。そして、神の山で結ばれるという恋人たちのことを、ちょっとだけうらやましいと思う。
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お茶の葉の染色 茶の若葉で銀紫が染まった 茶臼原自然芸術観の染色ワークショップより

2012年05月27日 | Weblog
4月の下旬に開催された高鍋町舞鶴公園「木もれ日クラフト市」の一角で、茶臼原自然芸術館では、お茶の新葉、山桜、枇杷の葉による染織ワークショップを行なったが、とくに、お茶の葉染めは、紫がかった銀色に染まり、好評を博した。
当日参加できなかった人や、ぜひ体験したいという申し込みなどがあったため、今回は、茶臼原自然芸術館の染色工房で、本格的な染色を行ない、データも得られたので記録しておく。



お茶の若葉は、友愛社の庭に植えられている茶の木からいただいた。
採集した葉をよく洗い、煎じる。この間、布に「絞り」を入れておく。

沸騰後15分〜20分煮沸すると、少し茶色がかった淡黄色の煎液が得られる。
煎液を飲んでみる。「新茶」の味と香り。口中に清々しさが広がる。


煎液を布で漉しながら他の容器に移す。


布を入れ、煮沸。沸騰後約15分で布は淡い黄色に染まる。
これを木酢酸鉄を混入した媒染液に浸けてよく揉む。
するとたちまち液は黒く変色し、布が黒っぽい紫色に染まった。


10分ほど布を媒染液に浸しておき、もとの煎液に戻し、加熱。
約5分で濃い紫となる。

洗って干す。乾くと少し色は薄くなるが、紫がかった銀色に染め上がった。
古名「紫鼠(むらさきねず)」に近い色である。ここでは「銀紫」と名づけておこう。



以下は、「こもれ陽クラフト市」の記録(復習です)。

多くの来場者で賑わった高鍋町舞鶴公園「木もれ日クラフト市」の一角で、茶臼原自然芸術館では、お茶の新葉、山桜、枇杷の葉による染織ワークショップを行なった。
山桜は3月に開花前の枝を採集したものである。山桜は、採集後すぐに染めることを原則とするが、大量に得られて余分が出た場合などには蕾を付けたままの枝を細かく裁断し、保存しておけば、2〜3ヶ月の間は利用できる。枇杷の葉は一年中使える。お茶の葉染めは、鉄媒染では「グレイが染まる」となっているが、若葉を用い、水・媒染剤・繊維等の相性がよく、染色の手順がよほどうまくいった場合にかぎり、紫がかった銀色に染まることがある。

椎葉村や米良山系など、宮崎県の中央山岳地帯すなわち九州脊梁山地の山々を歩くと、焼畑で焼かれたり、切り払われて新しい植生が芽生え始めていたりする所で、たくましく芽吹いているお茶の木を見ることがある。これを山の人たちは「山茶」と呼び、採集して茶葉として利用する。山仕事の昼休みなど、弁当を終えた後の焚き火で、山茶の葉を枝ごと折り取ってきてさっと炙り、ブリキのヤカンに入れて沸騰させ、飲用する。これをみると、喫茶の起源は渡来僧が伝えた頃に求められるだろうが、「山茶」は、古来この地に自生し続けてきた在来種なのだろうと思う。
「お茶は中国から伝わった」という定説は一考を要するのではないか。
山茶は、放っておくとどんどん伸びて、ちょうど剪定をしないサザンカ(山茶花)と同様の樹木となる。これと同じような茶の木から、直接手で摘み取りお茶の葉として利用している風景を、中国雲南省と国境を接するタイ・ミャンマー・ラオス国境の村(黄金の三角地帯)で見たことがある。九州脊梁山地の照葉樹林文化は、まさに東南アジア・中国雲南省南部等と連環しているのだ。

さて、今回のお茶の葉染めは、飲用の茶葉で染めるのではなく、あざやかな緑に輝く新葉で染めるのである。写真のようにたくましく野生化した茶の木から若葉を採集し、煮沸すると、ご覧のように淡い黄色に染まり始める。これだけでも参加者から驚きの声が上がるが、これに「鉄媒染」を加えることにより、紫がかった銀色に染め上がるのである。ポイントは「水」のようである。この日は、前日、スタッフが汲んできてくれていた500キロ近い水を利用した。その水がどこの水かは、スタッフの労力に敬意を表し、当分の間、内緒にしておこう。染色は「染める」作業だけではなく、染料の採集や準備などの下仕事を黙々とこなす裏方の存在があってはじめて良好な結果が得られるのだ。

お茶の新葉染めでは期待したとおりの紫がかった銀色(写真の一番右)が出た。古名「紫鼠(むらさきねず)」に近い色である。当日は、枇杷の葉染め、山桜の鉄媒染ともに上々の成果であった。染め上がった布が、若葉に映え、風に翻った。
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毒にも薬にも/野草に含まれるアルカロイドの話

2012年05月25日 | Weblog
[カラスザンショウは食べられるか?]

前号までに、カラスザンショウが山菜の上位に位置づけられるべき珍味であると述べた。だが、調べてみると、

『「カラスザンショウ(烏山椒、Zanthoxylum ailanthoides)」はミカン科サンショウ属の落葉樹。サンショウと違ってアルカロイドを含むので、イヌザンショウとともにイヌザンショウ属(Fagara)に入れる場合がある。
日本のほかに、朝鮮南部、中国、フィリピンなどに分布する。山野に普通に生える。特に伐採跡などの裸地にいち早く伸び出して葉を広げる先駆植物である。
高さは6〜8mで、最大15mになることもある。普通のサンショウに比べて、はるかに大きな葉をつける。サンショウ同様、葉には油点があり、特有の香りがある。花期は7-8月。赤い実をつけて黒い種が露出し、特有の香りを持つ。
葉は1回奇数羽状複葉。葉の形状はニワウルシ/シンジュ(神樹)に似る。
サンショウ属の他の種に比べ、はるかに大きいため、類似種との区別ができる。また、他の大柄な羽状複葉をつける樹木とは、幹の棘と葉のにおいで区別できる。
本種を食草とするチョウにはカラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハ、モンキアゲハ、ナミアゲハ、クロアゲハがある。
普通食用にはしないが、若芽・若葉は天ぷらにすることがある。清涼感のある独特の風味の蜂蜜がとれるので、蜜源植物ともされる。また、葉を駆風、果実を健胃薬とする。』

となっている。これで、カラスザンショウが食べられることはわかった。蝶類が食べる木の芽というイメージは、大変好ましい。



[アルカロイドとは]

気になる「アルカロイド」という成分については、

『植物に含まれる含窒素化合物。植物の中には分子内に窒素を含み塩基性を示す化合物を含むものがあり、これをアルカロイドといい「アルカリのよう なもの」という意味で、アルカリ性を示す。 
ナス科の植物、唐辛子に含まれるカプサイシン、お茶やコーヒーに含まれるカフェイン、チョコレートに含まれるテオブロミン 
煙草のニコチンなども同じもの。作用は穏和で、毒性があっても比較的安全であるので、脳に効いて心を静め、体内の血液循環系を整える薬として使われるものが多い。』

とあって、やや安心できる。しかしながら、アルカロイドについてもう少し詳しく資料を見てみると、

『アルカロイドは植物体内の各種アミノ酸から生合成され、シュウ酸・リンゴ酸・クエン酸・酢酸・酒石酸などの有機酸の塩の状態で各々の体内に保持されている(例えばクエン酸塩、リンゴ酸塩など)。それが何らかの要因で分解、分離、もしくは抽出されればアルカロイドと呼べる物質になり、摂取した動物の体内に諸影響を及ぼす。
基本的に植物は、体の中に何種類ものアルカロイドを保持している。例えばケシの実から作られるアヘンにはモルヒネ、コデインなどをはじめとして約20種が含まれる。同一の植物に含まれるアルカロイドは化学的に近い性質を持つものであることが多い。植物がその体内に保持しているアルカロイドの中で、比較的含有量が多いものは主アルカロイド、それに伴う幾種ものアルカロイドが副アルカロイドと呼ばれる。
アルカロイドは主に顕花植物、殊に双子葉類の植物に見出される。体内にアルカロイドを含有する植物としては主に、キンポウゲ科、ケシ科、ナス科、ヒガンバナ科、マメ科、メギ科、ユリ科、トウダイグサ科、ウマノスズクサ科など。
アルカロイドは強い生物活性をもつものが多く、植物毒の多くはアルカロイドである。また、薬用植物の主成分もアルカロイドであることが多く、医薬品の原料として用いられる。』

とあり、注意を要する植物群のひとつであるともいえる。毒と薬は紙一重とは、このことであろう。ヒガンバナの中毒では血を吐いて死ぬことがあるというし、ケシの実から精製されるアヘンの主成分もアルカロイドであるとなれば、やはり危険度は最上位といわざるを得ない。
そういえば、先日、カラスザンショウの若葉を天ぷらで食べた後、葉を柿の葉と一緒に煎じて薬草茶として飲んだ。山椒とシナモンをミックスしたような香り、柿の葉の甘味、口中に広がる清涼感などが絶品であった。ところが、二杯目、三杯目と飲み続けるうち、舌に軽度の痺れがきた。痛み、幻覚・妄想などの症状は出なかったので、心配することはないと思うが、やはり大量の摂取はひかえたほうがよいだろう。
*『』内はいずれもインターネット検索による。




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薬草チヂミは新緑の森の味

2012年05月24日 | Weblog


近くの森を歩き、野草や木の芽を摘んできて、天ぷらにして食べた後、少し材料が残った。
もったいないので、「薬草チヂミ」を作ってみた。
「チヂミ」とは、「韓国風お好み焼き」と呼ばれる人気料理である。
魚介、肉、野菜などを小麦粉で溶き、熱したフライパンに薄く伸ばして外側はパリっと、内側はもちっとした食感に焼き上げる。キムチを加えると「キムチチヂミ」、イカやカキなどの海産物を入れると「海鮮チヂミ」になる。お好み焼きよりも水を多めに加え、やや緩めに作るのが薄く焼く。フライパンに多めのごま油かサラダ油を引き、タネを流し入れて、強火で揚げるように焼く。焦げ目が付いたら弱火で火を通す。
醤油・酢・ごま油・コチュジャン・胡麻・刻みネギなどの混ざった激辛のタレを、焼きあがったチヂミにナイフで切れ目を入れ、付けて食べる。
この調理法は、私の育った山の村(大分県日田市)では、「ヘコ焼き」と言っていた。「ヘコとは「兵児」のことで木綿の細長い男性用ふんどしのことである。焼き上がりが、薄く、白っぽくてひらひらしていることによる命名だろうが、あまり上品な食品名ではない。製法はいたって簡単で、薄く溶かした小麦粉をフライパンの上で焼くだけである。手ごろな野菜などを混ぜ込んでも良いが、小麦粉だけでの無地でも良い。無地の場合は、蜂蜜や黒砂糖などを塗って食べる。

今回は、薬効のある草木の新芽を刻み込んだので、「薬草チヂミ」と名づけたのである。入れたのは、ドクダミ、クサギ、ヨモギ、三種にカラスザンショウを加えてみた。三種はそれぞれの薬効は定評のあるものばかりだが、カラスザンショウについては情報に乏しい。実が健胃剤として利用されるという記録がある以外は、食べた人さえ稀である。資料によってはアルカロイドが含まれているという記述もある。
カラスザンショウは、天ぷらで食べると、大変美味しい。味がタラの芽、香りが山椒。絶品である。これまでに、仲間とずいぶん食べたものだが、誰も腹痛や痺れなどの異常を訴えたものはいない。まあ、大丈夫だろう。

出来上がった薬草チヂミは、それぞれの草木の香り、苦味などが程よく調和し、上出来であった。なかでもカラスザンショウの香りとタラの芽の同じ甘味を含んだ味が、後味として口中に残り、新緑の森の味というべき風味となったのである。
*器は伊万里の明治印判手八寸皿。中央の白抜き丸文の中に菊花、その周囲に松竹梅、さらに外周には牡丹が配置され、大胆な白抜きの星型が斬新な意匠を実現した。






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花酒の愉しみ<1> ドクダミの花が一年でまろやかな味の薬酒になった

2012年05月23日 | Weblog


ドクダミの花が盛りである。
純白の四枚の花びらの真ん中に細長い突起状の穂があり、小さな黄色い粒々が付いている。
白い花びらに見えるのは「苞(ほう)」であり、黄色い小さな点々が「花」だという。

花言葉を「白い追憶」といい、清楚な趣を持つ花に「ドクダミ」という名は似つかわしくないが、「毒矯み」すなわち毒を矯めるほど強い薬効をもつことがその語源だと知れば、納得できる。
古名は「シブキ=之布岐」といい、平安時代ごろにはすでにその名が用いられている。ドクダミと呼ばれるようになったのは、江戸期頃のことらしい。
生薬名を「十薬」という。十種の薬効を持つからだという。生葉をすりつぶして湿疹、かぶれなどに用いる。患部に貼り付けるとよい。乾燥させた「十薬」は、臭気も消え、その名にふさわしく薬効は利尿・緩下作用、血圧調整作用、毛細血管強化作用、消炎作用の4つの重要な作用があり、万病に対応する。主に煎じてお茶代わりに飲む。

アジアでは広く食材として用いられる。ベトナム料理ではザウゾプカー(rau giấp cá)と称し、主要な香草として重視されている。ただし、日本に自生している個体群ほど臭気はきつくないそうだ。
中国四川省・成都の四川料理では、根を水に晒してサラダに混ぜたものや、トウガラシなどの香辛料で辛い味付けをした和え物が美味しかった。四川省や雲南省では主に葉や茎を、貴州省では主に根を野菜として用いるという。



ここまでは少し調べればわかる。が、このドクダミの花をホワイトリカーに漬け込んでおくと、一年目には透明感のある琥珀色の「花酒」となることはあまり知られていない。
「花酒」とは、花びらを無色・無臭・透明のホワイトリカーに漬け込み、半年以上経過したところで布またはコーヒーの紙フィルターで漉して花びらを捨て、さらに半年寝かせたものをいう。
花びらの色、微妙な花の香り、花に含まれていた蜜などが混合し、芳醇な薬種が出来上がるのである。
一つ一つにどのような薬効があるかはまだ未調査だが、ほのかな酔いが、酒客を夢幻の境地へと誘ってくれることだけは確かである。
ちなみにここ二、三日、腹具合がよろしくなかったので、このブログに載せる写真を撮るために持ち出してきた、5年もののドクダミの花酒を少しだけ飲んでみた。味は、予想したほど濃くはなく、むしろさらりとした感じで、口当たりはやさしい。茎や葉のあの臭気や個性的な味から、濃厚な味と香りの薬酒を連想していたのだが、その予想は外れた。そして思わず酒量が増えた。朝から酔っ払うほど飲んだわけではないが、気のせいか、腹の具合は治まってきたようだ。これが薬効によるものか、自然治癒によるものかは、今回は保留しておこう。
器は古伊万里矢羽根文猪口。
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青葉ヤマメ料理転じて摘み草料理となる 

2012年05月21日 | Weblog
狸に伝授された術を使い、木の葉をヤマメに変えたり、ヤマメを木の葉に変えたりしたわけではない。
「鹿遊(かなすび)の谷」で釣った青葉ヤマメは、岩と岩の隙間に流れ込み、下流へ流れ下って来ることもなく行方知れずとなり、結局持ち帰ることが出来なかったから、方針を変更して家の周りを歩いて草木の新芽を摘み、それを天ぷらにして、来客を迎えたのである。



以下は5月19日の茶臼原の森での摘み草。
・ヨメナ(嫁菜=野菊) 12年前湯布院から移住してきた時、老母が、鉢植えにして持ってきたものが野生化した。由布岳の山麓で秋風に揺れていた、淡青色の、優しい花を咲かせる草は、意外なたくましさでこの地に同化し、定着している。新芽はおひたし、汁物の具、天ぷらなどに使える。
・クサギ(臭木) 文字通り嫌な臭気を発するこの木の葉は、さっと茹でてチリメンジャコと一緒に炒めたり、天ぷらにしたりすると、匂いは消え、独特の苦味を含んだ深い味になる。


クサギ

・リョウブ(令布) この木を、山の子たちは「山サルスベリ」と呼んでいた。園芸種のサルスベリに似た赤みがかった滑らかな樹肌を持つ木で、林の中や山道の脇などによく見かける。修験道の行者も食べていたというが、平安時代、飢饉に備えて令を発して植えさせたことがその由来となったといわれるほど、一般的な食材であったらしい。生葉をご飯に炊き込む「リョウブ飯」が知られる。さっと塩茹でして水にさらし、細かく刻んで炊きたてのご飯にまぜて食べると、香りの高い菜飯となるのである。


リョウブのある山道
 
・タラの葉 新芽の季節は終わったが、若葉も柔らかい部分は食べられる。
・カラスザンショウ(烏山椒) イヌザンョウともいう。この地の人たちは犬ダラと呼んでいる。サンショウにももタラノキにも似ていない。切り払われた森にいち早く芽生え、林を形成する植物群に属する。肌に棘を持ち、細長い若葉の先端は赤い。秋には黒い種子を付けそれをカラスや小鳥がよく食べることからその名が付いたという。食材としてはほとんど知られていないが、タラの芽の味と山椒の香りを併せ持つ珍味である。アルカロイドを含むというので、大量にたべることは避けたほうが良いかもしれない。アゲハチュウ科の蝶の食草でもあるという。


カラスザンショウ

・その他、ヨモギ、ヒメジョオン、セイタカアワダチソウなど、空き地で得られる草の葉。
これらの草木の新芽や若葉を、竹の笊を持ち、摘み歩くだけで、東京からおいでになった香山マリエさんは大喜びであった。そして、通りがかりの物産館で買った猪肉と大根を塩だけで味付けしたスープ、摘んできたばかりの草木の若葉を、さっと揚げた天ぷらなどの簡素な夕食に、十分、満足して下さったのである。
宮崎の前衛美術家・瑛九と香山さんの父君・末松正樹氏に連なる宮崎の美術家たちが集まり、二人の画家の数奇な運命や、近代日本の美術史に及ぼした影響などを語り合った後だったから、宮崎の山野の味が、一層、胸にしみたのであろう。
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鹿遊(かなすび)の谷で 

2012年05月19日 | Weblog
九州脊梁山地には、「鹿遊(かなすび)」という地名がある。
その一つは、椎葉村。もう一つは木城町石河内。二箇所あるから、他にもあるかもしれない。
ある春の一日、染料と食材を兼ねた山菜を求めて、上記石河内の細い谷を遡り、ぽっかりと開けた小さな村を発見して、
―ここが、東洋の仙境=桃源郷そのものかもしれない・・・
と思いながら車をUターンしかけた時、ふと、林間の空き地に動くものが見えた。
停車し、そっと木立を透かすようにして覗いてみると、なんと、数頭の鹿が、円陣を組むようにして、頭を下げたり、前足を上げて立ったり、まるで優雅な踊りのような所作を繰り返していたのである。それは、東北の鹿踊り(テレビでしか見たことはないが)とよく似た円舞で、宮沢賢治の「鹿踊りの始まり」をすぐに思い出させるものであった。
その光景は、賢治の「鹿踊りの始まり」も東北の鹿踊りも、実景をもとにした文学であり、芸能であることを実感させるものであった。


昨日、青葉ヤマメを狙って、一本の沢に入った。鹿踊りを見た谷とは違うが、ここでは「鹿遊の谷」と名づけておく。なんとなれば、この谷には、山を越えてきた鹿が次の山へと向かうために谷を渡る地点があり、川原で遊ぶ鹿の群れに一度遭遇したことがあるからである。水辺に沿って、鹿の足跡が点々と残されていた。谷沿いに遡上した一群がいるらしい。

明日、東京からおいでになる香山マリエさんを、青葉ヤマメの料理でお迎えしようという目論見である。二、三匹の釣果があれば、スープ、朴葉焼きなどの料理が楽しめる。今回の「末松正樹遺作展―舞踏譜 南仏ペルピニヤンから―」では、瑛九と末松正樹が縁戚であるという「発見」があった。宮崎の前衛芸術の歴史に、一つ新しい情報が加わったのである。ささやかなお礼の気持ちをこの季節ならではの料理で表現する。釣りとは、喰うことが主たる目的であり、その日の釣果で客をもてなすことは、その最上位に位置付けられる。これこそ、ヤマメ釣りの趣意に適うものである。

この谷には、数は少ないが、「天然もの」のヤマメがいる。放流をしない谷だから、いるのは天然ヤマメであることは間違いないのだが、昨今は、養殖して放流したものでも川にいたものなら「天然」とみなす例が多いから、こうしてわざわざことわっておく必要があるのだ。昔からその谷に生息していたヤマメは、マスのような黒味を帯びたものや虹色に光る体側の斑文を持つもの、釣り上げた瞬間、えもいわれぬ芳香を放つものなど、谷ごとに微妙な違いと特色を持つ。放流ものでも釣れないより釣れたほうが嬉しくありがたいものだが、やはり、天然を吊り上げた時の感激は、別次元のものである。宮崎には、まだこの貴重な天然ヤマメの棲息する川が残されているのである。



釣り始めてすぐに、一匹、威勢のいいヤツが釣れた。少し深めの瀬を、ゆるやかに餌を流している時、微細な揺れが糸に生じた。
手首を返すようにして、軽めに合わせてみると、がつんと手ごたえがあり、そのまま瀬から深みへと引き込み、右に左に走り回った後、ようやく銀色の輝きを見せながら上がってきた。ところが、獲物は18センチ程度の標準的なサイズのものだった。が、そいつは肩がぐいと盛り上がり、青葉の光を一身に集めたように輝く勇ましいヤツだった。これが青葉ヤマメである。
―よし。今日は5〜6匹はいけるな・・・
とばかりに次のポイントを狙うと、図ったように二匹目がきた。そして、浅瀬をぐんぐん引いて逃げるから、えい、とばかりに抜き上げると、彼は、一瞬、宙を飛び、きらきらと眩しい放物線を描いて、岸辺の小砂利の上、水との境界線に落ちた。空中でハリが外れたのである。走り寄って手掴みにするという、決して他者に見られてはならない釣師の姿形が、ここに現出した。
―それでも、二匹は二匹である・・・
好調な出足に満足し、悠揚と餌の採取にかかる。この季節の餌は川虫(水棲昆虫)に勝るものはない。ようやく温みを増した水に手を入れ、小石をひっくり返し、網を張っているクロカワムシ(かげろうの幼虫)をひとしきり採り、さて、と獲物を置いた場所を見ると、確かにそこに置いたはずの二匹のヤマメが見当たらぬ。慌てて見回すと、獲物は、いつの間にか魚篭代わりの網もろとも流されて、大きな岩と岩の間に消えようとする寸前だった。飛びつくように引き上げたが、すでに中身は空である。手を岩間の空洞に入れて探ってみると、その先は意外に大きな穴で、激しく水流が流れ落ちていた。
このような場合、古代中国の釣人であれば、
―河伯(河の神)への捧げ物である。
と解釈し、九州脊梁山地の狩人であれば、
―獲物は水神様に召されたな・・・
と見切りを付けるであろう。
だが私は未練がましく次のポイントで竿を振る未熟者であった。そしてこれ以後は、あれほど盛んだったアタリはピタリと止まり、ただ、緑の渓谷の上にからんと青い空が広がっているだけだった。なんだか、しん、と音が消えたような時間帯だった。
―今日は、ここまでだな。
大きく息を吐き、竿を収めた。



ところで、今日の釣果は、ゼロと記すべきか、二匹とすべきか。二匹を釣り上げ、殺したことは事実だが、魚は川に還った。とはいえ、来客用のメニューは変更になったのであるから、目的は果たしたとはいえない。釣果のない日の帰り道、釣師の心は微妙に揺れるのである。





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ホタルの棲む森

2012年05月17日 | Weblog


草刈りを中断している。
森のホタル=ヒメボタルが大量に発生し、庭先やわが「九州民俗仮面美術館」の窓辺にまでやって来るのである。
チカチカと点滅を繰り返しながら、草に止まりそうになったり、またふわりと舞い上がったりする。これはオスである。
ヒメボタルのメスは飛行できないため、草木につかまった状態で発光するという。だとすれば、この辺りの草むらにもヒメボタルがいて、恋愛成就の瞬間を待っているのではないか。森に幽玄の光を明滅させながら浮遊するのはオスのヒメボタルで、メスを求めて移動中なのであろう。草を刈ってしまえば、彼らの生殖の場に深刻な打撃を与え、棲息分布に影響を及ぼす恐れがある。
草刈りは一休み。



「森のホタル」と呼ばれるヒメボタルは、陸生のホタルで、日本では本州・四国・九州・屋久島にまで広く分布するという。
八重山地方には ヤエヤマヒメボタル.、石垣島にはイリオモテボタルがおり、南に連なる島々には多くの同種のホタルがいるらしい。水辺ではなく、森林地帯に棲息するため、人目にはつきにくくあまり知られてはいないが、世界的にみれば、陸生のホタルのほうが分布は多いのだという。
餌はカタツムリ類だというが、こんなに多くのホタルを養うほどのカタツムリがこの森にいるのかどうか、不思議である。以前、カタツムリの仲間のキセル貝の大量発生を見たことがあるが、これもヒメボタルの餌の一つなのだろうか。
キセル貝は、体長2センチほどの細く小さな陸生の巻貝で、森の朽木や落ち葉の下などで発見されることがある。けれども、ホタルの大群を養うほどの分布があるとは思えない。山や森には、まだ多くの不思議がある。
このキセル貝は、熊や猪、鹿などを狩る猟師が「山オコゼ」と呼び、海のオコゼの代わりに山の神に捧げる地方があるという。山の神は女神で、醜貌であるゆえ、自分よりも醜いオコゼをみると上機嫌になり、獲物を授けてくれるのだという。だが、海のオコゼとキセル貝とは全然似ていない。ここにも一つ、山の不思議がある。



今夜は、仮面美術館の窓を開け放ち、部屋の明かりをすべて消して、ヒメボタルの群舞を見ることとしよう。山の神や水神、神楽の主役や道化、翁、謎を秘めた女面。100点を越える仮面の展示された部屋に舞い込んでくる森のホタルがいるかもしれない。

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夏草の香り 「鎌」を巡るあれこれ  [がんじいの骨董手控え帖<20>] 

2012年05月16日 | Weblog


家の周りの草刈りをする。
南国の強烈な太陽の光を浴びた植物は、5月の連休を過ぎると猛烈な勢いで繁茂し、草刈り作業を怠ると、たちまちジャングルに近い状態となる。里山の森に隣接したこの地で暮らすためには一定の労働力が必要なのである。
できるだけ、草刈り機に頼らず、下草刈り用の鎌を使うことにしている。下草刈りとは、杉の植林をした後、数年間は生えてくる小潅木、雑草、つる草などを刈り払う作業をいう。およそ7年ほどその作業を続けると、杉が生長し、潅木類や雑草の生長が鈍るため、「杉林」として機能し始めるのである。

木の柄のついた鎌を振るうことについては、腕力と持久力を必要とするが、じかに植物と対面するよさもある。今頃は、野いちご(クサイチゴ)が熟れ、真っ赤な実が草薮の中で光っている。この野いちごの実を近所の子どもたちが採り尽くした頃、私は草刈り作業を開始するのである。近隣の人たちや農家に比べると開始時期が少し遅れることにより、怠け者扱いされるおそれもあるが、このペースは守りたい。
切り払われて倒れた草の中に残るドクダミを拾い集めたり、モリアオガエルの卵のついた草を刈り残したり、染料として利用できるヤブマオやクサギを残したりしながら刈り進んでいくので、作業はなかなか捗らない。が、それはそれで良いのだ。

ここまで書いたら、近所の犬が迷い込んで来た。縄を引いている。散歩の途中で飼い主とはぐれたか、退屈な拘束を嫌って脱出してきたのか。呼んだら、尻尾を振りながら近寄ってきたのでしばらく遊んだ。家まで連れて行くことにしよう。



辺り一帯に漂う強い草の香りは、もう夏草のものである。草は刈られると臭気を発するが、それを近くの同種の植物に対する危険信号だという人がいる。危険信号をキャッチしても植物は有効な防衛力を持たないので、はたしてその解釈が正しいのかどうかはわからない。ただ、地球の生態系全体を俯瞰すれば、地球にとって「人類」こそ邪魔者だという信号は種々に発信されている。そのことをすでにわれわれは知っている。しかしながら、生活水準を維持するためのエネルギーの浪費は止まらず、「国家」を維持するためあるいは「民族」を守るために「正義」の名を借りた戦争と軍備の拡張は続く。かつて書家の故・新井狼子師は「人間の敵はなぜにんげんなのか」と言った。それは20年ほど前のことだが、その言葉は今も重く響いている。

柄にもなく、このような大上段に構えた論調をなすのは、昨今、ギリシアというかつてヨーロッパ文化の祖形をなした国が、経済的事情により「国家」そのものの解体の危機に直面しているからでも、北朝鮮という得体の知れない国が核武装をしたと言って極東を脅かしているからでもない。昨夜、永井荷風の「断腸亭日乗」(岩波文庫/1987年版)を久しぶりに読み返したからだ。遊里に遊び、浅草辺の劇場の楽屋に出入りして踊り子たちと交遊を繰り返しながら、悠々と旧時代の文人的生活を過ごしていた荷風翁も、第二次大戦の末期においては例外なく戦火に巻き込まれ、家も書きかけの原稿類も蔵書も消失しながら、唯一、鞄に入れて持ち歩いたものが、欠かさず書き続けていた「日記」であった。そこには、軍閥政治を嘲笑し、時局を断じ、日本文化の過去と未来を鳥瞰する冷徹かつ高潔な言葉が記されていた。文章や発言そのものが厳しく制限され、生命の危険に直結するような時代においてなお、自身の揺るぎない価値観を保ち続け、「言葉」を記録し続けた荷風翁の姿は、絶滅危惧種の小動物、あるいは高雅な骨董品のようにさえ思え、新たな感銘を得たのである。



使い込まれた鎌には、骨董品のような、鋭利な武器、あるいは現代美術のオブジェのようなものがあるが、私が使っているものはまだそこまでは進化してはいない。
2007年に奈良県纏向遺跡から出土した木製仮面の周辺には、農耕儀礼として用いられたとみられる木製品とともに「盾」と「鎌の柄」が見つかっている。鎌は、もちろん農具であるが、古代の農耕儀礼においては呪力を持つ祭具として用いられたと考えられている。
仮面と盾と鎌が出土したことから、この纏向遺跡の木製仮面と「方相氏(ほうそうし)」の儀礼との関連が指摘されている。方相氏は中国古代の祭祀者で、熊の皮を被り黄金の四つ目の仮面をつけ、黒い上衣に赤い裳を付け、片手に矛、もう一方の手に盾を掲げて祭りの行列を先導した。方相氏は春秋戦国時代頃の史書に登場する。日本の弥生時代の出土遺物には、仮面と思われる被り物を被り、矛と盾を持ったシャーマンの姿が描かれているものがある。これらのデータを照合することにより、纏向遺跡出土の木製仮面と渡来の方相氏儀礼とが関連付けられるというのである。
私は、これまで、この纏向遺跡出土の木製仮面は、大和王権樹立と同時期(あるいは直後)に、政権の中枢部で奉納された服属儀礼(翁舞、田の神舞に類似する農耕儀礼)と位置づけてきたが、今後は、この方相氏儀礼と二論併記で考察を進めてゆくこととなる。いずれにせよ、「鎌」が重要な役どころを占めているというのが面白いではないか。

夏草の香りには、別の思い出もある。
あれは、二十代前半のことだから、今から40年も前のことだ。
私と二才年下の弟とは、ひと夏、父親が請け負った杉山の下草刈りの仕事の手伝いをした。1町歩だとか3町歩だとか言っていたその山は、麓に立って見上げると全山が押しつぶすように迫ってくる巨大な山塊であった。その山は、三代前までは私の家の所有だったという物件だったが、すでに人手に渡り、私たちはその下仕事をする運命下に置かれているのだった。そのことの切なさ無念さは差し置いても、膨大な山の草を切るのは、当時はすべて手作業すなわち「鎌」で切り払うしか方法はなく、その仕事は、紺のTシャツが汗の塩分で白く変色するほどの重労働であった。
とはいえ、鎌で草を刈り払う音、強い草の香り、襲撃してくる蜂、蝮のいるくぼ地、沢水や渓流魚、クロモジの枝を切ってきて作る箸、時折得られる山椒魚の塩焼きなど、夏の山仕事ならではの楽しみも多かった。
一日に何度も研がれた鎌の刃が細くなるほど働いた夏が終わり、私たちの手元には一文のお金も残らなかった。それが、一家が餓えずに過ごすために消費された金であったか、あるいは父が乾坤一擲の勝負に出た新しい事業に使われた金かは結局分からなかったが、私も弟も文句は言わなかった。
夏草の香りとともに思い出されるのは、あの夏の鎌の重さだけである。







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森のホタル/瑛九晩年の「点描」に至る作品群と末松正樹作品の関連について 

2012年05月14日 | Weblog
[舞踏譜 末松正樹遺作素描展―南仏ペルピニヤンより―]での出会いと発見(3)

昨日の記事中、瑛九と末松正樹の縁戚関係についての説明に不備があったので、訂正しておく。香山マリエ氏からの指摘(本文は訂正済み)です。
正しくは「正樹の姉・文が瑛九氏の義理の従姉」。もっと簡単にいうと、「末松正樹の義兄が瑛九氏の従弟」。
      *
不勉強である、とか、展覧会の企画者・主催者としては準備不足であるなどといわれれば返す言葉はないが、私は、これまでに展覧会を企画したり、一人の画家、あるいは一枚の絵に出会ったとき、さらには「九州の民俗仮面」に出会い、収集・展示・調査・研究を行なうようになった時など、事前に評論や解説、先学の著作などを見るということを回避してきた。解説や評論、すぐれた著作などに触れれば、その影響を受け、他者の価値観に色づけされた先入観をもって作品・人物・「もの」などに対面するおそれがあるという認識によるものである。もともと興味を感じない事柄に関しては見向きもしない傾向があることに加え、既存の価値観や権威に反発する天邪鬼的性癖とが少なからず混入していることも認めておかなければならないが。
地方の小さな町のアマチュア絵画グループに所属し、普通の風景画を描いていた私が「由布院空想の森美術館」(1987−2001)を運営することとなり、他者の作品や「もの」を見分け、審査し、企画・展示を行なう立場に立った時、私はまず自身の作品を大半、建築工事が進む現場で焼却し、審判を下した。由布岳の山頂に続く空へと立ち昇ってゆく煙を見ながら、画家としての自分と、私はその時、決別したのである。そして、唯一、頼りとしたものは、その頃徹底的に読み込んでいた洲之内徹氏の美術随想「気まぐれ美術館」であった。洲之内さんは、一枚の絵や作家に出会った時、どこまでも画家に会いに行き、一枚の絵を手に入れようと躍起になり、作品について考察を巡らし、感想を述べ、自身の回想も含めた長文によって作家の全体像や美術史的位置づけなどを描写した。私が指標としたのは、この「洲之内徹=きまぐれ流」の態度であった。

さて、末松正樹氏の作品が送られてきた時、恥ずかしながら私は上記のような理由により、事前に手元に届いていた膨大な資料の中から、香山マリエ氏の著作「天井桟敷の父へ」と若干の新聞記事、略年譜ぐらいしか見ていなかった。まあ、例によって例の如しの、曖昧な態度でその作品群に接したというわけである。
ところが、展示を進めるうち、この連載の冒頭の「穏やかな春の午後」に記したような、末松正樹作品の持つ音楽性・詩心などに気付いたのである。「気付いた」というよりも、「同じ空気の中に存在する自分」あるいは「画家と同じ時空感が掌の中にある感覚」を直感したと言ったほうが適切かもしれない。そしてそれは、実の娘さんである香山さんが描いた父親像、新聞記事等の見出しに出ていた「戦争に翻弄された画家」というイメージなどとはかなり遠い、静謐な詩情だったのである。
その実感を掴んだ時、はじめて、末松正樹という画家が私の中に鮮明に刻印された。

末松正樹の作品群(フランス・スペイン国境の町ペルピニヤンで捕虜として拘束されたホテルの一室で描かれた)を展示しながら、私はもう一つのことに気付いていた。「末松正樹」展(2005年/多摩美術大学美術館)、「戦争と日本近代美術」展(2011年/板橋区立美術館)等のチラシに印刷された末松正樹の中期から後期へかけての油彩作品から受ける印象と、瑛九晩年の点描による作品群との共通性である。が、それはことさら取りたてて議論するほどのことでもないし、私などが指摘しても美術史的な評価に影響を与えるほどの発見というわけでもあるまい、と思い、発言を控えたのである。
だが、ここ数日の間に、法元さんという方がお見えになり、瑛九と末松正樹が縁戚関係にあるということがわかり、昨日掲載したような記事が出たり、また私がざっと調べた範囲でも、中学時代、戦後の自由美術協会の再出発期、タケミヤ画廊での1953年での個展、さらにその時期同じ画廊で個展を開催した加藤正氏の証言などにより、末松正樹と瑛九を結ぶ線が重なり合っていることなどが判明したのである。
ここまで来ると、瑛九の晩年の代表作「点描シリーズ」の制作の動機のひとつに末松正樹がなんらかの影響を与えているのでないか、という推測<美術史的発掘>の次元へと道筋が展開をみせる。

瑛九は、1930年代にすでに「フォトデッサン」のシリーズを発表しており、その先駆者としての位置付けは不変である。
戦後、劇的な戦場体験をした末松正樹が帰国し、自由美術の再出発に参加、その二年後に瑛九が自由美術に復帰したことなどを考え合わせると、二人の間には何らかの交流があったと考えることは不自然なことではない。親戚でもあり、三つ年上の先輩でもあり、フランスの教養を身につけ、当地の画家・文化人とも交流し、いち早くフランス文化を紹介した末松から、瑛九が多くの情報を得たであろうことは、当然、考えられることである。すでに多くの評伝や記録によって伝えらているように、瑛九やその時代の画家たちは貧弱な画集や印刷物からしか、西欧の美術情報を得ることはできなかった。最も新しい、いわばナマな情報を携えて帰ってきた末松から同時代の芸術家たちはその情報・文化・価値観等を競うように吸収したであろうし、瑛九とてもその例外ではなかっただろう。
加藤正が語る「瑛九は、末松さんのことをよく話していたよ」というエピソードは、端的にそのことを証明している。
ここからは、加藤さんに会ってこの辺の情報を掘り下げる作業と、二人の作品の制作年代の照合が重要な仕事になるが、これは急ぐ必要はない。今回は、香山マリエさんが一週間後に当地においでになり、「囲む会」も予定されている。加藤氏の個展も今年の10月に東京で開催されるという。新しい出会いや発見は、これから始まるのだといえよう。
念のため、一日、宮崎市内の画廊回りをした。当時のことを知る人がまだいるかもしれない、という情報をいただいたからである。けれども、この日は関係者にお会いすることはできなかった。他に立ち寄る場所もあったので、帰りは遅くなり、ギャラリーに着いたときには日は暮れて、辺りは闇に包まれていた。照明を消し、戸締りをして外に出ると、深い森の闇にチカチカと光るものが浮遊していた。
森のホタル(ヒメボタル)であった。

ヒメボタル(姫蛍)は、清流ではなく、森に棲息する陸生のホタルである。成虫がよく光るが、それはオスであり、メスは飛行できないため、分布地の移動性が低いという。源氏ボタルや平家ボタルに比べて一回り小さく、光る速度が速い。そのため、森の中で、チカチカ、チカチカと小さな明滅を繰り返して見えるのである。
この茶臼原台地の一角、私たちの住んでいる「森の空想ミュージアム/九州民俗仮面美術館」の周りの森には、毎年、このヒメボタルが発生する。森の奥から光り出てきたものが、展示中の仮面の部屋に迷い込んできて、幻想的な点滅を繰り返したこともある。旧・協会を改装した「祈りの丘空想ギャラリー」の周辺で明滅するヒメボタルもまた、美しく、夜の森を飾った。
(続く)

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