ちょろきんの戯言

主に毎日のごはん、イベント、想ってる小さなこと。

たぐちの記憶

2015-06-21 | ♪ふるさと鍋の~♪

 

私のふるさと♪ 鍋。

かつて大正町という地名があり私はそこに10年おりました。

近くにはスーパー、八百屋、魚屋、肉屋と少し歩けばすべてが揃うという、今思えば狭い地域に密集していたことから

とても便利な場所だったと思います。

私がいつも駄菓子を買っていたのは、1番近所のたぐちと、はまなか。

タブン、田口、浜中さんなんだろうと思いますが、このたぐちの親族の方からコメントをいただいたので、私の記憶を

忘れないうちに引っ張り出しておこうと・・・

私が記憶しているたぐちのお店は

ヘタクソな絵で申し訳ない

確か、、このような感じでした。タブン、シャッター2枚分だったのか、右半分は子どもの私にはまーたく興味のない世界。

母と買い物に行っても私は駄菓子のほうにいましたから、野菜やら雑貨やらを買っていたんだと思いますが、

ほとんど記憶になく、、

私の担当区域は左側のスペース。

駄菓子は金属の棚に置かれ、はやまのそろばんに行く前には、必ずここで駄菓子を買って行ってました。

その当時のおこずかいは1日40円でした。(小学校4年生)

40円もあれば、チロル・ベビースターラーメンが買えてたんじゃないかな。チロルは3連のヌガーが入ったタイプのヤツです。

 

その駄菓子の横にあった道に面して見えるように置いてあったガラスの陳列ケースには、今はなき、呉製パンの銀チョコ様が

おいてありました。

当時、我が家では菓子パンなるもの買ってもらった記憶がなく、いつも食パンでした。

でも、体調を崩したときには、この銀チョコを買ってもらえてたのです。

特に兄がこの銀チョコが好きだったのか、呉製パンを買いに行ってた記憶があります。

呉製パンを扱ってるお店は、8区ぎりの伊藤耳鼻科さんより少し音戸側にあった(鍋タクシーの駐車場よりは桟橋寄り)あれは、

何屋さんだったんだろう・・やっぱりパンの陳列がオモテに面してあったお店が1軒ありました。

その並びに銭湯があったんじゃないかな。

その向かい側には糧配があったと思います。お米やプラッシーとか売ってた・・。

たぐちの話に戻りますが、ガラスの陳列ケースの後ろ側にはアイスクリームのケースがあり、そこでいつもホームランバー的な

バニラの立方体のアイスを買ってました。

  これです。これ。

当時、10円だっかんかな・・記憶が曖昧ですが、1本買って、食べてそしたら、アタリが出て、たぐちにもう1本換えに行って、

もう1本食べたら、それもまたアタリだったという、、、、、ひょっとしたらあの時、運を使い果たしてしまったのかしら・・・私。

そのアイスのケースは、冬になるとなぜかトタンのようなカバーがかけられ、開かなくなっていました。

冬は営業中止というワケです。そのトタンが取り外されるのが楽しみで楽しみでたまらなかった記憶があります。(なぜかこういうしょーもなないことはよく覚えてる自分が情けない・・・)

アイスケースとパンのガラスケースの間を奥にいくと、畳の間があったような気がします。

お店にだれもいないときには、その奥からおばちゃんが出てきてたと思う。

お店をしていたのは、姉妹だと当時聞いてたような気がします。

白髪のおばあちゃん。髪を後ろ1本で束ねおだんごにしていた、そしていつも着物に割烹着だった・・

もう1人白髪のおばあちゃんよりは若く見えるどちらかといえば、おばちゃんに近い女性がいらっしゃったような。

タブン、子どもの目からみると、白髪というだけでおばあちゃんと位置づけられていたに違いないと思います。

なので、ホントウはもっとお若い方だったのかもしれません。

そして、お店の右側部分には、野菜・果物がザルに盛られておいてあるような、いわゆる昔の八百屋的な陳列があり、

後ろの棚には、

 昔懐かしい、洗濯洗剤が並べてありました。

ザブなんて、超懐かしい・・・

ネットってスゴイね。ぐぐると画像が出てくるんだよ。こんなに古いものなのに。

こんなデカイ洗剤、今思えば非効率的だよな。今の時代は進化してるってことだわ。

母は父のお弁当を作るのに、朝いちでよくお惣菜を買いに走ってましたね。

ちくわの磯辺揚げとか、かまぼこの天ぷらとか、私が朝起きると、たまに父のお弁当が残されてるときがありました。

『きょうは、お父ちゃん弁当いらんのんと。』

アルミの弁当箱にはたぐちで買ってきたと思われる天ぷらが入ってたりして、それがまだぬくかったりして、、

朝からその弁当を食べてた記憶があります。

たぐちは当時、6時には開いてたと・・・朝早くあけてくれて、惣菜もあるので助かる・・・と母は言ってました。

庶民のお台所的な存在だったんじゃないでしょうか。

 

と、まあ私の記憶はこんなもんです。

たぐちが2階建てだったような、平屋だったような・・

畳みの間のとこに階段があったような気もするし、あれは、ヨソのお店だったのかも・・・というような気もします。

親族さんがいわれてる、後の建物は

自動販売機があるところの建物じゃないかと思うのですが。

1990年に私が近所に結婚して住んでいたころには、千成という うどんやさんでした。

何度か食べに行ったこともあります。

めがねをかけたパーマをあてたおばちゃまがお店を切り盛りしていたようなまた曖昧な記憶ですが・・

その隣のシマシマの日よけのあるところは、菅内科です。

もう、この当時お父様が亡くなられていて病院は閉院してました。看板がなくなってます。

現在はこの場所は更地にはなってなかったような気がしますが、違うものになってると思われます。

 

親族さん。

親族さんの先祖の方には私はお世話になりました。私の鍋での10年間にはたぐちは忘れられない記憶です。

何かのご縁ですね。

ありがとうございます。

ということで、鍋探検も進まぬウチに、たぐちの思い出を先に書きました。

 

2015.06.28追記

呉製パンがいつ廃業されたか、よくわからないのですがネットでぐぐってみたところ

私の記憶に近い銀チョコパンを発見しました。

 ほんとに、銀のアルミホイルに包まれてるそんなパンでした。

当時、我が家ではアルミホイルを使うシーンがなく、この銀色のものはパンを包むものだと当時は思ってました。

この給食パンの形をしたパンにはチョコレートがコーティングされていて、半分に切れ目が入ってる中には、クリームが入っていた記憶があります。

特別なパン=銀チョコでしたね。 

 

コメント (7)
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