九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

肥田八郎宗直は大蔵永秀の弟であり、曽祖父は相撲で有名な大蔵永季だそうだ。 宗直は源頼家と蹴鞠をする相手であった。

2024-05-20 | 九里バラバラ情報








肥田宗直は大蔵永秀の弟ということのようだが、
姓氏家系大辞典によると、肥田宗直は藤原姓の伊豆国田方郡の肥田村から起った苗字のようである。

この肥田宗直は、源頼家の蹴鞠の仲間であったようで、吾妻鑑にその名が記載されている。
さらに野本時員の身を預かるからには、信頼されていた人物だったのだろう。

大蔵永隆の弟という説も、漢字は「日田」と「肥田」だが、つながりがあるかもしれないという処から出てきた説かもしれない。

永隆の曽祖父は「むかし豊後の日田に大藏永季、通稱を鬼太夫といふ力士がありました。大力の評判が段々に高くなつて、後に京都の相撲の節に召されて、出雲の小冠者といふ天下一の力士と、力を競べることになりました。」と相撲で有名な人物だったそうだ。(次回詳しく書こうと思う。)


私は、武蔵国の稲毛庄内の「有間」が肥前国の高来郡の有間氏へ、そしてやがて有馬氏になっていったと思っているので、

この肥田村と日田郡もどちらが先かはわからないが、つながりのあるのではと思っている。

そして、日田郡を調べている際に、たくさんの富来氏の情報が入ってきた。
大友氏家臣であったそうで、その後地元の紀氏とつながっていたようである。

此の富来氏(トミク・フク)と冨城氏・富木氏(トキ)は?
豊後国の富来氏と能登の富来荘の富来氏は?

この辺りにも、もう少し踏み込むことができれば…と思う。
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九里領を六角支配より切り離し、将軍家直領として九里家へ永代御預けされ、将軍御直臣となって京邸も賜ることに相成る。

2024-04-19 | 九里バラバラ情報
 九里領を六角支配より切り離し、将軍家直領として九里家へ永代御預けされ、将軍御直臣となって京邸も賜ることに相成る。
近江八幡人物伝 江南良三著



日野川中流域 や、沖島、そして旧 九里領たる湖東沿岸の船木荘等、六角政権期以来の水運の要衝地である。史学雑誌106号 



本日一番気になったのが、皇嘉門院領であった「いなけ本庄」(武蔵国・橘樹郡中原あたりか?)

皇嘉門院譲状…に記載があったのが、武蔵国稲毛下総国三崎能登国若山であり、
何れも、中原・九里氏と関係のありそうな場所であった。

最後の極めつけは、この「稲毛庄」と「肥前国高来深江」が交換になる事であった。
では、深江蓮忍は、九里太郎の蓮忍入道のことだったのではないだろうか?
しかも、同じく高来の東郷の野本行員は、肥前には赴いていなかったようだ。



東郷は地頭行員とあり、野本越中行員と思われる。

皇嘉門院領は九條家に渡った領もある。
もしかすると、九條家に渡った後のことであったかもしれないが、中原のある稲毛庄に、片岡経春のいた三崎庄、そして久能利が日野氏被官となって働いていた若山庄。
この符号は見落とせない!と思った。

皇嘉門院とは?という処から学んでいかないといけないが、この角度から調べてみると、何か新しい私的発見があるかもしれない。




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(大江)俊泰  九里館へ  近衛家と北小路家(大江氏)

2024-03-25 | 大江氏
永正元年(1504年)
近衛政家 後法興院記 下巻 10月16日 【俊泰差下江州 九里館】とある。
義澄が水茎岡山城に来るのは1508年であるため、それ以前にも近衛氏とはつながりがあったと思われる一行である。
 
この大江俊泰の養女となった女性が北小路俊子で、近衛政家に嫁ぎ、尚通を産んでいる。
この大江俊泰は北小路俊泰ともいう。(近衛家の家司である大江姓北小路家 )

何かしら用事を受けて九里館に来たような気がする。

政家は1505年迄しか生きていなかったので、足利義澄のその後(水茎岡山城の件)には関りはない。

政家の息である尚通の時代となって、足利義澄の件で深く九里と関わるようになるのである。
                        


蔵人・上北面や近衛家諸大夫を務めた北小路家である。




俊子は北小路俊泰の養女で、実は越前国の武士加治能登入道の娘。という事である。

*****

前記事では、日野家のことを取り上げたが、日野家と近衛家との関係はどのような物であったのだろう。

中世文人貴族の家と職—名家日野家を中心として—(申 美那)によると、

【兼光は長男資実と長親を九条家に入れ、日野家の将来を九条家に託する選択をした。兼光がこのような選択をしたのは、日野家が代々領家職を知行する若山庄など皇嘉門院領が九条良通に譲られたことに起因するところが多い。】

兼光は五男頼資を近衛家に入れたが、頼資から勘解由小路と号する新しい家が分かれる。 】

この「入れる」は、どうも家司として務めさせる‥‥の様な意味合いなのだろうか。

広橋兼仲の例を見ると、家司・執事となって鷹司家と近衛家の家のことに携わっている。

広橋 兼仲   (1244-1308)
広橋 兼仲(ひろはし かねなか)は鎌倉時代後期の公卿。 『民経記』の著者広橋経光の次男。 勘解由小路 兼仲(かでのこうじ かねなか)の名で知られている。 日記『勘仲記』の著者。 建長4年(1252年)に元服、正嘉2年(1257年)に叙爵し、紀伝道(文章道)を学ぶ。 正元元年(1259年)に民部少輔に任じられ、近衛家・鷹司家の家司となり弘安元年(1278年)より鷹司兼平・近衛家基の執事を務めた。 弘安3年(1280年)に兄兼頼が没すると嫡子として扱われ、弘安7年(1284年)に蔵人に任ぜられ、同10年に右少弁、正応元年(1288年)に左少弁、翌年には右中弁、左中弁に、その翌年には右大弁、左大弁..となる。


つまり、日野家を通じて、九里氏は近衛家にも出入りをするようになったのであろうと思う。

以前記事にしたように、その他にも「後法興院記」に九里の記載が出てくるのである。




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九里の和歌山系図より 小堀氏系図 と 日野俊基の家司後藤助光か?と思われる「小堀助光」

2024-03-25 | 日野氏
九里の和歌山系図の助光が日野俊基の家司?であった後藤助光(太平記)と同時代のようなので、気になっている。1200年後半から1300年前半位生まれの人物であろうと思う。

この系図は和歌山から出てきたものだそうで、途中からしか入手できていない。 ↓

お心当たりの方がいらっしゃいましたら、是非お教えいただきたく思っております。


途中からは近江国御家人井口中原系図と同じキーワードが出てくるため、繋がっていると思われるのだが、名前の通字は違っている。

前半部分が明らかになることで、小堀九里につながる中原藤原秀郷流ということが、証明されるかもしれない。








さて、小堀助光と後藤助光は同一人物かどうか…
また、後藤助光なる人物は実在であったのだろうか?

日野俊基とは、調べてみると俊基の7代前の日野実光から資憲・資長と分かれている資憲の流れであった。




*****

日野家と九里氏(小堀氏)のつながりで、考えられる点をいくつか挙げてみようと思う。

貴光女(吉光女)の母が源朝長と同母で、義朝の妻であった。つまり貴光女の母は中原久経の母でもある。久経は親鸞の叔父になる。(西山深草氏の説)

繋がりは、日野家の親鸞から始まっているのではないだろうか?

近江国の中原の経久の叔父にあたる中原景経が1244年広橋経光(勘解由小路 経光 )に判官にと推挙されている。結果はわからない。
その時、景経は近江国伊香郡の富永庄の召次勾当であった。


日野家は【珠洲】に若山庄を持っていた。
(現在地震で大変なことになっている。心よりお見舞い申し上げます。)

若山荘とはどのような荘園だったのだろうか。


《 能登国珠洲郡にあった能登最大の荘園で、現在の珠洲市西部から能登町の旧内浦町地区全体まで広がっていました。
若山荘は、平安時代末期の康治2(1143)年、能登守・源俊兼の子・季兼(すえかね)が領家職を確保しながら土地の保護を求め、皇太后宮藤原聖子(皇嘉門院〈こうかもんいん〉)を本家と仰いで寄進し、成立したとされています。

承久3(1221)年の「能登国田数目録」には、公田数500町(1町は約1ヘクタール)との記録があり、国内の荘園・国領の中でも最大規模を誇っていたと考えられています。

本家職は皇嘉門院から九条家、領家職は日野家へと伝えられ、地元の武士である打波家や本庄家、松波家が荘園の経営を担いました。当時、園内で盛んに焼かれた珠洲焼は、富山湾を経由して日本海沿岸の東北地方まで広く流通していました。》(コトバンクより)

この松波氏と共に被官と成っていたのが、九里氏(九能利とかかれている)だったのである。
この松波氏は藤原秀郷流波多野氏の末裔とも言われている。



上記から省略 ↓

【若山荘は、日野兼光からその子・日野資実(すけざね)へと伝領され、能登最大の荘園である若山荘は、日野家領となっていく。日野資宣 の名もある。

松波氏・久能利(くのり)氏・山方(やまがた)氏の諸氏についても、本庄氏と同様、荘園領主の日野氏と結んでいた。 】



日野氏と中原氏・藤原秀郷流氏・大江氏とはつながりがあるようで、その後も九里との縁も続くのである。

足利義澄の正室が日野阿子で、日野冨子の姪であった。
俊基とはまた別の系ではあるが、足利義澄が最後に九里氏を頼って水茎岡山城にやってきた背景に、日野氏とのつながりもあったのではないだろうか?

全く知らない一族の許に逃げ込むとは考えられず、困った状況とはいえ、なんらかの繋がりがあったから…と思うのである。









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大江久家と中原久家、同世代である。 西浅井町阿弥陀寺の胎内納入文書には中原吉弘の名が!

2024-02-07 | 九里【只今の状況・まとめ】
この大江久家は【山城江次久家】となって文書に登場する。
(久兼は山城介であった。)
下記の文書では【若宮陪従江右近将監久家】とある。







【多好方】コトバンクより
1130-1211 平安後期-鎌倉時代の雅楽家。
大治(たいじ)5年生まれ。多近方(ちかかた)の子。建久2年源頼朝にまねかれて鶴岡八幡宮の楽人らに秘曲を伝授し,飛騨(ひだ)(岐阜県)荒木郷をあたえられた。一者(いちのもの)を22年間つとめた。建暦(けんりゃく)元年6月5日死去。82歳。

*****

一方、延応元年(1239年)に譲り状を書き、その後、朝厳法師が亡くなる。
その嫡子が1247年に
能登国高畠荘加納小柴村(こくぬぎ・むら)の地頭職を相伝したという。【中原久家】という。







中原久家の父は【朝厳】という。中原には親厳・基厳がいるため、つながりがあるかもしれないが、系図には見えない。





そして、太政官使 中原吉弘が気になって調べてみると、近江国の人物らしい。

以下の胎内納入文書の中にその名が残されていた。もと伊香郡であった西浅井町である。


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能登地震 お見舞い申し上げます。

2024-01-03 | 日記

おめでたいはずのお正月にこのような甚大な被害があり、なんとお声掛けしたらよいものか…と…

私が此処で書いたところで何も自体は変わらないのですが、
地震国日本では他人ごとではないと思ってしまいます。
そして、古来より幾多の大地震を乗り越えてここまで続いてきたはずです。
どうか気を落とさずに、お願いいたします。

被災された方々には、これ以上被害が大きくならぬように心よりお祈り申し上げます。

思いもかけず亡くなってしまった方々には、ご冥福をお祈り申し上げます。

能登半島の左側には富来院?(荘)があり、先の方には九里尻があり、九里にもご縁のある場所です。

どうか気を落とさずに、お願いいたします。

神様、どうか立ち直る力を、立ち直るための光を降り注いでください!!



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乾庄司 新介  伊吹に住む(3)乾駒之丞雅勝と永原越前守重行

2023-11-17 | 乾氏
『雅勝』という名前と『重行』という名前には隔たりがあるため、この間に養子縁組か賜字か何かがあったと思われる。

さらに、永原城主の乾主膳正秀之と『雅勝』も遠い。



系図を見ると、同じ年代の永原氏(別系)の正光も「まさ」、乾雅勝も「まさ」である。

さらに、次の年代の別系の永原氏重・吉重と本家の永原重行以降「しげ」が通字となっている。




もっと俯瞰的に見ると、佐々木流山崎氏の系から出た永原氏の名前とリンクしていることに気が付く。

上のアドレスの中の系図(54)に 山崎氏から分かれた永原に頼行という名が現れる。
宗行・雅行ときて雅勝となる秀郷流の永原氏と佐々木流山崎氏の間で何かあったと考えられないだろうか?

(56)の年代を見てみると、六角高頼の弟が、山﨑氏流永原氏と秀郷流永原氏の両方に弟を養子に出している。
永原高賢と永原重賢である。

*****

近江國野洲郡永原村に入った山崎氏が(49)の代で 『初代の永原右馬助景長』となり、(54)の代で、同化したのではないだろうか?

さらに、その間に永原新左衛門入道正光の系が挟まる形で入り込んでいる。

秀郷流の永原氏は足利将軍家を支える系、佐々木流山崎氏の永原氏は永原城主の系、永原新左衛門の系はやがて佐々木六角家を支える系になっていく、、、のように見える。

*****


上記より、気になる部分をピックアップと少し改変。


永原重隆 (~1550)太郎左衛門・越前守。六角家家臣。1537年「法華一揆の乱」に進藤貞治とともに上洛。延暦寺と法華宗の抗争を調停。
九里源兵衛もその調停の場にいた。

永原重澄 (~1561)安芸守。六角家家臣。六角義賢に従い、畠山高政の後詰として、1万兵を率いて出陣。


(水茎岡山城) 
九里信隆 (~1514)くのり・備前守。将軍・足利義澄を岡山城に保護
足利義稙の追討令で管領・細川高国、京極高清、六角氏綱に攻囲されるも、伊庭貞隆が救援。将軍・義晴は岡山城で誕生した。水茎岡山城主。

九里浄椿 (~1514?)くのり。信隆の息ではないかもしれない。 
伊庭貞隆、貞説親子と結んで反乱。高頼に暗殺される。水茎岡山城主。

九里宗恩 (~1525)くのり・伊賀入道?・宗忍?(宗恩と宗忍は別人)
後藤氏の被官・杉山藤三郎に討たれる。与力に西川又次郎


1525年軍代・六角定頼(~1552)の軍事編成
1525(大永5)年、対浅井亮政戦 守=佐々木一門、殿=朽木氏。
守護代家。1525年「小谷城攻略」浅井亮政を美濃に落とす。

先陣 佐々木五郎<朽木殿>
右翼軍 進藤・高野瀬・山崎・永田(刑部)
目賀田・池田・後藤・三雲・上城
左翼軍 三井・平井・下笠・楢崎・三上・永原

後詰 田中<朽木殿>・横山<朽木殿>・山崎<朽木殿>・馬淵
堀(佐々木能登守)・永田(佐々木伊豆守)・永田(佐々木能登守)

六角義賢(1552~1561隠居)の軍事編成
1560年「野良田の合戦」浅井長政の独立、肥田城・高野瀬秀隆の離反。
『江濃記』・『浅井三代記』
六角軍2万2千兵。
先陣=蒲生右兵衛大夫定秀・(結解十郎兵衛)・永原太郎左衛門重興・進藤山城守賢盛・池田次郎左衛門景雄

第二陣=楢崎壱岐守・田中治部大夫・木戸小太郎・和田玄蕃・吉田重政
本陣=六角義賢・後藤賢豊・(平井・和田和泉守)

永田景弘 (~1582)長田・佐々木・刑部少輔・正貞。高島郡佐々木氏の庶流、高島七頭の永田氏の分流の系統。南近江国衆。蒲生郡の土豪。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。1570年5月に信長から中島郡、中郡の所領を安堵される。織田家に臣従し、中川重政の与力に配属される。
舎弟・九里氏の跡領を信長から保証されるというので、弟は戦死したか(スパイ容疑で信長に嫌われ浅井氏配下に行ったか?)
永田氏は琵琶湖の水運に関係していたという。

・・・・



はて、乾主膳正秀之(=乾甲斐守秀之)は、一番上の系図には見えてこない。

しかも、この人物の系こそが、九里のいた水茎岡山城城主と長命寺縁起に載っているのである。







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山﨑氏

2023-11-08 | 近江山崎氏
山﨑氏の周辺をランダムに調べてみた。

山﨑・柳田・矢田部教授(朝ドラの「らんまん」の田辺教授)


佐々木氏にはいくつかの流の山崎氏がいたようである。

【姓氏と家紋の山崎氏】さんのページから ↓
「武家の山崎氏では、宇多源氏佐々木氏流が有名である。佐々木神主系の分流といい、系図によれば佐々木源四郎大夫行家の子六郎憲家が佐々木を改めて山崎を称したことになっている。 『寛政重修諸家譜』には、「相模国山崎に住し、のち近江国に赴き、犬上郡山崎の城に住し代々佐々木氏に属した」とあり、相模国山崎は鎌倉郡内山内荘山崎郷に該当するようだ。代々、佐々木六角氏の被官であったが、戦国時代の山崎片家は織田信長に仕え、次の家盛は豊臣秀吉、その子家治は徳川家康に仕えて讃岐国丸亀五万三千石の大名に出世した。
佐々木氏系からは隠岐氏から分かれた山﨑氏、佐々木秀綱の五男山﨑六郎重清に始まる山﨑氏などがある。いずれの山﨑氏も「四つ目結」を家紋に用いているのが特徴である。 

此の秀綱のwikipedia


 田中氏の系譜(佐々木哲学校 ブログ記事より)

私が気になった部分を書きだそう。

高島郡田中郷の所職は、もともと「田中入道」と呼ばれた山崎憲家(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)の子孫が有していたと考えられる。-略ー
(愛智流田中入道憲家の子孫山崎氏が越前にいた。)

明徳二年(1391)九月には、田中殿が賀茂別雷社から高島郡安曇川御厨の所務を預けられた(朽木470)。

高島七頭は室町将軍奉公衆(直臣団)
佐々木越中刑部大輔孝俊田中四郎兵衛尉頼長足利義輝元服式でも警固を勤めており(光源院殿元服記)、越中家と田中氏がそれ相当の軍事力を動員できたことを示している。田中氏が佐々木出羽家の嫡流と分かる。

愛智流山崎氏と高島七頭
高信の子孫は西近江に地盤を築き、嫡流の越中家(高島)をはじめ能登家(平井)・朽木・横山・田中・永田の高島一族、および本佐々木愛智流の山崎氏を含めて「高島七頭」と言い、「西佐々木」と称された。能登家と平井氏は同氏であり、西島太郎氏は山崎氏を高島七頭のひとつとしたが、卓見である。

平井村も愛智家次の子平井家政にはじまる平井氏が開発したものと考えられる。能登家も高島郡に移住した愛智流平井氏の跡を継承したものだろう。
愛智家次は愛智郡大領や近江掾(在庁官人)を勤めた愛智秦公の子孫と考えられる。

佐々木愛智流山崎氏が愛智郡から高島郡に進出したように、
愛智郡と高島郡つながりがあったことが確認できる。
 

山崎氏に関わりのある五番領が14頁目の地図にある。↑

継体天皇にゆかりの場所のすぐ近くである。


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近江国御家人井口中原系図の中の 中原成行の系

2023-05-01 | 中原氏バラバラ情報

復習も兼ねて、中原成行、中原政康に関しての情報を集めてみよう。

中原成行は1106年(長治三年)の時に、院の召次勾当であり、院召次所に所属し、院中の雑事・御幸の供奉などを勤めていた。

平戸記には「能登権守中原成行」と残されている。

また、系図の註には『愛智郡大領』『近江国七郡郡司賜 始 住愛智郡長野郷…』

七郡…平安時代、いくつ郡があったのだろう。

wikipediaによると平安時代とは限らないようだが、近江国には12の郡があった。とすると当時は半分以上が中原成行が郡司を務めていたことになる。

当然一人では無理なので、成行の兄、弟、息、甥、などもその手足となっていたのではないだろうか。

時代は平安時代後期から鎌倉時代となると思うが、中原政康が気比神社に40年も神人(養子として入ったようである)としていたことがわかっている。

大番役を務めるようにと(守護から)中原政康に催促が来ていたが、それを断っている。

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-0a1-02-02-03-05.htm

 

政康の書状には、

『自分は先祖以来「兵の氏」ではなく「弓箭の道」を永く絶っており、敦賀郡に居住して日吉神人であるとともに、「気比大菩薩神奴」(気比神人)を兼ねた養父の跡を継いですでに四〇年も当郡に居住しているが、大番役を勤めたことはないと強調』とあったそうだ。

 

政経と関係があるとすれば、成行の兄であった経行の系となるのではないかと思う。

 

前回に中原友景が成行の系からでていることがわかったが、

政経が三左衛門事件の為に逼塞していた為か、名前が出ていないのだが、経行の系と思う。

 

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中原景安(景康)ー 友景 ー 宗景 ー 景氏 ー 孝景

2023-04-30 | 中原氏バラバラ情報

先日、佐治重家と中原友景(西園寺家の後見と言われていた)のことを調べていて、友景を中原景安の息と位置付けたが、近江国御家人井口中原系図の中では、

 

景康ー友景…とあり兄(弟)にあたる光氏が見えない。

また、鎌倉幕府に仕えた楽士の系図を見ると、景安ー光氏とあり、(兄)弟にあたる友景が見えない

 

中原有安の養子となった景安は、東国に光氏の系を残し、

有安の養子となる以前なのか?景康の次男友景からつづく系は、近江国の中で続いていたと思われる。

特に中原友景は、院の下北面の武士、又、西園寺家の武家との申次の役を担うものとして重要な立場にいた。

 

が、あくまでも景安=景康という、想像である。

 

景安・と景康が『別人』であった可能性もあると思う。

が、友景、下記の系図からもわかるように石見守となっている。

その部分が、私には清原氏と中原氏の接点でもある有安が関係している証拠と見ているのだが、どうであろうか。

*****

さて、後嵯峨院の許で北面武士となっていた友景は、1217年修明門院の下北面を皮切りに、検非違使、案主、等を務め、後嵯峨院にも仕えていたようである。

小中次なので、次男と思う。 景康の註には藤堂中太とある。

 

 

最後の孝景、高山公実録 藤堂高虎伝に

「能登守仕足利義輝弘治二年叙從五位下藤堂孫二郎中原朝臣高景父八從五位下藤堂因幡守中原景保属佐々木京極家賜高字怎子孫為 ...

三井出羽守二男「高虎にあらす又系図によるに景氏の子二人あり兄を孝景といひ弟を政景といふ高信君は政景の統にして孝景 ...」

三井高信。

 

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