蔵人・上北面や近衛家諸大夫を務めた北小路家である。
大治(たいじ)5年生まれ。多近方(ちかかた)の子。建久2年源頼朝にまねかれて鶴岡八幡宮の楽人らに秘曲を伝授し,飛騨(ひだ)(岐阜県)荒木郷をあたえられた。一者(いちのもの)を22年間つとめた。建暦(けんりゃく)元年6月5日死去。82歳。
守護代家。1525年「小谷城攻略」浅井亮政を美濃に落とす。
右翼軍 進藤・高野瀬・山崎・永田(刑部)
・目賀田・池田・後藤・三雲・上城
左翼軍 三井・平井・下笠・楢崎・三上・永原
後詰 田中<朽木殿>・横山<朽木殿>・山崎<朽木殿>・馬淵
堀(佐々木能登守)・永田(佐々木伊豆守)・永田(佐々木能登守)
『江濃記』・『浅井三代記』
先陣=蒲生右兵衛大夫定秀・(結解十郎兵衛)・永原太郎左衛門重興・進藤山城守賢盛・池田次郎左衛門景雄
本陣=六角義賢・後藤賢豊・(平井・和田和泉守)
明徳二年(1391)九月には、田中殿が賀茂別雷社から高島郡安曇川御厨の所務を預けられた(朽木470)。
愛智流山崎氏と高島七頭
高信の子孫は西近江に地盤を築き、嫡流の越中家(高島)をはじめ能登家(平井)・朽木・横山・田中・永田の高島一族、および本佐々木愛智流の山崎氏を含めて「高島七頭」と言い、「西佐々木」と称された。能登家と平井氏は同氏であり、西島太郎氏は山崎氏を高島七頭のひとつとしたが、卓見である。
愛智家次は愛智郡大領や近江掾(在庁官人)を勤めた愛智秦公の子孫と考えられる。
復習も兼ねて、中原成行、中原政康に関しての情報を集めてみよう。
中原成行は1106年(長治三年)の時に、院の召次勾当であり、院召次所に所属し、院中の雑事・御幸の供奉などを勤めていた。
平戸記には「能登権守中原成行」と残されている。
また、系図の註には『愛智郡大領』『近江国七郡郡司賜 始 住愛智郡長野郷…』
七郡…平安時代、いくつ郡があったのだろう。
wikipediaによると平安時代とは限らないようだが、近江国には12の郡があった。とすると当時は半分以上が中原成行が郡司を務めていたことになる。
当然一人では無理なので、成行の兄、弟、息、甥、などもその手足となっていたのではないだろうか。
時代は平安時代後期から鎌倉時代となると思うが、中原政康が気比神社に40年も神人(養子として入ったようである)としていたことがわかっている。
大番役を務めるようにと(守護から)中原政康に催促が来ていたが、それを断っている。
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-0a1-02-02-03-05.htm
政康の書状には、
『自分は先祖以来「兵の氏」ではなく「弓箭の道」を永く絶っており、敦賀郡に居住して日吉神人であるとともに、「気比大菩薩神奴」(気比神人)を兼ねた養父の跡を継いですでに四〇年も当郡に居住しているが、大番役を勤めたことはないと強調』とあったそうだ。
政経と関係があるとすれば、成行の兄であった経行の系となるのではないかと思う。
前回に中原友景が成行の系からでていることがわかったが、
政経が三左衛門事件の為に逼塞していた為か、名前が出ていないのだが、経行の系と思う。
先日、佐治重家と中原友景(西園寺家の後見と言われていた)のことを調べていて、友景を中原景安の息と位置付けたが、近江国御家人井口中原系図の中では、
景康ー友景…とあり兄(弟)にあたる光氏が見えない。
また、鎌倉幕府に仕えた楽士の系図を見ると、景安ー光氏とあり、(兄)弟にあたる友景が見えない。
中原有安の養子となった景安は、東国に光氏の系を残し、
有安の養子となる以前なのか?景康の次男友景からつづく系は、近江国の中で続いていたと思われる。
特に中原友景は、院の下北面の武士、又、西園寺家の武家との申次の役を担うものとして重要な立場にいた。
が、あくまでも景安=景康という、想像である。
景安・と景康が『別人』であった可能性もあると思う。
が、友景、下記の系図からもわかるように石見守となっている。
その部分が、私には清原氏と中原氏の接点でもある有安が関係している証拠と見ているのだが、どうであろうか。
*****
さて、後嵯峨院の許で北面武士となっていた友景は、1217年修明門院の下北面を皮切りに、検非違使、案主、等を務め、後嵯峨院にも仕えていたようである。
小中次なので、次男と思う。 景康の註には藤堂中太とある。
最後の孝景、高山公実録 藤堂高虎伝に
「能登守仕足利義輝弘治二年叙從五位下藤堂孫二郎中原朝臣高景父八從五位下藤堂因幡守中原景保属佐々木京極家賜高字怎子孫為 ...
三井出羽守二男「高虎にあらす又系図によるに景氏の子二人あり兄を孝景といひ弟を政景といふ高信君は政景の統にして孝景 ...」
三井高信。