九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

内藤氏 

2022-09-05 | 藤原氏

以前書いた記事からだが、

 

そして今まで知らなかった「新庄氏」坂田郡新庄! ↓  web情報

藤原秀郷は一説に近江国栗太郡田原郷から出たというように近江と縁があり、近江北部には秀郷の後裔を称する武士が多い。 蒲生氏、今井氏、堀氏、泉氏、井戸村氏、小堀氏、そして新庄氏らは、すべて藤原秀郷の後裔季俊の末となっている。季俊 の兄にあたる行俊は内藤氏の祖でその子孫からは丹波、周防、三河の内藤氏が出て、 三河内藤氏は近世大名として続いている。
 さて、季俊の後裔俊綱は今井氏を名乗り、曾孫の遠俊は足利尊氏に従って功があった。その子俊名は足利二代将軍義詮に仕え 近江国坂田郡新庄に居住して新庄を称したのだという。以後、新庄氏の代々は足利幕府に仕えるが、本家筋にあたる今井氏 と比べるとその動向は詳らかではない。

 

 

秀郷の子孫であり、代々内舎人であったようだ。という事は、京都暮らし。

坊門信清の娘が嫁ぐ際に、随ってきた者であろうと思われる。

 

蛇足だが、坊門信清の娘は後に

  西八条禅尼坊門信清の娘)

となり、82歳まで生きていた。実朝亡きあとすぐに出家し、京に戻っていた。

夫であった実朝が殺されたのは26歳の時の出来事。そこから56年間…どんな思いで生きていたのだろう。

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内藤朝親(知親) 相模内藤氏・津久井内藤氏 秀郷流

2022-09-05 | 藤原氏

源実朝に出来上がったばかりの新古今和歌集を持参してきた人物、内藤朝親!(知親とも書く)

一体どのような人物だったのだろうか?

武家家伝 津久井内藤氏 さんにページより ↓

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tuk_naito.html

 『津久井城主内藤氏は北条氏の重臣として、関東の戦国時代を生きたが、その出自、系譜に関しては不明なところが多い。わずかに、藤原秀郷の子孫と称する内藤氏の末と伝えているばかりである。内藤氏の出自を『城山町史』は、文治三年(1187)京都の治安維持にあたった御家人の一人である内藤四郎の家人内藤権頭親家であろうとしている。のちに鎌倉に下った権頭親家は、雪之下に屋敷を与えられて居住した。
 この権頭親家の子孫が鎌倉幕府滅亡後の南北朝の内乱期を生き抜き、室町時代にいたって鎌倉公方足利持氏に仕えた。その後、永享の乱、享徳の乱と続いた争乱で、鎌倉公方家が幕府と対立を続けるなかで、上杉氏に仕えるようになったようだ。』

 

津久井内藤氏の考察 / 黒田基樹『戦国大名領国の支配構造  岩田書院』 というのがあるそうで、機会があれば読んでみたい!と思っている。

 

内藤氏の記述のあるものとしては、

https://www.rekishijin.com/20188

『実朝は、母・政子や祖父・時政の勧める結婚を拒否して京都の前大納言・坊門信清(ぼうもんのぶきよ)の娘を娶(めと)った。その折に挙式に付き添ってきた内藤知親(ないとうともちか)が藤原定家の和歌の弟子であった。実朝は定家が編んだ『新古今和歌集』を希望し、元久2年(1205)4月12日、実朝は生まれて初めての和歌12首を詠んだ。』

 

国史大辞典 https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2140

『早く元久二年四月に十二首を詠じ、歌会もしばしば催した。最初の師は藤原定家の弟子内藤知親と推測されているが、のちには定家に批評を請い、定家から『詠歌口伝』や『万葉集』を贈られている。鴨長明をたびたび引見したのも、和歌への関心に基づく。

 

この記事にも 「いざ鎌倉(24)」様のページ より

建永元(1206)年2月4日、北条義時の山荘に雪見に出かけた実朝は歌会を開き、北条泰時・東重胤・内藤知親といった側近が参加しました。
また、承元2(1208)年5月29日、御台所の侍で京からやってきた藤原清綱が家伝の『古今和歌集』一部を実朝に献上しています。

https://note.com/kiyosada/n/n5b4502c2f536

****

 

御台所の侍であった内藤知親のようなので、実朝とも近く、実朝に成り代わって和歌を習いに行ったのかもしれない。

この人物がいて、定家とつながり、鴨長明にも足を運んでもらい、と、実朝がだんだんと和歌への道にのめり込んでいくさまが見える。

そのきっかけは、源頼朝の和歌であったかもしれないが、様々な閉塞感のある中、唯一自由に自分を投影できたのが和歌だったのかもしれない。

 

矢部氏や三浦氏とつながる津久井氏がいるが、そことこの内藤氏は関係はないのだろうか?

気にかかる【内藤氏】である。

 

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藤原範兼の父「藤原能兼」とは?

2021-07-14 | 藤原氏

従四位下式部少輔藤原能兼1086年 - 1139年

能兼の妹は源頼政の母。 = 藤原友実の娘(下野守 源仲政室)

という事は、能兼の甥が 源頼政であったことになる。

範兼と範季と源頼政は従兄弟であったのだ!

 

源氏びいきの素は、この辺りにある様である。

藤原友実は何度か目にしている。藤原実範の息であった。

https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F%EF%BC%88%E5%8D%97%E5%AE%B6%E8%B2%9E%E5%97%A3%E6%B5%81%EF%BC%89

 

この範季の兄範兼の系も貞嗣系で、範季はそこから分れて高倉家となっているようだ。

貞嗣の系(南家巨勢麻呂)と源頼政とも近い関係であることがココではっきりとした。

 

藤原南家巨勢麻呂の系は、黒麻呂が藻原の開拓領主でもあり、東国とは縁が深い。

ましてや、季兼(熱田神宮大宮司家へ)1044-1101年 とあり、

貞嗣系をもっと遡ると藤原保昌の妻が 和泉式部(父:越前守 大江雅致)であり大江氏とつながり、また藤原致忠の娘は源満仲の妻ともなっている。

 

***

さて、大江能範。

この藤原能範とは同時代を生きているのだろうと思うのだが、一人は熱田神宮大宮司であり、後藤基政の祖父の大江能範は江兵衛尉とあり、別人である、と自分なりに結論が出たのである。

 

この周辺を再び調べる良い機会となった!!と思う。

 

 

 

 

 

 

 

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西園寺実氏と関係があるのだろうか? 源頼政邸の横に「実氏邸」と書かれているようにも見える。

2021-06-21 | 藤原氏

以前のブログから 京の古地図

https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/index_area.php?area=26kyoto

↑のどれかからの部分である。

源三位頼政の隣が(たぶん藤原)秀行卿のお宅で、藤原秀能の息が秀行であったと記憶している。

 

↑ こちらも上記と同様

 

 

↑ こちらは頼政となぜか藤原(多分、西園寺実氏)で、隣が畠山館とある。

 

以下はgooglebooksからだが、ココに関係すると思われる。

 

西園寺実氏の室となったのが四条貞子 ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E5%AD%90

 

藤原秀能は歌人として「和歌所寄人」であったというので、二条院讃岐(源頼政娘)とのつながりもあったのかもしれない。

 

藤原秀能 コトバンクより

https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E8%83%BD-15082

乱後出家,如願と号し,『遠島御歌合』や西園寺家の歌会などに出詠している。秀能は父母共に関東の有力御家人の家柄であり,秀能自身北条氏,三浦氏とも親密であった一方,後鳥羽上皇に近臣歌人として寵愛され,秀能は乱後も上皇を思慕し続けた。

 

歌を通じてのつながりでもあった西園寺家。

 

実氏の祖父が藤原実宗であり、その弟に実明がいる。

実明の孫「実任」のは「平盛連女」とあるが佐原盛連ではないだろうか。

矢部禅尼の娘となるのだろうか?

 

佐原盛連の母は、武田信光の娘であり、信光の父信義は加賀美遠光と兄弟である。(遠光の娘に大弐局がいて、富木常忍の母と共に実朝の乳母となっている)

さらに武田信光は新羅三郎義光の曾孫となる。

新羅三郎義光の娘は佐々木季定(為俊)の妻となっている。

 

蜘蛛の巣のように繋がっている。

 

 

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藤原秀郷流系図(2)藤原藤成の母は津守氏 藤成は藤原北家である魚名の息で、秀郷流藤原氏の祖である。

2021-05-19 | 藤原氏

藤原藤成

藤原藤成の母は津守氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%97%A4%E6%88%90

魚名ー藤成ー豊沢ー村雄ー秀郷 

村雄の妻は鹿島氏

 

秀郷の姉妹には平国香室

秀郷の妻には源通娘・秦氏娘

三男の千晴は後に隠岐島に配流される。

その孫頼遠は「陸奥権少掾坂上頼遠は藤原千清の養子になったという」とある。

元は、坂上氏のようである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E9%81%A0

 

じっくりと見れば、何かしら江州中原氏との接点が見つかるかもしれない!

 

 

 

 

 

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藤原秀郷流の系図の一部 (1) 

2021-05-18 | 藤原氏

 

 

 

 

 

 

 

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780477

コマ19から

 

 

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藤原黒麻呂の母 【藤原弟貞】の娘=【山背王】の娘 という そして 【橘逸勢】

2020-07-29 | 藤原氏

藤原黒麻呂の母は、藤原 弟貞(ふじわら の おとさだ)の娘 = 初名山背王(やましろおう)の娘 と云う。

巨勢麻呂山背王(長屋王と藤原不比等の娘の間の男子)のとの間に黒麻呂を産んだ。
其の黒麻呂が東国 藻原の地を開拓し、領主となった。

では、【藤原 弟貞】とは?
父母 父:長屋王、母:藤原長娥子(藤原不比等の娘)
兄弟 膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王、安宿王、黄文王、弟貞、教勝、円方女王、賀茂女王
妻 あり
子 あり
特記
事項 子孫は永原朝臣。

===*===

弟貞の父は【長屋王】
母は藤原不比等の娘、という微妙な位置に生まれている。

しかも黒麻呂の妻は県犬養氏とある。(810年に黒麻呂歿す。)
県犬養と云えば、県犬養美千代がいる。
敏達天皇系皇親である美努王に嫁し、葛城王(後の橘諸兄)をはじめ、佐為王(後の橘佐為)・牟漏女王を生む。
天武天皇13年(684年)に第一子葛城王を出生しているが、軽皇子(後の文武天皇)は天武天皇12年に出生しており、元明天皇と三千代の主従関係から、三千代は軽皇子の乳母を務めていたと考えられている。

三千代は元明から天武天皇の代から仕えていることを称されて杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を賜り、橘氏の実質上の祖となった。県犬養一族のなかで橘姓への改姓は三千代のみであるが、三千代は改姓後も県犬養一族に属し続けている。

===*===

その娘であった藤原 多比能(ふじわら の たびの、生没年不詳)は、藤原不比等の娘で、母は県犬養橘三千代。橘諸兄の正室橘奈良麻呂の母。聖武天皇の皇后である光明皇后は同母姉にあたり、夫である諸兄は異父兄にあたる。藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂、藤原宮子らの異母妹である。『続日本紀』に出てくる女官「藤原吉日」は多比能と同一人物とする説が定説となっている(角田文衛説)。

【橘奈良麻呂】
その息である【橘入居】(母は藤原宇合の娘か?)
その入居の息に【橘逸勢】(たちばな の はやなり)が登場する。
生誕延暦元年(782年)?
死没承和9年8月13日(842年9月24日)

この【橘逸勢】が和歌山の九里系図に載っていたのを記憶して下さっていらした方が一名!
和歌山熊野本宮大智庵にある九里のお墓を守って下さっていらした方である。(感謝です。)

その和歌山(奈良かもしれないが)にある九里系図を探し求めているが、なかなか見つからず、どのようにつながるのかが不明であるが、九里と橘は繋がっていたようなのだ。

九里の祖「経久」の父「中原」経任」に改橘次と註があり、今の所思い当たるのはその箇所!である。

黒麻呂の妻であり、藤原 春継(ふじわら の はるつぐ)の母である県犬養氏 藻原にも赴いていたのだろうか?
どのような人生を送ったのだろう。

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近江国から上総国藻原へ移動した藤原黒麻呂 と 弟 貞嗣(熱田神宮の季兼に続く)

2020-05-10 | 藤原氏

藤原黒麻呂は近江国で生まれている。
巨勢麻呂の十男=黒麻呂の弟貞嗣の系から熱田神宮の婿となる「藤原季兼」が出ている。

貞嗣の母は藤原永手、妻は沙弥の娘、栄山諸依の娘、多治比公成の娘といわれている。

===*===

三河国額田郡誌


このページによると由利御前の他の姉妹に足利義康に嫁いだものがいるそうである。
という事は、足利義兼は源頼朝と従兄弟であることになる。

源義康・義兼の父方の方も、同じ義家の系である。

八幡太郎義家ー義国ー義康ー義兼 となっている。

が、頼朝に至る代の数が一代分多い。
義家ー義親ー為義ー義朝ー頼朝

===*===

義兼の母は藤原季範養女、義兼の娘は野田朝氏(熱田大宮司)室となっている。
義兼の妻で、野田朝氏の室となった人物の母は、北条時政の娘時子である。

===*===

九里の祖は足利氏という本がある様で、それは未だ見ることができないでいるので、どうかはわからないのだが…

室町時代 六角氏頼の息満高の妻は足利基氏の娘である。
その息子に斯波満種がおり、妻が佐々木京極氏の娘ともいわれているそうである。

その周辺(斯波氏)は、大江氏とも繋がり、佐々木六角氏とも繋がっている。
意外に近い関係であったのだ。

九里種信の「種」は、斯波氏の「種」かも知れない可能性が出てきている、と思う。

足利氏と熱田神宮の大宮司家との関係を探ってみようと思う。


https://mikawa-komachi.jp/history/yoshiuji.html











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二宮社務と成海荘の交換。そして成海神社の神主に久野氏。

2020-03-09 | 藤原氏

前回の久野氏と長谷川氏が同族であった可能性もある…という事で、久野氏を調べていると「原氏」とのキーワードに当てはまった。「成海」である。

この記事は下書きのままお蔵入りしていたのだが、「久野氏」に関係しそうなので、書いてみようと思う。

尾張国二宮の原氏は、良峯姓であった。
そして上総介となっていた。

ここでふと思い出したのが、藤原黒麻呂 774年に上総介となっている。
さらに、その貞嗣の室(藤原範兼娘)所領(成海荘)と二宮社務を交換し、藤原範兼娘が二宮社務を掌握することとなっているのである。


この上記のDBのなかの建保3年(1215年)権大宗頼室、という部分を考察してみる。
権大納言であった【葉室宗頼】の室は藤原兼子であった。
兼子は、藤原範兼の娘で、後鳥羽天皇の乳母でもあった。

wikipediaによると「父・範兼は永万元年(1165年)に死去し、兼子ら子供達は幼くして残されたため、叔父・範季に養育される。一門は後鳥羽天皇と関係が深く、兼子も乳母として仕えた。無名の女性であったが、後鳥羽天皇の信任が厚く、その成長と共に重用され、正治元年(1199年)、45歳で典侍となり、政治の表舞台に現れるようになる。独身であった兼子はこの頃に権中納言・藤原宗頼と結婚している。

建保6年(1218年)正月、鎌倉幕府の将軍・源実朝の後継問題を相談するため、熊野詣と称して上洛した北条政子と対面する。兼子の推挙により、政子は出家後の女性としては異例の従三位に叙せられた。兼子は養育していた頼仁親王を次期将軍に押し、政子も実朝の妻坊門信子の甥である親王を実朝の後継者とする案に賛成し、二人の間で約束が交わされた。この年の11月、兼子の後押しを受ける政子は従二位に昇った。

承久元年(1219年)、実朝が暗殺され、幕府と後鳥羽上皇の対立が深まると、親王の鎌倉下向を拒否する上皇は、兼子を遠ざけるようになる。最終的には西園寺公経の奔走により、摂関家の子息・藤原頼経が次期将軍として鎌倉へ下向した。2年後の承久3年(1221年)、幕府打倒の兵を挙げた後鳥羽上皇によって承久の乱が起こる。上皇は幕府軍に大敗し、倒幕側の中心となった兼子の一族も処刑されるなど連座を受け、後鳥羽上皇・順徳上皇は配流となった。」

頼仁親王は「承久3年(1221年)の承久の乱の結果、父の後鳥羽上皇らが配流されると、親王もこれに連座して備前国児島へと流された。同地において薨去したとされ、児島高徳の曽祖父であるとも伝わる。」…道乗の父である。道乗の母は佐々木氏の加地信実の娘とされ、児島氏の祖となっているようである。

蛇足だが、
加地信実の息と思われる「源実秀」が富木常忍に出した文書が残っている。



話を「良峯姓原氏」に戻すと、藤原南家と原氏とは血縁関係があって、原氏との所領交換となったのではないか…という事である。(血縁関係がなくても所領交換はありえたかもしれないが…)

熱田神宮宮司家も【季範】から「藤原南家が入り込む形」となっている。
ここで、二宮(宮司家良峯原氏・丹波氏など)も手のうちに入れることが念頭にあったのではないだろうか?

尾張国の神社一宮と二宮とは婚姻関係もあり、親しい関係であったようである。
両方を藤原氏の力のもとに寄せようという思惑が1215年にはあったのではないかと思う。

===*===

そして、今日見つけた「久野氏」
http://www.ann.hi-ho.ne.jp/oshd/menmen.htm

始まりから読むと、原氏との関りがあることがわかる。
「1193 久野(久能)四郎忠宗 駿河藤原南家為憲流入江氏の末流原氏の一族、久野家の入り婿か?忠宗兄の原宗俊は遠江原谷(掛川市)に住す(曽我勲功記+岸和田久野家文書)」

「1262 久野讃岐守定全 尾張藩久野家の先祖、遠江原田庄細谷村[掛川市]に原氏庶流として所領を有す(諸氏伝略稿+東寺百合文書)」

「1270頃 久野次郎太屋仲 本国駿河、名古屋鳴海久野家3代、成海神社神主、武官を兼ねる(鳴海久野家系図)

「久野(久能)三郎左衛門宗能 宗明次男、7代遠江久野城主、徳川家康に仕える」
この宗能が「宗安」であり、息も入道となった時に「宗安」を號す

===*===

この久野氏は良峯姓原氏と近かったと思う。
しかし、本能寺にいた原宗安ではないように思える。

宗安の父(義父)という「道受」も、宗安の弟「清安」も今のところ、情報は出てこない。

しかし、本能寺の変を目の前で見ていた人物は二人以上はいたのである!
「日海」(算砂)と「宗安」は、その後も生きている。

日海と碁を対局していた「(林)利玄」は日蓮宗本能寺僧侶であったそうだ。
この人もその後も生きているはずである。

明智憲三郎の本によると、もう一人「弥助」がいたそうである。

そして【本能寺】は日蓮宗のお寺であったことを今回知った。
因みに「宗安」かと思われている原志摩守胤重は、1630年に没している。



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藻原荘 と 藤原黒麻呂 周辺 (3) なぜ上総国で私牧をはじめて藻原を開拓したのだろうか?

2020-02-18 | 藤原氏

保立道久氏 の 研究雑記 HPより
https://note.com/michihisahotate/n/n4794c647bcad

上記の考察を読んで、私なりに解けた部分があったので書いておきたい。

黒麻呂の父巨勢麻呂は仲麻呂の弟であり、協力していたと思われる藤原仲麻呂の乱764年のあたりに没している。

黒麻呂が上総介に補任されたのが774年(黒麻呂は近江国生まれ)…近江のどこで生まれたのかなぁ。
【仲麻呂の乱の影響】もあったであろうことが上記のHPに書かれていた。

780年に治部大輔となる。(6年間上総にいた)この後も息の春継はそのまま住み続けていたようで、
『常陸大目坂上盛の女をめとって、父黒麻呂とともに開発した藻原荘に住み生涯を終え同荘に埋葬された』とwikipediaにはある。

877年黒麻呂の孫であった良尚が他界。良尚の父春継の遺言であった「藻原荘」を興福寺に施入する件は黒麻呂の曾孫の菅根が行う(890年)。

菅根の息は元方。
元方の娘は、源雅信に嫁ぎ源 扶義(みなもと の すけのり)のとなる。
この源 扶義の息成頼が近江国蒲生郡佐々木郷に住むこととなる。
成頼の祖母が藤原元方の娘という事になる。

近江国の小脇のあたりに住んで、後に経方が沙々貴宮神主職となっているため沙々貴神社の近くに居を移したのかもしれない。

ともかく、近江国から上総国、そして上総国から近江国へとつながる『藤原氏』がいたことになる。
しかも、そのひとのルーツに藻原荘を開拓し造った人物がいるという、驚きの展開がココにあった。

九里の祖と関係があるからこそ、この両方に、しかもピンポイントでつながりがあるのだと思う。
藻原と近江国の沙々貴神社の近く。
近江八幡の西本郷あたりの良い場所に九里氏が居を構えていた理由はここにありそうに思う。

怪しいルーツや人物に、佐々木氏に接している大切な土地は与えることはないだろうと思う。
もとから、九里氏の先祖が持っていた土地だったか、同族であったからという事になるのかもしれない。

これがあっているとすれば、九里氏の以前は「中原氏」で、その前は「藤原氏」であったのだ。
近江蒲生郡志 第二巻 の「藤原氏なり」の「どの藤原氏」だったのかが解明できたように思う。




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