九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

石狩の海~今日は夏だった。

2016-05-20 | 日記
つい先ごろ寒いなぁ…と思っていたのに、今日は28度。
アップダウンが激しい北海道です。

しかし、今年のお花は色が美しいです。お花もたくさんついています。・・・など良い点もありますね。


今日は、友人と海へ行ってみました。(私は運転しないので、彼女が連れて行ってくれる。いつもありがと~~!)




~‐~~-~~-


海は広いな、大きいな~♪で、柔らかな光をつつんだ水色が、なんとものどかでした。

見わたす限り海という、日常から離れた世界に「はぁ~」と解放された私たち。(二人とも山側に住んでいるせいかな?)

住んでみたいなぁ…


海近くのレストランへ~

【マウニの丘】http://www.cafemauni.com/

二本の映画のロケにも使われたそうです。『星守る犬』『探偵BARにいる』






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再び、平安後期・鎌倉初期の源重定(貞)を調べてみる。

2016-05-20 | 源重定(貞)とその周り


http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/8d6f0d88f0bcf4624805f6b46732d862

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%87%8D%E8%B2%9E

筑後国守であった山田先生源重貞。1180年に没した情報もあるが、まだまだ長生きした情報もある。

そして、
正四位下鎮守府将軍源義家の婿で信濃国守であった浦野四郎源重遠に【小笠原氏】とのつながりが感じられる。


また、歴史学者であられる【佐々木哲先生】のメルマガ  http://blog.sasakitoru.com/201603/article_1.html

5月15日配信分【三井氏の系譜(3)~三井氏と目賀田氏の系譜】のなかに、まさかの【源重定】が登場している。


文面を少しご紹介すると、

『沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、行実の長子浅小井盛実の子孫から浅小井・井・平井・堀・一井・山上・真野・井上・奥島・山田・馬場の諸氏が出ており、水運に関係していたことがわかり、とくに一井・真野は和珥氏族を継承したものだろう。

また三郎大夫行実の末弟五郎大夫行範も真野氏を名乗り、その孫に新村井重定(小太郎)がいる。

…省略…比牟礼八幡宮神主に補任された源重定と同一人物であろう。』



…と、突然、日牟礼庄代官である源重定が真野の一族の新村氏の新村井重定である可能性がある、ということになったのです。



~~~*~~~


あまりの事で、動揺… えっ、本当に『真野』登場しちゃった…



しかし、この平安時代後期から鎌倉時代前期、何人もの『源重定(貞)』が存在すると思うので、確認してみようと思うのです。

①山田先生と言われた『源重定(貞)』
②新村井重定
③藤白鈴木重定(新宮の住していた)

東京大学史料編纂所のなかの重定・・・少納言重定にはじまり、たくさん同姓同名がおり、今の私には無理!と判断しました。

①と③の重定、近い関係の中で、同じ人なんじゃないか~~?とも思うのですが、もう少し調べてからにしようと思います。


どなたか、ご存知でしたら教えてください!







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源・小笠原宗長は中原宗長と同一人物か?

2016-05-20 | 中原氏バラバラ情報
つい、同じ名前が出てくると同一人物にしたくなる私ですが、全国に同じ名前の人はたくさんいるでしょう~と自分に突っ込みを入れたくなります。

しかし、古文書に名前が上ってくる人物となると限られてくる!と思うのです。

そこで、源宗長、この方はまたの名前が小笠原宗長です。ここまでは東京大学史料編纂所の中の古文書にもあり、確認できました。


【綱文和暦】 元徳2年9月6日(13300090060) 1条
【綱文】 信濃守護小笠原宗長卒す、

手稿のものに、貞宗…清和天皇十七代後胤 信濃守源宗長嫡男となっており、母中原経行女

と書かれております。



ところが、次の文書が
【綱文和暦】 元弘3年6月7日(13330060070) 3条
【綱文】 小笠原宗長、関東平定の状を報ず、是日、足利高氏書を与へて之を労す、明日、又、書を与ふ、
【区分】 大日本史料
【人名】 小笠原宗長,足利高氏

・・・となっていて、1330年に亡くなっているはずの小笠原宗長がまだ存在していることになっています。

同じ文書の中に、以下の言葉がありました。

『深志系図に元徳二年に卒ストアルハ、誤レリ。』となっていて、出家後の信濃入道宗長まだ生きておりました。

この1333年までは、生きていたのです!

さて、次に【中原宗長】という人物もいるため、この人も源・小笠原宗長かもしれないとおもい、調べてみました。

仁治3年に従五位下となっており、1243年に出てきているので、活動している時代がちょっとずれているようで、別人であろう…と判断しました。

此の人は、中臣祐賢記文永十年1273年四月十二日条にでてきて、一緒に神事に係っている人のようです。

宗長どうし、時代がかぶっていると思います。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする