九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

日光東照宮と藤堂高虎そして甲良氏

2016-05-15 | コラム
日光東照宮がふと頭に思い浮かびました。

あの日光東照宮は築城のマニアだった藤堂高虎が初代造営奉行で、そののちに 江戸幕府の作事方大棟梁 甲良氏が大改修したものだそうです。

 甲良豊後守宗廣も藤堂高虎と同じ出身地で、近江国の甲良というところです。佐々木道誉にも小堀遠州にも縁のある所です。

宮大工の家に生まれた甲良宗廣は、小堀遠州の父(伏見城の作事方)とも知己であったのかその頃伏見城にいた徳川家康の知遇をえます。

そして江戸幕府成立後の慶長9年(1604年)家康の命により甲良氏一族が江戸に赴き、作事方大棟梁に任じられます。


大きな仕事としては第3代将軍・家光の時に日光東照宮の大改修を任されたことでした。

初めに東照宮の建築を任されたのは藤堂高虎でしたが(秀忠の時)、其の後、家光が甲良宗廣に改修を命じたのです。

そこで、今私たちが見ることのできている日光東照宮が出来上がったのだそうです。


九里の祖が出ている『近江国御家人井口中原系図』のなかに、甲良氏、そして藤堂高虎も出ております。(廣宗は未確認ですが甲良氏は多数おります。藤堂は確認済みです!)



日光東照宮の彫刻を彫った、彫師のお話がいろいろと載っております! オススメです。

http://matome.naver.jp/odai/2140689555097197001

 



 



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甲良荘の中の尼子郷

2016-05-15 | 雑記
南北朝時代初期、近江源氏の佐々木道誉が甲良荘に勝楽寺城を築いて本拠地とします。道誉は甲良という土地が気に入っていたようで、この勝楽寺に道誉以下十四代だったかのお墓がずらりとある、と本に書いてあった記憶があります。

その子孫が甲良荘尼子郷で尼子氏を称し、出雲国へ下向して戦国大名となったそうです。

甲良荘藤堂村からは藤堂高虎が出ており、
また、甲良荘法養寺村からは日光東照宮の造営等の宮大工、甲良氏の祖である甲良宗廣(甲良豊後守宗廣)が出ております。

wikipediaより

尼子詮久 :武将、土豪、官吏(近江国守護代)。尼子氏家祖・尼子高久の嫡男。近江国犬上郡甲良荘尼子郷(現・滋賀県犬上郡甲良町尼子)生まれ。

尼子持久 :武将、土豪、官吏(出雲国守護代)。尼子高久の2男。永徳1年(1381年)、尼子郷の生まれ。

多賀高忠 :戦国武将、官吏(室町幕府京都所司代)。応永32年(1425年)、近江国犬上郡甲良荘下之郷(現・滋賀県犬上郡甲良町下之郷)生まれ。

藤堂虎高 :戦国武将、土豪。永正13年(1516年)、近江国犬上郡甲良荘藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)生まれ。

藤堂高則 :戦国武将、土豪。高虎の兄。藤堂村生まれ。

藤堂高虎 :戦国武将、土豪、大名。弘治2年(1556年)、藤堂村生まれ。

甲良宗廣(甲良豊後守宗廣) :宮大工(江戸幕府作事方大棟梁)。天正2年(1574年)、犬上郡甲良庄法養寺村(現・犬上郡甲良町法養寺)生まれ。代表作は、増上寺台徳院霊廟、日光東照宮、寛永寺五重塔

室町時代南北朝時代 (日本)佐々木道誉(京極高氏) :武将、官吏(近江、若狭、出雲、上総、飛騨、摂津の守護。政所執事)。京極氏。甲良荘に勝楽寺城を築き本拠とした。

尼子がココ出身、というのには驚きました。出雲の土着の人だとばかり思っておりました。

『近江国御家人井口中原系図』には、【虎高ー高虎】は出ておりますが、高虎の兄である高則はありませんでした。
ただ、この虎高の部分に【実 三井出羽守二男】とあるので、もしかすると三井家の方に高則は入っているのかもしれません。(?)

道誉は若狭とも関係があった。。。そこに何かを感じています。








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多賀氏と片岡氏

2016-05-15 | 雑記


近江蒲生郡志の浄椿の法名の『片岡』が気になって、片岡というワードを探っておりました。

片岡社という賀茂別雷神社(上賀茂神社)のなかにある社、近江の伊香郡にある片岡郷、近江栗太郡にある片岡村、など浄椿に関係のありそうなところを探しておりました。

その中に片岡常春四代孫が多賀豊後守高忠になっている系図があることを知りました。もしこれが正しいとすれば、同じ江州中原です!

(文明元年(1469年)に伊庭の領地である蒲生郡下郡嶋向を宛がわれています。)

京都北区による文書解説の中の「片岡(悦)家文書」によりますと、

片岡家は紫野下若草町に所在する家。「片岡氏家系図」によると、近江京極氏の重臣で侍所所司代を勤めた多賀高忠(1425-86)の曾孫片岡治大夫宗春を祖とし、代々六(郎)左衛門を称したらしい。

またこの宗春の次男治郎左衛門が本阿弥家に入り、光二と称して妙秀尼との間に光悦をもうけたと伝える。

「本阿弥系図」には多賀高忠の次男片岡次大夫の次男を光二とし、若干の差異がある。・・・

他のweb情報では、

本阿弥 光悦
(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書道の光悦流の祖。

刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする京都の本阿弥光二の二男二女のうち長男として生まれる。

父光二は、元々多賀高忠の次男片岡次大夫の次男で、初め子がなかった本阿弥光心の婿養子となったが、後に光心に実子が生まれたため、自ら本家を退き別家を立てた。

「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも携わったマルチアーティストとしてその名を残す。

つまりは、
本阿弥光悦は多賀高忠の曾孫で、多賀高忠―次男宗春(片岡次大夫)―次男本阿弥光二(光心養子)―長男本阿弥光悦 となるようです。



他に満済准后日記(まんさいじゅごう)の中に出てくる『片岡右京亮』は、史籍集覽, 第 306 巻 朝鮮出兵の場面で「加藤美作片岡右京亮を大将とし・・・」と書かれてあります。


鹿苑日録の中の『片岡善左衛門』は系図によりますと、「号主水 永正六年出生近江に住す」とあります。


親鸞の弟子となった、兄:鹿島社大宮司片岡信親(性信) 弟:上野国片岡郡城主尾張守源九郎親綱(乗然) 信親の息 片岡信広(順信)


なんだか、どんどん面白い情報が集まってくる『片岡氏』

敏達天皇が片岡王寺(かたおかおうじ)を創建する・・など、古代から!


近江付近では、多賀氏と片岡氏! この二つは神社関係でつながっていそうです。


しかし、どうして浄椿が『片岡桂嫩』なのか・・・? 未だに解明ならずで、とても残念です。






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中原氏と小笠原氏

2016-05-15 | 中原氏バラバラ情報
ほんの少し前に見つけた情報です。

中原成行の兄に経行がおりますが、名前は同じであるものの年代が違う人を見つけました。

その新しく見つけた【中原経行】の娘が【源宗長】に嫁ぎます。

この【源宗長】は、実は【小笠原宗長】であり、信濃守護でもあったようです。

系図は幾種類かあるようですが、私が東京大学史料編纂所のデータベースで見た文書では、宗長(信濃守護)~貞宗(信濃守)となっており、
その後wikipediaでは、~政長(信濃守護)…となっておりました。

そして、もしも経行の娘が小笠原貞宗の母親とすると、経行の曾孫娘が武田信成室となります。(貞宗の娘のことです。)

武田信成はその後武田信玄にまで繋がります。



一体どの系図に出てくる【中原経行】(さん)なのか。

近江国御家人井口中原系図の中にも二人【経行】はおりますが、一人は1100年代。もう一人は中原姓の井口伊右衛門経行(左衛門尉)で、姉に関白秀次に「生田氏」を賜っている者がいる為、1500年代と思います。

信濃…といえば、思い出されるのが【中原兼遠】もしかして、この方の末裔でしょうか。

調べなくては~!




前回の多賀氏と久徳氏の系図、少し見えてきました。

多賀孫三郎秀貞の六代孫とありましたので、御家人井口中原系図の中にもつながる筋は見つかりました。

ただし、名前は書かれておりません。某…の多い系図なのです。

京極佐々木氏から中原氏に養子にきた多賀高忠のようですので、何とか見つけたいです。



九里との関係もあるかもしれません。なぜって、水茎岡山城にいた浄椿。

景徐周鱗が彼のために書いた法名が「片岡桂嫩」。そして多賀氏とどこかしら関係があるのが「片岡」なんです。

以前書いたものをこの次に再掲したいと思います。



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