出羽景観都邑会

街と田園が調和する形を、出羽の国から、探して、磨いて、創って、伝えていきたい。【でわとゆう会】080101出発

春の花の山形1

2009-04-30 23:16:35 | Weblog
 山形の春は、一斉に咲きだす花で華やかになる。
 霞城公園には、1500本の桜が土塁を埋めるが、その少し先に紅白の梅が咲き香る。梅の木の紅白はお互いを引き立たせる効果を発揮する(上の写真は旧済生館の三層楼)。電線はどう贔屓目に見ても単なる邪魔であり不快である。
 霞城公園には、推定樹齢650年と言われるエドヒガンの「霞城の桜」もある(下の写真)。白鳥十郎の返り血を浴びたという今はなき「血染めの桜」と同期だそうです。

駅伝の風景

2009-04-29 21:42:58 | Weblog
 景色に人間が入ると風景と言いたくなります。
 山形県では、「昭和の大合併」の時に市町村の融和を図るためもあり、昭和30年に県を縦断する駅伝競走が始められ、今年で55回目になりました。
 県内の13市はもれなく、3日間に渡って繰り広げられているのは、全国的にも特筆できる規模だと思います。
 何より沿道の応援が見事なのです。駅伝は、主に旧道を使ってルートが設定されており、地元住民や職場、学校生徒がこぞって繰り出して応援してくれます(上の写真)。地元以外の選手にもエールを送ってくれることは感動モノです。
 「春の風物詩」にもなっており、旧道ならではの沿道景観と応援の熱気は、やはり風景と呼びたい(下の写真)。

 

早春の盛岡8

2009-04-18 22:26:00 | Weblog
 盛岡大通りに戻って考えることがあった。大通りといっても幅員は12m程度で現在の水準では狭い部類に入る。しかし、沿道はビルが建て込んでいるため、ここでの拡幅は事実上不可能であるし、する必要もない。
 そこで、現道のまま商店街を活性化するために試行錯誤し続けた結果でしょう、車も一方だけ通しながらも、歩行空間を重視するために、柱のないアーケードにしている。ここまでは、一般的な対応。
 私が考えさせられたことは、駐輪スペースを歩道と車道の間に設けたことです(上の写真)。駐輪場は、利用者の利便性と管理上、景観上の問題などから
どの街でも設置場所に悩まされることが多い。
 あえてなのか、ここしか場所がなかったのかは不明ですが、盛岡大通りのように、この場所は、皆に良く見えることで、かえってマナーが守られる可能性が期待でき、当然にユーザーにとっても利用しやすく、正解なのではないでしょうか。

早春の盛岡7

2009-04-16 23:00:17 | Weblog
 上の橋から東に続く通りに黒漆喰の土蔵が見えます(上の写真)。呉服問屋であった旧井弥商店の建物ですが、不意に取り壊されても仕方なかった時代もあったはずなのに、これを残し続ける盛岡人の一部の心意気に敬服します。
 もう一つ、先に紹介した紺屋町通りにある酒蔵の白漆喰の土蔵も輝いています(下の写真)。
 盛岡の弱点は、良いものの存在に眩んでその良さをもっと良いものに仕立てる関係性を作り出していないことです。よくあることですが、盛岡の人もこれらの宝物をあまり見ていないし、良く見える場所を用意していません。

早春の盛岡6

2009-04-15 22:19:25 | Weblog
 盛岡市材木町は北上川に沿って形成される街筋で、宮沢賢治ゆかりの土地です。
 昭和末期に町興しの活動から通りと街並みの改善が進められたようです(上の写真)。ハンプなど、当時から先進の取り組みが見られます。
 個人的には好まないのですが、賢治が佇むオブジェなどまでありますが評判が良いとは思えません(2番目の写真)。

 感心したのは、拡幅に応じなかったのか、未買収の建物が一軒、歩道を行き止まりにしていました(下の写真)。何が何でも拡幅しないで諦めたように見える所が街の懐の深さと言えますか。

早春の盛岡5

2009-04-14 22:43:09 | Weblog
 盛岡の中心部を流れる中津川には、古風な橋が架かっています。その一つ、上の橋は、手前に川原、奥に県民会館と、奥行きを感じさせる脇役を添えて、主役になっています(上の写真)。
 この橋を有名にしているのは、木製の高欄だけでなく、慶長年間製の擬宝珠です(下の写真)。

 背後のマンションは斜線制限にセコク対処したためかみすぼらしいスカイラインを見せている。首都圏辺りによくある情けない姿です。


早春の盛岡4

2009-04-13 22:09:47 | Weblog
 盛岡でも、この紺屋町通りには趣のある建物が残っている。長屋のように軒を連ねるのは、江戸後期から明治にかけて燈心などの雑貨を取り扱った商家だそうです(上の写真)。「ござ九」と呼ばれている。名の通り、茣蓙などを売っていた豪商だったそうで、現在も、「ざる」や「かご」を売っている。
 この北側には、土蔵の連なる酒蔵があり、またその先には、盛岡市の第五分団として使われた紺屋町番屋が残っている。大正期の木造洋風建築の典型で、望楼が目立っている(下の写真)。
 これらは、近代化したビル群の中だからこそ存在感を増すのだろう。残し続ける心意気がすごい。 

 それにしても良好な視点場がない。写真を撮るのが難しい。

早春の盛岡3

2009-04-12 22:26:03 | Weblog
 盛岡は地方都市にしては密度の高い街です。むやみに拡大させずに農地と林地を重要視したということなのだろうか。身の丈に合わせて、今で言う「コンパクトシティ」を実践していた。新旧混在する街並みでシンボリックに残る建造物が旧盛岡銀行本店です。「中ノ橋」のたもとにあり、高さが然程でもないのにランドマーク的な役割を果たしています(上の写真)。辰野金吾・葛西萬司建築事務所設計の明治44年築造の重要文化財です。
 この通りには、昭和2年築造、盛岡出身の葛西萬司設計の旧盛岡貯蓄銀行もあり、空気が古色を帯びています(下の写真)。

 ただ、これらの建造物を気持ちよく見れる場所がないことが残念です。

早春の盛岡2

2009-04-11 22:11:15 | Weblog
 盛岡の中心部を中津川が流れる。人口30万の都心部の流れにを鮭が遡上し、白鳥が飛来する。
 街から川に向かって連続的に風景が構成され、水辺が身近に感じられるよう担っている(上の写真)。河川敷も大げさな整備がなされている訳でもなく、増水しても流されて結構という風な、雰囲気で肩の力が抜けているような潔さを感じる(下の写真)。川岸の道路も堤防ということを感じさせることはなく路地の延長のようで、つい歩きたくなるような形になっている。
 この街がこの川を大事にしていることが形で示されている。

早春の盛岡1

2009-04-09 22:04:23 | Weblog
 盛岡はいわゆる第二の故郷です。山々を背負って雫石川、北上川、中津川の三川が交わり、その要所に街が形成されています。囲まれ感があり、人間が住み着くのが良くわかる地勢です。
 岩手県の中心地としての役割が大きく、県内では歴史的にも、経済的にも一人勝ちの感がありますが、近年大きく街の姿を変えているようです。
 地方都市でも、最も遅く郊外型店舗の展開が進み、そしてすぐに撤退も進んだようです。
 そんな変化に鈍感にも見える「大通り」は、相変わらず平和にその通りが活きつづけている。以前と変わらぬ窮屈さがヒューマンスケールというのかな(上の写真)。
 それでも、アーケードがリニューアルされ、柱が除かれ、看板標識類が整理され、開放感は高まっている(下の写真)。形から、歩行者を大事にする気持ちが少し伝わってくる。

山形の宝物(旅篭町館5)

2009-04-06 22:48:18 | Weblog
 そして不思議な存在は、西南の隅に残されている小屋というか一間の庵(上の写真)。隔離室の様でもあり、勉強部屋の様でもあり、四阿のようでもありますが、丁寧な造りになっていて、皆の注目を集めていました。
 さらに、この家は伊達藩の中新田から山形に移り住んだ医師の家系で、その初代は医業の傍らに国学、漢学の塾を開いたそうで、門弟たちが建立した筆塚が今も市内の菩提寺に残る(下の写真)。

 今回の見学会をきっかけに次の動きが企画されます。蔵プロのメンバーとのコラボレーションによって「蔵そうじ」が始まりそうです。

山形の宝物(旅篭町館4)

2009-04-04 21:10:47 | Weblog
 旅篭町のど真ん中に100年の時間を持つ空間があります。玄関の造りは堂々とした唐破風になっています(上の写真)。施主と職人の意思を感じます。
 その上の格子枠(下の写真)はとても実用的な細工とは思えないのですが、総二階のような大柄な建物を少しでもスリムな印象にしていると見えます。

 

山形の宝物(旅篭町館3)

2009-04-01 19:37:29 | Weblog
 診療所を開院されていたということもあり、単なる民家とは言えぬ貫禄のある建造物で格子窓に漆喰の白壁が美しい(上の写真)。見られることを予定されている姿です。診療所であることを暗示して安心感を与えるように考えられたかも知れません。現在は駐車場の奥にあり注目されることは少なくなっていました。
 奥の庭、七日町のど真ん中にこんなに静かで野趣が残る空間があることに、皆がびっくりしました(下の写真)。ふきのとうが芽吹き始めていて、皆の感嘆の歓声があがり、この屋敷の関係者の方が収穫されて、春の香りを提供してくれました。
 これを失くすことが出来ますでしょうか?