出羽景観都邑会

街と田園が調和する形を、出羽の国から、探して、磨いて、創って、伝えていきたい。【でわとゆう会】080101出発

夏至の風景(作谷沢1)

2008-06-30 22:29:04 | Weblog
 寒河江の葉山から帰った足で、山辺町の作谷沢地区に入った。前にも書いてあるが四方を山に囲まれた八葉蓮華の「小国」です。「まんだらの里」と呼んでいる。
 夏至のこの日に、この地で祈りの時をと、「太陽と月のまつり」と銘打ってコンサートが催された(上の写真)。
 県内在住のお二人、ソプラノの二戸さんは、「舞」の演奏者として名高いらしい。この時間と空間を見事に表現されていた(下の写真)。ピアノの和田さんも名演奏だった。拡声器を通さない声楽と楽器の音の美しさを満喫した。

 背景は、ガラス越しの蝋燭灯であり、東黒森山が控える。

山形の宝物(葉山の宝物2)

2008-06-25 21:53:25 | Weblog
 「百万ドルのドウタン」から下がってブナの原生林を過ぎ、八丁坂を終える辺りに「うば様」のやさしい笑顔が迎えてくれる(上の写真)。古来、女人禁制の山が多く、しかし山の上り口には、姥神が祭られているところも多い。恐ろしい形相の姥神が常なのに比べ、ここの「うば様」はなんともおおらかに見える。
 大円院跡まで下り畑地区まで戻ると、上り口の葉山市民荘近くの湧き水「長命水」には、その水を求めに来た人たちがいた(下の写真)。聞けば、山形市内からわざわざこの水を汲みにだけ来たというのです。確かに、この水は甘く冷たく美味しい。
 1時間以上かけて、わざわざこの水を汲みに来られる。これは、例のミシュランの三つ星ではないか。「水」の存在が三ツ星になるのです。「これは!」と思った。

山形の宝物(葉山の宝物1)

2008-06-24 21:47:56 | Weblog
 葉山は、山体が北東側に開いている。大爆裂口、大きなカルデラだということです。山形側からは、うねるような山襞が男性的な力強さに見えるのだが、外輪の薄い壁なのである。その外輪には、タムシバかと思える白い大きな花が峰を飾っていました(上の写真)。
 頂上からは、ここ葉山からしか見えない大きな月山の姿を見ることが出来ます。この日は、残雪の裾を少しだけ見せてくれただけでした。次の機会の楽しみです。
 下る途中の稜線に、「お田沼」という名の池塘があります。アオモリガエルの卵が岸辺に、水中にはクロサンショウウオの卵が産み付けられていました。ようやく、一斉に生命の季節が来ているのです。こんな話を丁寧に教えてくれる方が、この湿地の木道にどっかりと座っていました。

山形の宝物(葉山の花)

2008-06-23 21:27:21 | Weblog
 葉山は、置賜や上山などにもあるため、寒河江のは「村山葉山」とも呼ばれる。
村山地方の真ん中に鎮座している。その上に立ってみるとそのことが良くわかります。
 下り道に岩野コースをとったため、花盛りの「百万ドルのドウタン」に出会えました(樹種はサラサドウダンか)。標高1000m程の山中にあっても、枝張りは10mほどもあり、数百年の樹齢になっているだろうが、里の庭園にでもあるように、手入れが行き届いているように美しい。よく風雪に耐えてきたものだ。この姿を見る人の少ないことが惜しい。
 この日は、短い春を惜しむように花が咲き誇っていましたが、シラネアオイの花咲く時期でもあったようです。蝶のような、はかなさを感じるような薄紫の花びらを精一杯開いていました(下の写真)。

 

山形の宝物(葉山のブナ)

2008-06-22 22:18:11 | Weblog
 山形県のブナ林(ブナの天然林面積)は日本一である。飯豊、朝日連邦には、人間が及ばない空間でブナの林が息づいている。膨大な水資源を「雪であること」と共にダムとなって、山形県を潤してくれている。
 6月21日、梅雨入りしたばかりの晴れ間に葉山に登ることが出来た(上の写真)。山形は端山信仰のメッカとも言われる。日々の生活の中で端山に宿る神を敬ってきていたということです。
 この季節のブナ林は、白い木肌と萌黄色の若葉で明るい空間を提供してくれます(下の写真)。この空間に包まれると最近言われる「森林セラピー」効果というものを実感します。多くの人に実感して欲しい。


山形の宝物(森との付き合い)

2008-06-18 19:07:56 | Weblog
 6月15日、県の森林研修センター主催の「森林・林業教室」に参加してきました。前日の講義は、地震のために早退しましたが、この日は西川町の研修林でのチェーンソー作業です。全くの初体験で、しっかり説明を受けた後、指導員の手本を頭に叩き込んで、いざ伐採!(上の写真はそれらしい格好で)
 1本目は、細めの杉を相手に、2本目は尺ものに挑戦した。倒す方向を定め、受け口を切り、次に追い口を切り、そして楔を打つ。杉は柔らかいため切り易いということでなんとか伐採出来たが、恐怖感もあり、緊張の連続でした。(下の写真は、倒した尺もの)

 楔を打ち、倒す瞬間は、倒れる木の質感もあり、何ともいえぬ手ごたえを感じた。倒した後、我に返って辺りを見回すと、間伐されない森の様子が語りかけてくる。手入れされない森は貧しい。植林された森は、人間が責任を持って付き合う必要がある。人間と森は、長く上手に付き合っていくのです。

山形の宝物(旧済生館)

2008-06-15 22:43:15 | Weblog
 今は、霞城公園に移されている旧済生館は、明治11年9月造の擬洋風建築で国指定重要文化財です。今は、ひっそりと佇んでいますが、ヴィスタ景も取り入れられ、その姿は美しい(上の写真)。
 擬洋風建築、当時の宮大工たちが洋風建築に似せて建てた木造建築のことを言うそうですが、その心意気というものに価値があるのとも言えます。

 旧済生館は3階建ての姿から三層楼と呼ばれていますが、塔屋にもまして背後の十四角形の廻廊は魅力的です。病室だったのでしょうが、中庭を取り囲む形によって、「見る見られる関係」を成立させており、ここの利用者を気持ち良くさせていたことでしょう。この形だけで病気を治していたこともあったでしょう。

 移設保存も、その当時やむをえなかった事と思いますが、私としては、いつか人通りの多い元の七日町に戻って欲しいと願っています。
 かのイザベラ・バードは、明治11年7月、七日町で完成間近の済生館を見ながら山形を通り過ぎています。

中山宿の宝物(花の3)

2008-06-14 21:47:46 | Weblog
 上山市の中山地区の奥に思わぬ場所があった。星さんに案内された所には、ニッコウキスゲの群落があったのです。それこそ、人家を離れた里山の山辺にひっそりと、しかし、地元の人が大事に手入れをしてくれているのが解ります。ニッコウキスゲは、朝に咲いて、夕方にはしぼむ一日花だそうですが、次々と花を咲かせてくれるため、群落としては長い期間花を見せてくれます。
 花が終わった頃に、刈り払いをしてくれているのだそうで、そうすると次の年も勢いよく出揃うのだそうです。
 ニッコウキスゲの向こうには、水生植物が豊かな沼が見えます(下の写真)。沼ごとにヒツジグサ(自生の野生種:睡蓮)やジュンサイが見られます。

 今日、岩手・宮城内陸地震が起きて、またも、脆弱な国土の様子を見ることになった。奥羽山脈西側は、偏西風による火山灰の堆積で弱い地盤の山地であることによるとのこと。日本列島は火山島であり、地震は起きる。

中山宿の宝物(花の2)

2008-06-12 22:47:50 | Weblog
 上山の中山宿にはヒメサユリが自生しています。前回に続いて上の写真を紹介します。ヒメサユリは、日当たりを好むそうで、藪が空いている道沿いに見られます。同行していただいた星さんは、ヒメサユリを見つけるたびにその周りの草木を刈り払って、「増えてくれよ」と願っているようでした。

 中山の地域づくり活動で、ヒメサユリの名所にしようと、子ども達と一緒に植え付けもやっているようです(下の写真)。甘い香りの花なので、カモシカなどに食べられてしまったものも多いようですが、それもここでは仕方ないのかなと思いたいです。

中山宿の宝物(花の1)

2008-06-10 21:16:44 | Weblog
 米沢街道の上山中山宿は、最上と上杉の最前線であり、山城の中山城は、上杉方の要衝であったそうです。ミチノクフクジュソウやトウホクサクラソウなども残っているようですが、この地区の人々は花を愛でる気持ちが強いと思います。多くのお宅で路端に花を育てている。
 九輪草というと、先に紹介した羽黒町の玉川寺が有名になりましたが、中山宿のこの辺りでも育てられています(上の写真)。五重塔の頭にある九輪のように数段の花を付け、凛として立ち咲いています。
 6月7日のこの日は、中山の星さんから声がかかり、ヒメサユリを見に行ったところでした。ヒメサユリは、新潟・福島から山形辺りの飯豊、朝日連峰(38度付近)に多くあるということですが、里山の中山にも自生しているのです(下の写真)。小さく可愛く甘い香りの「姫」が咲いて待っていてくれました。

青森の宝物(三内丸山)

2008-06-07 22:44:44 | Weblog
 今から5000年程前は、縄文海進期といわれ、現在より3度ほど気温が高く(温暖化)、海面が5mほど高かったそうです。ということは、東北地方と呼ばれている山形や青森は、日本で最も気候の良い住みやすい地域だったと思われます。
 そもそも、歴史的なことは、その遺物などの発見により通説が大きく変化するものであり、例えば、縄文時代の後に弥生時代が段階的に起こるなどということは最近まで教育されてきたことでした。また、縄文期は狩猟を専らとして食物栽培は弥生期に入ってなされたこととも教えられてきました。
 三内丸山遺跡は、通説を覆す数々の事実を見せてくれています。この、本州最北端の地に、当時としては極めて大きな集落を形成し、西方の地域と交易をし、巨大な建造物を建て(上の写真は、大型掘立柱建物)、また、クリなどの作物を管理していたようでもあるそうです。
 大型竪穴住居は、いかにも共有施設のような厳粛な空間に再現されています(下の写真)。
 
 そして、感じるところは、その時代、人口に比べ食べ物が十分に得られる環境にあり、争う必要もなく、仕合せな社会があったのではないだろうかということです。

藤沢映画(山桜)

2008-06-06 21:58:46 | Weblog
 なかなか行けなかったのが幸いして、その間にラジオの特別番組で児玉清の「山桜」の朗読を思わず聞くことが出来ました。そのせいで観る前から映像を想像するほど期待が高まったのでした。
 ようやく昨日の夜に念願かなって出かけたのですが、言葉で表さない情感が十分に伝わる作品でした。「思う人がいる、思ってくれる人がいる、それで生きていける」そんな普通の暮らしの仕合せを伝えているのではないでしょうか。また、母親の「あなたは少し回り道をしただけ」の言葉が印象的に使われていました。
 さらに、冒頭の石段の景色は、先月に訪ねた「玉川寺」(上の写真:開山堂への石段)であることを、思いがけず気づきました。様々なめぐり合わせのおかげで忘れられない作品の一つになりました。
 そういえば、玉川寺の山桜は春風に揺れて踊るような桜でした。

用と美の間(酸ヶ湯)

2008-06-04 21:21:56 | Weblog
 十和田湖から奥入瀬を巡り、八甲田の中腹にある酸ヶ湯温泉に辿り着いた。本州北端の標高900mでは、この時期、路端にまだ残雪が見える。冬の名残がある。
 300年の歴史を持つ温泉場というより、山中の湧き湯の恩恵をいただく場所という風情。飾ることもなく、あるがままに温泉を楽しむ場所なのです。それ以上の作為は、この厳しい自然環境では受け付けられないのでしょうし、必要としない。
 160畳あるという総ヒバ造りの千人風呂は、驚く規模だが、広すぎるという感覚はなく、しかし堂々としており、極めて居心地良い。
 湯治部の建物は、飾ることなく、古さを売り物にすることもないが、背後の山に調和する趣のある大建築(上の写真)。
 また、特に気に入ってしまったのは、階段と灯りがアクセントになる廊下の佇まい(下の写真)。人間に優しい空間と感じた。二度と来ることはないかもしれないと言いながら、持ち込んだ酒を酌み交わしました。



用と美の間(奥入瀬)

2008-06-02 22:05:49 | Weblog
 5月30日、遅くなったが明るさが残っているうちに奥入瀬に着くことが出来た。そこは、水の流れを尊重しながらも、人間もその渓流を楽しめるような設えができている。しかし、余計なものは造られていない、そこが要所です。
 その渓流に沿った道路も、区画線の他には余計なものが少ない。道路は、標識やガードレールなど、車が通り易くなると風景を壊すものが増えてくる。しかし、奥入瀬のようなところで、車が通り易くなる必要は少ない。この渓流の流れと緑を楽しむために歩いたり休んだりし易い形の方が相応しい。
 しかし、ここだけが特別でなく、このような「用と美のバランス」にした方が良いところは、もっと沢山ある。