出羽景観都邑会

街と田園が調和する形を、出羽の国から、探して、磨いて、創って、伝えていきたい。【でわとゆう会】080101出発

銀山温泉初冬1

2008-11-30 12:35:33 | Weblog
 1週間ほど前に、季節初めとしては珍しいまとまった雪が降りました。さすがの銀山温泉も、その後の暖かさで道路の雪は消えています。路端などに残る雪が、小春日和のこの日に、かえってこの季節らしさを加えて、銀山温泉の建物群に似合っています(上の写真)。
 温泉街の中に流れる銀山川の川べりには、今ではすっかり名前が知られた足湯「和楽足湯」が、湯気を立ててお客さんを招いています(下の写真)。上屋を設けなかったことで、光の少ない季節でも明るさを提供してくれます。
 「和楽足湯」は、足湯の先駆者でしたが、完成度からして、今でも他の手本になっています。

 私も関わった道路舗装は、上山産の黒砕石を使った埋め込みコンクリートですが、雪華紋の小さなタイルが映えるように設計しました。その目的が達せられ、花道的質感が感じられるようでうれしく歩きました。

上杉の城下町3

2008-11-24 09:17:02 | Weblog
 上杉神社は、初代謙信を祀り、その東側には8代目鷹山、2代目景勝、重臣直江兼続らが合祀されている松岬神社があります。
 米沢城(舞鶴城)跡を中心とする、このあたりを松が岬公園と呼んでいますが、少し前までは神社周辺には、学校や役所の建物などが立込んでおり歴史的雰囲気を感じられない状態でした。
 街づくりのキーワードに、「歩いて楽しい街」というのがありますが、歩いて楽しい道というのは、どんなのでしょうか。歩行者が、安心して、街並みを眺めながら、楽しみを実感できる道でしょうか。歩く空間には自動車は遠慮してもらわなければなりません。水溜りなく、余り硬くない舗道であって欲しい。そして、歓迎されている思いを表現してもらえれば嬉しい。
 上杉神社の参道に続く道は、従来、単純な街中の道路であったものを、歩行者専用の道に変えられた(上の写真)。何とかモールなどというケチな位置づけでない、見事な姿であると思う。ずっと前からそうであったような必然性を思わせる。
 それに続く「伝国の杜」付近の歩道も、地道風というか、人間に優しい舗装がなされている(下の写真)。人間が歩くときに快適さを感じる仕掛けは、木質であったり、土(つち)質であったり、視覚、触感にも、明快な質感であると思う。

上杉の城下町2

2008-11-23 21:56:14 | Weblog
 米沢は、伊達氏が城を構えたあたりから羽州の南部に拠点を形成したが、米沢で伊達の話が出ることは稀である。
 そして上杉家も鷹山の名が真っ先に出る。現在も含めて、市民の生活レベルで共感できる逸話が多いためと思われる。苦難の毎日をどうやって工夫して切り拓くかというような話です。「実学」と言い表して良いのでしょうか。
 実学尊重の遺伝子は、今に繋がっているように思えます。
 山形大学工学部の前身は、明治43年設立の米沢高等工業学校。全国で8つの工業専門学校の一つ。きっちりした実務を身に着けた卒業生が多いと評判で、現在は産学連携の先頭を行っているようです。
 上の写真は、旧本館です。ルネッサンス様式の木造建築で文部省建築課の中島泉次郎の設計だそうです。100年近く経った現在でも、延長94mの堂々たる姿です。良い視点場があればもっと大事にされることでしょう。(ここに肖ったという米沢駅はいただけません。)
 この近くには、歴史的な建物が多く在りますが、米沢でも有数の料亭の庭が鮮やかに紅葉していました。私如きは、客として入ることは叶いませんが、嬉しいことに、その庭は高い塀で閉じ込められることなく、道行く人に見せてくれています。このような作法も、街の宝物です。

 

上杉の城下町1

2008-11-22 22:00:24 | Weblog
 上杉家は、謙信公が亡くなり、長岡から会津、そして米沢に移ってきた。2代目景勝は、後継者としての正当性を示すために謙信の遺骸を漆で固めて甕に入れ米沢に運び歩いたということである。上杉家の御廟所には、謙信を中心に歴代の当主の墓が並ぶ(上の写真は参道。中の写真は廟所の西半分)。

 上杉家の菩提寺は林泉寺です。ここには、奥方や子女、重臣などの墓がありますが、その中に、話題の直江兼続の墓があります(下の写真)。妻のお船の墓が同じ大きさで仲良く並んでいることは、あの時代のものとして特別なことではないのだろうか。武将の墓とは感じられないほほ笑ましさです。
 それにしても、ここにも無粋なノボリが風景を壊していると感じる。ノボリが全て悪いのではない。ノボリの使い方、建て方があるのです。

上杉の土木遺産2

2008-11-19 20:25:13 | Weblog
 芳泉町は、城下を守るために下級武士を住まわせた一本道の通りです。郊外ながらもカギ型道路が残ります(上の写真)。
 上杉藩は、過分な家来を抱えることになったため、半農半士の生活を常とすることになり(実際は九農一士だったそうな)、各屋敷内には実のなる木(三種の神器か、このお宅は柿と栗と李のようです)が奨励された(中の写真)。

 米沢上杉藩といえば、ウコギの生垣(下の写真)。地元の誇りとして再生の取り組みが始まっているようです。

上杉の土木遺産1

2008-11-18 18:08:29 | Weblog
 上杉藩の重臣直江兼続は、上杉家の米沢転封に先んじて城下に入り、米沢の街並みの基礎を造ったと言われます。
 その功績はすみずみに行き渡りますが、松川の氾濫を抑えるための堤防築造は、上杉家家臣を抱え続けるための大きな仕事でした。
 戦国時代における領国経営の基本は治水でした。溢れる河川に築堤し、領民の労働を創出し、水を治めることにより、住民の安全と安定した農作物の収穫を確保できるようになった。
 この堤防工事は、現在も1.2kmほど残っており、直江石堤とも呼ばれている(上の写真)。
 幸いにも、今回のシンポジウムの現地見学で、昭和53年にこの石堤の保存に尽くされた当時の米沢建設事務所長と河川課長にお会いでき、当時の資料を頂くことができた。うれしいめぐり合せでした。
 この一帯には、松川を鎮めるための河川構造物が他にも整備されています。
 石堤の下流の屈曲部には、二重、三重の補強堤防が美しい曲線美のまま残されています(下の写真)。その曲線形から蛇堤と呼ばれていますが、現在は民有地にあるということで安定した保全に不安があるようでした。トラストなどの対応が良いのかもしれません。

米沢街道の石橋

2008-11-16 21:02:23 | Weblog
 土木遺産のシンポジウムに参加するために米沢に向かう途で寄り道です。
 堅盤橋は上山市川口の前川に架かる2連アーチの石橋です。明治11年造で三島県令が進めた道路整備の一環で架けられた美しい眼鏡橋です(上の写真)。
 しかし、この辺りは、狭隘な地形のため交通の難所となっており、河川、道路が交錯した状況で、鉄道と国道13号の改良に伴って、この石橋は分断し孤立させられてしまった。現在は、ただ在るだけ、そして、存在そのものが忘れ去られようとしている。
 石橋のすぐ脇を通る国道13号の拡幅は今年終わったばかりだが、新しい道路からこの石橋を感じることが出来ない。この石橋が見える場所を用意していないのです。やりようがあるだろう。
 堅盤橋の少し南側には、上杉と最上の争いの最前線だった中山集落があるが、この中にも同じ明治11年造の中山橋がある(下の写真)。こちらは、バイパスが出来てからは完全に生活道路として存在することになり、世間からは忘れられつつあるにも関わらず、現在も現役として健在である。

 何が幸いかは解らないが、私にとっては両方とも大事なものとして変わらない。

山形、西の名刹

2008-11-15 22:35:29 | Weblog
 ある方の情報から、山形の西のはずれに見事な山門があるということを知り、早速伺ってみたところでした。
 果たして、山に抱かれた大規模な伽藍の中に、朱色の立派な仁王門が建っていました(上の写真)。1752年頃の建立ということです。
 米沢を中心に、来年の大河ドラマ「天地人」に関連する盛り上がりが沸きつつありますが、直江兼続率いる上杉軍と迎え撃つ最上軍の決戦の場、長谷堂の戦いを見守った地として脚光を浴びています。
 この山門から南側を振り返って見渡すと、戦いの拠点となった長谷堂の城山が眼前に映ります(下の写真)。

天童の秋

2008-11-14 23:15:46 | Weblog
 天童市は織田藩の最後の場所であることが、近年語り始められている。天童は、天童三山と呼ばれる山が絶妙に連なり、乱川と立谷川の扇状地から出来ている、地勢に恵まれている土地柄です。
 山形県内では、比較的気候に恵まれ、また、土地区画整理事業の先導者として近代的な都市整備を進め、人口増加が進む若い街になっていたようです。
 天童市の南端には、平成4年の国体を契機に県の総合運動公園が整備され、天童が県内スポーツの中心地に発展してきました。
 運動公園も整備後20年程の時間が過ぎています。エントランスには、並木道が形成され、秋の代表的風景として紹介されるようにもなっています(上の写真)。
 天童市は、急ぎすぎるものの常で、歴史が支える質の良さについては、余り語られることは少なかったようです。
 天童のシンボルの山である舞鶴山を遮るように建っていた某電気量販店は、あっけなく、あっという間に閉鎖し、ゲームセンターに改装中です(下の写真)。
 地区計画について、ベージュの届出でオレンジの外壁にした量販店です。都市計画に関わっている身として、最も懸念してい問題で、天童市に懸念を伝えていたことが、思いの外、早く出てきてしまったのです。天童市さんは、どう答えてくれるのだろうか。

朝日町風景2

2008-11-11 22:24:01 | Weblog
 かつて、県内のどの町にも味噌・醤油屋、豆腐・蒟蒻屋、そして酒屋がありました。それこそ、地域の材料と手仕事で地域の味が造られていました。
 特に、麹菌を使う醸造所は、蔵に住むという菌のおかげで、恵みを得ていました。今言うバイオテクノロジー。
 朝日町の宮宿は、かつて最上川舟運で栄え、山間部ながら街の姿がきっちりしておりました。
 今回訪ねたのは、今も続く酒蔵です。現在はいわゆるOCMブランド生産で酒造りを継続しているということですが、酒蔵は見事です(上の写真は蔵の小屋組み)(中の写真は街中に生える白壁)。

 ご主人は謙遜されたが、いつ書かれたものか「西蔵」の札が、見るものに語りかけるように掛かっていた。

朝日町風景1

2008-11-10 22:04:55 | Weblog
 晩秋の朝日町を訪ねた。朝日町と言えば、この時期、名産のりんごの収穫で賑やかです。しかし、過疎化は激しく若者の定着が激減していると聞いている。町全体で様々な施策を試みており、エコミュージアム構想と銘打ったり、近年はワインの売り出しやダチョウ肉の生産などに力を入れているようだ。
 白倉地区には、スキー場を中心にミニリゾートを形成したが、今回は、冬に入る前の朝日自然観(ホテル)を訪ねることになった。
 紅葉真っ盛りで、ホテル前の駐車場からはスキー場がカンバスのように見え良い気持ちになれた。つま先下がり地形を利用して、良く見える場所に椅子とテーブルが置かれ、ツボを押さえておられる(上の写真)。
 さらに、「朝日連峰が良く見えるビュースポットがあります」というコマーシャルに釣られて、林道をたどっていくと、それらしき場所が用意されていた。日が翳っていたため、絶好の紅葉を見ることは出来なかったが、それらしいことは解った(下の写真)。「展望の場所」を心得ておられるようです。

肴町の宝物

2008-11-08 17:53:05 | Weblog
 山形市の北側を寒河江街道が延びていた。明治後期には鉄道が敷かれ、北山形駅から南側のこの辺りには、踏切が3つ残ってしまった。
 この辺りは、山形城の三の丸の北辺にもあたり、土塁の一部が残っているが、山形の特徴である土蔵も数多く残っている。
 10月の晴れた朝に通りかかった踏切のそばに、威風堂々の蔵が語りかけるように在った(上の写真)。
 この辺りは何度も通ったことがあるはずなのに、初めて自覚したような気がする。主がいなくなって時間が経っているようで、存在を隠すような環境になっており、この朝のように空が晴れて、見る方の気持ちも晴れているタイミングだからこそ見えたのだろう。
 踏切を渡ってからも振り返ってみれば、藪の中からも、朝日に照らされて自己主張しているようだった(下の写真)。
 「待ってろよ」と胸の中で言葉を発した。

蔵王の秋2

2008-11-07 22:22:09 | Weblog
 蔵王温泉の女将さんたちが立ち上がりました。「えくぼの会」という中々の名前を付けて、気合が入りながらも楽しんでもいます。蔵王温泉は、温泉地の例に漏れず、宿は女将さんが忙しいため、温泉組合などの活動は旦那さんたちに任されていました。しかし、この不景気と若者のスキー離れに立ち向かうには女将さんたちも立ち上がるしかないと腹を決めたのではないだろうか。
 そもそも女将さんたちは元気が良い。今年も春からイベントを次から次と発信している。「おらえのとっておき祭り」ということで各旅館の骨董品などの宝物をロビーを開放して展示しています(上の写真は以前からお世話になっている堺屋さん)。開放ということは大変良いことです。蔵王に足りなかったことでもあります。
 堺屋さんは、蔵に眠っていた鼓などを展示されていましたが、その蔵はおじいさんたちが住んでおられたということで、この温泉街にこの風景があること自体が貴重でした(下の写真)。そこからは蔵王の山々が良く見える、そういう場所でした。

蔵王の秋1

2008-11-06 23:17:30 | Weblog
 蔵王は、元々湯治場として栄え、奥州三高湯の一つと呼ばれたところでしたが、日本にスキーが輸入されてからはウィンタースポーツのメッカとして賑わいを見せてきました。
 しかし、蔵王温泉の魅力は、四季の移り変わりと共に現れます。
 秋の紅葉は里に先駆けて赤く染まり、ドッコ沼周辺は紅葉狩りの人々で賑わいます。水面に紅葉は良く映り、紅葉も水面を下敷きによく映えます(下の写真)。
 ドッコ沼の由来は、この沼から出てきた龍を金剛杵の独鈷を突き刺して鎮めたためということです(下の写真)。この日は、暖かい日差しの中で、散策する人、弁当を楽しむ人、皆さんが仕合せな顔の方で満たされていました。

楯岡街歩き8

2008-11-05 19:25:14 | Weblog
 楯岡のへそのような場所に本覚寺が座っている。1573年開山という古刹です。現在の本堂は1804年に再建されたということですが、堂々たるものである。前景にも、背景にも、側景にも邪魔するものがない。山門からの景観は見る者をハッとさせる見事な構造です(上の写真)。
 本堂に向かって左手には、樹齢300年を超えるという臥龍型の赤松「左右の松」が、何とも優雅に横たわっている(下の写真)。江戸時代天明期の俳人鈴木左右が寄進したのにちなみ名付けられたという。

 山門といい、本堂といい、臥龍の松といい、中尊寺本堂前の景観とは比べようもなく良い気持ちになります。
 楯岡には、まだまだ良いものが在りそうですので、次の街歩きを「楽しみ(街づくりの目的)」にします。