出羽景観都邑会

街と田園が調和する形を、出羽の国から、探して、磨いて、創って、伝えていきたい。【でわとゆう会】080101出発

鶴舞園の春

2013-05-29 21:40:11 | Weblog
 酒田駅の北西近くに本間美術館があります。作品は主に新館に展示されていますが、1813年築造の本間家別邸の「清遠閣」と2012年に国指定名勝となった庭園「鶴舞園」が魅力的です。今年200周年です。
 池泉回遊式で鳥海山を借景とした庭園は、本間家が冬場の失業対策として、北前船の帰り荷に西から石(舟の安定のための綿積石)を積んできて、それを材料に庭造りの工事を行ったそうです。いわゆる公共事業です。
 春は、芽吹きの緑とツツジをはじめとする花々のコントラストが傾斜面を利用して造られた地形によって際立って見える。

 注目すべき所はたくさんありますが、池越しの清遠閣は居心地良さそうな雰囲気で木々に包まれています。

 もう一つ景観上大事なポイントがあります。東側に見え、来訪者からひんしゅくを買っているカラオケ店の看板です。

水辺からの酒田景色

2013-05-27 22:12:17 | Weblog
 5月25日の朝、酒田の街中を流れる新井田川に漕ぎ出してみた。ここは、酒田十景でも紹介した鶴田橋辺り。鳥海山は残雪のコントラストが美しい、絶好の朝です。

 水辺から街を見ると別世界です。上の写真は、これも酒田十景の新井田橋辺り。カヤックを漕ぎ進めると、景色がどんどん移り変わる。進む速さはジョギング程度で、街の東はずれから港近くの山居倉庫まで街を横断して約一時間半の小旅行。
 海と川に恵まれた酒田の街は、カヌーなどが良く似合う。川と湊が両側でつながっていて、街を一周できる。ベネチアのゴンドラほどにはなりませんが、こんなことからでも「水の都」としての魅力を磨いて、皆さんが楽しめるようになり、酒田の街が惚れ直されて欲しい。、

酒田十景10 山王桜

2013-05-23 21:39:46 | Weblog
 江戸時代から、桜の名所だったとは驚く。その当時であれば、今流行りの「染井吉野」ではなかったのでしょうが、版画からは今以上に華やかな桜景色のように見える。
 酒田十景の半分に山王山が入っている。山王山は酒田の街の主軸です。もう一度言いたい。酒田は山王山があって街ができたのだと。

 酒田十景が江戸末期に画かれたということを大事にして、景観を活かした酒田の街づくりについて、さらに共感を求めて、発信してゆきたい。

酒田十景9 山王社雨

2013-05-21 21:37:15 | Weblog
 山王社は、山王山に立つ下日枝神社。酒田祭りの主神。雨に濡れた木々に囲まれた坂がが印象深いのでしょう。
 現在は「舞娘坂」と呼ぶ通りの奥に参道の階段が続く。この辺りに、酒田の歴史と文化の大事なものが集積している。酒田は山王山があって街ができたのだと思われる。

 社殿は、天明4年(1784)のもので、総欅造りで、特に破風が堂々として力強い。

酒田まつり

2013-05-20 19:00:17 | Weblog
 今日は酒田まつりの本祭り。雨が心配されたが何とか大丈夫そうです。酒田にこんなに人が集まるんだと驚くほどに人がごった返す。
 酒田の街は、酒田まつり(山王日枝神社の祭礼)の日に太陽が沈む線に沿って街の骨格となる本町通を定め、それを基線として町割りを決めたそうです。今年は曇り空だったので、昨年の写真で確認してください。

 :長人(36人衆)は西浜の砂原を開拓して町並みをつくり、日枝神社祭礼の日(旧暦四月中の申の日)に太陽が日本海に沈むまっすぐの線(正中線)を選んで、一ノ丁より七ノ丁まで町割りして本(元)町と名づけた。これを酒田の背骨である都市軸とし、三十六人の長人が屋敷を構え、酒田町組の根幹とした。(酒田町長人松田家伝):

酒田十景8 日和山眺望

2013-05-19 13:12:31 | Weblog
 日和山は、船の出入りのために日和(風や波の具合)を見るために、港近くの高台を利用した展望台です。全国の港にも見られるものですが、酒田の日和山は、うってつけ場所に設けられています。
 そして、この江戸末期の鄙の地でも「眺望」という景観的な言葉が使われていることに驚きます。風景を愛でる文化の水準は、現在よりも格段に高かったのではないのだろうか。「本当の豊かさ」ということを考えるヒントになるようなことです。
 酒田の日和山は、江戸期に山王山の南の突端を利用して盛土して造られたようです。試掘すれば盛土の状態が分かるのでしょう。現在の日和山からの展望には、現存する最古の洋式木造灯台(明治28年築造、昭和33年現在地移設保存)が、白い姿を見せてくれています。
 酒田十景の版画では、今も残る灯台代わりの常夜灯のある日和山を含めた俯瞰景になっていますが、現在は、この景観を見ることができるのはやはり鳥だけかな。近くのマンションからは見えるのだろうか。

酒田十景7 谷地田稲荷

2013-05-17 22:23:55 | Weblog
 谷地田稲荷は、1833年に谷地田地方開拓のために創建された「福徳稲荷神社」のようです。この酒田十景が画かれたのが1860年頃ですから、神社創建後間もない時だったということになります。谷地田地方は名の通り湿地帯を田んぼに改良したのでしょうが、現在は本間美術館近くで、酒田駅前の中心地に位置します。例祭は「酒田特有」の夜会式(よいしき)ということです。これも港町らしくて良いですね。
 神社の由緒には、その当時から景勝地であったことが説明されていますが、ここも背後に鳥海山が見事にそびえ立って見えたのでしょう。現在でも少し工夫、配慮すれば景勝地に戻ることが出来そうな気がします。

酒田十景6 妙法寺鐘

2013-05-16 23:27:40 | Weblog
 酒田は、北に寺社が揃って立ち並び、街を守っている。寺町と呼ぶ。妙法寺は江戸期に築造され、桜の名所として市民に親しまれた。「子産ませの松」が有名なこの寺で、鐘を愛でた先人は大したものです。今も、鐘楼を含めた風景は伝統的な山水画のようです。

酒田十景5 新井田橋

2013-05-14 22:44:00 | Weblog
 新井田川をはさんだ亀ヶ崎城(現酒田東高あたり)と町場を結んだ新井田橋。当時は、渡しで川を越える時代で橋が架かっているのは画期的な事と思われる。江戸時代の初期、当時の領主最上義光が東禅寺城を亀ヶ崎城に変えたようだが、その影響(亀と鶴)で鶴岡城という名前も付いたということなので、その後の歴史に大きな影響を与えた名付け親ということになる。
 それにしても、酒田は水の都なのです。港を備え、それに続く川は運河のように街を取り囲んでおり、水を巡って街を楽しむことができるのです。

 現在の新井田橋はコンクリート製になりましたが、江戸時代の木橋と同じ位置にあると思われます。橋は、大事な所を結び合わせる貴重な構造物です。また、酒田十景に表されるような景観上も大事な場所に架けられています。この春も川端の桜を伴って新井田川の水面を表現してくれています。背後の鳥海山が雲に隠れているのは残念ですが、鳥海山まで揃ってしまうと恥ずかしくなるような「お誂え向き」の風景になってしまうかな。
 この風景に、水辺を楽しむカヌーが加わるような取り組みを進めようとしています。

酒田十景4 海向寺月

2013-05-13 20:58:24 | Weblog
 海向寺は、山王山の南東端にあり、湯殿山注連時の元末寺で、庄内にある6体の即身仏のうち2体があることで知られる。酒田十景で「月」と組み合わせられたのは、その山王山での位置取りと松林に囲まれた背景から、最も似合いだからということなのかなと思います。先日、山形のシベール・アリーナで講演された作家の角田光代さんが感激された寺院です。
 次の写真は、海向寺を北側から写したもので、真昼に撮ったものなので「月を味わう」ことはできませんが、松などの緑に囲まれた環境は受け取っていただけますか。

酒田十景3 高野浜船

2013-05-08 18:54:00 | Weblog
 高野浜は、山王山の西裾に迫る浜で江戸期まで沖に浮かぶで賑わったようです。江戸期から酒田に唄い伝わる「酒田甚句」にも、「今町、船場町、高野浜(こやのはま)」と繁盛ぶりが唄われています。現在は埋め立てられて、埠頭や工場用地として近代的な土地利用になっています。
 次の写真は、プレジャーボートスポットとしてヨットやクルーザーなどの停泊地にも利用されており、背景の鳥海山と併せて、港の風景を演出してくれています。

酒田十景2 鶴田口雪

2013-05-03 20:06:24 | Weblog
 鶴田口は観音寺街道、新井田川の渡し二つ目とある。観音寺は酒田市合併前の八幡町の中心地。八景とか十景は、ある形式を踏襲して画かれたものから、ここでは「雪」を題材とされている。川面に渡し船、そして淡い雪が積もっている風景です。昔は橋が少なかったため、川向こうに行くのは一大事、旅愁を誘うものだったのだろうか。

現在の幸福川に架かる鶴田橋辺りと思われる。この写真の鶴田橋は、雪でなく桜に飾られているが、背後の雲塊の中に鳥海山が隠れている。昔の面影を忍ぶ人は少なくなっている。