BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

意味の捉え方

2021-11-17 | 日本語学21

語と意味の話
意味の捉え方。


https://www.arcle.jp/note/2019/0039.html

2つの意味観
 意味の捉え方については、荒っぽい言い方をすれば、2つある。まず、意味というのは実在する何かであるとする実在論的な捉え方がある。標準的な記号論では、言語記号の表現面(シニフィアン)と内容面(シニフィエ)の相関物(表裏一体の関係態)として捉える。そして、そこから、「コトバには意味がある」「コトバは意味をもつ」という前提が生まれる。実際、多くの人は「コトバには意味がある」と考える傾向がある。しかし、「意味の在処(ありか)」を問うと、その考え方には疑問がでてくる。「コトバには意味がある」と考える人は、「辞書に意味が記述されているではないか」と指摘する。しかし、辞書にあるのはコトバであり、意味そのものではないのである。なお、本連載では、音あるいは文字として表現された言語を「コトバ」とカタカナで表す。例えば「正義」の項に「正しい物事の道理」と書かれていても、それは、意味ではなく、コトバである。「正しい物事」とは何か、「道理」とは何かが改めて問われるからである。
 もう1つの意味の捉え方として、意味構成論の立場がある。端的にいうと、「コトバの意味はつくられる」という考え方である。コトバにある意味が所与として備わっているのではなく、コミュニケーション行為のその都度、意味はつくられるという立場である。この「つくられる」というのは、もちろん誰かによってつくられるのであり、意味の問題を問う際に重要なのは、例えば「『家族』の意味とは何か」ではなく、「Aにとって『家族』の意味とは何か」である。日本語がわからない人にとっては、「カゾク」という音(コトバ)は聞こえても、その意味を構成することはできない。すなわち、コトバを聞くということと、コトバから意味を構成するということは同じことではないということである。
 この意味構成論は、フッサール(1979)の現象学や時枝誠記(1941)の国語学で提唱された考えである。しかし、構成される意味とはいかなるものか、それはどのようにして構成されるのであろうか。この問題に真正面から問うたのが深谷・田中(1996)と田中・深谷(1998)の「意味づけ論」である。


1 コメント

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Re:意味 (Maria)
2021-11-28 20:13:37
私自身にとってもけっこう残念な話なのですが、人間にとっての「意味」というものは、「その人が捉えている意味」である部分があるという点で「認識論的」ではあるように思います。
「ことば」というものはコミュニケーションの手段なので、コトバが通じる範囲内では存在論的な存在感はあるのですが、そのあたりに「もどかしさ」を感じることはよくあります。
法律の条文やコンピュータ内のデータになると、かなり存在論的な風情は出てきますが、どこかしらには認識論的な視点はあろうかと思っています。

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