戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

7/31 その3 老女3人の東北への旅 

2010-07-31 13:30:53 | Weblog
10時過ぎ、近く迄車で外出、今日の暑さは何だ!と云いたいような暑さだった。今朝起きた時、5時前だけれど、いつもと違い爽やかだった。あれは昨夜の突然の土砂降りのせいかな?と思うように涼しかった。起きて外に出ると遠くでカナカナカナカナ・・・・・と鳴くひぐらしの声が入ってきた。薄暗い朝に聞くひぐらしは涼しさを、かんかん照りの日中にみんみんぜみと競って鳴くひぐらしは暑さを感じさせる。半月ほど前から夜、こおろぎなど虫のすだく音が聞こえるようになった。それなのに天気予報では栃木県から南は熱中症にご注意の35度以上が当分続くという。だから部屋が少し暑いと、部屋の中の方が掛かる人が多いと聞いて、直ぐエアコンをつけてしまう。以前はこんなに熱中症で亡くなる方はいなかったし、エアコンだってこんなに普及していなかった。暑い時はデパートに子供を連れて1日を過ごすと聞いていたが、死ぬような話は聞かなかった。私の姉と妹が8月に入ると東北のねぶた祭りを見に行くというが、行くのは70歳を過ぎた老女ばかり、姉は78歳で大丈夫だろうか?本人は本当は行きたくないと云っていたが「妹達と共に旅するのはこれが終りと思うので・・・」と云っていた。倒れないようにと祈るのみ。

 7/31 その2 電子書籍ノンフィクション部門で12位

2010-07-31 13:22:52 | Weblog
 昨夜星野先生がお見えになり新しい電子書籍に投稿をする事になった。まだ手持ちの駒は沢山ある。ただ、電子書籍の読者の層はブログの読者と幾らか違うので、多少の書き換えが必要となる。そんなわけでいつもどの位の方がお読み下さっているのか調べ始めた。そうしたらノンフィクションの部門で“花泥棒”が12位の人気に入っていた。本当にびっくりした。嬉しかった。花泥棒はけっこう長い物語で、まだ最初の部分しか出ていない。先生に「もう少し推敲してから載せたい。だからあと1週間待ってください。来週投稿します」と云った。先生も「急ぐ事はないです。良く考えてからにしなさい」とおっしゃった。これからその仕事も入るので忙しい毎日になる。


 7/31 今日は7月最後の日。

2010-07-31 12:54:36 | Weblog
 今日で7月ともお別れ。気の早い私は朝起きるとカレンダーをみな8月にしてしまった。いつもそういうのだけは早い。各部屋と目に付く所の全てに貼ってあるので相当な枚数になる。気をつけないと踏んで滑る事もある。小さな事が命取りになるので最近はこわごわ歩いている。それが食べる時も同じで、少しずつ、少しずつ食べるのだけれど、何種類にもなってカロリーオーバーしているような気がしてならない。昨日のその日の血糖値は88だった。前2ヶ月のヘモグロビンA1Cは5,4だから先ずは大丈夫だが、まこちゃんに貰った小玉西瓜の食べっぷりから見るとこの次はもしかすると危険範囲の限度5,7をオーバーしているかもしれず、ここで抑える為には、今後の摂生にかかっている。美味しいものが氾濫している時代、酷な事ではないか!!!でも、セントラルが8月2日までお休みだからどうしても摂生は必要だ。頑張ろう・・・

7/30 

2010-07-30 17:09:55 | Weblog
7月も終りを告げる。今朝は未だうぐいすがないていた。雀百まで踊り忘れず・・・と聞いているが、あのうぐいすも同じような年に違いない。啼き始めた頃は梅で、今は桜も過ぎて緋扇の咲く真夏。明日で7月も終わる。というとあのうぐいすは未だ連れ合いにめぐり合わないのかな?と一瞬そう思ってしまった。70歳台が終わるとも考えてしまう。情けない限り・・・朝から外の仕事ばかりでブログに投稿するようなものが書けなかった。お医者さんにも行った。月に2度は行く。それに今日はパソコンのお勉強の日で5時半にはお出でになる。これで終りだったら先生がお帰りになってからでも書けるけれど・・・どうなる事やら分らない。たまには忙しい日もある。では又。

7/29 その3 勤労奉仕 その2

2010-07-29 12:32:31 | Weblog
戦争も大分旗色が悪くなっていた頃、毎日々々軍艦マーチは鳴り響き、敵空母一隻大破、戦闘機○○機撃墜などという放送が絶え間なく流れていた。姉は毎日女学校で毎日の日本軍の戦果をグラフ用紙に書き取り、“今日は駆逐艦何隻、巡洋艦何隻、敵戦闘機〇○機撃墜、敵空母一隻大破”など全く大本営発表を信じてみんなで統計を取って喜んでいた。「何であのグラフ用紙とって置かなかったんだろう」なんて口惜しがっていた。一番凄いのが轟沈、次が撃沈、その次が大破、などと区別していた。それに我が方では飛行機も無いので高学年の女学生は風船爆弾と云う物を作りに時々飛行場に行っていた。
大きい風船に爆弾をくくりつけ、どこかの高いところから離すと、風に乗ってアメリカ迄飛んで行き、着いた所で爆発するものだそうで、大変な威力があり、アメリカでは大変恐れていたらしい。
風船爆弾は大きいので、とにかく広い所でないと作れない為、飛行場のような所で作ったと聞いた。だから風船爆弾については話だけで実際には詳しい事は知らない。
サツマイモもガソリンの原料となる。澱粉を発酵させてアルコールを採るのだ。これは量さえ多ければ良いので大きかったけれど、食べると不味かった。食料が無いのでそんなものも配給になった。農林一号といって白くてでこぼこの多い、見るからに美味しくはなさそうなものだった。でも美味しいの、不味いのなんて云っていられない。
“麦のご飯いやだと言ったの誰だっけ?”
今じゃあ麦、それも大麦すら食べる。真中に一本ふんどしという黒い線の入っているやつ、それにうちで作ったかぼちゃ、農家ではないからうまく作れるわけはない。そのかぼちゃを薄切りしたものをまぜて雑炊にして食べた時のまずさは、今でも忘れない。でも、その頃は草を食べている人もいたというから、それでも良いほうなのだ。たまに砥上のちりめんかぼちゃなどが手に入ると大喜びしたものだ。大麦のあまりの不味さにその後は、大麦を粉にしてお団子を作って食べた。父が石臼を電気で回るようにしてくれたので、粉にするのは簡単だった。これも電気屋だった器用な父のお陰である。

7/29 その2  勤労奉仕

2010-07-29 11:45:07 | Weblog
 戦争中、働き盛りの男は殆ど出征していたから、食料増産の為、学生が沢山動員させられた。
2人の姉はも女学校だったのでよく近郊の農家へ手伝いに行った。小学生も麦踏などをやった。あれは小さな子供でも出来る。おしんも子供を背に負ってやっていた。今は知らない子の方が多いかもしれない。麦はこの辺では二毛作だし、田植えも早くなっているから、麦が出来てからの田植えでは、お米は実らない。勤労奉仕では、いろいろな事をやったようだ。麦踏、たんぼをかき回すしろかきや田植え、田の草取り、稲刈り、蝗(いなご)取り、落穂拾い、私も蝗取りと落穂拾いはやったが、蝗に直接触る事は今でも出来ない。食べるのはもっと無理で、あのごそごそが口の中で動きそうな気がする。
農家に手伝いに行くと、10時と3時のお休みに食料事情の悪かったあの頃、世間では考えられないような美味しいものが出たと、帰ってきて話すので羨ましくてならなかった。お昼には真っ白い大きなおにぎり、あの頃、真っ白いご飯なんて日本国中の国民の一番夢見たもので、たまにはお赤飯が出るという。よだれが出そうな話ばかり聞かせられたものだ。その話を最近になってしたところ「それがね、もちろん美味しいのは美味しいんだけれど、農家によっては“家の中でお上がんなさい”と言うところもあってね」「いいじゃあないの、家の中の方が」「そうじゃないんだよ、あの頃の農家はね、玄関を入ると土間があって、馬が家の中にいるんだよ。そして食べている最中におしっこなんかされてごらん?」そうだ、馬は大切な労働力だし、どこの家でも買えるわけではない。高価で、それだからこそ家族と同じ屋根の下に飼われるのだ。でも、おしっこをされたら初めての人はびっくりする。バシャバシャバシャと相当長い時間音が聞こえる。臭い馬糞だってうちの中で匂う。その馬糞すら農家にとっては、いい肥料になるので、疎開する前、国道で馬糞拾いをやらされた事もある。「そうねえ、奥の細道にもあったわねえ、“馬の尿(しと)する枕もと”って」
馬の尿(しと)する農家の広い土間で、鼻をつまんだって真っ白いおにぎりやお赤飯、勤労奉仕してもみんなと同じに食べたかった。

7/29 スペインでも闘牛反対の声が上がったと聞いて

2010-07-29 10:50:12 | Weblog
口蹄疫以来牛の話題が多いが、スペインの闘牛が人間に刺し殺されるのが残酷だからと反対する人が多くなったという。私は以前からその考えでいたが、相当前なので私のほうが変な目で見られる事が多かった。「それでもあなたは牛肉を食べるでしょう?殺すなら同じような気がするけど・・・」同じ殺すにしても人間の楽しみの為に大勢が歓んでみている前でやるのは私には許せなかった。戦後いち早く入って来たフランス映画にカルメンがあった。純情な兵隊のドンホセが彼を捨てて闘牛士のエスカミリオに心変わりをした浮気なタバコ工場のカルメンを刺殺する妖艶な画面に可哀そうだと思った。その時初めて闘牛を見て、それ以来闘牛の牛が可哀そうだと思った。中学生か高校生になって初めて位の頃始めて見た映画でビビアンヌロマンスの余りにも妖艶な演技にジャンマレー扮するドンホセに随分同情した。闘牛はその頃から嫌いだが、仕方がないと思っている。敢えて反対運動をするまでもないが、スペインに旅行しても絶対に見ないつもりでいる。

7/28 その4  小幡拘置所の臭いめしを食ったお父さん

2010-07-28 15:48:24 | Weblog
 戦争が始まってまもなく、主食は配給になった。戦争というとお米、お米が一番頭に浮かぶ。いつも飢えていたから。
どの位経った時かある時、母が「お父さんに届けるから」と云って毛布と夕飯を誰かに頼んでいた。その人は拘置所の近くで商売をしていて、お金を払えば拘置所に入っている人に食べるものや、着る物を届けてくれるのだ。何故、知っていたかというと、拘置所の前を通って少し行った所に何人かの同級生がいて何度か遊びに行くうち、それとなしに知った。その人がそう云うところの人だとはその時は知らなかったが「何処に泊まるの?」とでも聞いて判ったのかもしれない。「なんで?」「ヤミ米を買って捕まったのだよ」と母は言った。物価統制令違反というのだと思う。売ったのは、父と親しい下町のお米やさんで、荒井さんという半白で3分刈の優しそうなおじさんだった。その顔は今も全く忘れていない。お米を融通して貰ったからではない。男らしい方だったから。荒井さんというそのお米やさんは「米やが米売ってなにが悪い!!!」・・と開き直ってやはり、臭いめしを食ったそうだ。夕飯は届けても朝は拘置所のご馳走だった。
でも、1度位、いい経験だったと思う。2人共、すぐ出所した。
子沢山のうちは、その後も荒井さんのお世話になっていたようだが、それも長くは続かなかった。空襲のあと、荒井さんは生まれ故郷に帰ってしまった。今も私は時々お父さんの臭いめしと荒井さんの優しい顔を一緒に思い出す。


7/28 その3  お父さんに赤紙が来た

2010-07-28 15:34:57 | Weblog
職業軍人は別として、出征兵士に給料は来るのだろうか。いつも疑問に思っていたが、誰も話題にする人もいなかったという事は、いくらか出ていたのだろうか。私の父はもう、絶対召集はこない、と云う30何歳かの時、赤紙が来た。それほどに兵隊は足りなかったのだ。
もう、その頃はうちでも従業員だって1人もいなかった。みんな、戦地に行ってしまった。召集されたあと、母1人で7人の子を抱え、おばあちゃんにつかえ、給料がなければ食べていかれない。その頃は現金商売で預金が有ったなんて聞いた事ないから、多分、いわゆるその日暮らしだったのではないかと思う。私は小さかったから出征の日の事も何も全くわからないが、ある時、誰からか連絡が入り、父の部隊が何処かへ行く途中、下町の方を通り30分の休憩があるので大急ぎで風呂を沸かしておいて欲しいとの事。母は大急ぎでお風呂を沸かした。そしてやって来た父の汚い事!!母はせっせと背中を流したと言う。又、お風呂を沸かす時も父の背中を流す時も背中に末っ子を負ぶっていた。あの時、兵隊さんの苦労を知らない姉は「お父さんてわがままだな」と思ったそうだ。「あんなに出た垢、見たことない」とお母さんが云ってたよ」と姉がいっていた。今は30歳を過ぎて新兵さんになった人の苦労はわかるから姉だってそうしてやったろうと思う。
「でも、あの部隊の中でお風呂に入れたのは多分お父さんだけだったんじゃあないかな」と姉は云っていた。私も同感だ。その時の私は、というと、おふろに入るなんて知らなかったので下町にいけばお父さんに会えると思って急いで行ったら、誰もいなかった。30分のお休みで解散したあとで結局私は会えなかった。

 

7/28 その2 又、戦争の話に戻ります。威勢の良かった頃の提灯行列

2010-07-28 13:10:59 | Weblog
戦争が始まってから1度提灯行列があった。最初の軍艦マーチからいくらもたっていなかった頃で、あの日から毎日朝から晩まで軍艦マーチで沸き立っていた。国民学校1年生でも、その威勢のよさは感じ取る事は出来た。日本が1番威勢がよかった頃だろうか。
少したってから提灯行列をということを聞いた。
いくらもたっていなかった、と思うが。提灯行列というのは日露戦争に勝った時、全国的な規模でやったような気がする。もちろん、映画か、ニュース番組で見ただけだ。でも、欲しがりません、勝つまでは、なんて云って私達の欲しいようなものはだんだん少なくなっていった。うちの初っちゃんなどパーマネントをかけてもらいに行く時は炭を持っていかなければならなかった。どんなものでも、先ず、第一に戦争の為だった。うちのお店の番頭さんもほかの人も出征していく。番頭さんは私が生まれた時、「八月でとても暑く、頭にあせもが出来てひどくなってしまったのを、毎日毎日抱いてお医者さんに連れていってくれて、それで直ったようなものなんだよ」と姉に云われた。番頭さんは特に私を可愛がってどこに行く時も連れていったんだよ。と、なるほど、それで番頭さんと一緒の写真が多いんだと思った。でもね、いくつになっても「おしめを取替えたんだ」とみんなに云うのにはまいった。
提灯行列の頃出征して一番威勢のいい時中国にいっていた。その後ニューギニアでマラリヤにかかり治療のため帰ってき44部隊にお見舞いに行ったときの写真が1枚残っている。番頭さんは、また戦線に復帰し、かつての提灯行列のときと正反対の、後へ前進(逃げること)という命令を受け1升くらいの米を渡されただけで、時には谷底へ落ち、あの戦友がいなかったら帰って来られなかったというような悲惨な思いをしながらも、その後の船はもう出ることは無かった、という日本への最後の船に乗って帰ってくることが出来た。あの時はそれでもギリギリではなかった。という事は、その後、残った日本軍の兵士たちの運命を考えるとどれだけ多くの民間をも含めた日本人が 彼の地で果てているのかと、戦争の残酷さを憎まずにはいられない。