戦争を挟んで生きた女性の回顧録

若い方が知らない頃のセピア色に変色した写真とお話をご紹介いたします。

23/07/31 ひぐらしとうぐいすと蝉と・・・

2011-07-31 17:13:21 | Weblog

 朝、少し遅めに外へ出た。山の上でかなかなとけきよけきよけきょと一緒に聞こえてくる。暑いのか寒いのかわからないような気候。
そしていつ雨が降りだすのかわからない空模様。ひぐらしを聞いたのは今年初めて。うぐいすが何時までさえずっているのか。黒揚羽は1日飛んでいるのを見ただけ。生き物は確かに減っている。日本人の人口のようだ。いつかいなくなる運命のような気がする。私はかなかなは夏の盛りの夕暮れと思っているが、未だ夏は8月、9月と2ヶ月ある。涼しげになくので秋が近付いたような気がしてしまうが、これからが本番だと思うと嫌になる。大体ミーンミーンとなく油蝉を今年は未だ聞いていない。明日から8月。心機一転、ブログにも力を入れます。今までのようにダラダラしないをモットーに、暑さを乗りきって行きたい。

23/07/30 私の宝

2011-07-30 08:56:19 | Weblog
 薄暗がりの中に、そして漆黒の闇の中に光る私の宝イルミネーションの輝き。世界の何処にも無い私の作り出した宝石が、雨の夜も強い風にあおられながら散るように舞い上がり夜毎煌めく。
 毎日帰宅する時、鍵をかけ出口の照明を消した直後の店のまわりを私はうっとりと眺める。それが私にとってしばし恍惚のひとときとなる。数え切れない電球の連鎖の中に切れた球を見つける事もあるが、取り替える事は出来ない。それがイルミネーションの運命だから・・・悠久の彼方、天体の星にも最期はある。その星のひとつ、地球にも終わりはあるのだろうか?最近の不穏な情勢が私の不安をかきたてる

23/07/29 私は派手好き。

2011-07-29 16:47:49 | Weblog
 私は若いころから交通信号といわれ、赤、ピンク、黄、青、白という原色を好んで着ていた。今も変わらないが最も派手に感じるのは黒とか白である。布地にもよるが以前お葬式に黒の1式で行った時、あまりの派手さに引っ込んでしまった事がある。赤やピンクは確かに派手だが着ようによっては黒は最も派手なような感じがする。ドスキンの黒の礼服が母の分も含めて何着もある。どうしようかな?

23/07/29 昭和天皇の行幸。

2011-07-29 15:48:05 | Weblog
 私が中学2年生の頃、、昭和天皇と皇后陛下が若草の練兵場あとに行幸になった。敗戦後の疲弊した国の殆どを行幸された。各地で熱狂的な歓迎をお受けになり、日本国民が如何に天皇家を敬い、親しんでいるか良く物語るものである。フランスやロシアの王朝の最期と比較すれば良く分る。大学の卒業式にも行幸になるが、確かに平民とは異なる。卒業なさる皇太子殿下は式が終わってから校庭の植え込みの芝生の所にお立ちになっていたが、畏れ多いのか気恥ずかしいのか、行く人は見なかった。軽井沢などでいつでもテニスをするような高級人種はいつでも殿下は身近であったからかもしれない。でも、平民の暮らしのほうが気楽?

23/07/28 その②大宮の妹が帰って・・・

2011-07-28 11:41:52 | Weblog
 ひと晩泊まって語り明かした妹もお昼を共にしたあと、白内障の手術前なので特に明るいうちに帰った。泣きたいようなあまりほかには打ち明けられないような事を多く語った。妹は双子で話し相手はいつも傍らにいた。姉は2歳上、4歳上の二人組で真ん中の私はいつもひとり。小さい時から強情だった私は上ふたり下ふたりに挟まれて余計に強くなって行った。でも寄る年波、妹を頼るようになっていた。いつでも来てやるよ、大宮に来てもいいよ」といつも云ってくれるが、ふるさとは誰にとっても離れ難きもの。

23/07/27 ブログを辞めない理由

2011-07-28 11:23:01 | Weblog
  昨夜は星野先生のお授業があった。先生に「私、ろくに書く事が無くてもブログを休まないんです。それは1日休んだらもう書かなくなってしまうような気がして」「そうですね、休むとだらだらと書かなくなる人が多いですね。私も書いたり書かなかったりだからこれから休まないようにしよう」とおっしゃった。私の場合、書く事が好きなのでこれも体力を使うから、と休んだら3日ともたず、直ぐ再開してしまった。何の力も無い私だが、継続は力なりでこれだけの力は残っているようだ。ついでに税務署も終わった事だし、あと1年間は何とかしてみよう。

23/07/28 7月は28,29しか無い・・・間に合うかどうか?

2011-07-28 07:46:28 | Weblog
 決算が終わってもその為に仕事は滞留している。今月の使える日は今日と明日しかない。午前7時に会社に入る。未明突然の大雷雨、我が家を突き抜けるような雷を聞いたのはこれで2度目、本当に落ちるかと思った。しばらくは豪雨が続いていたがそのうちに眠りに入った。出社して1番にする事はパソコンの立ち上げである。いつも電源を切っていくので入れようと思ったがアレレ・・・電源は抜いてなかった。あの雷では駄目にしてしまったかな?と思ったがこのように大丈夫だった。昨夜はお授業があったので確かに星野先生に「雷はどうでしょう」と聞いたら「微妙なところですね」との答えで安心してしまったのかもしれない。運が良かった。パソコンがやられていたら今月の仕事は来月送りになってしまっていただろう。

23/07/27 運転免許証の書き換えに落ちた妹

2011-07-27 16:49:07 | Weblog
 昨日は大宮の妹が久しぶりに群馬の姉の所へ寄ってから私にいろんな物を持って来てくれた。いつも姉妹にはいろいろと世話になっている。私が食べる気力を失ったというので急ぎ慰問というところか?
冷蔵庫に入りきれないほど沢山の食料やお菓子を持って来てくれた。夕飯には大田の特上のうなぎが折りに入ってテーブルに置かれてあった。いつも私と小型犬1匹で寂しい食卓も、妹と談笑しながらの賑やかさでテレビもつけなかった。心尽くしのうなぎは大変に美味しく、今日はカロリーメートの出番は無い。蒸し暑い夜であったが、話をしながらの食事が良かったのだ。子供の頃、ごはんを食べる時は話をしないでと云われたものだが、今はどのようにしているのだろう。うちでもあまりうるさいと静かにしなさいと云ったが、おしゃべりもご馳走のうちと思えば楽しい。妹は食べながら運転免許の書換えが出来なかったと云った。「どうして?」と聞いたら「白内障で視力が落ちていたの」「じゃあ免許証無いの?」というとそれでは困るので直ぐ眼鏡屋さんに行って白内障に良く利くメガネを買って何とか書き換えられたという。私も姉も今年8月の書き換えですんなり通ったのは私だけ。姉も1回では駄目だったという。今や車は下駄のような存在。3年後も書き換えられるのは誰か?1人位欠けるかもしれない。ああ、その前に存在しないかもしれない。

23/07/26 昭和21、22年頃の年越しそば。

2011-07-26 13:16:16 | Weblog

 おひさまで“こんにゃく麺の年越しそば”を始めて知った。地域によって食料の調達の簡単な所と難しい所があるのは分るが、我が家ではお正月のお餅、年越しそば、季節のかしわ餅、ひな祭りの草もち、夏のうどん、そうめんなどは質は良くなくても父親の努力で何とかなった。小麦粉は父の友人二人が大きいパンやだったし、米屋も友達に何人かいた。そんなわけで手に入ったのはうちだけではなかった。宇都宮大空襲の中にも警察に大量の白米の備蓄があったと記録されている。行く所へいけば何でも有るのだと思った。夏のうどん、そうめんは店に勤めていた若い娘のはっちゃんと自転車で石井の鬼怒川迄買いに行った。うどんやそばは飯台で粉を練って濡れ布巾をかけ、時間をおいて伸ばして切り揃えて手打ちも作った。今は贅沢な人しか作らない。戦後はもみじどおりの有名なおそばやさんに長い行列を作って買いに行った。その頃のパン屋さんは洋食があまり普及しておらず、コッペパンなどは売れ残って困っていて、買って下さいと風呂敷に包んだ冷たいパンを持って行商のようにしていた店もある。今こんにゃく麺があればさぞかし健康食品として売れるだろう。もう有るのかな?私が知らないだけかな?