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村上春樹に失望

2011-10-27 16:26:59 | 日記

村上春樹への酷評

大島商船高等専門学校の大久保健治講師は、講座のテーマに村上春樹文学を選んで私達に紹介した。

講義の内容は、春樹文学への賛辞にとれた。私は配布されたテキストの文字列の行間に先生の話された要点をみっちり書きこんでいた。テキストは持ち帰り執念深く電子辞書を傍らに読み返して反芻熟読した。気がついたことは、先生は彼の文学を賞賛したがアンチテーゼの態度に欠けていたことだった。

どこの書店の書棚を飾る特になんとかIQとい書物はベストセラーズであり海外では評判だったという。しかしわが国では彼ほどの大きな文学者が芥川賞候補に挙げられながら送られた理由は何だろうかという疑問がある。

そこで上野千鶴子、小倉千加子、富岡妙子などの女性評論家、さらには小谷野敦などが彼の人気の裏に次のように酷評をしていることも知った。

ノルウエイの森では、あのワタナベ君というものは気持ちが悪い。「やれやれ」と言いながら舌なめずりをしている。渡辺えみ子は「語りえぬ村上春樹の女性表象にはレスビアン少女の描き方だ」と酷評。小野敦にいたっては、美人ばかり 「喪失」だの「孤独」など そんなことはどうでもよい。美人ばかり、あるいは主人公の好みの女ばかりが出てきて、それも簡単に主人公と「寝て」くれて、しかも20代の間に「10人の女と寝た」などという。やった、どうして感情移入ができるのか春樹とその女性観に共感をもてない。私とて興味本位で彼の小説のさわりを読んだが性器の名称が、動きがあからさまに表現され気味悪い気もした。家庭像の崩壊願望さえ見え隠れする小説である。彼は自身の評価は世界がするものだ。狭い日本の評論家やるものではないとする思いあがった心の持ち主ではないかと推察する。

彼はナルシストだ。だから己の虚像にうぬぼれているのだ。

学校教師の父を持ち、同じく教師である母は大阪船場のいとはん。人も羨む阪神間の高級住宅地の西宮市夙川に住み、県立神戸高校から早稲田に進み、在学中にジャズ喫茶店(夜はバー)を開きながら作家をめざしたというサラブレット系のDNAをもつ。彼には挫折の経験がない。病苦、貧困に縁がなく順風満帆の文学界での生活、他人は彼の実像を評論する。

ジェンダー学者達の評論があながち的を外れたものとではないと思い出したのが受講から3日目の感想である。

2011.10.2


村上春樹の震災文学を読む

2011-10-23 13:15:52 | 日記

 

 

 

その年で、いまさら何の好奇心をと妻や友に揶揄される。

広辞苑で、好奇心とは、未知の事柄に対する興味とある。まさにその通り。高齢社会の真っ只中、職場同期、地元の高校同級生との交流から、悠々自適趣味に過ごし、あるいは普通車を軽四に乗り換えて細々と年金生活を過ごしているもの、反面亡くなったもの、痴呆症がでているもの、病に、貧困に苦しむもの様々である。

リタイヤからなりの年月が経過した。現役時代には、よく勉強をした。知識、経験を積んできたと思いきや、それは己惚れに過ぎず、解らないことだらけに気づいた。

それを解き明かそうとするのが好奇心であり、我が人生の生き甲斐である。解明のツールはいくらでもある。蔵書の多い岩国市立中央図書館もあるし、講座で得た知己の文学の諸先生、電子辞書、インターネットのホームページもある。

昨日は、大島商船高等専門で開かれた大久保健治講師の村上春樹の阪神淡路震災での心の大地は裂けた、僕達はずっと前から内なる廃墟を抱えていたとする著書「神の子どもたちはみな踊る」の紹介があった。著者、講義をした先生、受講の私も同じ日に、同じ場所で震災を目の当たりした心の被災者であった。先生の説明、によると彼の描く小説には、家族幻想、母への崇拝倒錯ニプル・コンプレクス(己を育てた母の乳首倒錯)、ナルシストである。ナルシストは古代ギリシャ神話でニンフのエコー(こだまecho)を失恋させた美青年。水に映る我が姿(非対称である)に恋して死に水仙の花に化したという謂れ。ナルシストを俗界では単に自己を愛し、自己を性対象とすること(ノーマルの世界では性対処は異性である)。転じて、自己陶酔。己惚れとある。

なるほど、これらの小説に現れる男女は、女が男から離れていく。父を知らない子供の存在、母の乳首願望倒錯の男の願望が読み取れた。

女は鏡から離れない。顔を飾り(make)鏡に映る自画像に陶酔する深層心理。物理の時間に教師から鏡に映る像を虚像というと教わった。それは非対称の像であるからだ。私も世の女たちも虚像を実像と錯覚して鏡の中の像を眺めているのだ。己は鏡や水面に映る自分の虚像を見ることができても、他者が見る実像は永遠に見ることができないのだ。映る虚像をいくら美形、醜形に見ても他者からは美しくも醜くも映る。哲学用語では他者性という。

私の好奇心は、夕食前から午後11時までに新潮文庫の「神の子どもたちはみな踊る」の237ペーを3回読み返して要点と難解な文言を大学ノートに書き出して調べ、さらに著者の系譜をインターネットで調べあげて納得。春樹文学を賞味することができた。

彼のノルウエイの森は初刊を読んだが、私が未熟で彼の深層心理へのコミットネントがなく、わからずじまいで柳井の古本屋へ行ってしまった。

 


バラが咲いた僕のバラが

2011-10-20 12:52:23 | 日記

バラが咲いた僕のバラが

 

 

秋のバラが見事に咲き、薫香を漂わせてくれている。この唄はマイク・眞木が1980年に歌った。

加藤登紀子は、1987年に百万本バラを歌った。どれも素敵な唄で俺はこの歌を口ずさみながら花壇のバラの手入れに精を出している。バラは、意地悪を好み、手入れをしている俺に意地悪をするのだ。それはその鋭いとげで俺の着ているシャツやズボンを引っ掛けて、布地を突き抜けて肌を刺しシャツやズボンを赤く染めて喜んでいる。

それはバラ(悪女)が俺に示す深情けである。このバラの悪戯振りは俺に対するサゾではなかろうか。枝を切られるお前にしては切られることに苦痛が伴う。しかしお前は我慢ができるのはマドだから。だからお前は多少の苦痛には耐えられるのだ。 

6月に百花繚乱に咲き乱れ、薫ってくれたバラも夏の一休み、おれはお前にお礼肥、水遣り、剪定、除草、殺菌剤や殺虫剤の散布と手を掛けてやった。

夏が去り、秋が深まり、お前は再び咲き香り俺を慰めてくれている。お前に「百万本のバラ」の歌を贈ろう。

 


座席を譲られて断った

2011-10-18 15:56:45 | 日記

話題1  女子中学生から席を譲られて

私は、70を越えているが老人を認めない頑固爺である。健康には自信があり週3回テニスコートへ通い仲間とプレイを楽しんでいる。

ある日、バスに乗って出かけた。シートは女子中学生によって占領されて喧騒を極めていた。私がバスに乗りこむと、前のシートに座っていた女生徒の一人がた立ち上がって私に席を譲ろうと「どうぞ」と言ってくれた。

頑固者の私は、女の子の折角の好意を手で制して「ありがとう、次の停留所までですからご好意はありがたく頂戴いたしますよ。それで皆さんはおそろいで何処へお出かけですか」と話しを続けて間を保ちながらバスは停留所へ近づいた。彼女は「来年に入ろうとする女子高校の説明会へ行くのです」と答えてくれた。やがてバスが停留所に止まった。私は彼女へ「ご健闘を祈っていますよ。頑張ってね、さようなら」。数人の女生徒が窓から手を振ってくれた。数分間の会話だったがその日が大変気持ちよく過ごせた。時間が経った今日、考えてみると他人の折角のご好意には素直に受け取るのが年寄りとしての礼儀だったかもしれないし、相手にとっても気持ちがよかったのではないか。好意を受け取らなかった私が頑固者だろうか、そのジレンマが私の中に残像となっている。

 

話題2  アッシーを断って痛快

私は中国新聞写真クラブ周南支部の一員である。仲間にAというリーダ役、B,C君がいる。仲間4人は撮影会を計画しては一緒に車に乗って出かけている。彼らは車を持っているが軽四であるから4人も乗れば隙間もなく窮屈で旅の楽しみは半減する。だから彼らはいつも私のBMWを当てにしているし、きのいい鵞鳥の私はいうがままに気持ちよく引き受けていた。

昨日A君から「次の土曜日に廣島の森林公園の紅葉を写しに出かけよう。段取りは3人で決めが、君の都合はどうか。車もお願いしたい。」という勧誘の電話がかかってきた。

私とA君は高校の同クラスの仲だが、この電話にはむかついた。誰にも都合がある。リーダは3人で決めたのであれば誘わなくてもよい。計画というものは事前にお互いの都合を聞いてから決めることは小学生でも知っている。私の参加がなかったら計画は初めからオシャカ様に決まることではないかと反論したい。つまり、私への勧誘は、乗り心地のよい私の車を利用しようというのが本音で「出し」である。ツイ先ほど、メルトモのハリネズミ君が教えてくれた「アッシー」に過ぎない。

撮影会を計画は、まずもって私に話をもってくるのが筋である。リタイヤ後の私、いくら気のいい鵞鳥を演じている私は腹を立てたのだ。

手帳を開いてスケジュール表を見た。旨い事には、その日が大島高等商船の公開講座の受講日に当たっていた。講座受講を理由に婉曲的に断ることができたから 良心の痛みが少なく、仲違いも防げた。彼は計画を断念せざるを得なかった。これで老いた彼は勉強をしただろう。いや、もう遅いか、私のほうが彼の頑固一徹を許す寛容さを持つか。俺はいけずだ。


お嬢さんの5,7,5

2011-10-02 09:45:58 | 日記

NHKプレミアム「フオート一句から」

7時半。NHKのプレミアムの朝ドラが始まる。

昨日で「お日様」が終わったが今月3日からはお気に入りの女優尾野真千子の「カーネーション」が楽しみである。彼女の演技は故原田芳雄主演の「火の魚」で鑑賞済みである。

それはさておいて、朝ドラの前に“題名に掲げた「写真と575の一句”」がある。これも面白く視聴している。NHKは、写真と5,7,5の掛け合わせを楽しむ新感覚の出演者達の自分の作品を持ち寄り発表し合う「フオート一句コンペ」と説明している。

930日の傑作を紹介し、江戸時代の浮世絵師の菱川師宣と現在の風刺画家の描いた見返り美人画を添えたい。

 

お嬢さん 呼ばれて 振り向く 性(さが)を持ち

多分、この作者は中年以降の男性だと想像します。私達男性が店頭であるいは何かの受付事務をしていると訪れた中年から高年の女性を呼び返そうとすることをしばしば経験してきた。私は、そのときは奥さんと呼ぶこともあれば、思い切って「お嬢さん」と読んだことがあった。こう呼ばれたら女性は必ず振り向いて「私ですか」と返答がかえり効果覿面であった

 

一般に中年以上の男性が、女性にお嬢さんと呼びかけたら、浮世絵師菱川師宣が描いた「見返り美人」を想像するのであるが、そう滅多に遭遇しない。むしろ並べて挿入した画像の光景ばかりである。

ネットから作者像を検索した。お嬢さんと呼んだ男はこのジーンズ姿の男で、呼ばれて振返った女性像はピッタリと思うのは私の偏見だろうか。

2011.10.2