ひとり分の料理
題名は、20年も前、一人暮らしをしていたときに買ったレシピ集である。
本の巻頭には、「ひとり暮らしをした人の、実情にぴったりの内容。健康で快適な一人暮らしのためにお役にたててください」とある。男子厨房に入るなかれ。料理など男の沽券に関わる」などと言われた時代をすごした語り手。その後、「お一人さまの老後」で売れた有名なジェンダー学者がベスト・セラーを、続いての「男お一人さま道」は、弱い男へのアドバイス書だが、俺はとっくにお一人さま道を予習していたので先生には余計なお世話だと言いたい。
夫婦いずれはどちらかが先だ。俺は、いつ連れ合いが離れて、俺の前から姿を消しても慌てないように危機管理が十分だ。(俺という言葉、ストイックに生きた分、時には不良に堕ちた汚れ役を演じてみたい俳優の気分です。荒っぽい言葉使いを御免ください)
俺のひとり暮らしの始まりは独身時代、そして結婚、子供を出し、熟年、老いた両親の介護のため妻をわが故郷に帰してから一人神戸での生活。男は拘束から解き放れて自由を謳歌、思えば、男は仕事で身に着けたスキル「安正早楽」。料理は安く、早く、美味しく、早く簡単に、手間を省いてである。あのときの情熱は何処に、女は年を重ねて英語のEnnuiとなる。食卓に並ぶのは手の込まないレトルト食品ばかり。にこの雄猫は手を抜いた食事には猫またぎ。メス猫にとってこの雄猫は厄介で可愛くない。
久しぶりにひとり住まいになった男は本屋でレシピ本は見つけた。本は男に生活の知恵を授けた。料理は面白かった。今でもテキストを開いては料理を楽しみ、燻製、漬物などにもレパートリを広げてきた。
6月16日、仲間の集まりが神戸で開かれて会話を過ごした。妻に頼りきった愛妻家は料理ができない。己があるいは配偶者の体の不調が生活を圧迫する。愛した妻が逝き一人男やもめ飯が炊けずに三度の食事をつつましくコンビに弁当で済ます友。人生それぞれの感あり。片田舎に住み、畑でジャガイモ、たまねぎの園芸に、暇を本読み、絵画鑑賞に過ごす俺は恵まれていると思う。本読みは、ソクラテスの悪妻物語りを、絵画集から英国画家シッカートの「ennui」(訳:倦怠)の絵画をオーバーラップする。料理も倦怠から抜けきらなければならない。
E NNUI
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翌日、昼すぎ、新幹線新神戸駅で柳井へ向かった。新神戸駅には、大掛かりのみやげ物店があり、書籍、神戸の洋菓子、南京町の豚マン、地物の神戸牛弁当、明石の蛸弁当、京料理弁当などなどが並べられていた。蛸弁を買った。列車に乗り込み座席に着くと弁当を開いた。蛸の煮付けが美味しかったが、牛蒡と牛肉の煮つけは肉の旨味が牛蒡に滲みこんだ鄙びた香味がとても美味しかった。
よし、帰ってから、材料を整えてあの味を出してみようとの思いが募った。
帰宅した午後、材料をメモして街のショッピング・センターに出かけてわけありの値段の安い牛蒡、味付け用の細切れ肉、にんじんを買った。妻は出かけていた。厨房に入り、包丁で牛蒡、にんじんを短冊に切り水に晒し、フライパンに油を引き肉と野菜をいれ炒める。砂糖、出汁、酒を加え、最後に醤油を加えて煮詰めた。火を切ってから七味をふりかけ皿に盛った。簡単な男料理だが、肉汁が牛蒡に滲みこんで牛蒡の香りと舌触りがよくいい味を出すことに成功した。亡き母が弁当のおかずに入れてくれた牛蒡の味であり、弁当の牛蒡の味だった。私は現在、妻を扶養している。ひとり料理のレシピにもう一人分を余計に作っている。
日記2011年6月19日