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亡き友の奥さんにエール送られる

2010-08-13 08:48:32 | 日記
弔文ありがとうございました。
隆夫の妻 一枝
夫隆夫への弔文ありがとうございました。
小説を読むような気持ちで読ませて頂きました。正確な記憶と記録に驚きました。
貴方様が見ていた隆夫と私が聞いていたことを述べます。
隆夫は貴方様が羨むほど名士の生まれ、生活ではなく幸福ではなかったことです。彼は12歳で母親を亡くし、二人の兄を結核で亡くしました。戦後の公職追放と農地改革の嵐の中、彼のお父さんは職を失い、先祖代々から小作に出していた多くの田畑がとられ、お国のため買っていた国債もただの紙切れと化し生活は大変苦しかったようです。
その後、義父は伊陸村(現柳井市伊陸)の村長になりましたものの生活は苦しかったそうで下着の着替えさえも不自由したと聞きました。彼はあなた様と同じ時期に高校を出て三菱レイヨン大竹工場に就職しましたがすぐ結核に冒され3年間療養したが回復しませんでした。このとき、残った二人の兄も結核でなくしました。病気のため勤め先を解雇され、しばらく小鳥屋をやりましたが商売が上手くいかず、大好きな女性とも別れることに。この時分に隆夫が神戸の貴方様を尋ねたものと思います。お金もなく無賃乗車で知り合いを伊豆まで尋ねていく途中だったのでした。貴方様は日記に、昭和34年初夏、卒業以来、音信のなかった彼が、前触れもなく突然、神戸の勤め先に現れて驚き、上司の許可を得て、神戸の元町の大丸デパートのパーラで昼飯を食べた。彼に省線の元町駅の道筋を教え別れたと書きとどめられていたとお聞きし、貴方様の正確な記録と彼が私に話した事柄が合致しました。私と彼があったのはそれからしばらくたってからのことでした。
愛知県で人生をリセットさせ、起業、やっと人前で過去を笑って話せる頃(平成8年春)柳井のクラス会からのお誘いがありました。戦後生まれの愛知県どころか大府の町から一歩も出ていなかった私としての体験と彼の差はあまりにも大きく、物事の受け止め方も違っていました。
彼の懐かしい故郷への思いは夙に大きくなり毎年のクラス会を楽しく待ち遠しかったようでした。
死を前にして「よい人に出会って、よい人生だった。幸せだったよ。ありがとうな。」息の止った瞬間、本当によい顔になりました。お葬式には沢山の方から送っていただきましたが暖かく穏やかな日で、本当によかったと思いました。
隆夫は大府で事業を起こしましたが病に臥したとき、事業を引き継いでくださる方に仕事を託し廃業しましたがその仕事は見事でした。貴方様には文章の間に夫の幼い時代の写真、ダイア・ローグなどをたくさん挿入していただき私が知らなかった夫のプロフイールを紹介くださり、今は亡き夫を偲ぶことができました。ありがとうございました。よい友達に恵まれました。挿入された夫の幼顔が次男の顔にそっくりです。
残暑厳しき折、お体を大切に、よいお仕事をなされるよう遠くからエールを送ります。

ヤマアラシ落ち込む

2010-08-11 10:19:57 | 日記
やまあらし落ち込む
“やまあらし”私にUN KNOWNの名で私のブログにコメントを入れた方から頂いたあだ名である。この猛暑、このところ、やまあらしは猛暑と親しい友の重なる訃報に接して意気消沈しあえいでいる。壁に掲げた「ピエタの肖像」の額を眺めている。私がピエタだ。聖母マリアの膝に抱かれマリアを嘆きさせたいという途方もない罰当たりな考えがよぎり悲嘆の底に沈んでいる。なぜならば。
毎年、私は7月も中旬になると親しい人、懐かしい人、学校同窓生、職場OB、職場同期生に暑中見舞いを出して相手の健康を尋ね自分の近況を報告している。これは高校時代に国漢の先生から教わった人としての礼儀作法だった。この習慣は社会に出てもかたくなに守ってきた私のエートス(ethos)の文化なのだった。今年は考えた。こちらから出すということは、相手にとって嬉しいことか、嬉しくもなく返事ださなければという苦痛にもなっているのではないかという気遣いが生じたのである。そこで今年は出す相手を仕分けしてみた。その効果はどうだっただろうか。返ってきた返事は半分以下だった。人は十人十色、十把一絡げというわけにはいかないことを知った。
私は今でもその高校の先生を尊敬し、先生の文化を継承し、私のエートスの文化を形成している。しかし、考えると私が尊敬する先輩、仲間などがみな共通のエートスを持ち合わせているかといえばノーである。わたしは自分のエートスを強制すべきではなかったと深く反省している。
周りの友がいうように、時の挨拶に返事をよこさないのは非礼だとか無教養とかということはあたらないし、それに目くじらを立てたり非難をしないようになった。
でも、今年は暑中見舞いを出したことから大変落ち込んでしまった。
紹介しよう。私は40余年神戸に在住し、13年前故郷の柳井へ帰ってきた。神戸では同郷の高校同窓生であったHとN君の二人と親しく友誼を深めていた。今年N君に宛てた年賀状はなぜか別居の長女の方の代筆だったが質さずにうち過ごした。H君のほうは毎年欠かさず、2月には明石沖で獲れる新鮮なイカナゴの釘煮を、初夏には明石蛸を送ってくれていた。今年はイカナゴが不魚だったのか釘煮は送ってこなかった。人からのもらい物にけちをつけてはならないが初夏の蛸の贈り物もなかったし暑中見舞いの返事も来なかったからお返しの品物も不要だった。この年である。何か起こったのかという不安がよぎる。
N君の長女のかたから返事のハカキが来た。父は病に臥し療養中のところ今年の2月に旅立ちました由。早速弔文をしたためた。今度はH君のことが心配になって電話を入れてみた。お嬢さんが電話にでてこられ、父は6月に急死しました由。早速お悔やみの言葉を。
昨年の5月クラス会があった折のこと。中学、高校と6年間ともに学んだ竹馬の友が養子先の愛知県で肺癌で療養中、奥さんからの欠席届と皆さまへとお菓子の託。彼は奥さんに看取られて3月後には旅立った。従って今年の5月のクラス会では彼の霊に黙とうした淋しいクラス会だった。
2年前には、三木露風の赤とんぼの所縁の町兵庫県龍野市に住むT君、彼は同じ寮でともに7ヶ月の研修を、さらに3年後6ヶ月の研修で同じ釜の飯を食い合った同期の仲間。そして6年後私は龍野に転勤したとき、彼の細君と職場を同じゅうした。一昨年5月共に栄えある叙勲、宮城で天皇拝謁に浴したが、そのとき彼は胃癌の終末期だった。モルヒネによる苦痛緩和措置で、彼は私の顔、言葉も理解できず無感覚で無表情だった。愛する妻や長男夫婦の手厚い看護のもとでの天皇拝謁だった。友はその日から僅か3月して黄泉へ旅立った。
 わたし達仲間は平均寿命には達しなかったが長生きをしたと思う。そこでわたしは自分が無神論者であると断り、いま私が仏教界にあったら黄泉の世界へ旅立ったとしても釈迦のおはします蓮の花が咲き乱れる極楽浄土には決していくことはができないが、地獄にあるといわれる紅蓮の炎に包まれた「火の車」は獄卒に引っ張られてすでに私に差し向けられ出発しているだろう。獄卒は私を火の車に乗せ閻魔大王のおはします地獄へ運び込むであろう。カトリックの世界では、死者は煉獄で、その霊が浄罪されれば天国へいけると説き、浄罪されないものは永劫の罰責を受ける地獄があるという。私は今まさに煉獄へさしかかっている。火の車はすでにそこにきて友たちは彼方から手招いている。
迎えの車に乗りたいという甘美に満ちた麻薬の囁きが心をよぎる。悪魔の甘い囁きに乗せられてはいけないという声も聞こえている。
目の前のピエタの絵のように優しいマリア様の膝に抱かれて命を引き取りたいという妄想の世界にいる。2010.8.12随想