Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

『ウェブ人間論』(2):個と社会/「ダークサイドに堕ちてますよ!」

2006-12-17 19:47:35 | 読書ノート
下のエントリからの続き。今日三度目の更新ということになる。普段だったら一度で書ききってしまうかもしれないのだが、少しパワー不足なのでこういうことになっている。

梅田望夫・平野啓一郎『ウェブ人間論』。自分が感じたこと、考えたことの中で一番柱になりそうなこと。といってなかなかどのように受け取られるのか難しい面はあるのだが、少々未整理であることはお断りしたうえで。


ウェブ人間論

新潮社

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私が読んでいてだんだん強く感じ始めたのは梅田と平野の「違い」なのだが、そのひとつは『人脈』の捕らえ方についてだった。梅田は人脈というものを結構功利的にとらえていて、それはもちろんビジネスの世界では当たり前のことだと思うのだが、その人脈のとらえ方に対して平野がやや強い拒否反応を示している。(p.57あたりのことだが)このあたりの捕らえ方が私は読んでいて漠然と「私」と「ある種の人々」のあいだにあると日ごろ感じている「ものの考え方の違い」というものと対応するように思えてきたのである。梅田は慶応工学部を出て東大の大学院を出ているが、その感じ方が「慶応的な人脈観」であると思った。一方の平野の感じ方は、「国立(大学)的な人脈観」だと思ったのである。平野は京大法学部を出た文学の若き旗手。つまりそこに、人間関係に「功利性」を見ることに対する拒否反応のようなものを見たのである。

もちろん人間関係に一切の功利性が存在しないということはほとんどないだろうし、逆に「友情」というものが全く介在しない人間関係しか持たない人は相当辛いだろうと思うから、どちらかだけということはないのだけど、人脈あるいは人間関係というものに功利性と精神性とどちらを見るべきかというようなコントラストがそこにはあるように思った。平野の考える人間関係は、「心の友」のようなもの、「ソウルメイト」といってしまうとまた別の話しになってしまうが、「本来『孤独な存在』である人間」がだからこそつながりを求める、という近代の荒廃した風景の中での何物にも変えがたいものとしての関係性をまず思い浮かべるのに対し、梅田には「たくさんいる友達や先輩後輩」とフランクにお互いに利用し利用されることでお互いに相手を益しあうことでともにうまくやって行こうという人間関係のとらえ方を感じるのである。

以前、就職戦線で慶応が圧倒的に有利、という話を「AERA」で読んだときに描かれていた慶応ボーイの就職に関する如才ないイメージがちょうど梅田の人脈観とつながって見えたのである。一方の平野は梅田が「まじめな人」と評し、「社会がよりよき方向に向かうために、個は何ができるか、何をすべきか」と思考する人であるというように、私も思う。そのあたりの思考は、私も小中高大と一貫して公立・国立を出ている(おまけに都立の教員でもあった)から、よくわかるし、その思考の枠から逃げ出しがたい部分もあるくらいである。

一方梅田は自分の考え方を「社会変化とは否応もなく巨大であるゆえ、変化は不可避との前提で、個はいかにサバイバルすべきか」を最優先に考える、という。そしてこの考えもまた、私自身にとってはじつによくわかる考え方なのだ。

どちらがより本源の自分(私自身)に近いかというと、実は梅田の方の思考なのだと私自身は思う。平野的な「まじめ」な考え方は、むしろ自己形成の過程の中で環境的に身についてきたものであって、身の丈にあっていないものを無意識のうちに常に感じていたのだと今では思う。

どちらが正しいか、ということは「ない」。しかし私自身は平野的な考え方を「正しい」と思い込んでか込まされてか、ここ数十年は思っていたことは事実で、特にこの十年ほどそういう呪縛が非常に強くあったと思う。この本を読んで自分自身について気がついたのは実はそういうことで、そういう意味で読んでいてどうも頭がふらふらしてしまうようなものを感じていたのだ。つまり、ある種の「洗脳」が解ける感じがしていたのだ。(もちろんこの洗脳に誰が責任がある、ということを言っても始まらないのだが)

この世の中を「ひどいところ」だ、と感じることは誰しもあることで、「だから世の中を変えよう」、と思うか、「だから何とか生き延びよう」、と思うか、どちらを選ぼうとそれは責められない気がする。そしてそれはどちらが「偉い」ということでもない。いや、私は今まで「前者の方が偉い」、という価値観を放擲できなかったからこそ、「洗脳」が解けなかったのだが。

共産主義の幻影が生きていた時代、「職業革命家」がノンポリ学生より「偉い」とされていたように、「社会を考え、あるいは国家を考える人間」は「一般人」より「偉い」、という感覚は今でもないことはないような気がする。「社会を変える」ということはもちろんほとんど不可能であることに挑戦するような部分があるから、「偉いなあ」とでも思ってもらわないとやりきれない、という部分は事実ある。しかし、世の中をよくしようとして、ひどい世の中をますますひどくしているのもまたそういう「社会を考え、あるいは国家を考える人間」だということも忘れてはならないのだ。平野的なまじめさはそういう意味で直ちにある種の危険性を帯びることも場合によってはあるわけで、「何とか生き延びよう」という側はそういうものを常に警戒している必要がある。

左翼、というものの劇的な瞬時の後退と崩壊は、現実にとっての無力性が明らかにされただけでなく、現実にとってむしろ有害であることが、阪神大震災やオウム事件によって明らかにされ、毛沢東主義のテロリストグループの暗躍や、北朝鮮の拉致の実態、社会主義国での権力の醜悪な集中ぶりやあまりにもひどい非人道性、チベットの実態や北朝鮮のコッチェビたちの実態が明らかにされてきたことが大きいだろう。

「社会を変える」という思想はまた瞬時に「人間を変える」という思想に結びつく。教育や自己批判などのシステムが大きくいって洗脳に結びついていくことはままあることだ。無論人間は成長していかなければならないが、「伝統」から遊離した人間は奇妙に偏った思想にかなり容易に取り込まれていってしまう。私が左翼的なものを嫌悪することの大きな部分は、そういう強制性にある。右翼性こそそういうものだという意見もあろうが、私はいわゆる「右翼」的なものというのはむしろ左翼思想の鏡像的なものとして生まれて来たに過ぎないもので、保守とか伝統というものはそういう原理主義的なものとはまた違うと思う。そのあたりも何段階もいろいろな仕掛けがあってそう簡単に弁別することは出来ないし、誰が左翼で誰が保守で誰が右翼なのか、あるいは誰がある外国の利益代表者に過ぎず誰が日本の将来をよりよい方向に導く人なのか、はっきり言うことは私にも出来ない。

で、このあたりの「世の中を変えよう」という人たちへの不信感というか、嫌悪感というか、そういうものが、私の中にあるジョン・レノン的なものよりポール・マッカートニー的なもの、ヘミングウェイ的なものよりフィッツジェラルド的なもの、ドストエフスキー的なものよりプーシキン的なものを選び、好み、愛するという心性と共通していることに読みながらようやく思い当たったのだ。

人間の自由というのはどこにあるのか。やりたいことをやるのが自由であるとしたら、そこで世の中を変えるのが自由なのか、そんなことと関係なしに自分の好きなことをやるのが自由なのか。自由のとらえ方というのは多分その二つがあって、私はやはり元来「好きなこと」派なのだと思う。ただ、教育の世界に身をおいてそのあまりのひどい荒廃ぶりに衝撃を受けて何とかしなければと頑張りすぎて精神的にも肉体的にも破綻するようなことになった。もともとがそういう向きでない人間がやるようなことではなかったのだが、教育は今なおどんどん壊れつつある。教育基本法が改正され、このあと学校教育法その他が現実的に断末魔のあえぎ声を上げている教育の崩壊にどこまで歯止めをかけられるのか、が問われているのだと思う。辞めてなお日本を何とかしなければという思考からずっと逃げられないものを感じていたのだが、この本を読んだことでずいぶん肩の荷が軽くなったような気がした。

結局世の中はひどいところだし、人はとにかくまず生き延びなければどうにもならない。流れの中で少しでもましな方向に自分の周りを変えて行こうと努力するのは尊いことだが、人間には頑張っても無理なこともある。そのときに一度流れから離れてもう一度どういうことが自分にとって可能なのか、あるいは自分がどう生きるのが本当は自分にとって理想なのかということをまっ更な気持ちで考えることは大事だと思う。

正直言って、しばらく、つまりここ10年ばかり、本当の意味でものを食べていて美味しいと思ったことはなかったような気がするし、女性を見て魅力的だと感じたこともなかった気がする。何をしていても心がどこか痺れた、麻痺したような感覚であったような気がする。昨日道を歩いていてふと横を通った女性に心が動いたり、どこからか流れてきた美味しいものの匂いに心が揺れたりしたとき、そんなことを思った。失われた十年とはよく言ったものだと思ったり。

うーん。これだけ書いてしまうと一番自分が書きたかったことは書いてしまった。細かい書評はたくさんあるのだけど。

あ、ひとつだけこれは書いておこう。梅田が関わっている「はてな」という会社は、「グ-グル」もそうなのだが、『スターウォーズ』がバイブルなのだという。梅田が「はてな」の取締役になるときに「通過儀礼としてスターウォーズのDVDを全部見ておいてくれ」といわれたのだそうだ。この話は相当面食らうものがあったが、つまり、現代のウェブを作っている最先端の人たちのメンタリティというもの、世界観というものは「スターウォーズ的なもの」であるらしい。つまり「こちら側」と「ダークサイド」の二分法で世の中を見ているようなのである。

私自身はスターウォーズ「体験」が「完全にゼロ」で、つまり情報として「こんなもの」らしいということを聞いているだけなので否定も肯定もできないが、というよりまあこういうところではあまり書かないようにしているが相当ネガティブな感じ方が自分のどこかにあるとは思うのだけど、まあそういうことだから偏見は相当あると思う。あまりに単純化された見方ということで「ばっかじゃなかろか」と思うところがゼロとはいえない。ただ、私の中にはやはり世の中を「明るいもの」と「暗いもの」と分けてみる見方というのはスターウォーズとは無関係に存在するので、ある種の共感を覚えるところもないことはない。ただ何が明るくて何がダークサイドなのかと感じるところは違うし、グレーゾーンとかトワイライトゾーンとか陽だまりとか雲の絶え間とかまあそういうところに魅力を感じたりもするわけで、こっからそっちはダークサイド、みたいなシンプルな見方は微笑ましいというか、やはりあほらしいと思うところはなくはない。

梅田がはてなの会議で「やはりリアル(ネットに対する)は凄い」と発言したら、「ダークサイドに堕ちてますよ!」と一斉に言われたのだという。「ロングテールの頭に行ってしまったんですね(『ウェブ進化論』が売れたから)」というのも可笑しいが、なんだか微笑ましいというか、「で、ダークサイドって何?」的な感じがした。

まあ世の中の微妙な陰影を理解するようになることが成熟と言うことだという見方からすればまあどうしようもなく笑止なわけだが、その無邪気さがパワーになっているという面もあり、まあこのへんは肯定も否定もしにくい。ただ、本当に自分たちの好きなことだけで無限の可能性を追求しているということはある意味羨ましい。

まあそういうわけで全然まとまりがないままこの文章は終わるわけだが、先ほど帰ってきたときに明治通りを右翼の街宣車が大音響で音楽を鳴らしていた。『デビルマン』だったが。曲が終わったのでそのあと何をかけるか期待に胸を膨らませていたら、『バビル二世』だった。懐かしい。それはいいとして、この右翼、いったい政治的主張は何だろう。アニソン右翼、というのも凄い話ではある。

出かけた先で村上訳のフィッツジェラルド作品をまた買ってきたのだが、それはまた日を改めて。




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6 コメント

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Unknown (ルイジ)
2006-12-18 00:23:56
梅田氏のブログで紹介されてました。
ありがとうございます (kous37)
2006-12-18 09:59:39
お知らせありがとうございます。
早速見に行きました。
ずいぶん大きく取り上げていただいていて、驚きました。
Unknown (rcc)
2006-12-19 01:19:15
梅田さんのブログから飛んできました。

私は梅田さんのようなサバイバーに憧れる
平野派です。

この対談は二人の考え方のコントラストがすごく面白いですよね。人間関係の捉え方の二つのタイプの代表者みたい。ネット上の現象に対しても、まず興味をそそられる場所も結構違うみたいですよね。

kous37さんと同じように、私も二人の考え方のコントラストで自分が浮き彫りにされるようで、くらくらしています。
コントラスト (kous37)
2006-12-19 08:59:59
コメントありがとうございます。

うーんなるほど、この問題は自分にとって痛切な問題だったから一般性については(つまり自分のことしか)考えなかったのだけど、かなり一般性を持った問題なんですね。

そういう意味ですれ違いがちな二つの考え方をガチンコでぶつけて火花を散らし、多くの人に多くの問題提起をしているという点で、この対談=本の意義は大きいものがありますね。編集者もヒットです。

ここからいろいろな試行錯誤がさらに活発になっていくといいですね。
読んでみては? (ken)
2006-12-24 15:08:28
平野が「新潮」連載中の「決壊」の中で人間のつながりについて書いていますね
キリスト教の「汝の隣人を愛せ」という言葉の意味は
自分の絶対に愛せない人間をあいすること
つまり功利主義的なものではない愛情の事だと
それでも功利主義者どもはそこに利益の匂いを
かぎつけるだろうってね
コメントありがとうございます (kous37)
2006-12-25 10:05:25
>kenさん
コメントどうも。
私は平野作品は読んでいないので、読者の方とは見解がかなり異なるだろうなと思います。

しかしコメントを拝読する限りでは思った以上にまじめな人なんだなあ、と思います。「絶対に愛せない人間を愛する」などということがいかにして可能なのか、まあ少なくとも20歳ころの観念性の強い時代にはそういうことも考えはしましたが、今となってはそういわれると驚く感じになっています。

いずれにせよ、読まなければ分からないことですね。

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