Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

人間は本質的に愚かだ/朗読の官能的な悦び

2006-05-31 08:28:03 | 読書ノート
昨日帰郷。昨夜は仕事が忙しかった。しばらく休暇を取っている人がいて、その代理をやったのだが、仕事量がかなり多い。もう少しやっているうちにもう少し要領がよくなると思うが、段取りのつけ方をもう少しきちんとしなければいけない。

帰郷の特急の中では保坂和志『途方に暮れて、人生論』を読む。フローベールの2冊も持っているのだが、ぼちぼちしか進まない。現代作家の書くものの方が読みやすいことは確かだ。保坂は思想的にも体質的にもたぶん自分とかなり違う作家なのだが、感覚、いや感じ方というか、なんというかわかるところはよく分る。いろいろなものに対する描写の感覚が近いということだろうか。いずれにしても、まだ自分と保坂の共通点も相違点も、どうもうまく見出せない。レシピの分らない複雑な味の構成の料理ということか。分らないまま読むのが多分、文学というものなのだとは思う。

朝6時過ぎに目が覚める。忘れ物があるのに気がつき、散歩をかねて仕事場に取りに行く。クンデラで読んだ「愚行」という言葉が思い浮かぶ。人のやることというのは、賢明にふるまったつもりでいて、愚行ばかりだ。「賢人会議」という言葉が可笑しいのは、そういう人間の愚かさに気づいていないような馬鹿さ加減を感じるからだろう。しかしかといって愚かであることに開き直っても意味はないのは当たり前だ。賢明であるように努力しなければならないのは当然だが、人間は本質的に愚かであることを忘れてはならない、あるいは気がつかなければならない、思い出さなければならないのだ。人間が愚かであることを忘れた文明はヤバイ。自分が愚かであることを失念した人間は、「愚かなるやに劣るらん」である。これはとても前向きなことなのだが、この明るさがこの文章で伝わるかどうか。

帰ってきてFMでミュージックプラザを聞く。現代音楽だ。19世紀初頭はモーツァルトやベートーベンが現代音楽だったわけだが、彼らは演奏家でありまた作曲家でもあり、現代のロックアーチストのようにそれは不可分だっただろう。今のように現代音楽と古典音楽がわかれ、演奏家が古典音楽を演奏するという分離が生じるのは歴史が深まったということなのだろうか。芝居でもそうだ。現代作家の戯曲をその劇団が演じるのとシェイクスピアの戯曲をどこかの劇団が演じるのとでは、意味が違う。

文学はどうだろうか。文学は、現代文学であれ、古典文学であれ、作家が書き、読者が読む、ということに変わりはない。間に演奏家や俳優はいない。産地直送である。中間業者はいない。外国文学であったら間に翻訳というある種の演出が加わるが、それはとりあえず考えなければ、文学というのはダイレクトな関係だということが言える。

しかしたとえば、朗読と言うものを考えれば、作家と読み手(聞き手)の間に一人の人間、朗読者が介在することになる。これはどのくらいの官能を伴うものだろうか。以前はラジオで、朗読の時間と言うのがよくあり、早めにラジオ体操をつけたりつけっぱなしにしていたりするとよく朗読に引っかかったのだが、最近はあまりそういうのを聞かない。またプーシキンを読んでいるとよくサロンで自分の作品や古典作品を読んでいる話などが出てくる。あれは単に発表ではなく、もちろん聞き手の心の慰めにもなったに違いない。考えてみれば子どもが寝る前にお母さんに本を読んでもらうのが、人生最初の朗読を聞く体験である。朗読体験が深まれば深まるほど、文学に対する理解も深まるというのも感覚的に理解できることだ。

イシグロの「わたしを離さないで」の中で、愛し合う二人の関係の中でいろいろな話をしたりセックスをしたりするのと同列に、お互いの作品や他の作家の作品を披露しあったり朗読しあったりするところが出てくるのだが、これはひどく新鮮な感じがした。日本の恋人たちの間で、何かを朗読しあうと言う楽しみを持っている人はいったいどれだけいるのだろう。相手の声を楽しみ、相手の表現力を楽しみ、相手の理解力を楽しむ。これは考えてみればかなり高度な楽しみ方だ。カラオケと言うのも似たところはあるが、ナルシズムが先行しすぎているだろう。それに比べると朗読ははるかに知的な行為であって、その楽しみ方も高度だ。

自分のことを考えてみると、芝居をやっていたころは練習のつもりで台詞を読んだり冗談に使ったりして会話が成り立ったということもよくあった。しかし演技と言うのは朗読とはまた違う。詩を交換し合ったこともあるが、あれはイシグロに描かれているのに比べるとずいぶんシャイなものだった気がする。ただイシグロが描いているのも朗読といってもたとえばベッドで二人で座って一人が紙に書いたものを読む、というようなものなのかもしれない。それなら多分無意識のうちに面白い本の話をしていたら「どんな話?」と聞かれてその一説を読んで聞かせる、というような形でやっていたことはよくあったなと思う。そういうくらいのことなら日本でも結構みんな経験していることだろう。

ただ、なんだか、朗読と言うのが官能的な行為であるような気がだんだんしてきたので、ちょっとまたいいなあと思ってきたのかもしれない。演奏にしろ朗読にしろ、不特定多数に向かってやるなら芸術表現になるが、特定少数に向かってやるなら親愛の表現になるし、ただ一人に対してやるならとても官能的なものだ、ということなのではないかと思った。





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保坂和志『途方にくれて、人生論』

2006-05-30 09:36:48 | 読書ノート
昨日。午後から銀座に出かけ、教文館で本を探す。「風の旅人」という雑誌のフェアをやっていた。ずいぶん魅力的な雑誌だと思った。

二階で何を読もうかだいぶ迷いながら、結局保坂和志『途方に暮れて、人生論』(草思社、2006)を買った。エッセイはパソコンで書き、小説は手書きで書く、という話は前も読んだ気がするが面白かった。

よく読んでみると、この本は「風の旅人」に掲載された文章からもいくつも集められて編まれた本だった。

時間がないので今朝はここまで。





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蕎麦とルノワール

2006-05-29 14:06:26 | 雑記
昨日。日記を書いたあとプラド美術館展に行きたくなり、上野へ。上野広小路で降りて久しぶりに池の端藪で蕎麦を手繰ろうと思い探すが、暫く見つからず。土地勘がちょっと落ちている。ましかし、どうにか見つけ、相席で天ざるを頼む。やはり年配のちょっと上品な感じの人が多い。隣の席は下町の貫禄あるおじさんが一人で徳利から手酌で酒を飲みながらざる一枚手繰ってて、いやあ味だ。天麩羅は小海老の掻き揚げで、天かすをだいぶ残してしまったがこれは上品な味。蕎麦はもう少し量があればいうことなし。天汁が少し酸味のあるもので、これは必ずしも蕎麦の風味を味わうにはどうなの、という感じだった。何というか、もっと辛い醤油の味を期待してたんだよな。それなら浅草の並木へ行けということか。

食べ終わって不忍池ぞいを歩く。さつきの盆栽の展示が行われていて歩きにくし。池に大きな亀の置物があるのかなと思ったら本物だった。亀を見るときっていつもそうだ。

都美館に行ってみるとプラド美術館展は大混雑で見る気を失う。雨上がりの日曜の午後なんて込んでて当然なんだが。もう少し穴を狙って行かないとだめだ。仕方ないので静養美術館に行くとロダンとカリエール展をやっていたが、今ひとつ見る気が出ず、常設展を見ることにした。コレクションとしてまあそれなりの水準はあるし、クールベとかに好きなのもある。今回は版画素描室で「芸術家とアトリエ」展をやっていて、ドーミエの版画がたくさん見られたのは楽しかった。

そのほか、グイド・レーニの「ルクレツィア」、これは今までそんなに印象がなかったのだけど、実はシェイクスピアも取り上げているローマ王政時代の貞節を守って自殺した婦人で、「貞節」という善と、「自殺」というキリスト教的悪が主題にされることが多いのだという。17世紀前半のイタリアバロックの絵だが、レーニはこういう神話的が題が多く、わりと目になじんでいる。プーシキンがシェイクスピアをパロディにして「ヌーリン伯爵」という物語詩を書いていて、その辺のところでちょっと目に止まったという感じ。

それから、今回感心したのはルノワールの「帽子の女」。これは有名な絵だが、この絵が本当にいくつもの「線の艶かしさ」で構成されているということを強く実感した。後のカーテンの線、女の衣装の胸から下のプリーツ、右腕を引いてソファの背に載せている、そのシルク(だろう)の衣装の引っ張られてできる皺の線と、その向こうにやや透けている女性の肌色、帽子の線の丸みとその前にかかっている見えるか見えないかのヴェールの線。絵葉書は買ってみたが、この絵だけは実物のよさを再現するのは他の手段ではちょっと不可能なようだ。あんまりそう思うことはないのだが、やはりルノワールはすごいなと思った。

天気がよかったのでちょっと気になっていたつくばエクスプレスに乗ってみようと思い秋葉原に出る。JRのほうから見ると、構内も含めて、秋葉原の町が再開発されて全く違うものになってしまったという印象。びっくりした。地下のずいぶん深いところに降りていって電車に乗り、一つ目の新御徒町で降りる。これだけではちょっと印象を言うのには不足だが、開通したばかりにしてはもう十分生活路線として活用されているなという感じだった。JR御徒町まで歩き、JRで東京駅に出、丸善を一回りしてTante Marieでチーズケーキとフランボワーズを買って帰る。名前は不確か。

某ウェブメールと某SNSを紹介していただいたので、夕方からそれに熱中。その件で友人から電話がかかってきて朝4時まで(笑)話す。今朝は起きたら10時を過ぎていて、燃えるゴミが出せなかった。その辺りはまた機会を見てぼつぼつと書こうと思う。いろいろごたごたして書くには整理されてない。



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ビッグプレーが流れを変える/清原の逆転サヨナラ満塁ホームラン

2006-05-28 10:33:39 | 時事・国内
きのうは昼も長電話、夜も長電話。今朝は寝ていたら、8時過ぎに中学時代の同級生から電話がかかってきてまた電話。よく電話のかかってくる土日だ。金曜日からなんだか奇妙な疲れが抜けず、ちょっと困っているのだが、それは多分ある意味結構実存的なものなので仕方ないというか自分の中で新しい状況に適合した姿勢のようなものが自然に形成されてくるのを待つしかないという感じ。まあそれまではやるべきことをやるだけという感じ。

昨日はNHKでロッテ巨人戦をやっていた。巨人のメンバーもよく見てみれば西武・ダイエーから来た工藤、ロッテから来た李、小坂、ダイエーから来た小久保とパリーグ出身者が重要なポジションを占め、一昔前とは様変わりした感じ。試合はがっぷりよつだったが、ベニーのエラーが「想定済み」で全然動じないロッテに比べると、巨人のほうはやや焦りがある感じがした。10回表のノーアウト1塁(走者西岡)で根元にヒットエンドランをやらせ的中(ノーアウト13塁)させたのは驚いた(普通はバントでワンアウト2塁が鉄則だ)が、バレンタインはビッグプレーで流れを一気に引き寄せようという意図だったのだなと思う。あれが決まった時点で今日はロッテの勝ちだなと思ったが、やはり福浦の三塁線ヒット、ベニーのライト前で二点取り、小林雅で〆ていっちょ上がり、であった。こういう作戦は長嶋がよくやっていたが、原はやられたなという顔をしていたが、そういうことも思い出したんじゃないかなという気がする。アメリカ人とかが好きそうな作戦である。

まあしかし昨日のプロ野球で一番すごかったのはやはり清原の逆転サヨナラ満塁ホームランだろう。3点差の負けを一振りでひっくり返す。やはりホームランは野球の花だ。

そういえば、逆転サヨナラ満塁ホームランで思い出したのは1976年の末次だ。あの時私は中二だったが、ナイターを見るようになっていて、その日の対阪神戦は江本がすごいピッチングであわやノーヒットノーランか、という感じで2対0で負けていた(そのころは巨人ファン、関西にいたから偏屈さを発揮していたのだ)。それが9回裏、土壇場で崩れ、山本和行にスイッチし、4番王がフォアボール(敬遠だったかどうかは覚えていない)で5番末次という場面。もうテレビの中継は終わっていて、私はラジオを聞いていたのだが、ここで末次が逆転さよなら満塁ホームランを放ち、私はひどく興奮したのを覚えている。今思ってみると、あれが私がプロ野球を面白いと思い、あまり見ない時期をはさみつつも今でもずっと見ているひとつのきっかけになったんだなと思う。無理だろうなと思ったことが起きてしまう、そういう凄いドラマが現実に起こるのが野球だ、と思ったのだ。

あの日の後楽園球場ではもう巨人の負けだと思い帰ってしまった観客は結構いたと思う。みんな悔しがっただろうな。ラジオでライブで聞いて感動するんだから生で見てたらもう凄かっただろうと思うし。

多分、いろいろ好きなもの、何か理由がよくわからないけど自分の周辺にあるものというのはいろいろそういうきっかけのようなものがあるんじゃないかと思う。清原の満塁サヨナラ逆転ホームランがなければこういうことも思い出さなかったし、思い出すこともまたひとつの事件たりうるのだと思う。

雨が降っている。体調がよければ都美館のプラド美術館展に行きたいと思っていたのだが、どうしようかな…




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「愚行というやさしい妖精」が踊る/小説に対する近親憎悪

2006-05-27 17:31:30 | 読書ノート
昨日帰京。昨日は昼食のときに仕事のことで議論して久しぶりに激昂してしまい、相当疲れたのだが、夜の仕事を終えて最終の特急で上京するさなか、とにかくクンデラ『カーテン』は読了した。

夜は朝生で米軍再編問題をやっていたがどうも見る気にならず、かといって早く寝付けなかったので深夜番組をいろいろ見ていたが、結構どれも面白かった。少し前の深夜番組というと下手な芸人とエロ産業方面のどうにもならない救い難い番組が多かったが、昨日見てたのは爆笑問題や劇団ひとりがでていたり、所ジョージが出てたりして、結構マニアックだったりはするが、それなりに面白いものを作っている感じがした。でもゴールデンに出てきそうな感じの番組はなかった。って言うかそのほうが(深夜番組として)健全だと思うけれども。

朝はぐずぐずしつつ遅く起き出し、作品に手を入れたりいろいろ考えたりしてるうちに友人から電話がかかってきて長電話になったり。雨が降っていてあんまり積極的に外出する感じでもなく、変に疲れが残っていてまた少し寝たり、という感じでもう夕方になってしまった。

22年前のトマス・クックのタイムテーブル(リンクを張ってみて分かったが今じゃ『地球の歩き方』が出してるんだね)を出してきて22年前にヨーロッパを旅行したときのコースをたどってみる。明らかに変なコースを行ってるのが我ながら可笑しい。チューリッヒから入って次に行ってるのがアウグスブルクで、ミュンヘンは素通り。次はニュルンベルク、次はケルン、次はもうパリ。ドイツの3都市の選び方が謎だ。旅行中につけた記録を見て「それはありか?」と思うような行動が多く、昔っから変な奴だったんだなと妙に感心した。年を取ると若いときは単純だったような気がしてしまうが、単純だったかもしれないが変ではあったようだ。

ミラン・クンデラ『カーテン』。いくつか印象に残ったこと。p.118-9、作品は作家個人のみに帰属するものであること。ストラヴィンスキイとアンセルメのやり取り。これについては、改めて言われなければならないんだなあとへえと思った。そういえば井伏鱒二がある全集で「山椒魚」のラストをカットしてしまったことが大きな波紋を呼んだことがあったが、確かに読者もテキストをある意味「自分のもの」だと思っているよなあと思う。あの時は割りと日本的ななあなあのうちにうやむやになった気がするが、ヨーロッパでは対決しないとならないんだろうなあとも思う。

p.152-3、「フロベールにおける愚行は違っている。それは例外、偶然、欠陥ではない。いわば量的な現象、教育によって治療しうる、知性のどこかしらの欠落などではない。愚行は治療不可能なのだ。愚行は愚か者と同様に天才の思考の中に、いたるところに存在し、「人間の本性」と不可分な一部分なのである。……『ボヴァリー夫人』においては、「あまりに善が不在である」というのは事実ではない。重要点は別のところにある。そこではあまりにも多くの愚行が存在している、ということだ。…だがフロベールは「善き情景」を描きたいのではない。「事物の魂」にまで到達したいのだ。そして事物の魂の中には、あらゆる人間的事象の魂のなかには、いたるところに、彼にはそれが、愚行という優しい妖精が踊っているのが見えるのである。この控えめな妖精は、善にも悪にも、知にも無知にも、エンマ(『ボヴァリー夫人』の主人公)にもシャルル(『感情教育』の主人公)にも、私にもあなたにも見事に順応する。フロベールはこの妖精を実存の大きな謎の舞踏会に導き入れたのである。」

これはなかなかすごい、なるほどとおもうし、あらゆる人間は愚行をし、それゆえに喜劇である、というふうにつながり得る。愚行というものを客観的に見ることは抒情とは相容れないものでもある。私なども両方面白いとは思うが、愚行の方により人間的真実がある、という見方のほうにより大きな説得力を感じる、ということはあるように思う。誰でもそうだとは思えないし思わない。また愚行と見ることですべてが理解し認識できるというわけでもない。現代はオタクを初め「愚行」にしか見えないことの中に結構人間的真実を探さざるを得ない現象が多くて面倒ではある。「萌えアイドル」とかって、「踊っている愚行という優しい妖精」そのものかもしれない。

p.168、「……ナスターシャたち、ムイシキンたち、私は彼らのような人間をどれだけ回りに見ていることだろう!彼らは全員未知への旅の始まりにいる。疑いもなく、彼らは彷徨している。だが、それは特異な彷徨だ。彼らは自らが彷徨しているとも知らずに彷徨しているのだから。というのも、彼らの未経験は二重だからである。彼らは世間を知らず、自分自身を知らないのだ。」

これはまあ、全くその通りだ。自分の10代後半から30くらいまでは全くその通りだったと思う。自分の周りにいる人たちも多くはそうだったし。

しかしまあ、こうして書いてみると、どうも「当たり前」とか「分かりきった」ことに見えてくるから不思議だ。私自身の認識の仕方が、実は昔から結構「小説」的だったということなのかもしれない。で、私が小説が苦手だったのは、そういういやらしい認識のさせ方をこれでもか、これでもかと見せられるところにあったのかなあという気もしてくる。つまり、一種の近親憎悪だったのかもしれないと。

まあそこまで言い切ることは出来ないが、でもいろいろな意味で認識が深まった気はしなくはない。こういう方向の読書体験は重要なものだなあと思う。


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「あらかじめ考えられた諸観念の体系」と「小説という方法」

2006-05-26 09:54:13 | 読書ノート
昨日は暖かい、というかやや暑いくらいだったが、夜からだいぶ気温が下がり、今朝はやや肌寒い。機能は創作中のものに一区切りついた、というかラストスパートの集中をしたせいで相当神経的な疲労があった。精神的には満足があるのだが、今朝はぐっすり寝たようで、やはり疲れていたんだなと思った。

『感情教育』ははじめてアルヌーのディナーに呼ばれたところを読む。『ボヴァリー夫人』は読めず。『カーテン』は以下のフレーズが印象に残る。(p.86-7)

「強調しておこう。ブロッホやムジールが現代小説の美学の中に導入したような小説的考察は、科学者もしくは哲学者の考察とは何の関係もない。それは意図的に非=哲学的、さらには反=哲学的、すなわちあらかじめ考えられた諸観念のどんな体系からも断固独立したものだとさえ私は言うだろう。この考察は判断せず、真実を声高に主張しない。それは自らを問い、驚き、探る。その形式は隠喩的、アイロニー的、仮定的、誇張的、アフォリズム的、滑稽、挑発的、空想的などと、この上なく多様である。そしてとりわけ、それは決して人物たちの生という魔法の輪を離れない。それを培い正当化するのは人物たちの生なのである。」

小説の考察は科学や哲学など「あらかじめ考えられた諸観念の体系」とは断固独立したものである、というのはまさにそうだろう。それとどれだけ交渉を持つかがその小説あるいは芸術がどれだけの創造性あるいは前衛性を持つかということと関係してくる。そうした「諸観念」あるいは「先入観=思い込み」を意識的に扱うのは興味深いことだが、それらがその諸観念や思い込みにあわせた形でしか書かれないのであればちょっと足りないものがあろう。しかし、ここには書いていないがどんな思い込みどおりの文章に見えてもその描写が何かを突き抜けていることは有り得るわけで、そこに小説と言うものの一筋縄では行かなさがあるのだと思うし、そう考えると小説における描写の致命的な重大性にも改めて考えが及ぶ。しかし「判断せず真実を声高に主張しない」考察というのが描写のある側面を言っているのかもしれないが。

ただ、小説的考察を正当化するのは「人物たちの生」だというのは分らなくはないが、それだけでは不十分な気もする。そこのところはどうもうまくいえないが、志賀直哉的な「もっと奥にあるもの」のようなものを描くということもあるんではないかという気もする。その辺は、ヨーロッパと日本との文化的な違いに起因するところだろうし、まだまだ私などにはそう簡単にいえないところなのだろうと思う。

そのあたりは人間存在をどのようにとらえるかと言う根源的な問題に行きつくのでなかなか大変だ。ただ、どのようにでも考察できるのが小説というものだろうし、そういう意味では小説というメディアこそがそううところで新しい地平を切り開きうる方法なのかもしれないという気もしなくはなかったり。




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卑俗とキッチュ

2006-05-25 13:45:06 | 読書ノート
昨日。ひどく雷がなったり、大雨が降ったりした。仕事に出かけるときに、ちょうど大粒の雨が降ってきて、傘を持つ手に力が入った。仕事はあまり忙しくなかったが、だいぶ冷え込んできたので5月も下旬だと言うのにストーブを入れた。

フローベール『感情教育』は74ページまで、『ボヴァリー夫人』は52ページまで。ネットで調べると、『感情教育』と『ボヴァリー夫人』はフローベールにとって少し意味が違うらしい。まだ読み終わっていないから分らないが、確かに『感情教育』はずっと一人称的で、『ボヴァリー夫人』はもっと突き放した印象がある。ただそれぞれのディテールは魅力的で、まったくおフランスだなと思う。

ミラン・クンデラ『カーテン』は第三部、「事物の魂に向かうこと」を読んでいる。第二部「世界文学」はいろいろ衝撃を受けた。フランス人が評価するフランス文学のベスト1はユーゴー『レ・ミゼラブル』だという。11位はド・ゴールの『回顧録』なのだそうだ。以下ラブレーが14位、スタンダールは22位、フローベールは25位、バルザック『人間喜劇』は34位で、アポリネール、ベケット、イヨネスコは100のリストに入らなかったのだそうだ。

これだけではまあ、ふうん、そんなものかという感じなのだが、クンデラはフランスに来た際、スターリン主義や「迫害、強制収容所、自由、祖国からの追放、勇気、レジスタンス、全体主義、警察的な恐怖政治」と言った大げさな言葉(つまりそれがクンデラがフランスに来たときに「憑いてきた」ものたちなのだが)、「厳粛な亡霊のキッチュ」を追い払いたいと感じていたという。キッチュとは彼の言によれば19世紀中葉にミュンヘンで誕生した「偉大なロマン主義の生気の甘ったるい屑」である。言い換えれば「オペラのテノールたちの圧政」であり、「まるで香水でも振り掛けられたようなパン(ムージル)」であり、まあワグナーの亡霊とでも言うべきものだろう。「中央ヨーロッパ」では長年にわたって「最高の美的悪」であった、というわけだ。で、クンデラがフランス人に、女たらしの友達と名前を交換し、自分がフランスにいなくなってしまったことで彼の恋人たちが途方にくれた、と面白おかしく話したら、「そんな話、私には面白くないな」と言われてしまったという。

そして、フランス人にとってはユーゴーの人道主義やドゴールの決断の偉大さこそが好みであり、「卑俗」こそが「最大の美的排斥」を意味する言葉だと言うことを知る。カミュはアルジェリア出身のフランス人であるとか、「晴れ着を着た百姓」という言い方で排斥され、フローベールもまた卑俗であるという理由で排斥されていることに気がつく。

つまりフランス人の言う「卑俗」と「キッチュ」とは全く違う概念であり、フランス人は「偉大さ」を尊崇する民族である、というわけである。逆にいえば、フランス人の生活にはある意味でのキッチュが満ち溢れていると言う言い方も出来なくはない。

これは私には結構ショックで、やっぱフランスという国を全然誤解していたなあ、と思う。彼らは結構、いや本当に本気でナポレオンやドゴールが好きなのであり、フローベールやゾラがフランス人の代表だと思うのはまったく見当違いなのだ。明らかに自分が共感できるのはクンデラのほうであってフランスではない。
***

もう一つ印象に残ったことを書いておくと、ブロッホの「小説の唯一のモラルは認識である」という言葉、フローベールの「事物の魂に向かうよう努めて来た」と言う言葉、小説は反抒情的な詩である、という言葉である。このあたり、上に書いたこととも通じるが、なんだかじっくり表裏ひっくり返して考えてみたい言葉である。

午後になって、だいぶ暑くなってきた。影の色が濃い。このまま初夏が続いてほしい。




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『ボヴァリー夫人』の描写/世界文学とその抑止力

2006-05-24 10:08:36 | 読書ノート
今朝は少し靄っているけれどもいい天気だ。二階の窓から下を見ると、矢車菊がたくさん咲いている。外階段の向うにはフランスギクもだいぶ花開いてきた。露草もずいぶん咲いているし、季節的にはもう梅雨が近いということなのだろうか。

デジカメがどうも調子が悪いと思ったら電池の蓋がきちんと閉まるようにしてあるプラスチックの留め金が一つ壊れていた。完全に閉まらないわけではないのだが、不安定だ。買ったのは確か2000年のことだからもう7年目か。まあ仕方がないというものか。

昨日帰郷。持ち帰ったのはクンデラ『カーテン』、フローベール『感情教育』『ボヴァリー夫人』それぞれ上下、イシグロ『遠い山なみの光』。なんというか、どれもこれも集中して読まないと読めないタイプのものだな。小説というのは多かれ少なかれこちらから作中世界に近づかないと読めないものだが、それをあまり意識しないでも読めるものとかなり頑張って近づかないと読めないものがある。後三者はどれも後者だ。クンデラは評論だがヨーロッパ的な文学的素養がある程度ないと接近が難しい部分がある。

しかし、『感情教育』も『ボヴァリー夫人』も「描写」ということに関してはとても面白い。「ドアの下から吹き込む隙間風が、石畳の上にかすかに埃を走らせた。(『ボヴァリー夫人』)」なんて描写はやはり感心してしまう。今はそんな余裕がないが、いずれいいと思った描写の抜書きをしてみてもいいなと思う。

ミラン・クンデラ「カーテン―7部構成の小説論」は第一部「継続性の意識」を読了し、第二部「世界文学」にかかっている。第一部はヨーロッパ知識人の中にある歴史意識についてで、読んでいると歴史意識の希薄化がとみに激しい日本のことがしみじみ思われる。第二部も世界文学といっても主にヨーロッパ文学の事だが、「ヨーロッパのすべての国民は共通の同じ運命を生きているが、しかしそれぞれに固有な個別の経験をもとにして、その運命を別々に生きている。」という言葉はなるほどと思う。たとえば東アジアには、そういうものは皆無とはいえないが、やはりヨーロッパほど意識もされていないし妥当性もないだろう。

私がたとえば東アジアのことを考えると、「諸国民」と言ったときに日本、朝鮮・韓国、台湾、ベトナム、モンゴル、中国と並べていって、はたと立ち止まる。「中国」というのはどう考えても「諸国民」の一つとして考えるには地理的にも人口的にも巨大すぎるのだ。その巨大さは周辺諸国には災難ですらある。そういう意味でこれはヨーロッパ、特に東欧におけるロシアの存在に類似している。しかしロシアというのは16世紀以降急速に膨張したに過ぎない存在で、それまでは、あるいはその後も、モンゴルやポーランドやスウェーデンにたびたび蹂躙されて来ている。中国も無論征服王朝に何度も支配されているが、ロシアとはかなりカラーが違う。巨大な質量で周辺諸国に甚大な影響を及ぼすという意味では、宇宙空間における巨大質量星に似ている。

そうした中では、古代中国に合従連衡政策があったように、東アジアにおいては中国に対する合従連衡が図られなければならないが、世界的に見るとアメリカに対する合従連衡のほうがより上位の必要性・喫緊性を持っているために、対中国政策は日本などの場合は疎かになっているだろう。ただこの世界システムがいつまで続くのかは分らないし、地理的にはもちろん近いほうが脅威である事に違いはないので、いろいろな手を打っておく必要はあるだろう。

ただここ数世紀の歴史においては、日本のほうが中国よりも比較優位を持っている時期が長かったので、日本人の意識にどれだけ上っているかは分らないが、アジアでは日本が合従連衡の対象に見られていることも確かだ。アジア諸国の間では日本の経済力と中国の政治力でお互いに牽制しあってくれるのがちょうどありがたいと思われているだろうが、現実問題としては中国は政治・軍事・経済すべての面で急拡大している。現在のところ日本はアメリカに接近することでそれを乗り切ろうとしているが、それだけではあまり上策のようには思えない。

たとえば、村上春樹が中国やロシアでよく読まれているというのはいいことだろうと思う。中国もロシアも文の国であるから、その作品は日本では多く読まれているが、日本からの発信という点ではきわめて不十分だったからだ。同じ世界文学を共有しているという意識が生まれることは、生臭い話になるが、ことが起こりそうなときにその抑止力として働くことは十分有り得ると思うからだ。

そのためには、クンデラの言うように国民文学だけでなく「世界文学」というものを構築する必要があるだろう。実際に諸国の作家は他の国の作家の影響を強く受けて創作の新たな地平を切り開くことは頻繁にあるのだが、文学研究においてその重要性があまり認識されていないのは、「フランス文学」や「ロシア文学」とならぶものとして「世界文学」という研究がなされていないということが大きいのだろうと思う。ダムロッシュの言うように言語で読む必要もない、翻訳で読んで諸国の作家は新しいものを創作しているのだから、そういう文化現象自体をもっと研究し、重要性を訴えていく事は重要であるように思う。

ああだいぶ書くつもりもなかった事を書いてしまった。近くの小学校の運動会のリハーサルの太鼓の音が煩くて、思考が妙な方向に行ってしまった。深く息をしなくては。



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『ボヴァリー夫人』/若くて恥ずかしくて懐かしい思い出

2006-05-23 08:30:56 | 読書ノート
昨日。ミラン・クンデラ「カーテン―7部構成の小説論」を読んでいるうちにフローベールの『ボヴァリー夫人』が読みたくなり、丸善丸の内店に出かける。店内の検索で見つけようとしたが見つからず、ないのかと思って岩波文庫のコーナーに行ったら伊吹武彦訳で<『ボヴァリー夫人(上)』 『同(下)』が見つかった。なぜ店内の検索で見つからなかったのかはよくわからないが、今見ると新潮文庫でもあるようだし、ちょっとよくわからない。版が古いせいで字が少し読みにくいが、内容は面白い。今までこの種の小説を苦手に感じていたのが不思議なくらいだ。

東京駅の北口通路を経由して大丸の地下に出、ジーゲスクランツというケーキ屋で二つケーキを買う。地上に出てぶらぶら歩き、昨日はわりあいまっすぐ帰宅。mais、安売りのサリでビーフィーターを一本買ったが。ケーキは家に帰って食べたら、あまり味が強くなくて、わりあい好みに合った。

夜はものを書いたり『ボヴァリー夫人』や『感情教育』を読んだり。ものを書いているうちに20年ちょっと前にヨーロッパに行ったときの記憶がいろいろ蘇ってきて、結構細部まで覚えていることに驚いた。あのころのメンタリティは今とはだいぶ違うが、今とあまり変わらない部分もある。思い出してなんだか元気になる部分もあれば、思い出して今更ながらにupsetする部分もある。若くて恥ずかしくて懐かしい思い出。

夜は少し遅くなってから西友にいってロースかつ弁当を買ってきて、食事をしたあとビーフィーターでジントニックを作って飲む。ジンをいろいろ試しているけどやはりビーフィーターが好きだなと思う。少し高いのでまだタンカレーを試していないので、次はそうしてみようかと思う。

夜はわりあい早く寝て、朝は6時前に目が覚めた。いろいろ考えているうちにおとといの散歩のことを考える。皇居東御苑は宮内庁の管轄で、皇居外苑は環境省の管轄、日比谷公園は東京都の管轄だなと思う。お互い隣り合っていても管理の感じとかがそれぞれに異なっている。地図を広げてみるとこの周りにはそのほかにも噴水公園、国会前庭、北の丸公園、千鳥が淵公園、靖国神社、日枝神社と結構緑地・公園が多いんだということに改めて気がつく。それぞれにみんな管理主体が異なっているわけだが。それにまだまだ散歩の余地があるなとちょっと「新たな目標」みたいなものを意識した。結構前に買った『東京山手・下町散歩』という昭文社の地図には都内だけで115のコースが載っていて、このコースをまた歩いてみるのもいいなと思った。

ヨーロッパに行ったときの資料がまだ残ってるよなあと思ってダンボールをあけてみたら航空券とかユースホステルの会員証とかユーレイルパスとか絵葉書とかメモ帳とかいろいろ出てきて、旅先で知り合った人に書いてもらった名前と住所とかまで出てきていっぺんに懐かしくなった。で、少し思い出したりするとやっぱり恥ずかしい思い出が多く、やっぱりアップセットした。まあでもね。若いときじゃないと出来ない経験だね、そういう恥をかくというのも。今じゃ恥のかき方もちょっと違う気がするよ。




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『ダヴィンチ・コード』と『愛の流刑地』のはざまで/「気持ちいい」一日

2006-05-22 11:31:17 | 雑記
昨日。昼過ぎに外出。昨日はかなり元気があったので散歩をしたいという気持ちと久しぶりの天気なので初夏の風を感じたいという気持ちがあった。普段歩いていないところを歩くと自分の内面が活性化してくるので、私は知らない道を歩くのが好きなのだが、どの辺りに知らない道で気持ちい道があるのかということになるとこれはまあ行き当たりばったりということになる。昨日は不思議なくらいそれがうまく行って、まだまだ自分は東京を知らないんだなあと「一生精進」みたいな気持ちになった。

いつものコースで、新御茶ノ水で降りて神保町に歩く。神保町でまず三省堂に入り、何か読みたいのが無いかなと探すが、世の中『ダヴィンチ・コード』ばかりだ。キリストがらみで話題を呼んでいるようで、フィリピンでは上映禁止になったとも言うが、ベネディクトゥス16世は日曜のミサでも言及しなかったらしい。まあ賢明な対応というか、大人の対応と言う感じである。下手に言及するとまたガリレオ裁判並みの面倒がおころうし、フィクションはフィクションとして対応する程度にはカトリックは成熟していると言うべきだろう。売り場を少し進むと今度は『愛の流刑地』が山積みである。おいおいと思うが、こういう大規模書店ではこういう売り方をせざるをえないんだろうなあと思う。大川隆法がスペースの一角を占めていたり、『人間革命』がどんと積んであったりするのも商売というものだろう。

まあしかしそういう商法にはどうもなじめないものがあるのも事実で、探していたミラン・クンデラ『カーテン』(集英社、2005)を見つけたのだが、ほかの書店で買おうと思って一応目だけつけておいた。裏口から出て東京堂に入り、二階に上って外国文学を探すと『カーテン』はすぐに見つかった。ぱらぱらとめくってみるとやはりshaktiさんの推薦だけに面白そうで、すぐ買った。2500円(プラス消費税)はちょっと痛いので、もともと、まずはユーズドか図書館の貸し出しで、と思ったのだけど、どちらもうまいのが見つからず、読んで面白ければ新刊で買おうと思ったのだった。集英社というのも『少年ジャンプ』くらいしか出版物が思いつかなかったが、(あとは『プレイボーイ』か)文学関係のもいろいろ出しているんだなと最近認識してきた。

古瀬戸珈琲店に入って昼食をとろうと思い、メニューを見て出来心でミネストローネスープを注文したのだが、やはりカレーとかほど満腹にならず、午後はやや空腹で過ごす。ぱらぱら見た感じでは「世界文学」への言及があったのが興味深く、「東側出身の亡命作家」とか「スラブの作家」というレッテルに苦労したという話が面白いなと思った。こういうことって、今でもずいぶんあることなんだろうと思う。大衆レベルではやむをえないとしても、知的エリートの世界でもずいぶん奇妙な歪曲された認識は大手を振っているのだろうと思う。

神保町の裏町を歩き、専大前の交差点のあたりから竹橋の方に歩いて、面倒になってきたので地下鉄に乗ろうと思い下に下りる。上に上ってくる若いカップルの男が「今日は気持ち言い、ホントに気持ちいい」といっていた。全くいい気候で、昨日一日で「気持ちいい」という言葉をいったい何回聞いたことか。いや気持ちはよくわかるのだが、なんだかあんまり聞いているとちょっと滑稽な気がしてきた。

下に下りると切符売り場に長蛇の列。どうも近代美術館の「フジタ展」がえりの人たちらしい。普段はパスネットを使っているので関係ないのだが、そのときは丁度切れていてしかし売り場に並ぶのもうざったいなと思いお濠端を大手町まで歩くことにして反対側の出口に出た。暫く行くと平河門で、濠の向こうから人が三々五々出てきていて、ああ、こんな日は皇居東御苑を歩くのもいいなと思って苑内に入った。

全くいい日和で、本当に気持ちいい。本丸の方には上がらず、二の丸の雑木林を散策。昭和天皇の発案で武蔵野を再現したというが、いい雑木林である。大手門の方に向かい、売店を見つける。ここで買い物をしようと思ったことがなかったのでどんなものがあるんだろうと思ってのぞくと皇室ゆかりのみやげ物があれこれと。なるほどこういうものを売っているのかと思い、実用品を、と思って袱紗を買ったのだが、考えてみると菊の御紋入りの袱紗を一体どの席に持っていけるのだろう。ちょっと大げさになってしまうなと買ってから困った。

ついでに三の丸尚蔵館に入り、花鳥画の展示を見る。狩野探幽ってうまいなと今更馬鹿のような感想を持つが、やはり目玉は伊藤若冲だろう。どうしてこれが昔は評価が低かったのかと不思議に思うし、そのせいでたくさんの絵が海外に流出してしまったことを思うと惜しくて仕方がない。金さえあれば買いたかった、無かったけど。外国人観光客をはじめ結構な人出で、入場も無料の東御苑というのはこういう日には全くぴったりの散策場所だった。

大手門から出ると目の前にメリルリンチの大きな文字。いや、そんなに大きくないが、日本橋のコレドが正面に見えるのだ。永代通りの終点は大手門なのだと認識。門前のパレスホテルに入る。私は割りとホテルのラウンジが好きなのだが、そういえばここのラウンジには着たことがなかった。光がさんさんと差し込んで気持ちがいい。もう少しましな格好をしているときに(最近こればっかりだが)ここにお茶を飲みに来ようと思う。お濠端を南下。東京駅の正面のから来る道に出る。噴水公園。ここは時々来ることがある。道を渡ると皇居外苑。そういえばここはほとんど来たことがない。芝生が続く気持ちのよい広場。戦後によく集会が開かれた皇居前広場とはここのことだろうと思うのだが、全然そんな雰囲気もなく、カップルがみんな敷物をしいて寝そべってゲームをしたり雑誌を読んだりしている。代々木公園や木場公園と基本的には全然一緒だ。それにしても広くてへえと思う。地図には楠公の銅像があるということで歩くがかなり歩いてもなかなか行き着かず、こんなに広いんだとちょっと瞠目した。東京にずいぶん長くのたくっているが、ここははじめてきたといっていいだろう。

楠公銅像に出る。ラテン系らしきカップルが銅像前で写真を取り合っていたが、楠木正成がどんな人物か彼らは知らんだろうなあと当たり前のことを可笑しく思う。マドリッドノプラッサ・デ・エスパーニャのドン・キホーテの銅像を思い出したり、サンクト・ペテルブルクの「青銅の騎士」を想像したり。住友が別子銅山の何かを記念して建てたというが、作者は誰なのだろう。(今ウェブで調べたら高村光雲だという。うーん、さすがだ)祝田橋に出、道を渡って日比谷公園へ。最初のガス灯や水飲み器が残っていて、面白い。はなみずきのきれいな花があってちょっと見とれる。日比谷公園にいる人と皇居外苑にいる人と、ちょっと雰囲気が違うのも面白い。

晴海通りを銀座へ歩く。旭屋書店に入り、『カーテン』を探すとあった。へえと思う。みゆき通りを行って中央通りに入り、歩行者天国を北上。教文館に入って『カーテン』を探すと、ここにもあった。いや入り口は『ダヴィンチ・コード』に塞がれ、『愛の流刑地』も平積みだったが。『ダヴィンチ・コード』と『愛の流刑地』の狭間でも、ちゃんとあるものはあるんだなと当たり前の感慨。中央通りに戻り歩くが、ものすごい人出だ。ちょっと疲れてきて高速の下をくぐった京橋に入ったところで「あづま」という甘味屋に入り小豆アイスクリーム餡蜜を食べる。店の中は地方から出てきた感じの中高年の人で一杯で、私はラーメンを食べている男性と相席になった。虎屋や東京羊羹と比べると洗練度は落ちる感じはするが、下町らしい味わいでよかった。

さらに北上、八重洲の通りを突っ切って丸善日本橋店へ。ここでも『カーテン』を探すが見つかった。うーん、全勝だ。すごい。コレドに歩き、夕食の買い物をして、地下鉄に乗って帰る。ずいぶん歩いた。書くのも疲れた。なんだか東京再発見だった。帰ったらもう相撲は終わっていた。白鵬が勝ったか。まあそんなとこか。ウェブで白鵬は宮城野部屋所属で親方の最高位は十両だということを知る。番付がものをいう世界でこれはきついだろうなと思う。楽天巨人戦を見ようと思ったが、テレビではやっていない。楽天のサイトからライブ中継が見られるということでちょっと見ていたのだが、画面が小さく(拡大は出来ないようになっている)どうも目が疲れてあまり見る気がしない。せっかく見せるなら大画面で見せればいいのにと思う。

『マエストロに乾杯』読了。内田光子、ホロヴィッツ、クライバーなど。内田光子は友人にもらったCDを持っているが、音は好きだけどどうも人の雰囲気はあんまりなあ、と思っていたのだが、「全女性の憧れのまと」と著者は書いていて、へええと思う。男から見てと、女から見てで全く評価の分かれるタイプの人なんだなあと思う。このインタビュー集はいろいろ面白かったが、やはり演奏家と指揮者とではものの言い方が全然違うなと思う。もう少し演奏家の「創作の秘密」のようなことが語られているといいのにな、と思ったが、演奏家はそういうところはほとんど無意識的な、言葉では語りえない分野のことなのかもしれない、とも思う。指揮者は自分の要求を言葉で伝えなければならないから、自然言語表現が発達するのだろう。興味深い。

『カーテン』読み始める。さまざまな作品が検討されているが、あまり読んでいないのでちょっと困る。フローベールの『感情教育』について書いていて、買ったきりになっている岩波文庫があったことを思い出しちょっと読んでみるが、引用されている箇所がどこにも見つからない。調べてみるとどうもこれは『ボヴァリー夫人』からの引用らしく、ずっこける。主人公の名前を書くだけで何の作品かすぐ分かる人を対象に書いているんだろうな。うーん、そういう意味では、手ごわい。



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ミラン・クンデラ「カーテン―7部構成の小説論」

集英社

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