Feel in my bones

心と身体のこと、自己啓発本についてとつぶやきを。

読む、読む、読む/『オネーギン』読了

2006-01-31 09:38:17 | 読書ノート
昨日。今はともかく読むことが生活の中心になっているが、昔のように馬力を持って読むことはなかなか大変だ。一番読む力を持っていたのは、いったいいつのことだろう。冊数をたくさん読んだのは明らかに中学生のころだが、何しろあのころは同じ本を何度でも読む力があったのだからすごいものだと思う。少年文学から成年文学への移行に失敗してどちらかというと迷走を続けることになったあのころが今から考えれば惜しいけれども、それも天の配剤であったという気もする。気持ちの上では、ある意味あのころにつながる気がする。百人一首は暗記しても恋歌の意味など何も分かっていなかったあの頃に、「あひみての後の心にくらぶれば昔はものをおもはざりけり」の意味を知ってなんだそうだったのかと驚愕した30台の半ばが接続するように。

実際、何を読んでも面白いという症状がでてきた。文学などというものは切りのないもので、名作といわれるものだけを読んだとて1年や2年で読みきれるものでもない。昨日は夕刻神保町を徘徊したが、食指の伸びる本がいったいどれだけあったことか。そしてその両のすごさと、自分の財力と本の置き場を考えて、いったいどれだけそれを満たすことが出来るのか、という思いに消沈したことか。古書店にはいると、昨日書いた『ユゴー詩集』が目の前にあったのだが、4300円。即座に買うには勇気がいる。帰ってネットで調べるともっと安いのもあるし図書館で借りれば只だし場所もとらない。読んで価値あるものと感じたら買おうという感じである。プーシキン全集も見つけるが、書棚の遙か高いところにあって全6冊36000円。ああ欲しいなあと思うのだが。まあそれはいい。

結局買ったのは、ベリンスキー『ロシア文学評論集1』(岩波文庫、1950)、新刊書で安野光雅/藤原正彦『世にも美しい日本語入門』(ちくまプリマー新書、2006)。それからカードの専門店「オクノ」でBeeのトランプを一組買った。絹目の紙で、紙の滑りが異常によい。手品で使いそうなトランプだ。一人暮らしとはいえ、カードの一組もないと寂しいなと思って買ってみただけなのだが。帰りは日本橋のプレッセで夕食の買い物をして帰宅。

電車の中と家に帰ってからと、プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』を読み続ける。私はいつもそうなのだけど、「事件」が起こるまでの描写はどうもかったるくてなかなか読み進められないが、事件が起こるとその先は一気呵成に最後まで読んでしまう。連続テレビドラマ小説を見るようだが、エヴゲーニイとレンスキーの決闘を南砂町あたりで読んでいたのだが、真夜中過ぎには読了して涙を拭いていた。第8章は泣く。訳者の木村彰一氏は、この本一冊を読むだけでロシア語を学ぶ価値があるといったというが、その通りだなあと思う。もちろん私はプーシキンの、日本語に訳出できる話や描写の美しさに感動しているに過ぎなくて、プーシキンの言葉の美しさは分からないのだけど、これだけ美しい話がどんな美しい言葉で表現されているのかと考えると、それだけでロシア語をやり直したいと思う。

メリメの「カルメン」と「オネーギン」に描かれたタチヤーナは全く違う人間像ではあるけれど、カルメンが愛よりも「自由」を選択し、タチヤーナが愛よりも「決断」を選択するその「意志の美しさ」が読むものを感動させるというところはよく似ている。転落していくドン・ホセがカルメンの魔的な魅力の虜になる情熱の囚人であるのに対し、エヴゲーニイは一度「振った」女と再会し、見違えるように洗練されたその魅力に逃げられなくなる、というところが哀しい。若気の至りというか、そういうところが「痛い」のは私だけではないだろうと思う。

エヴゲーニイはロシア文学の「余計者」の系譜の中に位置づけられるというが、これは日本文学の高等遊民の存在とよく似ている。この当たり、自分がある意味似たようなポジションにいないともいえないので全然違和感なく読んでしまったのだが、このあたりの文学的テーマを探ってみるとまた面白い事が出てくるのだろうと思う。

それにしてもタチヤーナは大地の母というか、ロシアの平原、ロシアの雪原そのもののような豊かさだ。川端香男里先生は男に都合のいい女性像、のようなことも書いていらっしゃるが、なんの、意志の形に男も女もあるとは思えない。フェミニズムが解体しようとしているのは本当は解体してはいけないものもずいぶん含まれているとよく思う。そういえば先日上野千鶴子がアイデンティティという概念を解体しようと目論んだ本を出していたようだったが、なんていうか人類に有害なことをやっているとしか思えない。

話は脱線したけれど、オネーギン、よかった。
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NHKアーカイブス『徹底解剖!自動車専用船』

2006-01-30 09:32:12 | 雑記
昨日NHKアーカイブスを見ていたら、1983年の自動車専用船の番組をやっていた。1時間300台のペースで12時間半もかけて積み込む作業を、15人のグループでやるという話に驚く。一口に一時間300台というが、1分で5台である。それを人間が運転し、たて30センチ、横10センチの間隔で隙間なく並べていくのである。入り口はひとつしかないし、当然全速力で何台もの車を連ね、車をきしませながら積み込みを続ける。それでこの密度。一台一台正確に積み込みつつ、一作業終えたらまた車に乗り込んで港の広大な駐車場に戻り、また全速力で行列で積み込み続ける、という作業である。すごいものだなと正直感心する。

海外での荷降ろしの際の自動車の傷の発生を抑えるための積み込み方の工夫という話も面白かったし、車の100分の一の大きさの型紙を並べて並べ方を決定するというやり方も時代を感じさせた。さすがに今ではパソコンの画面上でやるだろうなと思う。しかし、当時17隻しかなかった自動車運搬専用船だが、船会社では思い切った投資として行っていたという。現在では100隻を超えているそうで、ここ20年足らずの自動車産業の発展振りにも驚かされる。80年代後半といえば自動車をめぐる日米経済摩擦が一番激しく、集中豪雨的な輸出と批判されていたころである。この映像を見るとまさに集中豪雨というのがよくわかるが、現在ではその5倍以上の自動車運搬船が操業していると考えると目が回る。それで経済摩擦があまり叫ばれないのは、現地生産が盛んになったからなのだろう。

世界的に見て海運のナショナルフラッグは2社までで限界なのが、日本では3社(日本郵船、商船三井、川崎汽船)が共存できているのは自動車輸送があるからだ、という話を聞いたことがあるが、自動車産業の圧倒的な存在感に改めて驚く。
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文芸と生の実質/日本の国民詩人は誰か

2006-01-30 08:59:14 | 雑記
すぐ違う作品に横ずれしていってしまっていけないが、プーシキン『エフゲーニイ・オネーギン』は第3章を読了して第4章に入っている。『カルメン』とは全然違う女性像。当たり前だが。しかし『カルメン』の作者メリメはプーシキン『スペードの女王』のフランス語への翻訳者で、一時はプーシキンに仮託したメリメの作品だと思われていた、というくらいなので二人の個性や嗜好は近いものがある、ということは感じる。この線の作家はたぶん私は好きだなとだいぶ文芸上の自分の好みも自分なりに理解されてきた。

プーシキンを読み始めて以来、人間の生の実質というものはこういう文芸の中にこそあるのではないかと思い始めていて、というのはつまり歴史や政治、社会学的なものを読んでも生というものの実質や中身、というものに手が届かない、という感じがあったのが、こういうものを読んでいるとそれをダイレクトに鷲掴みしているような感覚や自信が起こってくるのである。自分はやはり言語によって世界を把握するタイプの人間なのだなと思うし、そういう意味で文芸というのは最大の協力者であり羅針盤なのだなと心強く思う。今まで文芸に対してこういう感触や興奮を覚えたことがなかったのが不思議なくらいだが、まあこの年まで生き延びてきたからこそ理解できる種類の感覚や感情や感慨のようなものは沢山あるし、文芸も若い人だけの特権というわけでもなく、読み始めたとき、面白いと思ったときが適齢期なのだと思う。

まあそんなことを感じ考えながらいわゆる文学、文芸を読み続けている。歴史や社会学の本、つまり学問的な本と違い、感じること、考えること、頭を駆け巡るさまざまなことがひとつではないところが文芸の面白いところであり大変なところだ。夢も頻繁に見るし、自分なりに受け止め、解釈し、消化するのに体中の力を必要とする感じである。学問というのはこういう雑多な力を方向付け、整理するためにはいいが、こうした混沌としたものの持つ得体の知れない莫大なエネルギーのようなものがない。こういう莫大なものを受け止める力が若さというものだと思うが、だからこそ文学というものが若者のものだと受け止められていたのだろうと思う。私も四六時中文学に耽っているわけにも行かないし、時間的な計画をきちんとして読まないとからだを壊しそうな感じがする。年をとってから年をとってからの読み方があるという感じである。

***

プーシキンはよくロシアの国民詩人といわれるが、他の国の国民詩人と言ったら誰なんだ、とちょっと調べてみるとギリシャはホメロス、ローマはヴェルギリウス、イタリアはダンテ、イギリスはシェークスピア、ドイツはゲーテ、とまあここまではそうだろうなと思う。フランスはヴィクトル・ユゴーだそうで、ユゴーの詩というのはほとんど読んだことがなく、ちょっと読んで見なけりゃなと思う。で、日本の国民詩人というのは誰だろう、と少し考えてみる。

歌聖といえば柿本人麻呂、山部赤人ということになるがさすがに古いか。国民文学の祖といえば『源氏』だが詩人というのとは少し違う。紀貫之は、と思うと「貫之は下手な歌詠み」という子規の批判が引っかかる。もちろん批判されるに足る存在感があるが故なのだが。私は西行かな、と思ったが、まあ好みもあろう。松尾芭蕉、という線もあるが枯れすぎているか。

で、ウェブで調べてみると、どうやら一番国民詩人として認知度が高いのは北原白秋らしい。うーん、そうかなあ。

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メリメ『カルメン』と「貞節なあばずれ」

2006-01-30 08:32:53 | 読書ノート
昨日。午後に出かける。家で食事をしなかったので遅い時間だったが丸の内オアゾで何か食べようと出かける。その前に何か本でも買おうと思い、文庫の辺りを物色。メリメ『カルメン』(岩波文庫、1929)とヴォルテール『哲学書簡』(岩波文庫、1951)を購入。食事をしながら『カルメン』を読み始める。

立ち読みした感じでは、『カルメン』は旅行中で聞いた奇譚という感じの書き方で、プーシキンに通じたものを感じたので読んでみることにした。『哲学書簡』の方は18世紀フランスの文化的指導層、つまりいわゆる「エリート」のものの考え方というものが実感を伴って書かれているように思ったので買ってみた。「Something rouge」でイチゴのモンブランとエクレアを買って帰る。

『カルメン』を読み出したが、これは実に面白い。バスク出身の士官ドン・ホセがジプシー(現在普通はロマ民族と称する)の女・カルメンに運命的に魅かれて人を殺し、密輸業者・犯罪者の群に身を投じて二人がともに破滅していくと言うストーリー。密輸業者や犯罪者の生態の描写が、まるで池波正太郎『鬼平犯科帳』の中に出てくる盗賊集団の描写のようで、ぐいぐい読める。というか、池波は『カルメン』のこういう描写を読んでこうした盗賊集団の生き生きした様子を小説に登場させる構造を思いついたのかもしれないと思った。メリメの意識はおそらくこうした描写を伝奇的な、つまり変わった面白い話として描いているのだと思うが、期せずして読者に「自由とは何か」という問いかけをしているところがあり、作者の意図を超えた作品の魅力というものが生み出されているのだと思った。

アンダルシア(そこがどういうところか、私自身も旅の中で強烈な印象を残している)の寂しい谷あいで、ドン・ホセがカルメンを殺す場面は圧巻である。こんなにかっこいい場面はほとんど見たことがない。「お前さんは私のロム(夫)だから、お前さんのロミ(妻)を殺す権利はあるよ。だけどカルメンはどこまでも自由なカルメンだからね、カリ(ジプシー)に生まれてカリに死にますからね」「じゃ、お前はルーカス(闘牛士)にほれているのか」「そうさ、私はあの男にほれましたよ。お前さんにほれたように、一時はね。たぶんお前さんほどには真剣にほれなかったろうよ。今では、私は何も愛しているものなんかありはしない。そうして、私は、お前さんにほれたことで、私をにくらしく思っているんだよ。」

自由をとるか、愛をとるか、というのが近代人のひとつの宿命的なテーマであるが、錯綜した二つのテーマの中で起こる悲劇の純粋な形がなんのてらいもなく描き出されているところがすごい。この作品からおそらくはボヘミアン(自由人)の概念やファム・ファタル(運命の女)の概念、ジプシーの自由でありつつも犯罪的なイメージの固定化、スペインその他をエキゾチックなものと見るいわゆる「オリエンタリズム」的な視点、そのほかさまざまなものが生まれ、あるいは強化されていったということは非常に強く感じられる。特に自由に生きようとする知識人そう・若年層に与えた影響は20世紀に至っても非常に強いものがあったといえよう。そういう意味で、まさにひとつの神話的な作品だということが出来る。先に述べたようにメリメ自身がそこまで考えていたとは全然思えないが。

「カルメン」といえばビゼーのオペラの印象が強い(といっても観たことはないけれども)が、メリメの小説は初めて読んでみてインパクトは相当強い。やはり文芸の力というものを強く感じる。しかし頭の中では今もビゼーの「カルメン」が鳴り続けているし、そういう意味では音楽の力というのも強いなと思う。

しかしそれにしてもちょっとがっかりしたのは、今まで非常に強い印象を持っていいと思っていたシャーロット・ランプリング主演の『愛の嵐』や唐十郎の多くのファム・ファタール(自由な女・悪女)ものの芝居や作品が、ある意味で『カルメン』のマイナー・コピーといっては言いすぎだが、ヴァリアントのようなものだということに気がついたことで、そういう意味ではカルメンの存在を乗り越えたものはほとんどないのではないか、と感じたことだ。これは「貞節なあばずれ」という女性像のはっきりした古典であると思う。

まあこんなことを書いてみると、まあちょっといいすぎかなとも思う。やはり『愛の嵐』は『愛の嵐』だし、唐十郎『鉄仮面』は『鉄仮面』であり、『カルメン』は『カルメン』である。まあしかしそういうものとして相対化される部分はあるなということは感じる。数時間で読了した。
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溶存水素10倍のアルカリイオン水

2006-01-30 07:44:31 | 雑記
アルカリイオン水というのは何がどうしたものなのやらよくわからなかったしあまり関心がなかったのだが、この記事を見てへえと思う。水中に溶けている水素が10倍、という水を作り出したのだそうだが、その効果が日本薬学会で発表されると言うのだからまんざらこけおどしでもないのかもしれない。

ちょっとウェブで調べてみるとこういうページに行き当たった。つまり、カルシウムイオンを含む水を電気分解すると陰極に水酸化イオン(アルカリイオン)と水素が発生し、弱アルカリ性で水素が溶けた水が発生すると言うわけである。今回の広島県大の仕組みは記事だけでははっきり分からないが、こうした過程で発生する水素が水中により多く残存するような仕組みを作り出したと言うことなのだと思う。またこちらによるとなんだかんだと効能が書いてあるが、今回の発表は癌に対する効能であるから反響は大きいだろう。

私個人としてはこういうものにはあまり食いつかない方で、今回の発表もちょっとどうなの?と眉を顰めている面もあるが、そうした先入観も払拭されるような研究なのだろうか。いろいろな検証を少しは興味を持って見て行きたいと思う。




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パレスチナ選挙におけるハマス圧勝

2006-01-29 21:01:55 | 時事・海外
ここ数日のニュースで最大のものは、パレスチナ評議会選挙におけるハマスの圧勝だ。いわゆるイスラム過激派組織としてしか西欧社会には認識されていないが、イスラエルに対する軍事的な闘争を進める一方でアラファト体制のもと万年与党であったファタハに対する最大野党としての性格が今回は最大限に評価されたと考えるべきだろう。すなわち、パレスチナ社会で「正常な」議会制民主主義が成果を挙げたと考えるべきである。テロリスト集団であるということだけで評価しようという態度は破綻せざるをえないだろう。

カンボジアのポル=ポト派と同様に、いかに内実を変化させつつ周囲と協調する勢力に変化するか、させるかという方向で考えざるを得ないのではないかと思う。しかし実際問題として、米欧諸国のハマスに対する拒絶感に絶対的なものがあるのも事実だろう。2001年のテロ以来、テロリストの主張をも三分の理があるのではという善意の想像力は頑強で強烈な決意のもとで放棄されている。そうした感情はもちろん理解できなくはないけれども、911で殺されたよりも遙かに多くの人々が数十年にわたって殺され続けているパレスチナ人の感情も理解してはならないと断言することは私には適当だとは思えない。

実際、ハマスが原理主義的な集団であると言うならば、イスラエル国家もある種の原理主義的な成り立ちをしているというのも言うまでもなく事実であるわけで、どんなに難しくともお互いに譲歩しあう以外の線で問題が「解決」することはあり得ない。お互いに存在を認めず、「蒋介石を相手にせず」的な態度をとり続けて解決することがあり得ようはずがない。正直言ってファタハの体制は少々限界に来ているので、ここでハマスに現実主義的な路線に少しでも近づいてもらうしか平和への道はなかろうと思う。

しかしそれにしても、アメリカやイギリス、ドイツやフランスはこのハマス勝利という現実の先にどのような戦略を描きなおそうとしているのだろうか。今のところそれが全く見えて来ないために、原則論的なことしか私にも書きようがないのだが、どこからかでも何か秀逸なアイディアが出てくることを期待するしかないのか。雲をつかむような話ではあるのだが。

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パラオの大酋長/ショウペンハウエル/プーシキン

2006-01-29 11:50:07 | 読書ノート
金曜日は忙しくて日記を書いている暇がなく、深夜に上京。土曜日は一日のびていてものを書く気がしなかった。二日も間が開いたのは久しぶりだが、まあ仕方がない。

昨日は本当に疲れていて、10時ごろ友人からの電話で目を覚ます。しばらくおしゃべりし、昼食をとった後、なんとなくうだうだと放送大学を見て、西洋文化史の阿河雄二郎氏の話と、西洋音楽史の笠原潔氏の話をずっと視聴していた。お二人とも初めて知った方なのだが、阿河氏の絶対主義時代における地方都市文化の形成、エリート文化と民衆文化の話など、非常に参考になるところがあった。こうした研究を10年前に知っていたら私の当時の研究内容もまた違う観点からもっと豊かに出来たのに、と残念に思う面もあるが、まあ人生というものはそういうものだろうと思う。その当時の精一杯以上は、出来ないことは出来ないのだ。笠原氏の話については下に書いた通り。

暗くなりかけてから町に出かけ、夕食の買い物のついでに駅前の文教堂で『わしズム』(2006年冬号、小学館)とSAPIO(2月8日号、小学館)、ショウペンハウエル『読書について他二編』(岩波文庫、1960)を購入。なんとなくかったるくてわしズムとSAPIOは何とかマンガの部分だけは読んだが活字の部分は読めず。パラオの大酋長レクライ氏の話が印象に残る。「戦争は、なぜしようと思ったのかを考えなければならない。ポジティブに考えれば、自分の国を将来もっと強くするために、しなければならないと思ったのではないか。それは今の若い人たちのため、子どもたちが安心できるようなもっと強い国を作らなければならないと思ったのではないか。」言われてみれば当たり前のことだが、こういう当たり前のことが日本という言説空間では凍結されている、ということに同意。SAPIOでは『ゴーマニズム宣言』は小林よしのり氏ご尊父死去についての作品。合掌。

最近、読書というものの重要性について強く感じることが多く、まっとうな社会人も、大学生も中高生もほとんど本を読んでいないことに対する驚きのようなものを覚えることが多い。本を読もう、本には何でも書いてある、というキャンペーンでもやらなければならないと思うのだが、読書の魅力というものを訴えると言うのはそう簡単なことではないなと思う。実際、私なども最近プーシキンを読み出して、文章を読むことで自分の中の情感や情緒などがいかにかきたてられ、彫琢されていくかということに改めて驚いているくらいなので、読書というものが持つ人間文明における決定的な重要性というものを認識させ実行させることがいかにして可能なのかということについてはちょっと呆然としてしまうところがある。

そんなことを考えつつ本を物色していたのでショウペンハウエルの『読書について』が目に付いたのだが、この本は多読や耽読により思考能力や実行力が奪われていくと言うむしろ読書批判の書で、そういう意味で結構面白かったりし、つい買ってみた。まだほとんど読んでいないが、文章の組み立てが巧いなあと思う。

夜は読みかけの『エヴゲーニイ・オネーギン』を読み続ける。ただいま第3章23節。こういう本は急いで読むものではないなと思う。急がない、という言葉は座右の銘にしなければと最近強く思う。
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モーツァルト生誕250年

2006-01-29 11:21:27 | 雑記
1月27日はモーツァルト生誕250周年だったと言う。モーツァルトが18世紀後半の作曲家だと言う時代意識を持ったのはたぶんずいぶんあとのことだと思う。ベートーヴェンがナポレオンに関するエピソードがあったり、モーツァルトもマリー・アントワネットとのエピソードがあったが、そのあたりの時代意識がはっきりしてきたのは高校で一通り世界史をやってからだろう。

昨日なんとなく放送大学を見ていたら西洋音楽史をやっていて、バロックと古典派の作曲技法の違いなどというのが面白かった。もう既にその当たり忘れかけているので不正確なのだが、中世音楽とルネサンス音楽の違いは「拍」だけでなく「拍子」が生まれたことだという。日本の音楽のことなどを考えてみても、拍はあっても拍子はない。それが進歩かどうかはともかく、ある規範が確立したと言うことなのだなと思う。また、ルネサンスとバロックの違いはそれまで8度、5度、4度だけが協和音だったのが、イギリス音楽の影響を受けて3度と6度も協和音に取り入れられたということ、またバロックと古典派の違いというのは拍が厳密に守られているか、拍を越えて自由な展開をするか、の違いなのだという。

音楽の時代区分というのはその時代に即して名前がつけられているだけだと思っていたのだが、そんなにはっきりとした変化があるというのは発見だった。美術の技法の違いというのは割りと以前から自覚していたが、音楽にはあまりそういう意識がなかったのは、自分が聴覚よりも視覚に偏った人間であると言うことかもしれないと思う。
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マネーゲームの対象になるライブドア株/600年の貴族

2006-01-26 09:17:19 | 時事・国内
昨日。昼前に出かけ、某所に寄り懇談。教育についての考え方に共感することあり、収穫。操法を受け、腰痛に関し、仕事中に「急がない」ことを心がけたほうがいい、というアドバイスを受ける。私は確かに何かをやるときに急ぐことが多いなあ。いろいろな意味で焦りのようなものもあるのだろう。そのあたり、自分の考え方を少し変えなければいけないなとつらつら思う。午後から夜は仕事。比較的忙しくなし。

夜ニュースを見ていたらライブドア株に値がついたとのこと。しかし取引がライブドア株に集中したため他の株が下落するという珍現象が起きていた。いろいろな意味で、とことん影響力のある会社だなと感心する。しかし先日のニュースで、経営者が逮捕されたら監理ポスト、起訴されたら整理ポストというのが一般的だということなので、捜査段階での拘留がいつまで続くかはわからないが、上場廃止になる可能性もかなりある。しばらくは典型的な仕手株化して株価は乱高下することになるだろう。マネーゲームで大きくなったライブドアがマネーゲームの対象になるというのはまさに因縁話というところ。

朝起きて気がついたら台所が洪水になっていて、しばらく日経の古新聞などで水を拭き取ることに追われていた。ちょっと原因はよくわからないのだが、どうも水道が凍結してどこかがひび割れ、水漏れを起こしたのではないかと思う。水道屋さんがまだ来ないのでわからないのだが。

國本哲男『プーシキン 歴史を読み解く詩人』読書中。プーシキンという詩人・作家の歴史的な位置付けの研究と言っていい。ある意味、作家を歴史的に位置付けようとするとこんなにつまらなくなるのか、ということを感じる側面もありつつ、作家の置かれた時代背景を知ること自体は想像力を刺激してくれるし面白い。また彼の「600年の貴族」(13世紀のアレクサンドル・ネフスキー公時代以来)という歴史意識が特権意識に結びつくのではなく、むしろ反逆の家系に自負を持つという側面で詩人の自由という主張と結びついているという話は興味深い。当時の宮廷で力を持っていた上流貴族と言うのはせいぜいピョートル1世やエカチェリーナ2世の時代に取り立てられた成り上がりの貴族であり、貴族としての義務感も貴族としてふさわしい教養も持っていないものたちだと言う反発心が彼にはあった。「ロシアの詩人は西欧の詩人たちのように貴族に侍るべき存在ではなく、貴族と同等の存在なのだ」という意識を持って、詩人意識と貴族意識が結びついた独特の自負を持っていた、という話で、非常に面白いと思った。そのように、さまざまな色の濃淡が存在するのがこの時代のロシアの面白さだなと改めて思う。

今日は天気がいい。天気はいいが、相当冷えたんだろうなと思う。今日の卦は天雷无妄。なるようにしかならない。


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怜悧で利己的な守銭奴

2006-01-25 08:35:32 | 読書ノート
昨日帰郷。出かけようとしたとき新聞受けに不在配達票が入っているのに気づき、急がなければいけないことがわかったので行きがけに城東郵便局に寄る。バスで西大島まで行き、郵便局によって都営新宿線で新宿に出た。いつもは東京駅の予約機で切符を取るのだが、新宿駅の南口にはこの機械がなく、仕方がないので窓口に並ぶ。先だって、上諏訪駅にも設置されているのだが、南口にはスペースがなくて設置できないのだろうか。予約機だと画面で好きな座席を選べるのだが、窓口だと切符を受け取るまでどういう席になるかよくわからないのでどきどきである。

プーシキン『スペードの女王 ベールキン物語』読了。「駅長」「百姓令嬢」が残っていたが、二作ともなかなか面白い。「駅長」は少し解釈に困るところがあるようなある意味余情のある短編。「百姓令嬢」は完全な喜劇だが、画面が目に浮かんでくるようだ。映画化したら面白いのではないかと思う。(映画が存在するかどうかは、寡聞にして知らない)

『エヴゲーニイ・オネーギン』と『プーシキン 歴史を読み解く詩人』に取り掛かっている。さすがに名作・古典・巨匠という雰囲気ですでに数々の書評や分析が行われているんだなあということを実感。その中には参考になるものもあればそれほどでもないものもあるのだろうと思う。『スペードの女王』のゲルマンという男はドストエフスキーが造形したラスコーリニコフの原型だともいわれているというが、「怜悧で利己的な守銭奴」という造形を読んでいると、時節柄どうしても堀江前社長のことを連想する。止める人がなくて突っ走ってしまった、とか、若さに浮かされて金、金、金で行ってしまった、というような人は確かに古今数々の類例があるのだろうなと思う。光クラブの山崎晃嗣に言及している人がいたが、「誰か止めてくれ」という悲鳴のようなものを無意識に上げているということはあるかもしれない。ただ、叩かれるだけ叩かれるのを見てきたら、個人的には多少同情のような気持ちも湧いて来た。まあ事件の進展次第でどう変化するかわからない感情ではあるが。

『歴史を読み解く詩人』はプーシキンをピョートル大帝以来のロシアの近代史の中に位置付けようという試みで、一人の皇帝と一人の詩人、というのを対峙させる思考がロシアにあったということがすごいと思う。日本はそうした強い個性信仰のようなものがあまり見られないし(中世には日蓮や道元などに対するものが会ったといっていいかもしれないが)、そう言う意味では個性でなく公衆の常識を重視する国民なのだなとあらためて思う。ロシアと日本との比較によって見えてくるものもかなりあるのだろうなと思う。


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