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(愛知県額田郡幸田町深溝(ふこうず))
2年半振りの深溝の地。
寛喜三年(1231)大庭(大場)朝満が深溝城を築いたこの地は、宝飯郡と幡豆郡に接し、吉良道(平坂街道)が通っていた。その後、深溝の地には大庭氏に代わって松平氏が進出し、深溝城に居城、深溝松平家を名乗った。慶長十九年(1614)松平忠利のとき、吉田城に移り深溝城は陣屋となった。その後は一万一千八百石で板倉重昌が入り、寛永十六年(1639)子の重矩のとき額田郡中島に移り廃藩となっている。
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現在城跡及び陣屋跡は工場団地となり、遺構は殆ど無い。周囲より一段高い丘陵地が往時を偲ばせている。また、城跡北東部に「兵九下」(ひょうくした)という地名が残る。「深溝紀略」(大正14年)には、大永四年(1525)大庭次郎左衛門主膳の家臣兵九が松平忠定に内応し、忠定を深溝城内に導き次郎左衛門の首をあげたと伝えている。故にこの兵九の屋敷があった下辺りを「兵九下」と呼んでいる。
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北側には正慶元年(1332)上杉頼重の子日静が開山し、大庭朝泰が創建した日蓮宗誉師山長満寺があり、その東側には大庭氏、松平氏、板倉氏が崇敬し、往時は午頭天王宮と称した鎮守深溝神社がある。
(深溝松平家廟所)
(本光寺)
深溝松平家初代忠定が享禄元年(1528)に創建した曹洞宗瑞雲山本光寺は当初、城の西側にあったが、その後松平氏の移封により何度となく分離移転合併を繰り返し、明治5年(1872)末寺の浄林寺合併を最後に現在の姿となった。境内には深溝松平家初代忠定からの代々墓がある。 深溝松平家二代好景は、永禄四年(1561)吉良氏との戦いで幡豆郡善明堤において討死した。字西向野の本光寺(旧跡)には首塚が存在する。
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深溝城東側には、享禄二年(1529)に松平忠定室で、松平清康の娘清春が開基したという浄土宗泉流山三光院がある。旧跡は西隣逆川(さかさがわ)村にあったという。
2年半振りの深溝の地。
寛喜三年(1231)大庭(大場)朝満が深溝城を築いたこの地は、宝飯郡と幡豆郡に接し、吉良道(平坂街道)が通っていた。その後、深溝の地には大庭氏に代わって松平氏が進出し、深溝城に居城、深溝松平家を名乗った。慶長十九年(1614)松平忠利のとき、吉田城に移り深溝城は陣屋となった。その後は一万一千八百石で板倉重昌が入り、寛永十六年(1639)子の重矩のとき額田郡中島に移り廃藩となっている。
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現在城跡及び陣屋跡は工場団地となり、遺構は殆ど無い。周囲より一段高い丘陵地が往時を偲ばせている。また、城跡北東部に「兵九下」(ひょうくした)という地名が残る。「深溝紀略」(大正14年)には、大永四年(1525)大庭次郎左衛門主膳の家臣兵九が松平忠定に内応し、忠定を深溝城内に導き次郎左衛門の首をあげたと伝えている。故にこの兵九の屋敷があった下辺りを「兵九下」と呼んでいる。
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北側には正慶元年(1332)上杉頼重の子日静が開山し、大庭朝泰が創建した日蓮宗誉師山長満寺があり、その東側には大庭氏、松平氏、板倉氏が崇敬し、往時は午頭天王宮と称した鎮守深溝神社がある。
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深溝松平家初代忠定が享禄元年(1528)に創建した曹洞宗瑞雲山本光寺は当初、城の西側にあったが、その後松平氏の移封により何度となく分離移転合併を繰り返し、明治5年(1872)末寺の浄林寺合併を最後に現在の姿となった。境内には深溝松平家初代忠定からの代々墓がある。 深溝松平家二代好景は、永禄四年(1561)吉良氏との戦いで幡豆郡善明堤において討死した。字西向野の本光寺(旧跡)には首塚が存在する。
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深溝城東側には、享禄二年(1529)に松平忠定室で、松平清康の娘清春が開基したという浄土宗泉流山三光院がある。旧跡は西隣逆川(さかさがわ)村にあったという。
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