flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

簑着騒動 半田春平屋敷跡

2015-10-03 00:00:00 | いにしえの人びと

(伊那県騒動 愛知県新城市杉山字野中 1990年9月2日)
 国道151号線バイパス沿いに真新しい石碑が建っている。これは近代早々に起こった農民一揆の指導者の屋敷跡である。明治3年(1870)夏、度重なる天災により作物が不作となり、設楽、八名両郡の五人の村代が伊那県足助支庁に減免の嘆願を二回行った。然し悉く却下され、農民による減免運動が起こった。設楽郡西杉山村(新城市杉山)の庄屋であった半田春平を中心に運動が開始されたが、農民達の集会では年貢減免の要求と共に、嘆願に失敗した村代への糾弾が行われた。設楽郡六十村、宝飯郡八村、八名郡四村、約三千人まで膨らんだ簑着騒動の農民達は、宝飯郡西原村(一宮町西原)村代浦野三郎平の屋敷を訪れて、三郎平を殴り付けたという。翌日には宝飯郡三谷村(蒲郡市三谷町)にあった足助役所出張所に押しかけ、年貢の五割軽減を要求した。それを受けて官員が新城町を訪れ、若干の減免の安石代(やすこくだい:低換算価格)を回答した。この折衝に際して十三ヶ村は承伏したが、残りの村々は再び集会した。そして十三ヶ村に押しかけて承伏行為を糾弾し、年末には鉄砲四挺を使って鎮圧に協力したとして八名郡庭野村(新城市庭野)村代松井源次宅に農民達が押し寄せ、源次は竹槍や刀を突き立てられ、石や割木を投げ付けられて負傷したという。この事態に対し、県は近隣諸藩に出兵を要請して、豊橋、岡崎、飯田、半原(新城市富岡)の藩兵も鎮圧に出動し鎮静化した。これにより半田春平が流罪、五人が徒刑(労役)に処せられた。半田春平は明治6年(1873)に四十二歳で獄死し、半田家屋敷内に祠が建てられ、百姓救世の神として祀られた。逆に、庭野村松井源次、西原村浦野三郎平は、沈静に尽力したとして県から褒賞が与えられている。


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