flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

墓参 平成二十二年

2011-02-28 00:00:54 | いにしえびとの睡
 初秋のこの日、一年振りに墓参に訪れた。
 今の私に財力がないがために、我が家と我が家の分家墓所の間にある、別姓同氏族の秋山家墓所(松山秋山家一門)に、塀や進入路等で迷惑をかけてしまっている。
 果たしていつになったら、先祖達が行ってきたことに追いつけるのだろう。

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太平記巻十七 (mino阿弥)
2011-02-21 13:42:14
突然ですが
太平記巻十七の新田義貞北国落に随従した武士に河野備後守通治、同備中守通縄という名前が見えます。
備後守を称した河野氏は得能氏系統の方または河野四郎通信の子で承久の乱で誅された通政であろうと思います。
私見ですが、河野備後守通治は得能備後守通綱、同備中守通縄は土居備中守通増でないかと思います。
太平記の誤記ようにも思われますが、いかがでしょうか?
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mino阿弥さま (てんゆう)
2011-02-22 00:11:58
新田義貞北国落に随従した武士に河野備後守通治・・・確かによくよく見ると?がつきますね。
太平記も後に欠落分を補稿しているので、単に間違っている部分と歪曲した部分もあるのではないかと私も思っていますが、河野通治は北朝方ですし、得能通綱が随従したのが自然かと思われます。また、土居通増も通綱と南北朝の抗争が起きたときから南朝方として同行しているので、私もそのように思います。
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Unknown (ありがとうございます)
2011-02-22 13:26:59
実は、1年ほど前に、まったく知らない方から先祖が太平記に登場する河野七郎であり、その河野七郎通弘は河野備後守通治の子息で、従って始祖は河野備後守通治であるというメールを頂きました。私自身はその折すでに疑問に感じていましたが。先日、一年ぶりに、その方からメールがあり、四国に行って河野氏関係の会にも出席されたとのことです。
今回は、おせっかいでしたが疑問であるという返信を致しました。気分を悪くされているのではないかと思います。しかし、得能通綱の子として仮に(土居)通治がいたとしても、どうしても不審です。
先祖を太平記に出名する武将になぞらえたい気持ちは、わからないでもありませんが、その前にもう少し歴史の勉強をされた方が良いと思います。
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mino阿弥さま (てんゆう)
2011-02-25 19:08:22
河野氏も末裔が多いので、いろいろなパターンがありそうですね。
河野氏の血を引いているのならば、それだけで十分だと思うのですが…。
どこかの代または、ご本人が置きかえてしまったのでしょうか。
という我が家も、通有の孫から分派したということ何ですけれども。
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