(埼玉県比企郡吉見町南吉見 町指定文化財 比企三十三所観音三番札所)
吉見百穴に向かう途中に、楼門のような建物かある。これは武蔵松山城の西側にある観音堂であり、懸造(かけづくり:崖造り:斜面に櫓を組んだ建造物)の堂宇である。伝承によると、弘法大師が岩窟を選んで高さ一尺一寸(33.3cm)の観音像を彫り、この場所にある岩窟に納め、岩室山と号したのが始まりという。また、代々の松山城主がこの観音堂を護持したが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐によって松山城が落城した際、この観音堂は兵火により焼失したという。現在の堂宇は寛文年間(1661-1673)近隣の龍性院住職堯音(ぎょうおん)によって再建されたものであり、現在も同院が管理を行っている。
最新の画像[もっと見る]
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます