これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

心のそよ風

2015-06-27 15:00:09 | 体をラクに
早いもので、もう一年の半分が過ぎようとしてます。

途中に4月を挟むとそこで気持ちが一新されてしまいますので、余計にピンとこないところです。
春夏秋冬という言葉のイメージからしても、夏も来てないのに半分は無いだろうと思ってしまいますが、
実際は夏が終わると、残りはたった3ヶ月しかないんですよね。
毎年後半があっという間な感じがするのは、そういうところにあるのかもしれません。

さて、半年の節目ということで、今日は大祓いについて触れてみたいと思います。

日本にはお祓いという習慣があります。
普段の生活の中で知らず知らずのうちに身につけてしまった罪・穢れを祓い落とすというものです。

心が翳(かげ)ると、氣の通りが悪くなります。
氣が枯れることから「ケガレ」(氣枯れ)となりました。
氣が枯れると、色々なものに対して無防備になります。
場合によっては、こちらの方からそうしたものを引き寄せてしまうこともあります。
お祓いと言うと、外から受けた邪気を取り除くようなイメージがありますが、本来は、その根本原因で
ある自らの氣が枯れた状態を清らかにすることであるわけです。

ただ、氣が枯れていたり邪気を受けている状態というのは、自分ではあまり気づけなかったりします。
どんなに嫌な感覚であっても、少しずつの変化でそこに至った場合、私たちはなかなかそのことに気
がつきません。
「カエルを水につけて少しずつ煮立てると、沸騰しても気づかないまま生きている」というジョークが
ありますが、まさにそれです。
そして我執に囚われてしまうと、まわりが見えなくなりますのでなおさら変化に気がつけなくなります。
そうして、いつの間にか心は翳りに翳り、気持ちは小さく縮こまり、氣は枯れてしまいます。
そこで魔がさしたり、邪気に差し込まれたりしてしまうということです。

「知らず知らずのうちに身につけてしまった罪穢れ」というのは、まさにこのことを指しています。

氣枯れが酷くなると、本当の病気になってしまいます。
病気もまた、ほんの少しずつの不調の積み重ねであるため、なかなか気がつけないわけです。

心の翳りをサーッと綺麗にするには、実際に身体動作を伴うアクションが有効です。
この世は、行動の世界です。
頭の中でただ考えたり想像を描くよりも、実際に身体を動かすことが遥かに心身に響き渡ります。

このため神道では年に2回。6月末と12月末に大祓いという形で、心身を一掃します。

人の形をした紙を形代(かたしろ)と言いますが、この形代で頭のてっぺんから順番に「祓い給へ、
清め給へ」と言いながら、全身を撫でていきます。

人形を自分の写し身とするのは、身代り地蔵などにも見られるものですが、あくまで転写というのは
第一義的もので、むしろ第二義的なものの方に真の大祓いの意味があるように感じます。

実際に形代で撫でながら自分の身体の一つ一つへ心を向けるとハッとさせられます。
何となく上から下へとアバウトに撫でてしまいがちですが、そこは心を静めて、一つ一つ落ち着いて
やってみます。

頭のてっぺんから、頭皮や毛穴、おデコ、眉毛、まつ毛、目、そして鼻、口、歯、舌、喉、耳、耳の中、
頭の中の脳・・・
と一つ一つに心を向けていきます。
それぞれ、ほんの一瞬、意識するだけです。

これにより、形代に写すというだけではなく、そこへ心を向けるという行為となります。
一瞬でも心を向けることで、そこへスッと天地の氣を通すことになります。

この時にハッとするのが、今の今までその存在すら忘れてしまっていた箇所が、いかに多かったかと
いうことです。

たとえば目や口、心臓や胃腸などは普段からそれとなく意識できている部分であるのに対して、肺や
腎臓、肝臓などは、ほとんど意識に無かったことに気づくわけです。
そして、その部分にフト心を向けた瞬間に、何かかがサーッと風のように流れていくのを感じます。
普段から馴染み深いはずの手の指ですら、一本一本を撫でていくと、その一本ごとにサーッと通って
いく感覚があります。

形代で撫でるという先人の知恵は、まさにそこにあったのではないかと思います。
もちろん転写という意味もあるのでしょうが、それとともに自分の心を向けるということにとても大きな
意味を感じます。
形代を撫でながら、一つ一つにスーッと何かが通った瞬間、「清められる、祓われるとはこういうこと
なんだ」と感じると思います。

何であれ、ほかの誰かの力に頼りきって救われるということはあり得ず、そこに自分の行為と思いが
あってこそ、それが示現します。
もちろん、自分の力だけで何でもできるということではありません。
このあとに神職の方々が丁寧なお勤めをして下さることで、大祓いは完結します。
地に足をつけて歩くとともに、自分の健康を祈って下さる方々や、目に見えないおかげさまへの感謝
が大切です。
事実、祈りのエネルギーというものは間違いなく天地へ届くものです。

そして、心を向けるというのは、これほどまでハッキリしたものです。
ということは、自分に対してだけでなく、他者に対しても同じことが言えるということです。
心を向けることで風が吹き、交流が生まれることになります。

心の風通しが良くなると、身体の風通しも良くなります。
そうして体調も良くなります。
同じように、自分のまわりに対しても、ただ心をスッと通すだけで風通しが良くなり、雰囲気が変わり、
状況も変わります。

心から吹く風というのは、それほどまでに明らかなものです。
すごいエネルギーなのです。

大祓いで唱えられる大祓詞の中に、祓戸四神が登場しますが、神様の罪穢れすらも祓い落とす祓戸の
大神様の中に、気吹戸主(いぶきどぬし)という神様がおられます。
お祓いの場面では、まがまがしいことや罪穢れを、川から海へ、そして海の底から根の国・底の国へと
うつしていって最後は昇華させるという、まさに天地宇宙の循環システムがそのままに謳われています
が、その中で気吹戸主は根の国・底の国へと「いぶく」(氣吹く、息吹く)お役目を受け持っておられます。

根の国・底の国とは、あの世とも解釈されますが、要するに目に見えない非物質世界のことです。
濁らせてしまったものをそこで昇華させて、本来の天地自然の状態に戻すというわけです。
決して消滅させたり、排除したりするのではないということです。

この神様のエネルギーが、私たちの中にもあるということを思います。
クリアな心は爽やかな風を吹かせます。
その心を向けただけで、サーッと天地の氣が吹き抜けます。
それが「氣吹き」(いぶき)であるわけです。

半年に一度の大祓いは、私たちの心や身体に知らず知らずのうちに付いてしまった穢れを祓い、枯れ
た氣を生き生きと蘇らせます。
先人の遺した知恵は、どこまでも深いものです。

そしてまた、知らず知らずのうちにそのようになってしまっている氣枯れ(ケガレ)というものは、我が身
だけでなく自分のまわりに対しても起こしてしまっているとも言えます。

せっかくの機会ですから、自分自身に対してだけでなく、そうしたまわりのモヤモヤしているものへも
爽やかな心を向けてみてはどうでしょうか。

大祓いとは、大掃除でもあります。

何かをしようなどと気負う必要はありません。
ただスッと心を向けるだけです。
それで、もうサーッと通ってます。
もし何も感じなくても、そうなってるから大丈夫です。
神社に行けなくとも、それで十分です。

そして、実はそうした一つ一つが、この国の大地や、その先までへと繋がっていきます。

ただそれはあくまで結果ですので、大地や地球のことを浮かべながらやるものではありません。
本末転倒になってしまいます。

心を向けることは、そのままサラサラと光の粒子になります。
そこで光を感じることはあっても、あらかじめ光をイメージしながら行なうものではありません。
心をクリアにするだけ。
「考えごと」をせずに、スッと心を向けるだけで爽やかな風がサーッと吹き抜けていきます。

私たちの心は、天の氣吹き(いぶき)そのものです。

今は、ただ目の前のことだけに心を向けて、スーッと気持ちが軽やかになることを感じてみましょう。



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心変わりは秋の空

2015-06-22 16:59:05 | 武道のはなし
日本の武道は、技術や体力以上に気力(氣力、心)というものを大事にします。

「氣」というと何やら得体の知れないものを想像しがちですが、そんな怪しいものではありません。
まったく身近なもので、別の言い方をすれば「感覚」と表現してもいいかもしれません。

誰かの視線を感じたり、何かの気配を感じたりと、そういった感覚です。
雰囲気や邪気という言葉もあるように、私たちは昔から当たり前に色々なものを肌で感じています。

そうした氣というのは自ら出したり誰かに貰ったりするものではなく、天地に普通に満ちているものです。
それは天地のエネルギーと言ってもいいですし、ご神気と言ってもいいかもしれません。

私たちもこの天地の中に存在しているかぎり、そよ風のようにそれが全身を通り抜けています。
内から外へ、外から内へと、呼吸をするように天地と交流しています。

余計なことをしなければ、私たちは天地そのものであり、天地と一体です。

ただ、その余計なことをしてしまうのが私たち人間です。
心や意識、こだわりや囚われ、我欲や不安が雑味となって、その流れを滞らせてしまいます。

そのため、あらゆる武道が、技術やスピード、勝ち負け以上に、心の持ち方を重視します。
それは決して精神論や美意識によるものではありません。
心の乱れは弱さを生み、その逆に、天地と一つになった状態は最も盤石だと知ったからです。

だからこそ歴史上の剣豪はみな、最終的に山ごもりや坐禅といった心の鍛錬へと行きつくわけです。
さらに、そうした我執のない状態には自ずと天地自然の美しさが伴うことから、それが美意識へと繋がったのだと
思います。

これもまた、真善美であるわけです。

実は私たちは誰もが、わずか一瞬ではありますが、その境地に達していることがしばしばあります。
ただ、心があちこちへ動きまわるためその感覚を継続できず、自覚ができないだけです。
武道にせよ、神道・仏教にせよ、道を極めんとする人たちはみな、その感覚に同化するために日々修行に
励んでいるといえます。

天地へ心が開いている状態を感じるには、たとえば見晴らしのいい高台から景色を見渡してみるのも
一つの方法です。
遠くまで心が広がっているとき、無意識のうちに全身の力みが抜けています。

あるいは、大自然の中を散策している時も同じ状態になっていることでしょう。
満天の星空の下にいる時など、それこそ天地宇宙へと無限に心が広がって、まさに世界に溶け込んで一つに
なっているはずです。

ただ実際そのような時は、そのような微細な感覚を自己観察しようという気は起きていないものです。
我執から開放されていますと余計なことへは心は向かず、ただ気持ちよさに浸りきるのが自然なことだと思います。

ただそうなると、その感覚をあとになって再現しようとしてもなかなか難しいというのも事実です。
しかも、そのようなオールフリーな感覚を欲するのは、大抵は心が疲れている時です。

頭の記憶をたどって心の方からアプローチしようとしても、心が弱っているとガッツが湧かず、上手く
いかないものです。
芯から疲れ切ってる時に大自然に囲まれた開放感を思い出そうとしても薄っすらとした記憶が浮かぶ
ことはあっても、その時の感覚まで蘇らせるのは厳しいわけです。

ですが、身体の記憶であればそれが可能となります。
身体の記憶とは、感覚記憶のことです。
ですから、開放感に浸っている時の身体の状態を記憶しておくことがとても大事になってきます。

そのためには、変化を感じることが一番分かりやすいアプローチと言えます。

高台にのぼった時や自然の中を散策している時というのは、その前からすでに心が開放されている
ものです。
そして心が広がるという事前の予告もないまま、気づいてみたらその状態になっています。

ですから、あらかじめ変化することを分かった上で、変化の違いを比較してみることができれば、より
ハッキリとその感覚を認識できるということになります。

たとえば目の前10mくらい障害物がない場所に立って、まずは下を向いた状態になってから自然に
顔をあげてみます。
前の視界が開けると、自分の心がサッと変わることに気づきます。
視界が広がるとともに、首から背中にかけての緊張がスッと取れます。

大自然の中にいる時や、見晴らしのいい景色の中にいる時も、よく観察してみるとやはり首から背中
にかけての力が抜けてスーッとラクに通っていることが分かります。

この後頭部から背中にかけてフッと力が抜けると、途端に頭のギューッとなっていた力みも消えます。
そして心のこわばりもスーッと無くなっていきます。

このように心がラクになると、身体感覚は全方位へと広がった感じになります。

心が伸び伸びと大きくなると、感覚もブワーッと広がります。
そして空間というお風呂に自らが浸っているような感じになります。
天地と溶けあって、とても気持ちがいいわけです。

この状態になると、対峙する相手に対しても自ずと心優しい感覚になります。
たとえば、小さな子供を目の前にした時のようにです。

天地と交流し、相手とも交流している状態では、お互いに幸せな気持ちになります。
天地に対してフルオープンになっている状態ですから、母に包まれるような幸福を感じるわけです。

我執の壁がなく、透明のままに天地と溶けあっていると、気持ちがいいのです。

これが本来の私たちの自然な姿です。


ただこの状態というのは、ほんの少し余計な欲得が頭をよぎった瞬間に、跡形も無く消えてしまいます。
どんな形であれ、自我に心が向いた瞬間、天地との交流は途切れて、全方位へ広がった感覚は霧散します。

我欲というほどのものでなく、ほんの少しの考えごとであったとしても、心が自己へと向いた瞬間、
広がった感覚は消えます。

でも本当は、私たちは広がった感覚へ身をまかせつつ、考えることができます。

ここでは「考える」ということと、「囚われる」ということを厳密に分ける必要があります。

考えるというのと、考えごととは違うものです。

考えごとというのは、正しくは「考えに囚われている状態」です。
ですから、ほんのささいなことであっても考えごとに心が奪われた瞬間、天地との交流が絶たれ、
広がった感覚が消えてしまうわけです。

これに対して「考える」というのは、自分から切り離して淡々としている状態のことを言います。

ドップリと身を浸けてしまうと「考えごと」になってしまいますが、今が去ればもうそこから離れているのが
「考える」です。

心が100%向けば、ほんの一瞬にして、その深部にまで私たちの全身全霊が届きます。
それほどに、心が集中すると瞬時で変わるのです。

ハシャいでいる時は外向きの開放的な方向へ100%になりますが、我執が生じた瞬間、内向きの
排他的な方向へ100%になります。
前者は融合と交流、後者は断絶と分離と言えます。


合気道というものは、投げと受けの二人一組の武道です。

審査会や大会では、競技中はもとより、まずは場内に入ってから開始線へ着くまでの心の状態と、さらには
技が終わった後に場外へ出るまでの心の状態こそ重視します。
弓道や茶道なども、前後の所作をとても大事にします。

競技中に自然な交流が成されるには、その競技の前後からその状態になくては成りませんし、その前後から
成るためには、前後どころか場内に入る前や場外に出たあとも同じままに在り続けていることが前提となります。

ある瞬間だけ心を律してかしこまってもそれは本当の天地一体には成らないわけです。

さて、心がリラックスして全身がフルオープンの状態になっていると、目に映る景色は広がり、肌の感覚も
四方へと広がります。
するとその感覚の広がりは、離れて歩く演武相手にまで届きます。

横を見なくとも、感覚として相手のことが分かります。
その時にフトなにか「考えごと」をしてしまうと、たとえそれがポジティヴなことであろうとも、
広がりの感覚かまプツンと切れてしまい、途端に視野が狭くなります。

しかも厄介なことに、そういう時というのは、視野が狭くなったことに自分では気がつくことができません。
なぜならば、心はその「考えごと」の方に向かって100%の出力を維持し続けているからです。

私たちは心の向いた先へと意識が集中しますので、その出力量が変わらないかぎり、感覚が
変わったことになかなか気がつけません。


ターゲットが瞬時にすり替わると、そのことに自体に気がつけないということです。

普段ならば心は分散しがちなのに、私たちは不安や恐れ、期待など執着が起きた時は皮肉なことにしっかり
そこへ100%集中してしまいます。
他のことは何も見えずに、そこに囚われてしまいます。

「人のことはよく見えるけど自分のことは一番見えない」というのはまさにこのことです。

とりわけ、日常的に心が広がっていない状態に馴れてしまっていると、なおのこと変化には気がつけません。

このため、心が広がっている状態に皮膚感覚を馴染ませておくことが、解決の糸口となります。

一番見えにくい自分を見るためには、感覚をもって変化に気がつくしか方法はありません。
そして変化したあとに原状回復する方法も、感覚をもって行なうしかないと言えます。

心が変わって一度切れてしまった感覚をふたたび戻そうとすると、我執が起きやすいものです。
感覚を広げよう、心を広げよう、囚われをなくそうという思い自体が、内向きの世界であるわけです。

そうしたことは静かに稽古を重ねようという万全な状況にあっても難しいのですから、いざという本番の場面
ではなおさらでしょう。

すでに相手が攻撃を仕掛けてきている最中に、心を落ち着けようと理屈を追ってもまず無理であるわけです。
だからこそ、頭ではなく感覚からのアプローチが必須となります。

自然な状態というのは、頭ではなく感覚として追わないと辿り着けません。
そして皮膚感覚を追えば、それは一瞬にしてかないます。

審査や演武の時に入退場が重要視されるのは、本来は常日頃から天地に壁を作らず一つになって
いるのが自然なことであり、いざ始め!というその時になって初めて切り替えるというのは不自然で
あるというのが一つの理由です。

そもそもスイッチを切り替えること自体が我執の一端ですから、そんなことで得られた状態は本当の
自然体には程遠いわけです。

そしてまた、せっかく自然体になっているのに入退場の際にフト心が切れてしまうのは、自分のことを
考えてしまうからです。

「上手くやろう」「落ち着こう」「心を広げよう」、、、どれも自分のことを考える我欲です。
その瞬間、魔がさすわけです。

だからこそ、入退場こそが重要視されるのです。
そこで心が切れるのであれば、競技中あるいは実戦など、言わずもがなということになります。

広がった感覚の時は、天地と溶けあって交流している状態です。
しかしフト自分の世界に入ってしまった瞬間に、それは切れてしまいます。
ほんの些細なことであってもそれはハッキリしています。

たとえば、互いにお辞儀をして下を向いた時、視界が狭まって心がわずかに変化しますと、その
瞬間、天地との交流もスッと小さくなります。
すると顔を上げた瞬間には、もう相手の氣に差し込まれてしまいます。

相手が落ち着きはらって天地に身をまかせきっていると、それだけ氣が広がっているため、自然に
スッと入られてしまうのです。

一度その状態になってしまうと、どんな技も決まりません。
あわてて自分も心を広げようとか、相手と交流させようとかすると、我がまさって余計におかしくなって
しまいます。

しかし、こちらも乱れることなく泰然自若として天地と一つになったままお辞儀をすると、たとえ相手が
天地に心を広げていたとしても、その相手とも交流した状態が切れないため全く差し込まれることなく、
フワーッと互いに気持ちよく投げられます。
技の威力としてはズシンと強烈なものになりますが、心はフワーッと気持ちがいいのです。

これと同じ理屈が、入退場にも当てはまるということです。

精神論などではなく、物理のように明らかなわけです。
最初の入場がダメなら、いくら途中から見た目をそれらしくカッコつけようとしても、それは体裁づくりで
しかないというのが明らかになります。

また、終わりの退場がダメなら、いくらそれまでが良さそうに見えてても、所詮は繕っていただけでしか
なかったということがバレバレになります。
つまり、どちらも見せかけだけのハリボテでしかなく、ヤラセの投げでしかないということが誰の目にも明らか
となるわけです。

といって、「心を変えまい」とするのも囚われの我執になってしまいます。
それを思った瞬間、天地との交流は途切れます。

我(が)ではなく天地自然に溶け込んでいれば、自ずと心が変わらず最後までスーッと行きます。
ですから、入場の前からすでに始まっているわけです。

心が変わるというのは、目の前の「今」をそのままに受け入れていないということでもあります。


もっと上手くやろう、投げてやろう
心を相手に向けて、投げ方はこうやって
みんなが見ている、失敗したらカッコ悪い
心を静めよう、落ち着こう
心を広げよう
何も考えないようにしよう
力を抜こう、氣を通そう
天地と一体となろう
心を変えないようにしよう...



あらゆる考えごとや心の変化は、すべてが、「今」のありのままを受け入れられていないということ、
つまり、信じきれていないということの現れです。


受け入れられないがゆえに、それが不安や囚われ、こだわり、執着となって、様々な考えごとが
生じるわけです。

そしてこれらは、日常的に私たちが知らず知らずのうちにやってしまっていることでもあります。
たまたま武道ではそれが目に見える形として現れますが、日常ではそれと気がつけないままに自動的に
継続されてしまっているということです。

もちろんこれは、何も考えるなということではありません。

「考える」ということと「考えごと」というのは全く異なるものです。
スッと浮かんだことを認識はしますが、そこにとどまらないということです。

「こうする」「ああする」という方向づけ(=考える)はしますが、それで綺麗サッパリおしまい。
そこに悶々と身を浸からせない、固執しないということです。
ですから我執を嫌うあまり、何も考えないというのでは全くの本末転倒となります。

日ごろの生活においては、あまりに馴染みすぎてしまって感覚が麻痺して、意識にあがってこなくなって
いるものが数多くあります。

たとえば、会社に着くまでは無色透明なニュートラルな感覚だったのに、職場に入った瞬間、心がギュッと
小さくなってしまうということも挙げられます。

それは一種の防御本能のようなもので、心にバリアーを張っているとも言えます。
ただ、職場での緊張感が心グセになってしまい、条件反射でスイッチが入ってしまっているという要因の
方が大きいかもしれません。

そうした感覚の変化を気づけた時はまだいい方で、普通はそれに気づけないまま1日が始まって、
そのまま夜まで過ごしてしまったりしてしまいます。

すると当然ですが、夜になるとグッタリと疲れ果ててしまいます。
でもその疲れすらも「それが当たり前」「そういうものだ」と思ってしまうと、ますます無限ループに
ハマってしまうわけです。

心をギュッと萎縮させた酸欠状態のままにアドレナリンだけで空焚きすると、心身は弱っていきます。
これは真面目な人や頑張り屋さんが陥りやすいパターンです。

ズルい人やいい加減な人であれば、無責任や逃げの姿勢でプレッシャーなど感じませんし、心も
萎縮しません。
また、空焚きするほど頑張るようなこともありません。

その点、明るい人やポジティヴな人は理想的です。
心が萎縮せずリラックスして広がっているため、自然とエネルギーが補充されます。

だからといって、真面目な人や頑張り屋さんが「ならばポジティヴになろう」「明るくなろう」と頑張る
(我を張る)と、結局は不自然な無理押しにしかならないため、結果としては同じことになってしまいます。

何でもプラスに考えればいいということではないわけです。

こうした時の解決法の一つとして、先ほどの、武道においての入退場がヒントとなります。

朝起きて会社へ向かう時に心が変わって重くなりますと、ギリギリまで会社に行かないようにしようと
時間を引っ張ってしまうものです。
でも、それでは全くの逆効果にしかなりません。
となれば、そこは思い切って、早く家を出てみるというのが手かもしれません。

積極的に出社する。
みんなが出そろった遅い時間に行くのではなく、誰も来ていない時間に出社するわけです。

誰もいない職場は、嵐の前の静けさで広々としています。
そこで席についたら、静かに顔をあげて視線を開放するのです。

ひとたび心を広げたら、あとはそのことは忘れて、心が乱れないように落ち着きを追います。
雑念の騒音に耳を貸さず、静けさに心を向けます。

そして、あとから会社に出てきた人たちを受け入れるくらいの気持ちで、見て流すわけです。

以前に書いた、職場の模様替えの場面では、朝の誰もいない職場でリラックスしていたからこそ、
心を開いた状態のまま色々なことを感じられたと言えます。

たとえば、稽古に遅れてあとから道場に入ったりしますと、その熱気に飲まれてしまうものです。
気負ってテンションを上げようとすると、かえって心が変わって不自然な感覚になってしまいます。

あるいは、飲み会に遅れて合流した時なども、雰囲気についていけず違和感のなかに身を置くことに
なったりします。
そうなると、時間が経つのもやたら長く感じて、疲れも倍増します。

場に馴染むには、自分を素っ裸にして、目の前のすべてをありのままに受け入れることです。

ですから、その場の空気が変わる前から、先んじてそこに身を置いて自分がそこの空間に溶け込んで
しまうことが非常に有効だと言えます。

職場にかぎらず、ここぞという場面ではとにかく早めに行って心を静かにしておくのがいいと思います。
まさに早起きは三文の得です。

苦手な場面や、気おくれする場面ならば、なおさら早めに行くのがいいでしょう。
誰もいない空間を味わうというのは、今をそのまま受け入れるということであり、自分を開放している
ということでもあります。


「早く着きすぎるとアレコレ考えてしまって緊張するかもしれない」と心配になるというなら、それは
遅れて行ったのなら、その何十倍も気おくれしてしまうと考えて間違いないでしょう。
案ずるより産むが易しなのです。

会社も嫌だと思えばこそ、早めに行って心を広げ、その感覚を肌に染み込ませてみてはどうでしょうか。

同様に、嫌な人間がいるからギリギリまで顔を合わせたくないと思うなら、その人間よりも先に会社に
行って空間と一体となってしまうということです。

心をリラックスさせていつもと変わらない状態でいれば、その相手が来ても余裕をもって見流せている
ことに我ながら驚くでしょう。

心が変わってしまうのは、目の前の今をそのままで受け入れられないからです。

まだ起きてもいない将来に対して不安を持ったり、期待を抱いたりするのは、これから現れる「今」を
値踏みしようとする行為です。

どんな「今」がやってこようが、そのままストレートに受け入れられるかどうかです。
それは言い方を変えれば、未来に対しても心が開いている状態、感覚が広がっている状態です。

どんなものが現れてもプラスもマイナスも採点しないという絶対的な自信。
それは日頃の心グセの積み重ねにかかっています。

こうなったら嫌だと思ってしまうことが、心変わりの根本原因です。

なんでもエエジャナイカ。
コレでいいのダ。
それが心を変えないコツです。

どうしてもネガティヴ思考の癖が抜けない時は、「あれこれ悩んだところでどうせ失敗するんだから」と
達観して、考えごとをやめるのがいいかもしれません。

マイナス思考が癖になっている自我に対して、逆方向に無理強いをしても反発するだけ。
ならば同じマイナス方向に導いて満足させることも一つの方便ということです。

「考えごと」という我執へ100%になってしまっているロック状態を解く。
昇華させて消し去るのです。

「心を変えてはいけない」のではありません。
心は変わるものです。

ただ、心が変わった時にそれに気づかずそのままドップリになってしまってはいけないということです。

今このあとに何が起きてもオールOKなのです。
この世に失敗というものは存在しません。
誰かが決めた評価など、何の価値もありません。
自分の評価にしがみ付く必要もありません。

人間が決めた身勝手な判断などよりも、今この瞬間をそのままに受け入れることの方が、明らかに
天地の理にかなった正道です。

たとえ失敗しようとも、たとえ上手くいかなくとも、不安や恐れや我執に囚われず、ありのままの自分
を受け入れたのならば、それこそが天地そのものの本来の姿であるわけです。
天地自然の100点満点なのです。


人間の価値判断に囚われてはいけない。
天地に優しく褒められることを追いかければいいのです。
結果として、それは心からハシャぐことになっていくでしょう。

そして、その時まわりがみれば、私たちは間違いなく光輝いているのです。




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サラサラと素直に流しましょう

2015-06-10 22:01:52 | 心をラクに
子供のころ、誰しも親には自分のことを分かって欲しいと思ったことでしょう。
そして大きくなるにつれて、その対象は、親から友だち、先生、異性、配偶者、上司や同僚などへと
広がっていったと思います。

人はなぜ、自分のことを分かって欲しいと思うのでしょうか。

自分を分かって欲しいというのは、自分を受け入れて欲しいということに他なりません。
つまり、そこには自分は受け入れられていないという思いがあるわけです。

相手と心や気持ちが通うということは、目には見えない流動が生じている状態です。
そこに流れるのは、天地のエネルギーです。
天地に満ち満ちているご神気は、私たちの内にも外にも溢れており、それが停滞せず流れることで
私たちは生かされています。

他者との交流がない状態というのは、それがとどまった状態です。

密閉された部屋では、空気は濁っていきます。
流れのせき止められ川では、水は劣化して腐っていきます。
どちらもエネルギーが無くなった状態であるわけです。
流れが止まるとエネルギーは枯れていくのです。

「流動」というのはエネルギーそのものです。
万物流転や諸行無常というのは、この世のものは全てがエネルギー体であることを示しています。
「停止」というのはエネルギーがない状態です。
「止」は「死」に通じます。
それを避けるために、人はまわりの存在との関わりを本能的に求めるわけです。

そのために人は、あらゆる形で交流を生み出そうとします。
普通の交流が叶わない場合、たとえば攻撃でもって相手の反撃を引き出させて、流れを作り出そう
とすることもあります。
どのような形であれ、交流することがエネルギーを生むからです。

頭にきたりムカムカするのは、無意識のうちにその相手との交流を求めていることに他なりません。
本当に興味がなければ、何も引っかからないものです。
関わりたくないのに引っかかってしまうというのは、本質的には興味を持っているということです。
そのような場合、自分の中の雑味がその相手に投影されていることが多いと言えます。
つまり、鏡です。
それは、我が身を振り返るための交流となります。
この世界には、つまるところプラスアルファの交流しかありません。
交流の生み出したエネルギーが様々な物事を推し進める原動力となり、同時にまた、様々な物事
自体がそうしたエネルギーを生み出す素ともなるわけです。

さて、小さい子どもの頃は、純粋に自分を受け入れて欲しいと思っていたわけですが、成長するに
つれて自我が芽生えてきますと、どうしても親とのソリが合わなくなってきます。
交流は図りたい、しかし、自分の邪魔はされたくない。
すると、それが反抗期という形となって現れます。
反抗期になると、親にかぎらず自分以外のあらゆるものにムカムカしてしまいます。
世の中というのは、自分とソリが合わないものがほとんどです。
それら一つ一つにいちいち目くじら立ててイライラするのは、子供が成長する一つの過程です。

子供というのは、良くも悪くも、唯我独尊です。
この世に対して、決して受け身ではありません。
自分が中心であり、世界の全体です。
ただ、魂として正しいこの感覚に、新たに芽生え始めた自我がそのまま乗っかってしまうと大変な
ワガママへと拡大してしまいます。
一般的には、叱られたり失敗したり、高い鼻を折られたり、悲しい出来事を体験したりすることで、
増長した自我は徐々に抑えられていきます。
そして、そうした自我の縮小に合わせて、魂や心までも一緒に縮小させてしまったのが、今の私
たちであるとも言えます。

それは、自我が悪いものであるように捉えてしまっているところに一因があります。
自我はとても大切なものです。
自我というのは、意識のカーソルのようなものです。
標準を合わせるものです。
自我がなければ焦点は絞れません。

とはいえ、自我が暴走しても焦点は絞れません。
それが誤解を生む原因となっています。
自我は放っておくと際限なく暴走していくため、そこだけをとらまえてネガティヴな見方をされてしま
うわけです。
マイナスの捉え方では、マイナスの反発を招くだけです。
自我というのは抑えるものではなく、受け入れるものです。
押さえ込もうとしたりコントロールしようとすると余計に苦しくなります。
受け入れることによって自我は静まっていき、暴走熱は消えていきます。
そうして極限まで自我が研ぎ澄まされることで、焦点が無限小に極まるのです。

魂や心を縮小させずに自我の増長を無くすには、明るく伸び伸びと、しかし、慎ましく謙虚に生きる
ことが大切です。

成長とともに私たちは自我を見守れるようになっていきます。
それにつれて、まわりのことも受け入れられるようになります。
ソリが合わないと思っていたことにもイライラしなくなり、それはそういうものだとして受け入れられる
ようになっていくわけです。

子供の頃は、そうした自我が自由気ままな状態であるため、
「相手のことは分からなくてもいい。受け入れたくない。でも自分のことは分かって欲しい。受け入れ
て欲しい。」
となってしまいます。
どうしても「自分は全部わかっている。自分は正しい」と思ってしまうのです。
そして自分のまわりがソリの合わないことだらけになると孤立感が増してしまい、その不安な気持ち
から余計にイライラと当たり散らすわけです。

これは誰もが通ってきた道ですので、大なり小なりその因子が今もこの体に残っていると言えます。
とりわけ経験則から、自我を抑えることが得だとしてそれを積み重ねてきた場合は、見た目で影を
潜めていても、実際その因子は丸々そのまま残っていることでしょう。
それは、ただ比較と打算で押さえ込んでいるだけだからです。
ただ、まわりと交流したいという純粋な衝動からそれを重ねるのであれば、その因子は自然に昇華
されて霧散していきます。

「相手のことは受け入れたくない。でも自分のことは受け入れて欲しい」というのは、“交流”という
視点から見ると、明らかに条件が欠落しています。
ただの一方通行では、交流は生まれません。
循環して初めて、流動が保たれるのです。

ですから、もしも自分を受け入れて欲しいならば、まずは相手を受け入れることです。
受け入れない心では、受け入れない心しか返ってきません。
受け入れる心があって初めて、受け入れる心が返ってきます。
そこに天地の交流が生まれます。
反抗期の孤独感が薄れていったのも、結局は、自分がまわりのことを受け入れられるようになった
からだったのです。

そして相手を受け入れるためには、謙虚さが必要となります。
「自分はすべて分かっている」「自分の方が相手よりも上だ」と、自我が勝った状態では相手の心を
受け入れることはできません。

この場合の謙虚さというのは、意識して作るものではありません。
作為的な謙虚さには我欲のシコリが残ってしまい、それは我執と変わらなくなります。

自然な謙虚さというのは、たとえば、幼子を前にした時の感覚がそうです。
小さな子どもに相対した時、自分の方がまさっているという慢心を抱くようなことはありません。
「自分は何でも知っているが、こいつは何も分かっていない」とは思うはずもありません。
無意識のうちにそんなこだわりは捨てて、自然に優しく接するはずです。
そうであればこそ、幼子の方もこちらに心を開くわけです。
謙虚さというのは、それほど自然なものです。
決して、自身の自我を押さえ込んだり、着飾ったりするものではありません。

幼子を前にした時、純粋な思いが先行します。
純粋に相手と接したいと思った瞬間、すでに心はその相手に在ります。
つまり、心が相手のところまで広がっているわけです。
我を通したいという思いは、自分の中に引きこもっている状態のときに現れているということです。

「こだわりを手放したくないか」それとも「ただ純粋に相手と交流を図りたいか」。
その時の自分の心がどこに向いているかによって、結果として、謙虚になっていたり、意固地に
なっていたりするということです。
自分の心一つで、全ては自然に成るように成っているものなのです。
結果を求めようとするよりも、まずは自分の心に目を向ける方が先です。

私たちはそもそも、人と一緒に分かち合いたいという衝動を持っています。
その出どころは、遥か原初の状態にまでさかのぼります。
私たちは、今でも天地と一体ですが、原初は天地そのものでした。
自他の違いはなく、ただ一つでした。
このふるさとの感覚が、誰かと分かち合いたいという思いや、誰かと交流したいという思いに
繋がっていると感じます。

そうした思いを表面的なアプローチで押し進めようとすると、何も満たされずに余計に不満が
募ってしまいます。
そもそもが原初の感覚に端を発しているわけですから、見えるところを分かち合おうとしても
満たされるはずがありません。
外からのアプローチではなく、内からのアプローチが必要になってきます。

今も私たちは、目に見える世界に投影されているにすぎません。
そして、もとの大本では垣根なく、みんな繋がっています。
つまり、ラッセル車のように雪道を掘り進めようとするのではなく、最初から繋がっている部分に
心を向けるということです。
まさに、チェス盤の上部ではなく、その下の部分です。
それは降り積もったホコリを少しずつ掃いて、本当の地面へと立ち帰る作業です。

私たちは、最初からあらゆる全てのものと縦横無尽に交流していますし、あらゆる全てのもの
に受け入れられています。


それを阻害しているのは、自分自身に他なりません。
一方では、阻害する壁を絶えず造り続けながら、一方ではそこへ上書きするようにして交流を
図ろう(受け入れよう)という、正反対のことをしているわけです。
一人で綱引きをやっているのですから、大変に疲れてしまいます。

自分を顧みることなくただ交流を求めているうちは、それは決して叶わないものだと言えます。
上書きの交流を目指すよりも、まずは壁作りを諦めることです。
私たちというのは、そもそもの初発から交流している(=受け入れられている)からこそ、こうして
存在できています。
それを思い出すことで、自らの阻害行動は消えて、自ずと本来の交流が表面に現れてきます。

自分の世界にしがみついたまま交流を図ろうとするのは、まさしく自我の道を引くようなものです。
そうした一本道を行き交う流れというのは、イラスト的にも磁力線にそっくりですし、実際のところ
磁力が引き合うようにして人を引き寄せ合います。
文句ばかり言っている人間のところには、文句ばかり言っている人間が引き寄せられるわけです。

そもそも私たちは、天地に全面的に受け入れられています。
受け入れられるというのは、無条件に愛されているということです。
そこへフタをしているのは私たち自身です。
ひとたび天地の心を肌に感じれば、その温もりへ全身を投げ出しても大丈夫なのだと分かります。
いつでも安心しきって大丈夫だと理解します。
そして、自分だけではなく、世の中の全ての存在が同じく無条件に愛されている(受け入れられて
いる)ことが分かります。
そんな誰かに対して不満を持つのが、とても小さなことに思えてきます。
その相手もまた天地宇宙に全面的に受け入れられているというのに、なぜ人間風情の自分が文句
を言えるでしょう。
そのように考えますと、相手が何をしようともソレはソレとして、いい意味で放っておけるようになる
と思います。
そのとき、天地への感謝の思いが一気に溢れ出しているでしょう。

私たちは、何も分かっていませんし、誰よりも上ではありません。
天地の温もりを感じれば、増長する気持ちは決して起こりません。
ただ、感謝の思いで一杯になるだけです。

それが、天地に受け入れられている状態であり、同時に、天地を受け入れている状態です。
それは、天地に愛されているとともに、無条件に天地を愛しているということでもあります。

愛というのは、自ら出したり起こしたりするものではなく、結果としての「状態」です。
そして謙虚さというのもまた、自ら作るものではなく、自ずと辿り着く「状態」です。

私たちは、今こうしてこの世に存在しているということが、天地に受け入れられている何よりの証拠
です。
そうでなければ、そもそもが存在できないのです。
受け入れられている結果が、この世に「存在」として目に見える形で現われているのです。
愛されている結果が、この世に「存在」として目に見える形で現われているのです。
この世界はそうして成り立っています。
この世の全ての存在が、全面的に無条件に受け入れられ、全面的に無条件に愛されているのです。

自我を忌み嫌えば、自我は反発して余計に騒ぎ出します。
自我を受け入れれば、自我は暴走しなくなります。
ですから、まずは自分を受け入れることです。
そうして自分を受け入れれば、他人を受け入れられるようになります。

不満やストレスの心は血液をドロドロにしますが、素直な心は血液をサラサラにします。
天地に流れるエネルギーとは、まさに私たちを生かす血液です。
こだわりを捨てて、一つ一つを素直にそのまま受け入れることで、天地の心がサーッと流れ込んで
きます。
そして大きな優しい温もりが、私たちを包むように漂っていることを感じます。
天地宇宙は常にダイナミックに流動しています。

たとえ私たちが自分を受け入れられなくとも、そんなことに関係なく、私たちはすでに天地に受け入れ
られているのです。

不安に駆られて何かを求めようとしなくても、いいのです。
私たちは十二分なほどの全てに包まれています。
何も無いと不安に思うのは、目をつぶって両腕で身を固めてしまっているからです。

かたくなな心をほぐし、素直なままに、流れる風を感じましょう。
私たちにそそがれる天地の眼差しに耳を澄まし、心からの安らぎに浸ってみましょう。

透明にキラキラとプラチナ色に輝く幾千万もの無数の流れが、私たち自身や私たちのまわりの存在
すべてを包み込むように溢れています。

私たちは、絶対的に護られ、愛され、受け入れられています。

天地宇宙に満ち満ちるその流動こそが、私たちを生かしている命そのものなのです。


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