これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

心変わりは秋の空

2015-06-22 16:59:05 | 武道のはなし
日本の武道は、技術や体力以上に気力(氣力、心)というものを大事にします。

「氣」というと何やら得体の知れないものを想像しがちですが、そんな怪しいものではありません。
まったく身近なもので、別の言い方をすれば「感覚」と表現してもいいかもしれません。

誰かの視線を感じたり、何かの気配を感じたりと、そういった感覚です。
雰囲気や邪気という言葉もあるように、私たちは昔から当たり前に色々なものを肌で感じています。

そうした氣というのは自ら出したり誰かに貰ったりするものではなく、天地に普通に満ちているものです。
それは天地のエネルギーと言ってもいいですし、ご神気と言ってもいいかもしれません。

私たちもこの天地の中に存在しているかぎり、そよ風のようにそれが全身を通り抜けています。
内から外へ、外から内へと、呼吸をするように天地と交流しています。

余計なことをしなければ、私たちは天地そのものであり、天地と一体です。

ただ、その余計なことをしてしまうのが私たち人間です。
心や意識、こだわりや囚われ、我欲や不安が雑味となって、その流れを滞らせてしまいます。

そのため、あらゆる武道が、技術やスピード、勝ち負け以上に、心の持ち方を重視します。
それは決して精神論や美意識によるものではありません。
心の乱れは弱さを生み、その逆に、天地と一つになった状態は最も盤石だと知ったからです。

だからこそ歴史上の剣豪はみな、最終的に山ごもりや坐禅といった心の鍛錬へと行きつくわけです。
さらに、そうした我執のない状態には自ずと天地自然の美しさが伴うことから、それが美意識へと繋がったのだと
思います。

これもまた、真善美であるわけです。

実は私たちは誰もが、わずか一瞬ではありますが、その境地に達していることがしばしばあります。
ただ、心があちこちへ動きまわるためその感覚を継続できず、自覚ができないだけです。
武道にせよ、神道・仏教にせよ、道を極めんとする人たちはみな、その感覚に同化するために日々修行に
励んでいるといえます。

天地へ心が開いている状態を感じるには、たとえば見晴らしのいい高台から景色を見渡してみるのも
一つの方法です。
遠くまで心が広がっているとき、無意識のうちに全身の力みが抜けています。

あるいは、大自然の中を散策している時も同じ状態になっていることでしょう。
満天の星空の下にいる時など、それこそ天地宇宙へと無限に心が広がって、まさに世界に溶け込んで一つに
なっているはずです。

ただ実際そのような時は、そのような微細な感覚を自己観察しようという気は起きていないものです。
我執から開放されていますと余計なことへは心は向かず、ただ気持ちよさに浸りきるのが自然なことだと思います。

ただそうなると、その感覚をあとになって再現しようとしてもなかなか難しいというのも事実です。
しかも、そのようなオールフリーな感覚を欲するのは、大抵は心が疲れている時です。

頭の記憶をたどって心の方からアプローチしようとしても、心が弱っているとガッツが湧かず、上手く
いかないものです。
芯から疲れ切ってる時に大自然に囲まれた開放感を思い出そうとしても薄っすらとした記憶が浮かぶ
ことはあっても、その時の感覚まで蘇らせるのは厳しいわけです。

ですが、身体の記憶であればそれが可能となります。
身体の記憶とは、感覚記憶のことです。
ですから、開放感に浸っている時の身体の状態を記憶しておくことがとても大事になってきます。

そのためには、変化を感じることが一番分かりやすいアプローチと言えます。

高台にのぼった時や自然の中を散策している時というのは、その前からすでに心が開放されている
ものです。
そして心が広がるという事前の予告もないまま、気づいてみたらその状態になっています。

ですから、あらかじめ変化することを分かった上で、変化の違いを比較してみることができれば、より
ハッキリとその感覚を認識できるということになります。

たとえば目の前10mくらい障害物がない場所に立って、まずは下を向いた状態になってから自然に
顔をあげてみます。
前の視界が開けると、自分の心がサッと変わることに気づきます。
視界が広がるとともに、首から背中にかけての緊張がスッと取れます。

大自然の中にいる時や、見晴らしのいい景色の中にいる時も、よく観察してみるとやはり首から背中
にかけての力が抜けてスーッとラクに通っていることが分かります。

この後頭部から背中にかけてフッと力が抜けると、途端に頭のギューッとなっていた力みも消えます。
そして心のこわばりもスーッと無くなっていきます。

このように心がラクになると、身体感覚は全方位へと広がった感じになります。

心が伸び伸びと大きくなると、感覚もブワーッと広がります。
そして空間というお風呂に自らが浸っているような感じになります。
天地と溶けあって、とても気持ちがいいわけです。

この状態になると、対峙する相手に対しても自ずと心優しい感覚になります。
たとえば、小さな子供を目の前にした時のようにです。

天地と交流し、相手とも交流している状態では、お互いに幸せな気持ちになります。
天地に対してフルオープンになっている状態ですから、母に包まれるような幸福を感じるわけです。

我執の壁がなく、透明のままに天地と溶けあっていると、気持ちがいいのです。

これが本来の私たちの自然な姿です。


ただこの状態というのは、ほんの少し余計な欲得が頭をよぎった瞬間に、跡形も無く消えてしまいます。
どんな形であれ、自我に心が向いた瞬間、天地との交流は途切れて、全方位へ広がった感覚は霧散します。

我欲というほどのものでなく、ほんの少しの考えごとであったとしても、心が自己へと向いた瞬間、
広がった感覚は消えます。

でも本当は、私たちは広がった感覚へ身をまかせつつ、考えることができます。

ここでは「考える」ということと、「囚われる」ということを厳密に分ける必要があります。

考えるというのと、考えごととは違うものです。

考えごとというのは、正しくは「考えに囚われている状態」です。
ですから、ほんのささいなことであっても考えごとに心が奪われた瞬間、天地との交流が絶たれ、
広がった感覚が消えてしまうわけです。

これに対して「考える」というのは、自分から切り離して淡々としている状態のことを言います。

ドップリと身を浸けてしまうと「考えごと」になってしまいますが、今が去ればもうそこから離れているのが
「考える」です。

心が100%向けば、ほんの一瞬にして、その深部にまで私たちの全身全霊が届きます。
それほどに、心が集中すると瞬時で変わるのです。

ハシャいでいる時は外向きの開放的な方向へ100%になりますが、我執が生じた瞬間、内向きの
排他的な方向へ100%になります。
前者は融合と交流、後者は断絶と分離と言えます。


合気道というものは、投げと受けの二人一組の武道です。

審査会や大会では、競技中はもとより、まずは場内に入ってから開始線へ着くまでの心の状態と、さらには
技が終わった後に場外へ出るまでの心の状態こそ重視します。
弓道や茶道なども、前後の所作をとても大事にします。

競技中に自然な交流が成されるには、その競技の前後からその状態になくては成りませんし、その前後から
成るためには、前後どころか場内に入る前や場外に出たあとも同じままに在り続けていることが前提となります。

ある瞬間だけ心を律してかしこまってもそれは本当の天地一体には成らないわけです。

さて、心がリラックスして全身がフルオープンの状態になっていると、目に映る景色は広がり、肌の感覚も
四方へと広がります。
するとその感覚の広がりは、離れて歩く演武相手にまで届きます。

横を見なくとも、感覚として相手のことが分かります。
その時にフトなにか「考えごと」をしてしまうと、たとえそれがポジティヴなことであろうとも、
広がりの感覚かまプツンと切れてしまい、途端に視野が狭くなります。

しかも厄介なことに、そういう時というのは、視野が狭くなったことに自分では気がつくことができません。
なぜならば、心はその「考えごと」の方に向かって100%の出力を維持し続けているからです。

私たちは心の向いた先へと意識が集中しますので、その出力量が変わらないかぎり、感覚が
変わったことになかなか気がつけません。


ターゲットが瞬時にすり替わると、そのことに自体に気がつけないということです。

普段ならば心は分散しがちなのに、私たちは不安や恐れ、期待など執着が起きた時は皮肉なことにしっかり
そこへ100%集中してしまいます。
他のことは何も見えずに、そこに囚われてしまいます。

「人のことはよく見えるけど自分のことは一番見えない」というのはまさにこのことです。

とりわけ、日常的に心が広がっていない状態に馴れてしまっていると、なおのこと変化には気がつけません。

このため、心が広がっている状態に皮膚感覚を馴染ませておくことが、解決の糸口となります。

一番見えにくい自分を見るためには、感覚をもって変化に気がつくしか方法はありません。
そして変化したあとに原状回復する方法も、感覚をもって行なうしかないと言えます。

心が変わって一度切れてしまった感覚をふたたび戻そうとすると、我執が起きやすいものです。
感覚を広げよう、心を広げよう、囚われをなくそうという思い自体が、内向きの世界であるわけです。

そうしたことは静かに稽古を重ねようという万全な状況にあっても難しいのですから、いざという本番の場面
ではなおさらでしょう。

すでに相手が攻撃を仕掛けてきている最中に、心を落ち着けようと理屈を追ってもまず無理であるわけです。
だからこそ、頭ではなく感覚からのアプローチが必須となります。

自然な状態というのは、頭ではなく感覚として追わないと辿り着けません。
そして皮膚感覚を追えば、それは一瞬にしてかないます。

審査や演武の時に入退場が重要視されるのは、本来は常日頃から天地に壁を作らず一つになって
いるのが自然なことであり、いざ始め!というその時になって初めて切り替えるというのは不自然で
あるというのが一つの理由です。

そもそもスイッチを切り替えること自体が我執の一端ですから、そんなことで得られた状態は本当の
自然体には程遠いわけです。

そしてまた、せっかく自然体になっているのに入退場の際にフト心が切れてしまうのは、自分のことを
考えてしまうからです。

「上手くやろう」「落ち着こう」「心を広げよう」、、、どれも自分のことを考える我欲です。
その瞬間、魔がさすわけです。

だからこそ、入退場こそが重要視されるのです。
そこで心が切れるのであれば、競技中あるいは実戦など、言わずもがなということになります。

広がった感覚の時は、天地と溶けあって交流している状態です。
しかしフト自分の世界に入ってしまった瞬間に、それは切れてしまいます。
ほんの些細なことであってもそれはハッキリしています。

たとえば、互いにお辞儀をして下を向いた時、視界が狭まって心がわずかに変化しますと、その
瞬間、天地との交流もスッと小さくなります。
すると顔を上げた瞬間には、もう相手の氣に差し込まれてしまいます。

相手が落ち着きはらって天地に身をまかせきっていると、それだけ氣が広がっているため、自然に
スッと入られてしまうのです。

一度その状態になってしまうと、どんな技も決まりません。
あわてて自分も心を広げようとか、相手と交流させようとかすると、我がまさって余計におかしくなって
しまいます。

しかし、こちらも乱れることなく泰然自若として天地と一つになったままお辞儀をすると、たとえ相手が
天地に心を広げていたとしても、その相手とも交流した状態が切れないため全く差し込まれることなく、
フワーッと互いに気持ちよく投げられます。
技の威力としてはズシンと強烈なものになりますが、心はフワーッと気持ちがいいのです。

これと同じ理屈が、入退場にも当てはまるということです。

精神論などではなく、物理のように明らかなわけです。
最初の入場がダメなら、いくら途中から見た目をそれらしくカッコつけようとしても、それは体裁づくりで
しかないというのが明らかになります。

また、終わりの退場がダメなら、いくらそれまでが良さそうに見えてても、所詮は繕っていただけでしか
なかったということがバレバレになります。
つまり、どちらも見せかけだけのハリボテでしかなく、ヤラセの投げでしかないということが誰の目にも明らか
となるわけです。

といって、「心を変えまい」とするのも囚われの我執になってしまいます。
それを思った瞬間、天地との交流は途切れます。

我(が)ではなく天地自然に溶け込んでいれば、自ずと心が変わらず最後までスーッと行きます。
ですから、入場の前からすでに始まっているわけです。

心が変わるというのは、目の前の「今」をそのままに受け入れていないということでもあります。


もっと上手くやろう、投げてやろう
心を相手に向けて、投げ方はこうやって
みんなが見ている、失敗したらカッコ悪い
心を静めよう、落ち着こう
心を広げよう
何も考えないようにしよう
力を抜こう、氣を通そう
天地と一体となろう
心を変えないようにしよう...



あらゆる考えごとや心の変化は、すべてが、「今」のありのままを受け入れられていないということ、
つまり、信じきれていないということの現れです。


受け入れられないがゆえに、それが不安や囚われ、こだわり、執着となって、様々な考えごとが
生じるわけです。

そしてこれらは、日常的に私たちが知らず知らずのうちにやってしまっていることでもあります。
たまたま武道ではそれが目に見える形として現れますが、日常ではそれと気がつけないままに自動的に
継続されてしまっているということです。

もちろんこれは、何も考えるなということではありません。

「考える」ということと「考えごと」というのは全く異なるものです。
スッと浮かんだことを認識はしますが、そこにとどまらないということです。

「こうする」「ああする」という方向づけ(=考える)はしますが、それで綺麗サッパリおしまい。
そこに悶々と身を浸からせない、固執しないということです。
ですから我執を嫌うあまり、何も考えないというのでは全くの本末転倒となります。

日ごろの生活においては、あまりに馴染みすぎてしまって感覚が麻痺して、意識にあがってこなくなって
いるものが数多くあります。

たとえば、会社に着くまでは無色透明なニュートラルな感覚だったのに、職場に入った瞬間、心がギュッと
小さくなってしまうということも挙げられます。

それは一種の防御本能のようなもので、心にバリアーを張っているとも言えます。
ただ、職場での緊張感が心グセになってしまい、条件反射でスイッチが入ってしまっているという要因の
方が大きいかもしれません。

そうした感覚の変化を気づけた時はまだいい方で、普通はそれに気づけないまま1日が始まって、
そのまま夜まで過ごしてしまったりしてしまいます。

すると当然ですが、夜になるとグッタリと疲れ果ててしまいます。
でもその疲れすらも「それが当たり前」「そういうものだ」と思ってしまうと、ますます無限ループに
ハマってしまうわけです。

心をギュッと萎縮させた酸欠状態のままにアドレナリンだけで空焚きすると、心身は弱っていきます。
これは真面目な人や頑張り屋さんが陥りやすいパターンです。

ズルい人やいい加減な人であれば、無責任や逃げの姿勢でプレッシャーなど感じませんし、心も
萎縮しません。
また、空焚きするほど頑張るようなこともありません。

その点、明るい人やポジティヴな人は理想的です。
心が萎縮せずリラックスして広がっているため、自然とエネルギーが補充されます。

だからといって、真面目な人や頑張り屋さんが「ならばポジティヴになろう」「明るくなろう」と頑張る
(我を張る)と、結局は不自然な無理押しにしかならないため、結果としては同じことになってしまいます。

何でもプラスに考えればいいということではないわけです。

こうした時の解決法の一つとして、先ほどの、武道においての入退場がヒントとなります。

朝起きて会社へ向かう時に心が変わって重くなりますと、ギリギリまで会社に行かないようにしようと
時間を引っ張ってしまうものです。
でも、それでは全くの逆効果にしかなりません。
となれば、そこは思い切って、早く家を出てみるというのが手かもしれません。

積極的に出社する。
みんなが出そろった遅い時間に行くのではなく、誰も来ていない時間に出社するわけです。

誰もいない職場は、嵐の前の静けさで広々としています。
そこで席についたら、静かに顔をあげて視線を開放するのです。

ひとたび心を広げたら、あとはそのことは忘れて、心が乱れないように落ち着きを追います。
雑念の騒音に耳を貸さず、静けさに心を向けます。

そして、あとから会社に出てきた人たちを受け入れるくらいの気持ちで、見て流すわけです。

以前に書いた、職場の模様替えの場面では、朝の誰もいない職場でリラックスしていたからこそ、
心を開いた状態のまま色々なことを感じられたと言えます。

たとえば、稽古に遅れてあとから道場に入ったりしますと、その熱気に飲まれてしまうものです。
気負ってテンションを上げようとすると、かえって心が変わって不自然な感覚になってしまいます。

あるいは、飲み会に遅れて合流した時なども、雰囲気についていけず違和感のなかに身を置くことに
なったりします。
そうなると、時間が経つのもやたら長く感じて、疲れも倍増します。

場に馴染むには、自分を素っ裸にして、目の前のすべてをありのままに受け入れることです。

ですから、その場の空気が変わる前から、先んじてそこに身を置いて自分がそこの空間に溶け込んで
しまうことが非常に有効だと言えます。

職場にかぎらず、ここぞという場面ではとにかく早めに行って心を静かにしておくのがいいと思います。
まさに早起きは三文の得です。

苦手な場面や、気おくれする場面ならば、なおさら早めに行くのがいいでしょう。
誰もいない空間を味わうというのは、今をそのまま受け入れるということであり、自分を開放している
ということでもあります。


「早く着きすぎるとアレコレ考えてしまって緊張するかもしれない」と心配になるというなら、それは
遅れて行ったのなら、その何十倍も気おくれしてしまうと考えて間違いないでしょう。
案ずるより産むが易しなのです。

会社も嫌だと思えばこそ、早めに行って心を広げ、その感覚を肌に染み込ませてみてはどうでしょうか。

同様に、嫌な人間がいるからギリギリまで顔を合わせたくないと思うなら、その人間よりも先に会社に
行って空間と一体となってしまうということです。

心をリラックスさせていつもと変わらない状態でいれば、その相手が来ても余裕をもって見流せている
ことに我ながら驚くでしょう。

心が変わってしまうのは、目の前の今をそのままで受け入れられないからです。

まだ起きてもいない将来に対して不安を持ったり、期待を抱いたりするのは、これから現れる「今」を
値踏みしようとする行為です。

どんな「今」がやってこようが、そのままストレートに受け入れられるかどうかです。
それは言い方を変えれば、未来に対しても心が開いている状態、感覚が広がっている状態です。

どんなものが現れてもプラスもマイナスも採点しないという絶対的な自信。
それは日頃の心グセの積み重ねにかかっています。

こうなったら嫌だと思ってしまうことが、心変わりの根本原因です。

なんでもエエジャナイカ。
コレでいいのダ。
それが心を変えないコツです。

どうしてもネガティヴ思考の癖が抜けない時は、「あれこれ悩んだところでどうせ失敗するんだから」と
達観して、考えごとをやめるのがいいかもしれません。

マイナス思考が癖になっている自我に対して、逆方向に無理強いをしても反発するだけ。
ならば同じマイナス方向に導いて満足させることも一つの方便ということです。

「考えごと」という我執へ100%になってしまっているロック状態を解く。
昇華させて消し去るのです。

「心を変えてはいけない」のではありません。
心は変わるものです。

ただ、心が変わった時にそれに気づかずそのままドップリになってしまってはいけないということです。

今このあとに何が起きてもオールOKなのです。
この世に失敗というものは存在しません。
誰かが決めた評価など、何の価値もありません。
自分の評価にしがみ付く必要もありません。

人間が決めた身勝手な判断などよりも、今この瞬間をそのままに受け入れることの方が、明らかに
天地の理にかなった正道です。

たとえ失敗しようとも、たとえ上手くいかなくとも、不安や恐れや我執に囚われず、ありのままの自分
を受け入れたのならば、それこそが天地そのものの本来の姿であるわけです。
天地自然の100点満点なのです。


人間の価値判断に囚われてはいけない。
天地に優しく褒められることを追いかければいいのです。
結果として、それは心からハシャぐことになっていくでしょう。

そして、その時まわりがみれば、私たちは間違いなく光輝いているのです。




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1 コメント

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首のチカラを抜く (一郎)
2015-06-22 23:00:55
〉この後頭部から背中にかけてフッと力を抜くと、途端に頭のギューッとなっていた力みも消えます。そして心のこわばりもスーッと無くなっていきます。

ある管楽器の先生が、舞台で緊張して上手く吹けなかった人を数限りなく細かく観察してたどり着いた結論が、首が動いていない、だったそうです。
首を動かして緊張をほぐし楽に楽器が吹く、ということは一つのメソッドになる位大切なこと。
改めて大切さをかみしめました。

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