これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

I am here !

2017-02-19 21:31:01 | 天地の仕組み
日々の仕事が終わった時というのは、気がつくと肩の力が抜けてホッとしています。
あるいは土日に想いを馳せると、何か頭に浮かばなくても楽しくなってくるものです。

その一つの理由は「〜ねばならない」時間から解放されるということがあげられるかもしれません。
ただ、「〜ねばならない」に縛られることなく日々を淡々とこなしている人であってもやはり、アフターファイブや週末を想像しますと
何とも言えない喜びを感じるのではないかと思います。

そのようになる最大の理由は、それが「何をしてもいい時間」「選択自由の時間」だからです。
私たちは「〜ねばならない」とは正反対のことに最高な幸せを感じるということです。

子どもの頃は普段から自由自在に過ごしていましたので、週末や平日に関係なく同じ心のまま楽しんでいました。
それが今の私たちは大なり小なり何かしらの縛りがあるがために、解放されることにワクワクを感じたりホッとしたりしています。

私たちはいったい何に縛られているのでしょう。

解放される前後の違いは、条件や環境の違いと考えがちですがそれをさらに深めると「自由に振る舞うことを自分に許しているか否か」
の違いでしかないことが見えてきます。

さらにどちらを選択しようとも、つまり解放される前もされたあとも、私たち自身というのは何ひとつ変わっていないことに気づきます。

まわりの状況や環境は変わっているかもしれませんが、それを観ている私たち自身は何も変わらず同じまま、今ココに在るということです。

私たちを自由にするのも不自由にするのも、全ては私たち自身が決めたことです。
何者かが私たちにそれを課したり解放したりするものでもなければ、生活や環境が私たちにそれを強いるということでもありません。

もともとこの世は何をやってもいい世界です。
何でもできる世界です。
やらない、やってはいけない、ということでさえも好きなように選べる世界です。
小石を投げれば必ず波紋が広がる、変化に溢れる世界であるわけです。

そしてそれを観ている私たち自身は何も変わっていない。
変化に富んだこの世に居る私たちが刺激を受けて揺らいでいるのを、静かに観ています。

それに対して、あの世は何をやっても何も変わらない世界です。
何でも出来る世界かと思いきや、実は何も出来ない世界。揺らぎのない世界です。

だから死ぬ間際に私たちはとても後悔するわけです。
もっとやりたいことをやっておけば良かった、と。

この世は、やりたいことをやりたいようにやるために創られた世界です。
どんな選択をするのも自由です。


やりたいことをやらずにいるのも自由。
やりたくないことをやるのも自由。
それは罰でも宿業でもなく、単に自分の選択でしかないわけです。

そして「いつかは…」と思っているかぎり、その「いつか」はやってきません。
何故ならば、私たちは常に「今」にしか居ないからです。
「今」にしか居ないのですから、「いつか」は常に「いつか」のままです。
老後にやろうとか、ローンを返し終わったらやろうとか、表現を変えてみても同じことです。
退職した時にしても、ローンを返し終わった時にしても、今ココに変わりはないのです。

本当の私たちは1ミリも動いておらず、1ミリも変化していません。

以前にも例え話をしましたが、私たちは止まったバスに乗っていて、まわりの景色のほうが前から後ろへと動いているようなものです。
(過去記事2015-12-19)
http://blog.goo.ne.jp/koredeiinoda-arigatougozaimasu/e/8d5e50a184adee5280dbe7388375e25d


私たちというのは何も動かず何も変わらず全く同じ場所にいます。
そんな私たちのまわりのあらゆる全てが動いているということです。
そこには私たちの身体も含まれます。

身体のほうが少しずつ老いていくことはあっても、私たち自身は、この世に生まれる前から一切なにも変わらないままです。
もちろんこの肉体が死んでも、私たちは今ここに変わらず「在ります」。

そこには何の断絶もなく、またスイッチが切り替わるようなこともなく、遥かな太古から気の遠くなる未来まで、1ミリも変わらず私たちは
私たちのまま今ココに在り続けます。


前にこの世を経験した時も、そのあと死んでからも、そして今この時も、このあと死んでからも、また次に生まれた時も。

肉体がなくなってフワーッと浮かんでいっても、それはそう見えるだけで、なおも私たちは今ココから1ミリも動いていません。

未来を想像しようとも、過去に浸ろうとも、希望に胸膨らまそうと、絶望に落ち込んでいようと、喜んでいようとも苦しんでいようとも
私たち自身は今ココから1ミリも動いていません。

ですから「今ココに生きよう」というのは正確な言葉ではないわけです。
私たちというのはもともと今ココだからです。


何億年たとうが、今ココから1ミリも動くはずがないのです。
私たちは天地宇宙にあまねく白そのものであり黒そのものです。
空間や時間は私たちの上を通り過ぎていくものに過ぎません。

私たちがすべての土台になっているのです。

いま見える形として姿を現しているこの私たちは、白の中の黒点であり、黒の中の白点です。
それは仮初めの姿に過ぎず、天地宇宙の空間も時間も、私たちの手のひらの上でしかありません。

自由自在に何でもできるに決まっているということです。

それは、私たちが自由自在に動き回っているのではなく、私たちのまわりのあらゆるものを自由自在に動かし変化させているのです。


今この私たちの「肉体」や「人格」、あるいは「社会的な立ち位置」「家庭の中での立ち位置」というものに意識をくくりつけてしまうと、
知らず知らずのうちに限定された感覚にクローズしてしまいます。

そこから世界を見たり、あるいはあの世を見ようとしたり、また本当の私たちを見ようとしても、雲をつかむような話になってしまうのは
当然といえば当然であるわけです。

この肉体も現実世界も、この世もあの世も、全ては私たち自身の上に積み上げられたものです。

何もない無の状態。
それが私たちです。

それは動きようもありませんし、変化しようもありません。

そもそも、私たちというのは今ココのことです。
今ココこそが私たち自身なのです。


時間や場所に縛られることなく、この世やあの世に区切られることなく、いつの何処が目に映りこもうとも、私たちは常に今ココです。

慌ててガツガツ生きようと、苦しみのたうちまわろうと、私たち自身というのは何一つ変わらずココに広がったままです。

まわりの景色や展開、自分の置かれた環境、人生というのは、すべて向こうからやってくるイラストです。
私たちはそこに閉じ込められているわけではなく、それらを飲み込むように遥かな深淵で広がっています。
私たちは最初から最後まで今ココに広がっていて、まわりが変化しているだけです。

ですから、苦しくなってその環境から逃げ出そうとしても私たちは今ココから1ミリも動きませんし、たとえ自ら死を選んだとしても私たちは
今ココから1ミリも動かずにそこに在り続けるだけです。
まわりの景色や環境が一転しようとも、私たちは今ココに在り続けます。

つまりは「逃げる」というのはそもそも成立しない言葉であるわけです。
現実から逃げることは不可能。今ココから逃げることは不可能なのです。

はるか昔から、先人たちが「今ここに在れ」と言い続けています。
しかし、この言葉こそが一番の罠であり、囚われとなっています。

私たちはその言葉を聞いて、あちこち自由に飛びかってしまう意識を今ココに戻そうとしてきました。
今ココという特定のところにガチッとハメこもうしてきました。

しかし、何かに合わせこもうとするからシンドくなる。窮屈この上なくなる。
そんなものは数分しかもたないのは当然ですし、フーッと気を抜いた途端フラフラとまた離れてしまうのは当たり前の話でしょう。

すべては逆であるわけです。

もともと私たちは今ココにしか存在しません。
そこに戻ろうとすることがナンセンスなのです。

例えば、私たちの肉体が自宅の椅子に座っている時には、当たり前のことですが私たちは椅子の上に居ます。
頭の中で南国の青いビーチを想像しても、私たちの肉体は椅子の上に有ります。

夢想をやめてフトわれに帰る時に「椅子の上の自分に戻ろう!」と決心して椅子の自分に意識を合わせこもうとする必要は無いでしょう。
青い海の想像をやめれば、それだけで意識はもとの肉体に勝手に戻るはずです。
何故ならば、肉体は椅子の上から一歩も動いていないからです。

本当の私たちもまた同じことで、最初から今ココにしか居ないわけです。


これまで私たちは、まず天地宇宙という世界が存在して、その中に自分という身体が存在して、そこに自分の意識が存在していると考えてきました。
この考え方のままで、意識を解放しよう、心をラクにしよう、縛られないようにしよう、今ココに在ろう、とするから堂々めぐりになって
しまいました。

いま一度、頭を柔らかくしてイメージしてみます。

まず、私たちの意識だけが今ココに在ります。
そこには肉体も無ければ、天地宇宙の世界もありません。
この世もあの世も何もなく、時間も空間も何もありません。
広さも何も無い。

そうしたものを取り払っていきますと、深く深く、それらよりもさらに深くへと行きます。
あらゆるものが私たちよりも浅いところに在ったことが分かります。

あらゆる概念を取り払った状態。

そこはただ、今ココだけがあります。

本当の無。
ただ「わたしは在る」という状態です。
上も下もなく、過去も未来もありません。

「今」というのは過去も未来も現在もなく、その全てを取り払った状態です。
「ココ」というのは一ヶ所一点のことではなく、あらゆる垣根の無くなった状態です。

全にして無。本当の無とは全のこと。

前も後ろもない、振り向くこともない。
過去も未来もない、思いを飛ばすこともない。
何処か違うところにあるものはなく、すべては今のココにあるということです。

色も音もあらゆるものが何もない、ただ「私だけが在る」状態。
それが天上天下唯我独尊です。


その「私だけが在る」状態の上に、人の形をした型紙をポンと乗せます。
それから、それ以外の人や物、この世界というものをポンポンポンと置きました。

その型紙は次々と形を変えて差し代わっていきます。
肉体も変化していきますし、世界も変化していきます。
それを「時間」と呼ぶことにしました。

型紙が次々と変わっていっても、深淵に広がる私たちはもとのまま今ココにある状態です。
1ミリも動いていませんし、1ミリも変化していません。

まわりの景色がものすごい速さでパパパーッと入れ替わっていきますと、まるで私たち自身がとても遠くへ移動したように感じます。
人里離れた山奥や、遠い外国の地まで行ったように映ります。
しかし、私たちは今ココにある状態です。
1ミリも動いていません。

何千キロ離れた海外へ私たちと一緒に今ココが移動したわけではありません。
今ココは、常に今ココにしかありません。

たとえ雑踏から離れて豊かな大自然の中に身を置いていても、あるいは片道12時間かけて異国へ移動しても、私たち自身は、昨日の満員電車に
居る時と全く同じ、今ココに在るままです。

温泉につかって心から染み入っている時も、会社でキリキリするようなストレスに追われている時も、私たちは全く同じ今ココに居ます。

単に、私たちが「違う」と決めて、そう思い込んでいるだけです。

日々の生活や仕事がラクになったり厳しくなったり、四方八方から悩み事が押し寄せてくるように見えたとしても、それらはどれも大小様々な
型紙が目の前に現れ消えているだけのことです。
私たちはいつでも今ココにあって、ただそれを見ています。


押し寄せる波に溺れそうになって何処かに逃げようとしても、そもそも私たちは今ココにしか居ないので、そこから逃げることなどできません。
逃げられないのだから、それをそのまま見ていくしかないのです。

しかもそれらというのは「見たくて見ている」ので、見ないわけにはいきません。
仮に、この世から逃げようとして死んだとしても同じことです。
そもそもこの世自体が型紙に過ぎないのですから、それが他の何かに変わったところで私たちは今ココに広がったまま動きようがない。
そして私たちが見たくて見たものですから、型紙が変わろうが、結局は見ることになります。
見たいのですから。

別に罰でも業でもありません。
単純な仕組みというだけです。

この世から逃げたら罰せられるという表現も、決して何か大いなる存在がそのようにするということはなく、「今ココ」から逃げようという
思いが極限化したことでの苦しみでしかありません。

生きる死ぬが悪いということではなく、今ココから自己を分離させようとすると化学反応が起きるということです。
私たちは、一点ではなく全です。
全から全を剥がそうとする、それは途轍もない衝撃となるのは当然でしょう。

この世で生きていくなかで、大小さまざまなことが起きますが、どのようなことが起きようともそれらを味わう私たちというのは今ココに
しか居ません。

心や意識があちこち飛び回ろうとも肉体は椅子に座ったままであるのと同じように、私たちは今ココに在り続けています。

ですから、わざわざそこへ戻ろうなどしなくてもイイわけです。
いや、そんなことをしても苦しみが増すだけです。
そうではなくて、「今ココに居ない」という思い込みを手放すことの方が先決です。

今ココというのは、この肉体やこの世界、この世、あの世をも超越した、元の本の素のことです。

「今ココに居ない」という思い込みのまま「今ココに戻ろう」としても、それは所詮「今ココという型紙」を作ることにしかなりません。

それは、幻想の上に幻想を作り上げるようなものです。

ほっとけば勝手に椅子の上の肉体に意識が戻るように、ほっとけば私たちは今ココに戻ります。
天地そのものになります。
今ココが私たちであり、私たちは天地宇宙そのものです。

ほっとけば仏になるということです。

私たちが今ココであるということは、目に映るもの全ては、私たちから発せられたものであるということです。
私たちが天地宇宙の中心であるというのは、まさしくそういうことを表しています。

それは私たちという一点を通して、陰陽さまざまな天地のエネルギーが溢れ出し、目の前の世界が生み出されているということでもあります。

その天地宇宙のあらゆる全てが、私たちの頬を撫でるように私たちのまわりで動いていきます。
だから、私たちが「この世を創造している」と言うのです。
それは決して耳ざわりのいい綺麗事なんかではありません。

今の苦しい現実も面白い現実も、どちらも私たち自身のまわりを流れているだけです。
私たちはこのバーチャルを味わいにきています。

そもそもこの世とは、ありとあらゆる可能性を様々な経験を介して吸い上げるための世界です。
そうであれば、他の人と同じように生きようとすることがいかに残念なことであるかが分かります。
そして他の誰かが決めた価値観や不足感、不安を共有するのがいかに無意味なことかを知るでしょう。

それでもなお現実生活が重くのしかかってきたならば、このような方便が有効かもしれません。

曰く「死ぬことと見つけたり」と。

今日このあと何時間後に死ぬとしたら、そんな時に何を思うでしょうか。
あと数時間後に、絶対に避けられない死がやってくるのです。

地球の反対側に巨大隕石が落ち、灼熱の熱波と数千メートルの津波がジェット機の速さでやってくる。

あるいは自分の切腹により、家族を救うことができる。

そんな時に思うことは、やはり「どうせ死ぬなら、せめてあれをやっとけば良かった」でしょう。

それが数時間後でなくても同じはずです。
医者に余命を宣告されたら、後先考えずに、いま本当にやりたいことをやっておこうと思うものではないでしょうか。

何故だか私たちはこの先何年もあるものと思っていますが、明日が最期だと知らされたら、安全安定など追わずにやりたいことをやるはずです。

いま、自分がやりたいことは何でしょうか。
自分がやりたくないことは何でしょうか。

深く深く、すべてを取り払ったさらに深みに広がる私たち。

型紙の見栄えなど大事でもなんでもありません。
大事なのは、そこから味わう経験です。
型紙があって経験があるのではなく、経験があって型紙があるのです。
形など、あとから決まってくるものに過ぎません。

家のローンを払い終わってないとか、家族に苦労かけたくないとか、人様に迷惑かけたくないとか、親を悲しませたくないとか、
そうしたものはどれも言い訳でしかありません。

私たちは、やりたいことをやるために、この世に来ています。

今ココに広がっている私たち自身は決して老いることなどありません。
そして無くなることもありません。
生まれる前から、死んだあともずっと同じままです。

現世の年齢など勿論のこと、魂年齢などという幼稚な発想も全く無意味なものです。

私たち自身は、生まれた時から死ぬまで何も変わらない。
そしてたかだか一度や二度の人生で、この深淵に広がる私たち自身が魂年齢を重ねるなどというものでもありません。
ここで背伸びして二階級特進をしようなどと頑張ること自体、無意味なことです。

そこにある「時間」などという概念があまりに浅く感じるほど、遥かな深みに私たちは広がっているのです。

ですから、今ココで何かを始めたり何かを変えたりすることに、遅すぎるも早すぎるも無いということです。
派手だろうと地味だろうと、他人から笑われようと呆れられようと全く関係ありません。

本当にやりたいことをやる。
そのためだけに私たちはこの世に参加しているのですから。



「今ココ」というのは、成るように成るという達観や、何があっても信じきる心、そして全てを受け入れる温かさに満ちています。

それは我が子に対する親心であり、そしてまた私たちに対する天地の大御心でもあります。

その感覚に満ちた、深淵なる今ココ。
それが私たち自身です。

私たちとは、成るように成るという達観や、何があっても信じきる心、そして全てを受け入れる温かさに満ちているのです。

私たちという人形(ひとがた)を窓として、天地宇宙に遍在するエネルギーがこの世に溢れ出ています。
私たちを包み込む優しさもまた、私たちという一点を通してやってくるものであるわけです。

どこかの崇高な存在が外から照らすものではなく、それは私たちを通して溢れ出されているものなのです。

子は私たちであり、親もまた私たちです。

私たちそれぞれが、天地の中心となって世界を構築して居ます。
あらゆる全ての人たちが、その人だけの今ココに存在しています。

この世界というのは、それらあらゆる次元の中心たちによる共同構築であるわけです。

この天上天下には私たちただ一人しか存在していません。
各々がみな等しくそうです。

世界があって私たちがあるのではありません。
私たちがあって世界があるのです。
世界の中に私たちが居るのではありません。
私たちの中に世界が居るのです。

すべては逆ということです。

私たちは根無し草のごとく吹けば飛ぶようにフワフワとこの世を生きているわけではありません。
私たちはこの世もあの世も天地宇宙もすべてを貫いて不動の存在として広がっています。

“I am alive” ではなく “I am here ”

それが「生きている」ということなのです。


(おわり)

すべて逆に行っている

2017-02-11 22:19:20 | 天地の仕組み
私たちは「この世はしがらみが多く、とても窮屈な世界」というイメージを持ってしまっています。

「自由自在なあの世と比べればまるで逆の世界」
「この世はしがらみだらけの世界、あの世はしがらみから解放された世界」


漠然とそのように感じているところがあるのではないかと思います。
しかし今日の話としては、その解釈こそが逆だったというものになります。

考えてみれば当たり前の話なのですが、あまりにも当たり前すぎて普段私たちはスルーしてしまっています。

その当たり前というのは「この世では私たちはあらゆる全てのことを天地から許されている」というものです。
この世は、何をやっても許される世界であるということです。

何でも出来る世界。
比喩的な話ではなく現実的な話として、選択肢は無限という事実です。

何故この世がそのようになっているのか、その理由は、この世とあの世というのが、その見た目とは逆の白と黒とが互いに流れ流れている
ところにあります。

この世というのは目に見えるものですが、そこでの経験は目には見えないものです。
しかし、目に見えないあの世にあって、この世の経験というのは目に見えるものとなります。

見えないあの世を白、見えるこの世を黒とした場合、「この世での経験」というものはこの世では白ですが、あの世では黒となるわけです。
(ここでの白黒というのはあくまで対極を表す比喩ですからそれ自体にプラスマイナスの意味はありません)

つまり、この世での経験が白黒逆転してあの世へと流れていくということです。
それはあの世では生み出すことのできないものです。
だからこの世というものを作り上げて、そこで生み出しているというわけです。

そしてこの世の「経験」があの世へ流れていくことによって天地のバランスが保たれています。

その流れこそが大事であって、経験そのものには良いも悪いもありません。
そもそも色も匂いもない。
すべてがニュートラルなものです。
ですから、この世ではあらゆる経験が許されているというわけです。

いま一度、陰陽図を見ながら振り返りたいと思います。

白黒がうねる図の中でも、黒の中には白点があり、白の中には黒点があります。
白と黒とが流れ流れて変幻していく一方で、それぞれの中心の一点で白黒が逆転しています。

これは、どれだけ白く見えても100%の白というものは有りはしない、何ごとにも必ず正反対の因子が存在しているということを現すとともに
その一点で裏表が繋がっていることを示唆しています。

白黒をあの世とこの世に置き換えたならば、その中にあって裏表を繋ぐ点は、私たち自身となります。
この世においてあの世と繋がるヘソとなっているのが私たちであり、またあの世においてこの世と繋がるヘソになっているのも私たちという
ことです。


そこを流れていくものはこの世の経験であり、私たちとはそれを通す柱であるわけです。


あらゆる経験がオーケーであるはずなのに、私たちは何故それを自制してしまっているのでしょうか。

遥かな昔、私たちのご先祖様たちは集団生活や社会生活をうまくやっていくために、混乱を無くすための規律や道徳を設けました。

もともと我欲に押し流されることがなければ、和を乱すような欲求は生じませんので、他人から物を奪ったり傷つけたりするようなことは
起きもせず、自然に調和が生まれるものです。

初めからそれが当たり前の世界であれば無垢な子供はそのように育つでしょうが、この世界はそうではありませんでした。
そのため、この世の我欲に毒されないように規律規則が必要となりました。

そして規律規則だけにとどまらず、様々な決まりごと、価値観、信条、理想、規範、世間体、思い込み、恐怖、不安、といったものまで
抱え込まされてしまったためにややこしいことになってしまいました。

本来これらは分別がつくようになるまでの単なる方便ですから、年齢とともに手離していくものであったはずです。
しかし残念ながら、そうしたものが三つ子の魂百までとなってしまい私たちは手放せなくなってしまいました。

あらためて冷静に見てみますと、こうした決めごとのどれもが自然界に存在するものではありません。
私たちが勝手に作って、勝手に引き継いできたものです。

もちろん、このアミューズメントパークはそういうルールだと分かった上でその窮屈感を楽しんでいる部分もあります。
ここまで縛られた厳しい状況での苦労を楽しみたいという確信犯的な側面もあるかもしれません。

実際のところがどうなのかは人それぞれですし、人生のタイミングもあるでしょうから、それを十把ひとからげに言うことはできません。
苦労をしたくてやっている人も居れば、そうではないのにそこに溺れてしまっている人も居ることでしょう。

そのどちらの状態にあるのか頭で考えても分かるものではありません。
むしろ頭こそが様々な決めごとに縛られていますので、そこを使ってしまうと答えに辿り着くのは無理と言えるでしょう。

本当はやりたい苦労をやっているだけなのにそこから逃げようとするのは悲劇ですし、逆にもっと他の可能性を味わうチャンスなのにそれを
やれないのも悲劇です。

そのどちらかに在るかは自我が決めることではなく、真我の大河の流れに乗ることで自然と為るように為っていくものです。

そうであるならば、自我に寄り添う私たちが意識して出来ることは「答えがどっちなのか探す」ことではなくて「その大河の流れを邪魔立てする
ような決めごとや思い込みを取り払う」
ことではないでしょうか。

それはつまり、最初から決めつけない、行動や選択以前の思い込みを無くす、ということです。

そしてこの世が不自由な世界であるのは、やはり私たちがそう決めてしまっているからです。
しかし、実際はあの世こそ不自由な世界だと言えます。

あの世というのは、結局「変わらない」、結局「同じ」ままな世界です。
波立ちが無い世界というのは、良く言えば安心安定ですが、悪く言えば平凡退屈です。

この世界は、仮初めの創りものかもしれませんが、ここでは変化を味わうことができます。
ココは、変化する自由に溢れています。

この世こそ自由自在であるのです。

私たちは何をやってもいいし、何でも出来るようになっています。
悩むのも自由、喜ぶのも自由ということです。

だから喜んだ方がいい、とは言いません。
何をしても自由ですし、そもそも何が良い悪いということも有りはしません。

ただ一つだけハッキリしていることがあります。

今ココで「安心安定を求めて日々の不自由を我慢する」というのはトンチンカンだということです。

あの世は「安心安定しかないため日々が不自由だった」わけです。
だから私たちはそれと違うものをやりに、この世に来ています。

あの世がまったくの不自由というのは夢も希望もない話で、救いようがないと思うかもしれません。
でも、だからこそこの世というものがいかに凄いかを知り、そしてそこで何をやるか真剣に考えるようになります。

死んでからでは遅い。
後悔したところで、あとの祭り。
この世のことを考えるのは、まだこの世に居る「いま」なのです。


この世というのは、そもそも変化するのが当たり前な世界です。
なぜ変化するのか?といえば、それはあの世が変化しない世界だからです。

不変とは不自由のことであり、変化というのは自由自在のことです。

それを味わいに来ているのに、今の生活が変化しないように必死に踏ん張って挙げ句の果て心を苦しめるというのでは、それこそせっかく
この世に生まれてきたのに何をやっているのか意味不明というものです。


いま目の前の「現実」というのは、どこまでいっても副次的なものでしかありません。
それは「結果」として現れているに過ぎません。
いわば幻想の世界、砂上の楼閣のようなものです。
それを「守ろう」とすることは、必然的に自分自身を苦しくさせることになります。

もちろん現実は大事なものですから軽んじてはいけません。
ただ、軽んじないということと、大事にしすぎて自分自身を押し殺してしまうことは全く意味が違います。
それは固執でしかありません。

私たち自身がリアルな存在であるというのに、そちらが傷つくことを捨て置いて非現実な幻想の方を一生懸命に守ろうとする…
それをもって「守る」と捉えてしまうとおかしなことになってしまいます。

そして「守る」の反対語として「攻める」という言葉を想起してしまうと、たとえば仕事を辞めたり、好きに生きるのがチャレンジングで
リスキーなことであるかのように思い込んでしまうことになります。

たしかにそのイメージを抱いたまま飛び降りると、本当に心配した通りの現実を創り出すことになりますので、そのような人たちを見て
しまうと私たちはますます小市民と化してしまいます。

上手くいくほうがたまたまラッキーなだけ、普通は失敗するもの、リスキーな人生で苦労するくらいなら今この生活の方がまだ我慢できる、
となってしまうとまさに、出るも地獄、戻るも地獄と化します。

ひとたびそうなると「失敗した人たちの方がたまたまアンラッキーだった」と思うことは無くなります。

本当は失敗も成功もどちらもイーブンなはずなのに、何故か成功することのほうがレアケースのように思えてしまう。
もしかしたら失敗した人たちの方がレアケースかもしれないのに、まるで催眠術にでもかけられたかのように私たちはそうではないと確信
してしますわけです。

私たちは真に自由自在な世界に居るのに、何故かそんなはずはないという思い込みを植え付けられてしまっています。

もしかしたらそれは、まわりがすべて黒に見えてしまっているからなのかもしれません。
まわりが黒だから私たちも黒に違いないと。

しかし私たちは、真裏の白をすべて凝縮した存在です。
この黒の中にあって私たちは白の先端の点です。

真裏に広がる白とは私たちそのものであり、逆にあの世においては真裏に広がる黒、すなわち
この世というものが私たちそのものであります。


時や場所、まわりの世界に関係なく、私たちという存在そのものが自由自在であるわけです。



(つづく)