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強さと優しさ

2015-03-29 20:18:40 | 心をラクに
強さと優しさは、表裏一体のものです。
どちらか一方が欠けるということはありません。

強さとは厳しさでもあり、優しさは寛容さでもあります。
優しさと厳しさとは相反する言葉のように聞こえますが、優しさは時として厳しさにもなります。

相手を受け入れるというのは、私心が無い状態です。
ですから我欲のある寛容さというのでは、見せかけのものでしかありません。
我欲から生じる寛容さとは、自分の守りたいもの、たとえば信条や他人からの評価といったものとの比較によって支えられるため、我慢の
限界を超えると途端に霧散してしまいます。

しかし天地のように私心がなければ、限界はなくなり、全てをそのままに受け入れます。
価値観や固定観念で善し悪しを判断せず、ただ相手の芯の部分を見ているからです。

そしてそうであればこそ、それは厳しさと表裏一体となります。
芯の部分だけを観るわけですから、言動や心癖といった表面的なものに対しては睨みを利かせることになります。

手を出すのではなく睨みを利かせることで、見透かされた相手の芯の部分は、自分で自分を律するのです。

洗いざらいバレてしまい、逃げることもできないため、物凄い恐ろしさを感じます。

しかしその厳しさというのは、相手の芯の部分を100%受け入れていることに変わりはありません。
天地の心は、裏表を引っくり返して態度を変えたわけではなく、常に同じままであり続けています。

睨みを利かすというのは、グッと心を変えるようなものではなく、優しさと同じように相手の芯の部分を丸裸で見守っているだけです。
ただ、それが私たちにとっては、見透かされた怖さであり厳しさに感じるということです。

それを厳しいと感じるのは、見逃してもらいたい甘えがどこかにあると言うこともできます。
甘えというものは、我執から生じます。
ですから、なおさらにその天地の眼差しが睨みに感じられて、逃げることができなくなるのです。

これを昔の人は「お天道様が見ている」といいました。

天ではなく、天道と言うところがミソだと思います。
天道とは太陽の通る道のことなのですが、お日さまではなくわざわざお天道様と言うところがふるってます。

天の道というと、やはり神ながらの道という言葉を思い浮かべます。
神ながらの道とは天地と一体となる道ですから、天道にしましても、天地一体たる自分の芯の部分が自分を見ている、という意味が含まれて
いるように感じます。

“何者かは分からないが、全てを見透かしている存在がいますよ”という意味ですから、結局それは天地であり、自分自身であるということ
ではないかと思います。

さてそんなお天道様は見逃してくれないようなものでも、我欲ある寛容さだと、大目に見てしまったりするものです。
相手を傷つけてしまわないようにとか、相手に嫌われたくないとか思ってしまうのはよくある話です。

しかし天地には、もちろん嫌われるとか傷つけてしまうというような我欲はありません。
ただ、相手の芯の部分に、変わらない心を向けています。

何かを失うという不安は一切ありません。
私心のない状態とは、まさしく天地と一体の状態であり、心御柱が中心に打ち立てられた状態です。

それは、押すことも引くこともなく、一切ブレない絶対的な強さです。
全く雑味のない状態とは、寛容さであり、強さでもあるのです。

母はいつもニコニコ優しいだけではありません。
子が過ちを犯す時は、我が身を忘れて真剣に叱ります。
我欲のない透明な心は、私たちの芯の部分にダイレクトに届きます。
それは命の声です。
天地と一つゆえの、揺るぎない強さです。

優しさも厳しさも全く同じものです。
心が透明になるほどに、それらはどちらも等しく現れてきます。

ですから優しさにせよ厳しさにせよ、それが沸々と湧いてきた時にそれを出すまいと自制して押えこもうとするのは、逆に心を濁らせることに
なってしまいます。
ここでの話は、男らしさ、女らしさ、自分らしさ、という固定観念や価値観の弊害のことを言っています。

優しさと厳しさとは、母性と父性の象徴です。

日本は天照様の国。母なる国です。
優しい日差しと、包むような温かさに溢れる国です。
しかし、そこには単なる母性だけでなく、強く厳しい父性もあります。
それはまさに大自然が私たちに見せる姿そのものです。

天照様もいざという時には、武装をして男勝りの一面を見せました。
大日如来も憤怒のお不動様に変化(へんげ)します。
それらは決して豹変したということではなく、もともと一つのものなのです。

この世は、すべて陰陽のバランスで成り立っています。
どちらか一方ということはありません。
天地宇宙は最初から、そのバランスにより成り立っています。
片方だけでは、均衡が取れないからです。

どちらも存在しているからこそ、中心が定まります。
天地はあらゆるバランスで成り立っています。
私たちの世界でアンバランスが現われるのは、そこに我執が入ってしまうからです。

だからといって、意識的にバランスを取ろうとすると余計に我執が入りこんでしまい、さらにバランスを崩してしまいます。

たとえば、片足立ち一つとっても、何も考えずにやればバランスを崩しませんが、バランスを取ろうと考えながら片足を上げるとグラグラ
揺れてしまいます。
また、何も考えずにいれば階段も自然にあがれますが、片足ずつバランスを崩さないようにしようと考えながら足をあげるとギクシャク
するものです。

バランスというのは、放っとけば自然に均衡するものなのです。
しかしそこに我執が入るとたちまち崩れてしまう。

陰陽も同じです。
この世に光と影があるのは、理由も何もありません。
それが自然だからです。

影を忌み嫌ったり光だけを見ようとするのはもちろん我執そのものです。
といって「影が無ければ光も存在しない、だから影も大事だ」という屁理屈もまた我執でしかありません。

光は良いものだとするレッテル貼りの心癖が残ったままでは、本当の理解には程遠いのです。
そうした囚われや思い込みの我執こそが、自然本来のバランスを崩してしまいます。

思いを手放してそのままを受け入れれば、自ずと一点で均衡していきます。

あるいはまた、ジェンダーフリーのような平等観念なども我執でしかありません。
それは上っ面の部分だけしか見ていないからです。
表面の見た目だけのバランスを均衡させようとするのは、浅はかな人間考えです。

本来、母性と父性のバランスを保たせるのは、表と裏のバランスのことなのです。

つまり、男は「父性を表に、母性を裏に」。
一方、女は「母性を表に、父性を裏に」です。


そうすることで表であるこの世でも、男(父性)と女(母性)という陰陽のバランスが取れるのです。
表だけで男女を同じものにしようとするジェンダーフリーは、天地の理に反する歪んだエゴでしか
ありません。

男が威張っているとか、女が虐げられているとかいうのは、本当に弱い人間がやることです。
それは上っ面でしかありません。

表と裏では逆転しているのがこの世の真相です。

男性は普段は強がっていますが、いざとなるとロマンチストですし弱虫です。
女性は普段はか弱いですが、いざとなると肝が座っていますし、男の尻を叩いてドーンと大きく
構えています。

つまり表と裏の役割が逆転しているわけです。

だから表では、男性が強くあって女性を守り、女性は優しくあって男性を受け止めます。
そして裏では、女性が強くあって男性を守り、男性は優しくあって女性を受け止めるのです。


まさに、女性の手のひらの上で男性が汗かいて頑張る姿こそが、自然なのです。

男が威張っているのも、手のひらの上です。
そんなことは、男たちは十分承知してます。
それを、見た目のことだけに囚われて、勝ったの負けたのと比較評価するから、男女不平等などと
いう幼稚な発想になるのです。

もちろん、表の姿にアグラをかいて調子に乗っている男もいけません。
男は、表で威張っていればこそ、裏では優しくないといけないのです。
そして女は、表ではしおらしくしていればこそ、裏では芯の強さが必要なのです。

バランスという言葉を履き違えて、平等だとか公平だとか、我利我利の固定観念に囚われて、上っ面だけを比較判断するような人間考えは
捨てたほうがいいということです。

自分もそんな歪んだ固定観念に長いこと囚われていました。
男子たるもの男らしくあるためには、仲よしこよしの甘っちょろい弱さは必要ないと。
強さを求めようとするあまり、排他的で攻撃的になっていました。

とりわけ優しさや寛容さというのは表に出してはいけないと意固地になっていました。
父性を求めるがゆえ、自分の中の母性を否定していたわけです。

しかし、天地から睨みをきかされて自分の芯を丸裸にされますと、もはやバンザイです。
少しずつ自分の弱さ(と思いこんでいたもの)を、そのままに受け入れるようになって、初めてそれらが不可分の表裏一体であることを
知るようになりました。
理解してから受け入れたのではなく、受け入れてから理解するようになりました。

その時は、男らしさが薄まっても仕方がない、もう自分の甘さや女くささもそのままで認めよう、と諦めて受け入れました。
しかし実はそれが甘さでもなければ女くささでもなかったことを知ったのでした。
いかに社会通念や固定観念というものが、思い込みに歪められたものであるかを実感しました。

こうした社会通念は、時代時代によって変わるものでもあります。

古代から戦前に至るまで日本は男尊女卑の国だったと、今では考えられてしまっています。
確かに、表舞台である社会においてはそうだったかもしれません。
しかし、だからといって女性が弱々しい心で生きていたかというと、決してそうではありませんでした。

むしろ芯の強さこそが美しさであり続けました。
そしてそれは硬質の強さではなく、柳のようにしなやかで折れることのない強さでした。

つまり、我欲による強さではなく、透き通った透明な強さだったということです。

ですから、現代のように社会進出をして、束縛から解放されて強くなったかのような女性たちよりも、その時代の女性たちの方が心柱は
ずっと強かったと言えるのではないかと思います。
なぜならば、強さの置きどころが全く違うからです。
社会における強さというのは、得てして我の強さでしかないわけです。

そしてまた、その時代の男性たちもそうした役割分担を分かっていればこそ、家庭では頭が上がら
なかったわけですし、奥さんの後ろ盾が
あるからこそ安心して外で存分に働けたわけです。

猛将 来島又兵衛しかり、西郷隆盛しかり、坂本龍馬しかり。
まるでヤンチャに出かける子どもと、それを見守る母のように。

そして妻は、負け惜しみではなく本心から、亭主の活躍は自分の活躍でもあると分かっていました。
そのように天地自然の役割分担がされていた時代ですが、上っ面で判断する西洋的な価値観から
すれば、残念ながらそれは男女不平等であり
男尊女卑でしかなくなるのでした。

その時代には、男子は強さとともにそれ以上の優しさを求められ、女子は優しさとともにそれ以上の強さを求められていました。
しかしその表の部分しか見ないと、男子は強さのみ、女子は優しさのみが強調されてしまい、そういう時代だったとなってしまいます。

そして私自身もまた、強さの先にこそ寛容さがあると思い込み、甘さは切り捨てようとしたのでした。

本来、甘さと優しさは全く異なるものです。
しかし、世間ではそれがいっしょくたになってしまっています。

我欲の混ざった優しさは、甘さでしかありません。

そうした甘さを嫌うあまり、優しさにもフタをしてしまいました。
しかしそれでは、厳しさではなく、荒々しい激しさしか残りません。
それでもその先には、宮本武蔵や多くの剣豪が達したような、静けさや寛容さがあるのだと思いこんでいました。

どれだけ父性を鍛えようとも、表裏一体の母性を押さえつけている限り、それは決して天地自然の強さには近づけません。
手放してから知ったのは、母性を受け入れることで、父性も本来の大きさを現わすということでした。

これとは逆のことが、戦後の誤った母性解釈にも現われています。

本来一つであるはずの“厳しさ”と“優しさ”を切り離して、前者を否定してしまいました。
その結果残ったものは、優しさではなく、単なる甘さでした。

他国(他人)の顔色を見て、他国(他人)の嫌がることは一切やめようというのは、八方美人の
優等生根性でしかなく、我執そのものです。

誰かから褒められることでしか、自分を認められないということです。
外部を通してしか、自分の位置を確認できない。
それは自分の中心を失ってしまった結果です。

心を外に置いてしまうと、外に波が立つと自分の立ち位置がグラつき、不安に陥ってしまいます。
すると、自分の安心のために、外の波を無くそうと何にでも従おうとする図式が出来上がってしまうわけです。

それは、他者と仲良くするという本当の意味を理解していないことでもあります。
本来、それぞれが自立した存在だと認めあうことが、仲良くするということです。
それが天地自然の姿です。

何からなんでも相手に同意することは全く違います。
それは自然界では、自己の死を意味します。

この世の存在はすべて違いがあって当たり前で、考え方が違うのも当たり前なのです。
その上でそれをお互い尊重し合い、許容しあうというのが自然の姿です。

戦後の平和思想というのは、行きたくもないのにトイレに付き合うのが仲良しと思っている女子高生と何も変わりません。

相手が非難してきたり、攻撃してきたりすることを、全て自分の中心で受け入れて、その上で真摯に耳を向けて、自分の中心から言葉を
発するのが、天地自然の姿です。
相手の土俵でも、自分の土俵でもなく、天地の土俵です。

天地の土俵とは、自分も相手も全てを包み込む大らかさです。
そして、母性も父性も全てがそのままに現われている状態こそが、天地自然の状態であり、それこそが天地の土俵なのです。

このことは、過去の日本人は感覚的に分かっていたのだと思います。
たとえば仏像の多くは、みんな中性的な姿に観えます。
慈愛の菩薩様も、決して女性ではありません。
それは、男女ともに母性と父性が内在していることを示すものであり、我執を手放した天地自然の姿というのはそれら均衡にあることを
伝えようとしているのではないかと思います。

男性は母性に惹かれ、女性は父性に惹かれるのは、自分に無いものを求めているというだけではなく、それが表ではバランスの均衡となり、
裏では自分の表を支えるエネルギーでもあるからだと思います。

自分の中にあるものを、押さえつけたり否定したりすることはありません。
すべてを手放して自然にまかせれば、自ずとバランスは保たれます。

社会通念の思い込みに縛られず、気楽に手を離しても大丈夫なのです。
男性も女性も、その固定観念を手放すことが、全てを受け入れることになります。
それで自分が弱くなることはありません。
むしろ、さらに大きな自分になることでしょう。


女子よ、もっと強く逞しくあれ
男子よ、もっと優しく大らかであれ

女子よ、いつも優しく大らかであれ
男子よ、いつも強く逞しくあれ


すべてを手放せば、天地自然のバランスが働くようになります。

そうして、女子も男子もさらなる輝きを放つようになっていくのではないかと思います。



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天動説と地動説

2015-03-26 21:52:30 | 空想の世界
病院の検査機器でCTスキャンというものがあります。
X線を当てて輪切りにするあれです。
今日はそれをイメージしながら話を進めたいと思います。

物理学の分野では、次元というものをイメージする時に、一次元ずつ落として想像するそうです。
まずはそれにならって、この瞬間の「今」というものを二次元の平面としてみます。

それが重なったものは、三次元の立体になります。
この三次元の立体が、時間の塊であり、空間の塊ということになります。

イメージしやすいように、ひとまずこの立体をボールのような球体だと仮定します。
私たちが平面にいる間はその球体は円にしか見えませんが、私たちが平面を離れて三次元に飛び出しますと、この球体の全貌を見ることが
できるということになります。

それでは、その大きな球体が宙に浮いているところを想像してみて下さい。

これは、天地宇宙すべての「時間」であり「空間」です。(つまり「時空」)

その球体を切った断面が「今」です。

つまりは、時間という流れがあるのではなく、途轍もない大きな塊があって、それを輪切りにしたものを私たちは「今」と認識している
ということになります。

もちろんこれを本当の現実で考えるときは、次元を一つ上げてもとに戻さないといけませんから、その塊は今の私たちが知覚できる形では
なくなります。

さて三次元の視点から見れば、大きな球体も「今」であり、その一片も「今」であるということになります。
最初から最後まで、すべて同じ「今」です。

すると、この球体の一部である過去も未来も、全てが「今」だということになります。
二次元の平面の上にいる私たちにとっては、一つ前の平面が過去となり、一つ後ろの平面が未来ですが、平面を離れて三次元的に見れば、
同じ一つの球体なので、全てが「今」になるということです。

この球体を様々な角度からスキャンしていく行為が、私たちの人生であり、またそれが「時間」となります。

つまり「時間」というのは私たちの観察(鑑賞)の履歴や過程でしかなく、本来は「今」しか存在していないということになります。

スキャンの角度を変えることで少しずつ見え方が変わってくることを、私たちは「時間」として知覚しているということです。
これをある人は「本来この世には“時間”というものは無い」と言ったりします。

さて、その二次元の平面に、私たちは自らを投影させています。

私たちの本体は、三次元的に球体を眺めています。
CTスキャンでスライスした画像を、そこから鑑賞(観察)すると同時に、画像の中に自分を投影させているわけです。

平面に投影された自分は、今ここにいる自分ですが、三次元的に全体を観ている自分も、自分自身です。
スモールな自分とジャンボな自分がいて、それ以外にもミドルな自分や超ジャンボな自分が沢山いるということです。

それらは自分の中心を一点として、太柱で貫かれて一つに繋がっています。

それぞれ別個に分けられるものではなく、すべてが自分です。
ちょうどそれはCTスキャンの輪切り画像と、大きな球体が、すべて「今」であるのと同じことです。

そして“地に足つける”とは、この一点をしっかり保持することであり、“今に集中”とは、自分が投影されている一枚絵に心を100%向ける
こととなります。

私たちは「監督」兼「主演」兼「観客」として、作品作りにリアルタイムで参加しつつ、それを鑑賞して楽しんでいます。

ところで、平面のスクリーンの中にいる私たちにとっては、一コマ一コマがスライドショーのように移り変わっていきますので、まるで
周囲の環境が変化しているように感じます。
しかし三次元的に見ると、球体は何も変わっておらず、私たちが動くことで観え方が変わっているだけだということが分かります。
CTスキャンが動くことで、輪切りされる場所が変わっていくのと同じです。

つまりは、天動説ではなく地動説ということです。

これは「時間」だけでなく、「空間」や「事象」にも当てはまります。

私たちのまわりで起きる出来事や環境変化も、次々と発生したり変化しているように感じますが、実際は私たちの意識が動いていることで、
対象物が動いているように「見えている」だけということです。

それらもまた、大きな球体を輪切りしたスライスでしかないということです。

この世が動いているのではなく、私たちが動いている。
天地が流転しているのではなく、観察者である私たちの方が流転しているわけです。

そうしますと、私たちの心一つで人生も未来も簡単に変わるということが、実感として分かってきます。

それは「変わる」というより、私たちが見る角度を「選んでいる」ということであり、表現を変えれば自分で今を「作っている」という
ことになります。


しかしそれを、自分のまわりの事象が動いていると考えてしまうと、そんなものを変えるのは難しいとなってしまいます。
それに関わる人たち全員が自分に付き合って変わっているなんて有り得ない、と確信してしまうわけです。

時空という球体は、一つの塊として、そこにただ在るだけです。
そして、自分だけではなく他の人たちも、まわりからそれを観ています。

それを観るという行為が、同時に、自分自身をそこに投影する行為になっています。

つまり、三次元的にその球体を観ている時点で、自分自身が球体すべてに投影されているということです。
その中のすべての平面に、私たちは投影されているわけです。

ただ投影されていても、そこに意識が集中されないとスモール自分は現われません。
球体のうちの一片に心を向ける(スキャンする)ことで、そこが輪切りにされて表面が現われ、それと同時にそこに投影されている自分に
意識がフォーカスされます。
そうして私たちの目に、その平面が現実として映るようになります。

他の部分を切っても、全てに自分の姿は現われます。

ただ、平面というのはスキャンして切りとられた時に初めて表面が現われるものです。
スキャンというのは、意識がそこに集中することの喩えなので、同時に何ヶ所もの平面が表に現れることはありません。
つまり、自分の投影は無限にあるものの、平面上にいるこの自分に認識されるものは常に一つでしかないということです。

そして自分だけでなく、他の人たちもまた球体の全体を観ると同時に、そこに自分自身を投影させています。
ですから、私たちの意識を動かして角度を変えればスライス画像は変わりますし、変わった先にも他の人たちの照射された姿が映るわけです。

現実の世界でも山そのものを動かすことはできませんが、自分が動けば山の姿(見え方)も変わってきます。
「自分の動きにあわせて山以外の景色も動いてくれるだろうか」「わざわざ付き合ってくれるだろうか」などと考える必要はないわけです。

自分(意識)の場所を変えれば、人も景色も、当たり前にすべてが変わってきます。

相手のほうは変えているつもりがなくても、自分にとっては変わってるように見えるということです。
しかし、そんなの変わるはずがないと思いこんで、そこに座り込んでしまえば、本当に何も変わりはしません。

地球を中心に宇宙は回っている!と昔の人たちが考えたのを、今の私たちは「なんて自己中心的な考えだ」と思ってしまいます。
でも、自分を中心に人生(世界)が回っていると考えることの方が、もっと自己中心的と言えるかもしれません。

この「人動説」が正しいかどうかは、あまり重要ではありません。
一つの方便だと思って空想して頂ければ、そこから色々なことが見えてくるのではないかと思います。

自分を固定させたままで物事を見てしまうと、どうしてもアレコレと囚われやすくなってしまいます。

しかし、自分が自由自在な存在だと思えば、身のまわりの出来事や、誰かの言動も、様々に角度を変えて見ることができるように
なります。


そうすると自分の勝手な思い込みだけで「良い」「悪い」と見ていたものも、様々に違った見え方がしてきます。
そのほうが、心もゆったり大らかな気持ちで過ごせますし、今を深く味わえます。

また、ここでいう自己中心的がダメだというのはあくまで視点や考え方のことですので、実際の自分の中心点は自分の中にあります。
あちこち動き回るからといって、中心もアチコチ定まらないということではありません。
自分のなかにビシッと中心を置いたままだからこそ、自由自在なのです。

感覚だけは三次元の外まで広がっても、心はこの平面世界に100%集中です。
それが地に足をつけるということであり、「今」に集中するということです。

この一枚絵やそこに投影された自分が仮りそめのものだからといって、それを軽んじたり、いい加減に扱うのは間違いです。
心が平面から離れて三次元へフワフワ出ていくのは、重大な職務放棄なのです。

私たちが、何故こうしてわざわざスクリーンに出演しているのかということです。

あの頃、大勢の人たちと鑑賞しているうちに、ウズウズ我慢できなくなって、手を挙げたのではなかったでしょうか。
その中で喜怒哀楽を踊りたくて、飛び込んだのではなかったでしょうか。

大きな自分は、最初から最後まで、今も球体を眺めています。
それを忘れて、小さな自分がそこに戻ろうとするのは本末転倒も甚だしいわけです。

ところで、ここでは「大きな自分」という表現をしていますが、それはそのままのイメージで言っています。
ハイヤーセルフだとか大いなる自己だとか、そういう存在のことではありません。
そうした言葉には「高位」という比較イメージが付いてしまって、今この自分との距離や隔たりを感じてしまいます。

思い込みや観念が染み付いた言葉を使ってしまうと、感覚が制限されてしまいます。
ここでは意味も何も必要ありません。
単に「大きな」自分です。
自分は自分で変わりありません。
ウルトラマンが巨大化するように、心をグーンと広げただけです。


私たちは、この世界を楽しく鑑賞しています。
そしてその楽しさは、その中に身を投じることでさらに深みが増します。
だからこそ、私たちはこの世に生れてきたのです。

お祭りはただ観てるよりも、一緒になって踊った方がもっと楽しいのです。
ですから私たちは、目の前の現実にしっかりと飛び込むことが、味わいを一層深めることになります。

そして私たちは決して、天涯孤独な小さな存在ではありません。
今こうしてここに自分がいることが、その証明です。
そもそも大きな自分がいなければ、ここに投影されることはないからです。
つまり、私たちは、私たち自身に見守られているのです。

最初から最後まで変わることなく、大きな自分が全てを包みこんでいます。

この世界この球体すべてを、温かく見守っています。
天地宇宙が私たちを優しく包み込んでいるのと同時に、私たちも天地宇宙を優しく包み込んでいるのです。

ですから私たちは、絶対的に、護られています。
心から安心しきって、自分のすべてを投げ出して大丈夫です。
心をスーッと軽く、素っ裸になって、目の前に身を投じていいのです。

目の前に広がる世界へ、母なる天地へ、心からの安らぎとともに飛び込んでみましょう。
真綿のようにフカフカした母の手が、フワリと優しく温かく受けとめてくれることでしょう。

それが自分自身が望んでいることであり、喜ぶことであるわけです。

こんな人生でいいのか?という不満や疑問は、ひとまず横に置いておきます。
今はただ、他の現実もあるということを知るだけで十分です。

自分の固定観念や執着、思い込みを無くして自由自在になれば、いくらでもスキャンする角度は変わります。
それを知っているだけで、心はスッと軽くなります。

この一枚絵は、簡単に変わります。
でも、変えてやろうとする我欲や、変わるはずがないという思い込みがそれを阻んでしまいます。

ただ心を広げて、ラクになって手を放すだけです。

そして、余計なことを考えず、その一枚絵に心を集中してみます。
無邪気に一喜一憂を味わいきっていれば、一枚絵は自然に変わっていくのです。

目の前に広がる「今」は、温かくやさしい母のふところです。
すべてを捨てて、安らぎとともに、笑顔で飛び込んでみましょう。

この世界は、私たちの一歩で回りだします。



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アタリマエとおかげさま

2015-03-23 23:14:21 | 心をラクに
リラックスして心が広がっていきますと、今まで観えていなかったものが観えてきます。
感じていなかったものが感じられてきます。

これは超能力の話ではありません。
自分の囚われが薄れることで霧が晴れていくということです。
そうしていくうち、いかに多くのお陰様によって私たちが守られているか、生かされているかを感じられてきます。
スーッと心に思い浮かんだり、ジンワリと肌に染み入るようにです。

逆のことも言えるかもしれません。
様々なお陰さまに感謝をしていけば、自分の囚われが薄れて心の霧が晴れていく、と。

何故ならば、感謝の心とは我欲を祓う清らかな風であるからです。

そうなると、あらゆる感謝の言葉は祓詞ということになります。
長い呪文を唱えなくても、普通にありがたいなぁと思うことが謙虚な心となり、透明な心となっていきます。

私たちみんなが守られ、生かされています。

たとえば、赤ん坊の頃に他の誰かの助けがなければ私たちは今こうして生きていることもなかったでしょう。
でも当時、私たちはそのことを知りませんし気づきませんでした。
その時は無限に広がる輝く世界の中で、ただその喜びに浸っていただけでした。
そして、それでこそ親たちも十分に満足だったわけです。

今でも私たちはこの赤子と同じです。
護られて生きていることに気がついていない状態です。

でも本来、それに気づかなくても全くいいわけです。
赤ん坊と同じように、その御加護に全身を投じて無邪気に喜び楽しんでいればいいのです。
しかし下手に知恵がついてしまうと、自分で生きていると思ってしまい、そこから狭い世界で悩み苦しみ始めてしまいます。

考えてみて下さい。
もしも赤ん坊が、自分一人で生きてると思い込んで眉間にシワを寄せてアレコレ悩み始めたら、どのように見えるでしょうか。
おいおい、という感じではないでしょうか。
神ならずとも苦笑いするしかありません。

そしてその囚われを外すためには、両親(おかげさま)の眼差しを感じさせて安心させることが必要となるわけです。
でも本当はそんなことなどせずに、普通に無邪気にやってくれるのが一番なのはお分かりかと思います。

そして無邪気というからには、度を越えた感謝のやりすぎもよくありません。
観えない存在や観えない世界を必死に見ようとしたり、必死に感謝しようとするのはやりすぎです。
それは囚われてしまっている状態です。

赤ちゃんに「ありがたい、ありがたい、本当に感謝」と思われてしまったら、やはり苦笑いでしょう。
親からすれば、そこまで感謝されなくてもアタリマエのことなわけです。
“もう分かったから、そんなことより無邪気に楽しんでちょうだいよ”と思うでしょう。

ですから私たちも、お陰様への感謝はもちろん大事ですが、決してそれ一辺倒にならず純粋に無邪気に楽しむのがいいということです。

そうしたお陰様というのは目に観えないものです。
おかげさまとは何の色合いも垢もついていない無色透明な温かさです。
自らの存在を主張するようなものでなく、気づかれずにソッと私たちに寄り添っています。
それはあまりにもアタリマエになりすぎて、目に映っていながら観えなくなっているわけです。

アタリマエなことを濁りなく観てみますと、そこにそれまで気づかなかったお蔭さまが観えてきます。

現代のように、死なないのがアタリマエ、ご飯が食べられるのがアタリマエになってしまうと、どうしても心は緩み、焦点が定まらずボンヤリと
した状態になってしまいます。
いつも繰り返される平凡な毎日に薄ぼんやりとしてしまい、まわりに転がる物事に囚われ心はあちこちに分散してしまいます。

身のまわりの一つ一つが明日も保証されているという思いこみが、私たちをマヒさせてしまっています。
そうして、時間を有意義に過ごすという意味も履き違えられてしまうわけです。
一つ一つを全身で味わうよりも、あれこれ数多くやる方が有意義であると信じこんでしまっています。

音楽を聴きながら、メールを打ちながら、マンガを読む。
テレビを観ながら、家族と喋りながら、ゴハンを食べる。
仕事の電話をしながら、パソコン打ちながら、指示をする。

深みや味わいというのは、目に見えないものです。
しかし効率というのは、目に見える形を追うものです。
浅かろうが薄かろうがそういうことに関係なく、見えるものを追ってしまいます。
まるで狩りの成果に満足するかのようにです。

私たちは日常にこの心癖が刷り込まれてしまっています。
分散した心では、薄い味わいになり実感も浅くなります。
実感が浅くなると、充実感も薄れてきます。
そうして地に足つかずフラフラしてしまうと、日々をつまらなく感じたり、青い鳥を探しに出かけたりしてしまうのです。

日々を薄く生きてしまうと、身近にある物事が「アタリマエ」なことになっていってしまいます。
そしてアタリマエのことはどうしても軽んじてしまい、いい加減に接してしまいます。

無意識のうちに効率を追ってしまい、アタリマエなこと以外の、見た目ハデな艶やかなことを数多くこなすことが人生の充足だと思い込んで
しまいます。
しかしアタリマエなことこそが、本当は途轍もなく貴重で価値のつけられないものです。
そしてそれらは、目に見えないお蔭さまによって支えられ存在しているのです。

アタリマエな話になりますが、音楽を聴けたりメールを打てるのも電気が安定供給されているからです。
ご飯が食べられるのは、異常気象もなく農作物が育っているからです。
家族と喋られるのも、みんなが健康だからです。
仕事ができるのも、会社が安定しているからですし、さらには社会が安定しているからです。

まさかそんなことが揺らぐことなど無いと信じ込んでいるとしたら、それはあまりにも想像力が足りなすぎですし、
なにより恩知らずと言わざるをえません。
それでは「子どもを育てるのは親の義務だ」と感謝もせずアグラをかいているのと何も変わりません。

確かに、天地は親心で育ててくれていますし見放すことはありませんが、それを当たり前だと悪態をついたり無視するのはあまりに幼すぎます。

アタリマエのその奥には、数多くの目に見えないお蔭さまがあります。

私たちが日頃目にしているのは、そんな幾万ものお蔭さまの上から少しだけ顔を出している氷山の一角でしかありません。

必要以上にありがたがることはありませんが、そこに心を向けることが多くの恩恵を一身に受けることになっていきます。
何故ならば、おかげさまは誰にでも満遍なくその光を届けていますが、私たちが勝手にそっぽ向いているからです。

お陰様のありがたさを感じれば、アレコレごちゃ混ぜにしていい加減に接することも少なくなってくると思います。
ご飯を食べる時はそれに向かい、家族と喋る時はそれに向かう。
静かに今に集中して、一つ一つを深く味わうようになります。

実際、アタリマエと化したものは、私たちの身のまわりに驚くほど沢山あります。

例えば、夜寝たら朝起きるのも当たり前のことです。
それもこのように考えれば、全く違ったものになるのではないかと思います。

この世を去る時、私たちは少なからず心残りがあるものです。
「ああしとけば良かった、謝っておけば良かった、楽しんでおけば良かった、恩返しをしておけばよかった、素直になっておけば良かった…」
と。

そして「次に生まれ変わった時にはそうしたことをキッチリしよう」と強く思うのです。
そうして、あちらの世界で長い時を過ごしてから念願かなってまたこちらの世界にやってくるわけです。

寝ている時というのは、私たちがこの一枚絵を離れて別の世界に行っている時です。

そうしますと私たちは、毎晩毎晩、死んでるようなものです。
もしかしたら、本当に死んで生まれ変わるプロセスと同じことをやっているのかもしれません。

ただ、あの世での時間が短すぎて、また同じ続きに戻ってきているために、生き続けていると思い込んでいるだけなのかもしれません。
そうしますと、本当にこの世を去る時の心残りのことを思うとこの一日一日の蘇りはトンデモなく贅沢で有り難いことだと分かると思います。
なにせ、すぐ生まれ変わっている上に、同じ人生に生まれ変わっているのですからです。

ちゃんとやり直しがきくのですから、諦めたり後悔したりすることなど一切無いということです。
謝ったり、恩返ししたり、心を改めたり、楽しんだり、素直になったりと、同じスクリーンの上でやり直すことができるのです。

書き足すことができるのです。

場合によっては上書きも可能です。
本当に死んでしまった時には、それをやりたくても出来ません。
次はいつになるか分からないし、そもそも全く違う映画になってしまうでしょう。
戻りたくても戻れないのです。

ですから「寝る時は死んだと思い、起きた時には生まれたと思えば、日々を一所懸命になれる」という方便にしても、あれは本当の意味で
そうなのではないかと思うのです。

精神論や理念として聞いてもそれはそれで惹かれる響きですが、本当の真実としてそれを考えてみますとリアリティ溢れる皮膚感覚として
忘れようにも忘れられなくなります。

これは頭での解釈ではなく肌の実感ですから、すぐにその感覚へ繋がることが出来ます。

四六時中やるというのは難しいかもしれませんが、フト思い出した時にでもやれれば十二分だと思います。
その時だけでも自分は謙虚になれます。

朝起きて「今日の自分は少し素直になろう。挽回だ」と思えれば、それだけで最高ではないでしょうか。
何ごとも一歩一歩ですから、まずはそれでいいと思います。

寝て起きるという当たり前のことにも、目に見えない有りがたさが隠れています。

アタリマエというのは、目に映る景色は変化しないという思い込みによって生じます。
でも実際は、それ以上よく観ようとしていないだけなのです。
身のまわりのアタリマエをよく観察してみると、何ひとつ平凡なものなどはなくありがたすぎるものばかりです。
それらアタリマエのものが無くなった時のことを考えると背筋がゾッとするはずです。

そして、そのどれもが勝手にそうなっているわけではなく、大いなるサポートで成り立っていまることが分かります。
目に見えないおかげさまが、そうした全てを支えているわけです。

この世の一つ一つは、有り難さそのものであり、おかげさまそのものです。
まさに私たちは、お陰さまの海の中に居るわけです。

お陰さまとは、天地の心に溶けあった数多の存在です。
その総体が天地宇宙なのです。
この世界は、天地の心に満ち満ちています。


どんな人生でも、波風の立たない一生などありません。
そうした時に、アタリマエだったことが初めてアタリマエではなくなります。
それは天地が罰や感謝を求めて起こすわけではありません。
狭い世界に囚われた赤子が飽き飽きしないように、揺りかごを揺らすようなものなのです。

海水浴も、波があるから面白いわけです。
無風状態の真っさらな凪ぎでは、何も面白くありません。
大波に飲まれた瞬間は焦りますが、そのあとは大声でゲラゲラ笑ってしまうものです。

それは、派手な人生でも地味な人生でも全く同じことです。
派手だ、地味だ、というのは後付けの価値判断でしかありません。
どちらも同じ海に変わりないわけです。
そして、ここでの波というものは「変化」のことです。

成功や幸せという、目に映る形のプラスだけが波ではありません。
失敗や苦悩という、目に映る形のマイナスも同じく波です。
どちらもグンと盛り上がる波なのです。
プラスマイナスなど考えずに、それに乗って落ちて一喜一憂するのが人生です。

自分では避けたいと思っても、海に浮かんでいるかぎり波はやってきます。
そもそも波乗りをしたくて海に遊びに来ているのですからアタリマエの話です。
それを忘れてしまい、気を抜いてボケーッとそこにいるからアタフタするのです。

ですから私たちはアレコレ難しい顔をせず、素直に遊ぶのがいいわけです。
天地の眼差しを感じて、無邪気に楽しむだけです。
たとえそれが迫りくる大波に見えても、それは天地の父母がハイハイと上下にあやしてくれてるだけなのです。
ならば子どもの時のようにハシャいで、それを楽しんでやろうとするのが一番ではないでしょうか。

日々の親心に感謝を思い、当たり前のことにも時々でいいからおかげさまを感じていれば、天地の優しい眼差しを全身に感じるようになります。
無条件に護られていることに安心しますと、これまで恐ろしい大波に見えていたものが、レジャー施設の波乗りゲームに見えてきます。
寸前まではハラハラドキドキですが、ビックウェーブに乗った時の気持ち良さは格別です。

一度その楽しさを知ると、失敗の不安よりも、乗った時の幸せの方が勝るようになっていきます。
危機に面して目がキラキラと輝くようになりますと、もはや危機は危機ではなくなります。

揺りかごの中の私たちは、お蔭さまに「絶対的」に「超過保護」に守られてます。

安心しきって、無防備の素っ裸になって大丈夫です。
もしも心配になった時は、何か身のまわりのアタリマエのことに目を向けて見て下さい。
何気ないことに、ありがたさとお蔭さまが詰まり詰まっていることに気づくはずです。
そのとき、私たちが誰一人例外なく、天地宇宙の温かいまなざしに見守られているのを感じられるのではないかと思います。

あとは無邪気に楽しむだけです。
どうせ踊らなくてはいけないのですから、思いっきり踊らにゃ損です。

その心がまた、新たなお蔭さまになっていくことでしょう。


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ほんものの凄み

2015-03-21 08:13:57 | 心をラクに
我欲を払って目の前の「今」に集中すると、清らかな風が吹きぬけます。

それは自分の内だけではなく、日々に刻む「今」にも吹き抜けていきます。

その場所にはとても清らかな雰囲気が漂います。
そしてそれを向けた対象(仕事や作品)からは、とても気持ちの良い感じを受けます。

心が洗練されればされるほど、その風は深くまで沁み通ります。
それが長きにわたって積み重ねられれば、一層の厚みが増していきます。

我欲の心も強いエネルギーですが、透き通った心もまた強いエネルギーとなります。
夾雑物のない“空”というものが、天地に満ちるエネルギーそのものになります。

つまり、透明な心とは祓いのエネルギーでもあると言えます。

エイッという気合いも祓いのエネルギーですが、透明な心はスーッと清らかに相手を内側から綺麗にさせます。

この涼やかな風は、混じり気のない天地の心そのものです。

例えば、見渡すかぎりの大自然に囲まれた時、私たちの身体には澄み切った風が通り抜けます。
また何百年もの感謝が捧げられた場所では、心の内がスーッと軽くなってとても穏やかな気持ちになっていきます。

頑固一徹な職人の作品を前にすると、訳もなく心惹かれ、時を忘れて無我になります。
箱根駅伝や高校野球のような、みんなのために気力を振り絞って頑張る無私の心を観ると、胸の奥から熱い感動が湧き上がます。

美しさとは清らかさです。
混じり気のない透明感です。


それは我欲や執着など一切無い澄んだ状態です。
その風に触れた時、私たちの心の雑念はきらびやかに霧散していきます。

爽やかな風は混じり気のないものから漂います。
そして、澄み切ったものとは「真善美」にあります。

「真善美」とは、荘厳な大自然だったり洗練された芸術作品だったり、何千年も重ねられてきた伝統美だったり、いずれも作為や我執が一切なく
天地の心に溶けあったものです。

本物からは天地の清らかな風が漂います。

もしかしたら、芸術品などは自分なんかには分からないと思ってしまうかもしれません。
でもそれは分かる分からないという尺度で考えてしまうからです。
知識など必要ありません。

そこから醸し出される雰囲気が全てです。

目が肥えるというのは、見た目や知識ではなく、雰囲気を感じ取る皮膚感覚が研ぎ澄まされていくことだと思います。
ですから分かる分からないではなく、幸せな感覚になるかどうかであるわけです。
作品というのは、実際に生で観るのと観ないのとでは天地ほどの違いが生じてくるということになります。

知識がなくても、我執の無い透き通った作品というのは観ているだけで心が落ち着いてきて、いつまでも眺めてしまうものです。

それというのは、自分の我執が祓われて天地と溶け合っている状態であるわけです。

ああだこうだと論評したりせず、その清らかな雰囲気の中に自分をフルオープンにして天地の心にゆっくりと浸かるのが、鑑賞の醍醐味だと言えます。

ただ、いくら作品が素晴らしかったとしても、大勢の見物客にモミくちゃにされながらではなかなか落ち着いて浸ることはできません。
有名な作品を単に視覚として見るのでは、機械的に写真を撮るのと何も変わりません。
皮膚の感覚でしか風は感じ取れません。

あるいは、時間を気にしながら慌ただしく見てまわるのも同じです。
「見た」「行った」という即物的な囚われはやめて、雰囲気を肌で味わうのがリアルというものです。
そのためには時間をたっぷり取って、何にも追い立てられない状況でリラックスして毛穴を開いてフルオープンになるのが一番です。

オーケストラや観劇にしても耳や頭で分かろうとすると何も楽しめなくなります。
ズブの素人だからこそ、素直に純粋な心を広げて皮膚の感覚を澄ませていく。
上手いか下手かなんてどうでもいい。
気持ちがいいかどうかです。

私はまだ機会がありませんが、能や文楽などの伝統芸能もそうした肌感覚で雰囲気を味わえば、内容が分からなくても幸せな気持ちになるのではないかと思います。
演技というものも我執の差が清らかさの違いになってきますから、私たちの心が澄むほどに気持ち良さの違いを感じられるようになってくる
でしょう。

絵画や書も同じです。

技術的な素晴らしさ以上に、ただ見ているだけで心が落ち着いてくるものがあります。
そうしたものを部屋に飾ったりするのは、まさに自分の心を清らかにするためであるわけです。
だから、誰もが気持ちよく感じる作品はそれだけの高値がつくということです。

ただ、いくら有名な作品であっても貴重だ高価だという固定観念で眺めてしまうと、その風はピタッとやんでしまいます。
どんなに澄み切った作品であっても、受け手がガチガチ頭の唐変木だったら、それはそのまま「どこ吹く風」となってしまいます。
何ごとも結局は自分の心一つなのです。

私も昔は、芸術など分かるはずもないし分かりたくもないと、ひねた見方をしてました。
そんな生意気な後ろ頭を引っぱたかれたのは、伊勢の徴古館に行った時でした。

ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、そこは伊勢神宮の宝物を展示している場所です。
しかし、いかんせん地味です。

伊勢詣りに来たのに博物館に行こうという気はなかなか起きないでしょう。
私が行った時も館内はガラーンとしていました。

そうして何とはなしに眺め始めたのでしたが、思わずエッと絶句して固まってしまいました。

ふーん……………んっ!?
という感じです。

いやいや、実はこれ凄くないかい!と。
そのくせ何が凄いのかよく分かってない。
ただ、とにかく目が釘付けになってしまう状態。

そこにあったのはそれ自体は全く主張していませんでした。
でも吸い寄せられるように見入ってしまう。
そうしてよくよく見てみると、漆を惜しみなく使っていたり値段も手間も凄いことになっていることにようやく気づくのです。

しかしそれ自体はそれを感じさせない素っ気ないシンプルさです。
まさに理屈を抜きにし立ち尽くしてしまうばかり。
「本物」の凄みを知りました。

そんなものが、スポットライトをあてるでもなく普通にサラッと置かれている。
ギャップにも程があります。
というか、私が舐めてかかってただけなのですが 笑

二十年に一度の遷宮では、奉納される宝物もすべて新調されます。
各分野の当代随一の職人たちが、熟練の極みに達した年齢で大役を仰せつかることになりますので、これはもう一生に一度の大仕事です。

しかも相手は神様。
日本国民総体の大神様です。

そこにきて自分が歩んできた道の集大成になるのですから、一心不乱の全身全霊になることでしょう。

宝物は神様に捧げるものですから、人の目には触れられず二十年たてば土に埋められてしまいます。
誰かに見せるためのものではありませんし、評価判断されるものでもありません。
ただ、神様への真心だけです。

そうしますと、それは自分自身への嘘いつわりのない心ということになります。

実際、少しくらい手を抜いても誰にも文句など言われることはありません。
神様ご自身だって、それを良くも悪くも思わず、ただそのまま見守られるだけでしょう。

でも、自分は自分自身に嘘をつけません。
それで良しとするかどうかは自分が一番わかっています。

当然、材料も手間もこれ以上ないほど最上最高のものになります。
その上、まわりから評価されようとか上手く見せようという我欲も一切ありませんので、一所懸命の境地、真剣勝負の結晶となります。

神様への奉納は、同時に、自分自身への奉納になるということです。

そんなものがポンと置かれていたわけです。
本来は埋められるはずのものが、研究と伝承のために特別に保管されていたのでした。

そこには雑味の削ぎ落とされた、真に澄み切った心が現れていました。
とても清らかな風がサーッと流れ込んできました。

真善美に触れると自分の心も清らかになることを実感した瞬間でした。


囚われや執着で濁っている時、それを手放して軽くなる方法は様々にあります。
これまで書いてきたように子供のようにハシャぐのもその一つです。
あるいは一意専心で目の前のことに集中しきることも一つです。

ただ、自分の力だけではどうしようもない時があります。

たとえば、体調がどん底の時や心が疲れきって抜け殻のように枯れ果てている時、あるいは心の芯深くまで傷つき切ってこれ以上1秒たりとも
外の空気に触れられないような時などです。

そういう時に、頑張れとか楽しめとか言っても絶対に無理であるわけです。
ムチャ言うなってことです。

そういう時には、まさにこのような「真善美」が一つの手になるのではないかと思います。

具合が悪くて静かに過ごしたいのに、枕元でハイテンションに看病されたら有り難いどころか、ただシンドいだけでしょう。
心が無防備である時にガツガツした心を向けられるとダイレクトに受けてしまいます。
頑張れとか、こうすればいいとか、あれこれ言われても無理なのです。

そういう時は、ただそっと静かに見守って欲しいはずです。

そして雑味のない透き通った心を静かに向けてもらうだけで、心の底から少しずつ元気が湧いてきます。
やさしく見守ることは、無私の心であり透明な心です。

真善美とは無私の心であり、透明な心のことです。

その天地の心が、清らかな風となって、枯れた心の奥底から天地のエネルギーを湧き出させる呼び水になるということです。

あるいはまた、大きな挫折や多くの非難に打ちのめされて自分の居場所を見失ってしまうこともあります。

自信とは、自分を信じきっている状態です。
たとえ自分の中心に柱を立てていても、それがグラつけば自信を失ってしまいます。
でもひとしきり落ち込んだあとはそれが糧となり、さらにしっかりした太柱となり自信が戻ってくるものです。

しかし自分の中心に柱を立てず、外側のものを取っ掛かりにして相対的に自分を安定させている場合はそうはなりません。
その取っ掛かりが無くなってしまうと、自信(他信)を失って自己喪失した抜けがらになってしまいます。

時間とともに自然回復するようなものではありませんので、新たに取っ掛かりとなるものを探し始め、劣等感のスパイラルに陥ってしまいます。

ただそのような時に、中心は自分に立てろと言ったところで何も意味はありません。
自信を失って落ち込みきっている状態ではそんな屁理屈はやはり無茶であるわけです。

理屈や理想というのは、自力で動ける人のための方便でしかありません。

傷つききった時には、頭での理解ではなく肌の感覚こそが必要なのです。
ですから、透き通った風が優しく吹き抜けていくことはとても大きな力となります。

傷ついている人が自分ではなく他の誰かならば、そっと寄り添って一緒に涙する。
そうしてひとしきり泣いた後は優しく見守る。

余計なことは何も言わず、ただ見守るだけです。
こちらがヤキモキしても不安に波立った風しか届きません。

真善美とは、天地の心です。

清らかな心は真善美となりますし、清らかな心が映されたものは真善美となります。
美しい景色の自然もまた真善美そのものです。

自分が傷ついて、まわりに優しく見守ってくれる人もいない時は大自然へ行くのはとてもいいことです。
素晴らしい芸術に触れるのもいいでしょう。
あるいは、清らかな雰囲気の漂う神社や仏閣へ行くというのも。

決して無理することなく、とにかく気持ちよく感じたところへと行くわけです。
心が綺麗に洗われて、私たちの傷が優しく包まれるように。


我欲を払って目の前の「今」に集中すると、清らかな風が吹き抜けます。
それは自分の内だけではなく、日々に刻む「今」にも吹き抜けていきます。

私心のない日々の積み重ねとは、神ながらの道そのものです。

天地の心に溶け合った人は、優しく清らかな空気に包まれています。
頑固一徹に仕事に打ち込んだ人にも、透き通った雰囲気が漂います。
それは私心がない赤子と同じように濁りのない真心です。

その心からは、真善美の輝きが溢れ出ます。
そのような透き通った心に触れると、私たちの心も澄んでいきます。

それは、私たちからも真善美の輝きが溢れ出ているということに他なりません。

いつも清らかな状態に馴染んでいますと、少しの汚れにも気がつけます。
しかし汚れた状態が続いてしまうと多少の汚れも気にならなくなるものです。
慣れとはそういうものです。
そして汚れたままでいると、結局は自分がツラく苦しくなってしまいます。

ですから、いつでも心に清らかな風を吹かせていると早めに異変に気がつけるということです。
完全にゼロになってしまう前に、早め早めに山や神社に行くことができるようになります。

一人で頑張らなくても大丈夫。
頭であれこれ考えあぐねたり、心であれこれ悩んだりしなくてもいいのです。

温泉でもハイキングでも絵画鑑賞でもコンサートでも何でもいい。
すっきり気持ち良くなりたいという心のままに行動すれば、それで万事解決となるわけです。



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ハシャいだもん勝ち

2015-03-14 16:36:46 | 心をラクに
私たちの人生は、子どものおつかい番組を観ているようなものだと以前に書きました。

このテレビ画面の子どもを優しく見守っているのが、天地の心であるのでした。

ただ、それを安易に“愛”と表現すると、どうしても歪んでしまうのが難しいところです。
言葉というのは囚われやすいものなのでよくよく注意が必要です。

もともと愛という言葉は、日本人にはシックリこないものなのではないかと思います。
とても西洋的な響きですし、そこには自我の存在を強く感じてしまいます。
決して透き通ったものではなく、主体となる個人の粒子、本人のカラーが色濃く混じってしまっているのです。

愛というものは、他人に気づかれても平気なものであり、時には積極的にその存在を示していることすらあります。
これと対照的なのが恋です。
他人からの見返りなど求めませんし、そもそも人には気づかれないようにするもの。
天地へとスーッと広がり、キラキラ消えゆくような透明感を感じます。

我欲が混じらない、透きとおった心とはこういうものではないかと思います。

日本に昔から存在する様々な想いは、むしろこうした恋に近い感覚だと言えます。
それは自我を混ぜ込むことなく、ソッと優しく見守る天地の心に近いものでしょう。

その心で私たちを観ている。
それは子どもの初めてのおつかいに限らず、発表会や競技大会を観ている感覚と同じものです。

発表が上手くできたり競技で一番になったりすれば親としてはもちろん嬉しいわけですが、それは優劣意識で喜んでいるのではなく、子供たち
の喜ぶ姿に喜びを感じているということです。

その時というのは一つ一つの事実や結果などはどうでもいいことになっています。
現象は単なるキッカケでしかなく、その先の一喜一憂に注目しているわけです。

失敗してもビリになっても関係ない。
目の前のすべてを、そのまま温かく受け入れる。

これが天地の心です。

そしてその心が、今この瞬間もこの世界に等しく注がれています。

ですから、私たちがその天地の心に近づくには、見た目の形や結果に色をつけないことが一歩となります。
見ようとする興味の対象が、結果や形ではなく、私たち自身へとシフトしていく。
そうすることで、全てをそのままに受け入れられるようになっていきます。

第一、初めてのおつかいを観ていて、買い物に失敗したのを本気で残念がる視聴者なんて居るでしょうか。
子供の運動会を観ていて、一番になれなかったことを本気でムカつく親なんて痛いにもほどがあります。

この世は、私たち自身の発表会であり運動会です。

転んだり、ケガをしたり、失敗したり、ビリになったりと、ガックリ落ち込むことが沢山あります。
でもそれを観ている、天地宇宙そして私たちの中心は、その姿を微笑んで受け入れています。
しかし、そんな失敗にこだわってクヨクヨしている姿には悲しくなってしまうことでしょう。

結果そのものは本当にどうでもいいことなのです。
それを私たちがどのように味わっているか、なのです。

ですかは、常に喜んだり楽しまないといけないということではありません。
悲しかったら泣いてもいいのです。
無理して笑う必要はありません。
その一喜一憂が、いいのです。

ただ、だからといって悲しみに流され続けるのは我執でしかありません。
殻に閉じこもり、後悔や劣等感にさいなまれている姿は、観ている方もツラく悲しくなってしまいます。

「泣いたと思ったらもう笑ってる」

それがいいのです。
失敗しようが、ビリになろうが、まずは自分の発表会をすべて受け入れるということです。
オールOK。
そうして自分の発表会を受け入れられるようになって初めて、他人の発表会もそのままを受け入れることができるようになるわけです。

自分のことは好きになれず、他人のことばかり寛容になろうとするのは本末転倒でしかありません。

まずは自分です。

自分自身の酸いも甘いも分かってこそ、他人のそれも受け入れられるようになります。

中心を自分の外に置いてしまうことは現実逃避でしかありません。
天地宇宙の中心は、どこまでいっても自分自身の中にあるのです。
世界の平和や、宇宙地球の健康を祈るよりも先にやることがあるわけです。

自分自身が平穏で健康になることが、そのまま世界の平和であり、宇宙や地球の健康となります。

この自分というのは、もっともっと大切なものです。
天地宇宙よりも先に重きを置くべき、尊い存在なのです。


すべてを受け入れるというのは、すべてを自分の中心に通すということです。
天地があってそこに自分を置くのではなく、まず自分があってそこに天地が置くということです。
これを曲解してしまうと全く違うものになってしまいます。

本当は認めていないのに取り敢えずケチつけないようにしようというのは、自分の中心を通したことになりません。

相手の意見に反対なのにそれを表に出さず、その場を取りつくろって相手の言うことに同意するというのも、言わずもがなです。

それらは、受け入れとは全く異なるものです。
寛容なんかではなく、ただ単にスルーさせているに過ぎません。
受け入れているどころか、無視しているのと何ら変わらないわけです。

自分の中心を相手に置くというのは、寛容でも謙虚でもなく、単なる偽善でしかありません。

受け入れるというのは、自分の中心を今ココの自分にしっかりと保ったまま、心を広げることです。

しっかりと相手の言動を自分の中心で感じることです。
相手に賛同するかどうかは関係ありません。

内容のイエス・ノーに関係なく「相手のその言動をそのまま許容する」「プラスもマイナスも色付けせずそのまま優しく温かく見守る」という
のが、受け入れるということです。

そこを履き違えてしまうと、相手を受け入れるためには賛同しなくてはいけないとか、衝突しないように自分の中心から離れて相手の位置に
自分を置くということになってしまいます。

それを、相手の立場に立っているだなんて勘違いしてしまうとますますおかしくなってしまう。
相手の立場に立つというのは自分の中心を動かすことではありません。
それは、自我にしがみついている我執を取り払って視野を広げるということです。

つまり、どこまでいっても中心は今ココであるわけです。
その状態のまま、心を相手のところまで広げるということです。

自分の中心に柱が立った状態、つまり、私が私であることが独自性というものです。
そして他人も、他人自身であるわけです。

どちらも相手に迎合しないからこそ、それぞれユニークな存在として、自分という心柱を立てられます。

それが多様性を生み出し、大きな調和となって天地宇宙を埋め尽くしています。
天地宇宙というのは、幾千万もの多様な色彩に輝きあふれ、響き渡る重厚なハーモニーそのものなのです。

天地宇宙は、独自性こそ喜びとして受け入れます。
それを優しく見守る温かさに溢れています。

天地宇宙に満ちる柔らかな温かさとは、すべての存在をそのままに受け入れていることの現れであるわけです。


一方でまた、「情けは人のためならず」という言葉がありますが、この場合の“情”も、天地の心の一つであります。

無視したり、見て見ぬフリをしたり、関わらないようにするのは無情そのものです。
しかし現実的な手助けをしなくとも、相手に心を向けて見守ることは“情け”であるわけです。

実際の行動が伴おうが伴わまいが、相手に心をしっかり向けるところに、このコトワザの真意があります。

そして、自分が天地の心を広げていれば、相手もまた天地の心へと近づいていきます。

しかし、この“情”もまた“愛”と同じく自我が入りやすい言葉といえます。
“愛”も“情”も、それが良いもの正しいものという固定観念があるがゆえに、私たちは安心して我欲の入るにまかせてしまうところがあります。

天地の心だからといって無思考のままに力を注ぐと、大変な落とし穴に落ちる危険があるということです。

一例をあげるなら、ボランティアなどもその危険と紙一重だと言えます。
手助けというのは、本来は一切の貸し借りのない透明なものです。
目の前で転んだ人には思わず手を差し伸べるように、とても自然なものであるわけです。

そういう透明な感覚で人助けをされている方たちは本当に神様のような人たちだと思います。
ただ、それが形だけの正義や善悪に縛られると180°一転してしまうことになります。

手助けしないのが悪いことであるかのような強迫観念を抱いてしまったり、あるいは自分は良いことをしたんだという自己満足に溺れてしまう。
それは、いずれも我執であり囚われであるわけです。

行動の原動力が我執を満たすためのものであった場合、たとえ見た目は素晴らしいことに映ったとしても、実際は心の囚われを強めることに
しかなっていません。


あるいは“謙虚”という言葉にしても同じことが言えます。
特に誤解されやすいのが、自分を主張しない、意見をしないというものです。

確かに、主張したいという衝動が我欲に基づいたものであれば、それを出さないことは謙虚と言えるかもしれません。
しかし、何でもかんでも引っ込めればいいとなってしまうと、たちまちおかしなことになってしまいます。

相手に嫌われてしまうという理由で自分の意見を引っ込めるのは、謙虚などではないわけです。
外から見れば謙虚のように映ったとしても、その実体は我欲でしかありません。

「美しき善き自分であろう」とするあまりに、かりそめの謙虚さに縛られてしまう。
それを繰り返すことは、ただ我執を厚塗りしていくことにしかなりません。

そして残念ながらその結果は、他人から見ても薄皮一枚の金メッキでしかなく、今にも壊れそうな危うい姿にしか映らないのです。

観ていて痛々しいものには、人は近づきにくくなり距離を置くようになってしまいます。
人間関係での孤独感というのは、得てして自分自身が作り出してしまっているものであるということです。

それよりも、ガサツだ何だと言われようとも伸び伸びとやっている人の方が、まわりは安心して近づけます。

そう、50点、60点でいいわけです。
ツギハギの100点を目指そうとすると0点になりかねないのです。


金メッキはモロいものです。
それを維持するために薄氷を歩く日々はツラく苦しいものです。

自分の素直な心を、わざわざ濁らす必要はありません。
むしろ、そのような損得勘定など存在しないところに、本当の謙虚さがあるのではないでしょうか。

相手に優しく心を向けたまま、ただ見守るというのが真の謙虚さです。
相手がやりたいことをやるのを許容して、そのまま認めてあげる。
たとえ相手が好意で誘ってくれた時でも、自分が嫌だったなら、透き通った心を向けたままやんわり優しくお断りすればいいのです。

相手にどう思われるか?という不安は、自分の中心から離れてしまうことにしかなりません。
あれこれ理詰めで言い訳をすると、濁った心がかえって相手の心を波立たせることにもなります。

イエス・ノーではなく、我欲の無い状態にこそ、相手は謙虚さを感じるのです。

謙虚な心とは、つまり「透明なこころ」のことなのです。

愛や情け、あるいはボランティアや謙虚という言葉は、それを無条件に良いものだとする固定観念が免罪符となって、自制なしに我欲を垂れ
流させてしまう危険があります。
同じように、善悪という決めつけや、正義や大義という言葉にもその危険があるということです。

世界の紛争の原因も、すべてはそこにあります。
決して踊らされてはいけません。

正義も善悪も、あくまで人間が決めつけた価値観でしかありません。
それは単なる一つの指標でしかなく、いわば方便に過ぎないわけです。

価値観というのは、社会が混乱しないように取り決めた約束事のようなものです。
もともとこの世には存在していなかったものです。
あくまで架空のものでしかありません。 

そんな空っぽのハリボテに自分の中心を置くことはないのです。
自分の中心は、常に自分の中にあります。

自分の中心に柱を立て、社会通念や常識というものに振り回されず、囚われや思いこみを手放していくことで、段々と透き通った状態になって
いきます。

それはもともとの状態、天地宇宙の姿そのものに還っていくことであるわけです。

あらゆる全てのものを、それそのままでOKと見なす。
あらゆるものを温かく優しい眼差しで見守る。
それこそは、透明な愛情を放っていることに他なりません。

透き通った心を放つことは、天地の姿そのものです。
天地自然は、透明な愛情に満ち満ちています。
我執の濁りが晴れわたり、外界を遮断している壁がなくなると、天地の神氣・エネルギーが私たちに流れ込んできます。

「情けは人のためならず」「与えれば与えられる」というのは、そういうことです。

与えられるのは、あくまで結果でしかありません。
自分が濁った心を向ければ、まわりの人間も、環境も濁った状態になり、それがそのまま自分に還ってきます。
自分が天地と溶け合って透明な心が広がれば、まわりの人も環境も透明に澄んでいき、それが自分に還ってくるのです。

神道では、あらゆる存在を鏡に喩えています。
一見すればプラスをイメージする、与えたり情けをかけたりというのも、その心が濁っていれば結果はそのままの反射となります。
まさに、与えたものは与えられるわけです。

良くない結果が現れた時に、まだ時間差だからこれは違うと思いこもうとしたり、無理やりプラス思考の解釈をつけるのは、自分で自分を
騙していることにしかなりません。

確かに私たちの世界は、クモの巣のように囚われやすい網が張り巡らされているといえるかもしれません。
言葉にせよ、概念にせよ、いちいち絡まりやすいものばかりです。

中には、そこに囚われることが素晴らしいことだとする誤った固定観念もあります。
そうしたものが、多くの迷いや苦しみを生んでしまっています。

ただ、それらの網自体を否定するのは筋違いでしかありません。
それ自体は、何も悪いものではないからです。
それぞれに相応の役割や、本来の意味があります。
私たちが勝手に囚われるだけで、網自体はもともと必要なものばかりであるわけです。

ですから最初から、心配などすることはないのです。
そもそもこの世にあるものは、すべてがOKなのです。

私たちはそこに不要な意味づけをすることで、自分たちを囚われの世界へと追いこんでしまいます。

自分自身が清らかに透き通った状態であれば、何かに引っかかって囚われることなどありません。

地平線へと広がる青々とした緑の大地を前にして、足元の雑草にオドオドするのは勿体ないことです。
コケたとしても、その時はその時でイイわけです。

この世界は、私たちのお遊戯の発表会です。
つまずいて転んだり、網に引っかかっても、泣いて笑えばいいのです。
そんな自分たちの姿を私たちは天地の心で見守り、ほほえみ楽しむのです。

現実の今、そして今の自分をそのまま受け入れることが、世界をそのまま受け入れることになります。

天地宇宙の心になれば、世界は鮮やな輝きとなります。
目の前に広がるこの大草原へ、思いっきり駈け出していきましょう。

あの人はどう思ってるかとか、自分はどう見られているかなんてバカバカしいことです。

何もかもを忘れて、走りまわり、飛びまわり、ハシャギまわる。

それこそが、この世を満喫している姿だと言えるのではないでしょうか。




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